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人生は、前半と後半でルールががらっと変わるという話。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/9/17

人生ゲームは過酷だ。

多くの人の人生ゲームは、前半と後半でガラッとルールが変わる。予告されることもなく。

 

人生の前半と後半は、ルールが全く違う。アメフトと編み物くらい違う。

ある種の人々は、人生の前半では「特別」であることを求め、あるいは求められる。

他人よりあしが速いこと、他人より面白いこと、他人より賢いこと、他人より美しいこと。何らかの形で他人より「特別」であることを自ら求め、あるいは「特別」であることを環境から求められる。

 

「特別」であることをがむしゃらに追い求め、気づけば人生後半戦に入る。ふとヤツらが現れる。虚無とタナトスだ。

虚無とタナトスはどこからか忍び寄り、足元に、あるいは背後に佇む。

あいつら、虚無とタナトスは、1匹いたら30匹はいると思え。

 

思えば虚無とタナトスがルール変更の合図なのだろう。

虚無とタナトスをしばしば見かけるようになったら、人生ゲームのルールが変わりつつあると思わなければならない。

 

人生ゲームの前半が「特別」を目指すゲームなら、後半戦は「幸せ」であること、「幸せ」になること、「幸せ」を維持することが人生ゲームの目的となる。

おそらく「特別」は、「幸せ」の必要条件であって十分条件ではないのだ。

 

いろんな「特別」があって、ほかの誰かではなくあなたやぼくに仕事が与えられる、あるいはほかの誰かではなくあなたが誰かの友人に選ばれるということもまた、「特別」の一つである。

だからなんらかの形で「特別」は追い求めなければならない。

 

ただ、人生ゲーム前半は「特別」を手に入れるために全エネルギーを投入してもよいけれど、後半は「幸せ」になること「幸せ」でいること「幸せ」を維持することにもエネルギーを振り分けなければならない。

そうでないと他人の人生を生きることになる。

 

洗脳なのか自己欺瞞なのかわからないけれど、ある種の人々は、「特別」になるためには「幸せ」になってはいけないという暗示にかかっている。 あるいは「特別」を手に入れれば「幸せ」もくっついてくると思い思わされている。

だが、「特別」になること「特別」であることの戦略と、「幸せ」になること「幸せ」であること「幸せ」を維持することの戦略はまた、まったく異なるのだ。

たぶん「幸せ」になる戦略はびっくりするほど簡単で、ポン酢しょうゆすら要らないくらいだけれど、気づけない人は気づけないままだ。

そして気づけない人は、気づけないまま「特別」であることを求めて求めてもちろんかなりの程度「特別」を手に入れて、そして最期に死の床で思うのだ。 「果たして俺の人生は幸せだったのか」、と。

 

人生後半戦に入ったら、真正面から「幸せ」であることを追求しても良いのだと思うよ。

*参考文献  アーサー・C・ブルックス『人生後半の戦略書』SBクリエイティブ


FIND/47 岐阜県 市之倉さかづき美術館




『カエル先生・高橋宏和ブログ』2024年9月7日を加筆修正)

仕事や勉強のコツは”キリの悪いとこ”でやめる。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/8/15

仕事や勉強で一番めんどくさいのはいつか。間違いなく取りかかる時、そして再開する時である。
 
「君らね、勉強するとき“キリのいいとこ”までやるでしょ。あれ間違いなんだ。
勉強してたら、わざと“キリの悪いとこ ”でやめるの。
“キリのいいとこ”まで勉強して中断するとね、再開するのがすごく億劫になる。 “キリのいいとこ”までやってあるからまだいいか、って気になるのね。
 
“キリの悪いとこ”で勉強を中断すると、なんだか気持ち悪いんだな。 なんだか中途半端だから最後までやっちゃいたい、って気になって、もう一回勉強を再開するのが楽になる」
 
そんなことを教えてくれたのは中学校の英語教師、M先生だっだ。
中学校で教わったことはほぼ全て忘れたが、この“仕事や勉強はあえてキリの悪いとこで中断せよ”という教えは覚えている数少ない教えの一つだ。
 
最近読み返した本の中にこんな一節があった。
本多正識氏の『1秒で答えをつくる力』の中で、本多氏が仕事のこなし方をこう書いている。
新作コントの台本を書く仕事をもらったとする。仕事のこなし方は5つのステップに分かれるという。
 
〈ステップ1 依頼があった日に隙間を見つけて15分考える 達成目標20%〉(上掲書 kindle版55/301)
 
「いつかまとまった時間つくって仕事しよう」ではなく、「仕事もらった日に、とにかく着手しよう」なのである。
「めんどくさいな」という気持ちが湧く前に、とにかく取りかかってしまう。そしてあえて“キリの悪いとこ”でやめておく。
 
実際、仕事や勉強は放置すればするほど、「めんどくさいな」という気持ちが湧いてくるものだ。メールの返信とかもしかり。
 
だから「えいや」と始めて、そうはいっても一気に終わるわけないから“キリの悪いとこ”で止めておく。
そうすると頭の片隅でずっとそのことを考えていることになるし(それはそれでしんどいけど)、何より“中途半端なところまでしか終わってなくて気持ち悪いから早く片付けちゃおう”となって、再度取りかかるまでのハードルが下がる。
 
まあ一方で、「仕事は集中して一気に片付けたい」タイプもいるので、“キリの悪いとこ”で終わらせるやりかたが万人に向くかはわからない。
 
ぼく自身は、このあえて“キリの悪いとこ”で仕事を終わらせて再開のハードルを下げるやりかたが向いている。
だから今もこの“キリの悪いとこ”でいったん終わらせるやりかたを常に実践していて、その結果なんと驚くことに
 

田中角栄のもとにはなぜ多くの政治家が集ったかー「カバン持ち」と知恵・情報。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/7/17

今になってやっておけばよかったと後悔しているものの一つに「カバン持ち」がある。
この人に教えを乞いたいと思う人に頼み込んで、文字通りカバンを持たせてもらう。朝も昼も夜もその人にくっついて行って、カバンを持ちドアを開け許されれば会合や会食のときも部屋の隅っこに居させてもらう。
一日中行動をともにすることで、その人の言葉のはしばしや立居振る舞いに滲み出るエッセンスを吸収させてもらうのだ。
 
生業を持った今となってはそれは叶わない話となった。だが「カバン持ち」を許されるなら、あの人やあの人の「カバン持ち」となっていろんな教えを乞い、知恵を吸収したいものだ。
(今知ったけど、そのものズバリの『カバン持ちさせて下さい!』というTV番組があるんですね。ご覧になったかたは感想をお聞きかせ下さい)

photoACより



リソースには情報的リソース、社会的リソース、個人的リソースがあるという(クリスティーン・ポラス『シンク・シビリティ』p.160)。
ここのところ考えているのは、情報的リソースの貴重さである。
ある人が持つ専門的技能、ノウハウなどをぎゅっと詰め込んだのが情報的リソースだ。
検索エンジンのおかげで「情報」という言葉が随分薄っぺらくなってしまった。だが、情報は本来、非常に貴重なものだった。「情報?必要ならググれば出てくるじゃん」というものが欲しいのではなく、今だと「知恵」という言葉のほうが近いかもしれない。
 
田中角栄のもとになぜあれだけ多くの政治家が集まったのかという命題がある。カネを配ったから?いやそうではない。そんなことはどの派閥のボスだってやっていた、と秘書の早坂茂三氏は書いている。
 
〈それではなぜ、オヤジの周りに多数の政治家が集まったのか。オヤジのところへ行けば、けもの道を教えてくれる。どこの山道をつたっていけば、人よりも早く平場に安全に出ることができるか。どこへ行けば、涸れることのない、うまい岩清水があるか。田中はそれを教えてくれる。どこへ行けば、うまい魚がたくさん獲れるか、追っ手がやってこないか、夜はぐっすり眠れるかーその場所をオヤジは教えてくれるんです。〉(早坂茂三『田中角栄』PHP文庫 2016年 p.259)
 
早坂氏の比喩に何をどう読み取るかは読者の自由だが、ぼくは情報や知恵を出し惜しみなく与えたことが田中角栄氏の力の源泉だと読んだ。
田中氏は、自分の内なる経験や体験などの非言語情報を相手に伝わる言葉に変換し、相手の求めるものを言葉にして提供する能力が飛び抜けていた、ということだろう。
他の派閥のボスに教えを乞う場合には何年もの間「カバン持ち」や「雑巾がけ」をしないと得られない知恵や情報が、田中氏のもとに行けばすぐ得られるとなれば人も集まるというものだ。
 
前掲書『シンク・シビリティ』でも触れられていたが、情報的リソースの面白いところは目減りしないところである。自分の持つ知恵や情報をどんどん分け与えたところで知恵は減らない。むしろ増えていく。人間の持つ互酬性(もらったらあげないと収まりが悪い気がするというやつ)により、知恵や情報をもらった者はかわりに別の知恵や情報をくれるからだ。情報を持つ者には情報が集まるようにできている。
 
ぼくもこれから積極的に知恵や情報の提供をしていきたいと思う。
    *
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人はこうして「教え魔」という老害になるのであるなあ。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2021年4月8日を加筆修正)

 

手土産は老舗で。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/6/18

「雑誌の取材で地方に行くときにはね、手土産は東京の老舗のものがいい」

その昔、今はなき週刊HのカメラマンのTさんが教えてくれた。

「“お宝発見”みたいな企画で、地方の名家とか名士さんとかのところに行って、蔵の奥に眠ってる“お宝”を撮影させてもらったりするんだよ。

そういうときは、うまいこと機嫌取って写真撮らせてもらわなきゃなんない。

そういう地方の名家とかってさ、女主人とか奥さんとかは若い時に東京の大学とかに出してもらって、卒業したら呼び戻されたり、名家に嫁いだりしてるわけ。

で、そういう女主人とかお嫁さんとかに『これよろしかったら…』って東京の老舗の手土産を渡すと、『懐かしい!東京にいる時によく食べたワ』なんていって喜んでくれて、取材許可が出るわけ」



インターネット前夜のことで、それこそAmazonも楽天もない時代のことだから、今では手土産事情もだいぶ変わっていることだろう。

だがなぜだかこの話はずっと覚えている。


photoACより



今、人生の後半戦にこの話を思い出すと味わいが格段に深まっている。

あの頃は手土産を渡すTさんの側に近い年代だったが、今では地方の名家の女主人や「お嫁さん」側の年代に近い。

今では通販やデパートで、地方にいても東京の老舗のお菓子も手に入るだろう。

だがやはり、この話で手土産にするのは東京の老舗がふさわしい。最新流行のお店の品では下手すれば逆効果なのだ。

これは想像だし人によるけれど、大学時代だけ東京で遊学させてもらって実家に呼び戻されたりした女主人の中には、複雑な思いを抱えている人もいるだろう。

「ほんとは私ももっと東京にいたかったのに、実家の都合で呼び戻された!」とか。


そういう気持ちは揺れ動くものだから、「今さら仕方ない、まあいいか」みたいな境地の人もいるだろう。

しかしもし女主人が「もっと東京にいたかったのに!」みたいな気持ちのフェイズだったら、流行りものはヤバい。

「チャラチャラしたマスコミの若いヤツが、東京の流行りものを見せつけてきた!」みたいに変な地雷を踏んでしまうかもしれないのだ。

そんな見えないリスクを負うよりは、東京の老舗のお菓子のほうがリスクが少ない。

冒頭のように女主人のノスタルジーを呼び起こせるかもしれないし、相手の心に刺さらなくても「何がお好きかわからなかったので…」と言っとけば済む。

だから老舗は強い。


先日ネットをウロウロしてたら、「老舗の羊羹食べたらあまりのうまさにびっくりした」という話にぶち当たったのでそんな話を書いてみた。たしかに老舗の羊羹もうまいけど、手頃な値段の羊羹も、あれはあれでうまいすよね。安いやつは安いやつで、寒天感がいいんだよな。

ビールに例えると老舗の羊羹がギネスビール、手頃な羊羹はアサヒスーパードライやオリオンビールみたいな感じで(個人の感想です)、こってりゆったり味わいたい時もあれば日本の蒸しあっつい夏にサラサラヒヤヒヤっといきたいときもある。あっつい夏の日に、たとえば缶の羊羹をパキャッて開けて、上の部分の透明な薄い寒天の層を食べつつ、「もっと大きいサイズがあればいいのに」と思ったりして楽しむ羊羹の良さもあるよなあ。

手土産は老舗で、夏は水羊羹ってお話でした。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2024年5月24日を加筆修正)

究極の有限資源は、時間と意志力。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/5/15

photoACより



時間と意志力を死守せよ。なぜならそれらは究極の有限資源だから。

現代人が一歩外に出れば、無数の人やモノやコトがあなたの時間と意志力を奪いにくる。家庭を持つ者であれば、家の中でも同様だ。古人曰く、〈三十歳を過ぎれば、君の生活は妻子のものになる。〉(キングレイ・ウォード『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』新潮文庫 平成六年 p.34)

もしあなたがやりたいまたはやるべきと思えば、喜んで自分自身の時間と意志力を人・モノ・コトに差し出すがいい。

他者からみてそれが無価値であっても構わない。自分が選んだ人・モノ・コトに、存分に時間と意志力を捧げよ。

だが、究極の有限資源である時間と意志力を捧げたくない人・モノ・コトであれば、回避せよ。それが無理なら最小化を試みよ。

一番いけないのは無自覚なまま自分の時間と意志力を垂れ流し一生を終えることである。

意に反して自分の時間と意志力を奪う人・モノ・コトを回避するにはどうするか。もっとも身近な例で言えば、気が進まない飲み会。答えは、その場で断る。

我が人生の師の一人、Fさんは見事である。

Fさんは、気が進まない飲み会や会合に誘われたその時点で即座に断るのである。断り方も完成されていて、必ず「私はちょっと…」とおっしゃる。

小心者のぼくなどは気が進まない飲み会に誘われたときには、「断ったら悪いかな」などと思い参加の意思表示を保留にしてしまいがちだ。その場合、日を追うごとに気が重くなるし、ますます断りづらくなる。その間、心を煩わして無駄に意志力を浪費してしまう。

それに比べFさんの場合、断る瞬間の意志力は要るものの、断ったあとはずっと心は晴れやかである。

立場を替えて、自分が誘う側になったことを想像してみる。一番困るのは飲み会当日まで来るか来ないかわからない人だ。誘った瞬間に「私はちょっと…」と断られた場合には、あっさりと「また誘えばいいか」とスルーされるものなのだ。「私はちょっと…」の「ちょっと」とは何だろう、と思うかもしれないが。

究極の有限資源、時間と意志力を死守せよ。

一番大事なものに時間と意志力を思う存分、ふんだんに投入し、それ以外は極力時間と意志力をsaveせよ。

一番大事なものが他者にとって無価値であっても構わない。

一番大事なもの以外は大事ではない。

繰り返す。

一番大事なもの以外は、大事ではない。 ちょっと言い過ぎた。ごめんね。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』 2024年5月15日より)

SNSは承認欲求を肥大させ、そして同時に承認欲求をやせ細らせるという話。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/4/17

(photoACより)



SNSは承認欲求を肥大させ、そして同時に承認欲求をやせ細らせる。

 

SNSが承認欲求を肥大化させる問題は、しばしば指摘されてきた。 SNSでの承認が欲しいばかりに人はバイト先でアイスケースに横たわって写真をアップしたり飲食店での問題行動を動画に上げたりして失敗する。

しかしもう一方の、SNSが承認欲求をやせ細らせる問題はあまり指摘されていない。

 

前提として、適度な欲求や欲望は行動のエンジンであり、適度であるかぎり欲求や欲望は好ましいものと考える。

食欲があるからこそそれを満たすために我らは働き社会参加する。

もし人間が葉緑素を持っていたら、人間はわざわざ汗水垂らして働かず日がな一日ひなたぼっこして暮らすだろう。いいなそれ。

 

食欲などなどの欲望があるからこそそれを充足させようと我らはあがく。

承認欲求もしかりで、承認欲求を満たすために「も」我らは社会的活動をする。

 

さてここで問題が一つ。

承認欲求を満たす、他者からの承認にも「量」と「質」がある。

そして、ダニエル・カーネマンがいうところのシステム1は、他者からの承認の「量」は認識できても「質」は認識できないっぽいのだ。

 

滋養あふるる料理ではなくジャンク・フードでも手軽に空腹は満たされるように、承認欲求もまたインスタントな他者からの承認でも満たされてしまう。

承認欲求を満たすために「も」、学者は論文を書きビジネスマンは売り上げを上げ、それぞれの職業仲間から承認を得る。そうやって良質な承認を得ようとして前に進んでいく。

しかしSNSで指一本で承認がお手軽に大量に得られる時代になると、わざわざウイルスの研究に打ち込んでうんうんうなりながら論文書いて世に問うよりも、エキセントリックな言説でSNSの人気者になったほうが早い。

 

SNSによる承認欲求のインスタントな充足という問題は、目に見えにくい。

SNSのやりすぎによってインスタントに承認欲求を満たしてしまうのは考えようによっては怖

いことだ。

何かを成し遂げたいとか何者にかなりたいという人は、SNSとのつきあい方は慎重にしたほうがよいかもしれない。

『カエル先生・髙橋宏和ブログ』2024年4月10日を加筆修正)

ふるさと納税は自己肯定感の夢を見るか。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/3/17

大都市と地方の格差是正のためとして「ふるさと納税」が導入されたのが2008年。かれこれ16年になる。

この政策の良しあしを専門家がどう評価するかはわからぬ。万物と同じく功罪両方あるだろうが、プラスの面、特に心理的なプラスの面についてかんがえた。

山口県柳井市の元市長の河内山哲朗氏がこんなことを述べている。
〈日本の地方行政は(場合によっては国政もそうですが)、施策のスタートは課題、欠点、短所になってしまうのです。日本のメディアも含めて、いかにある部分が弱いか、ある部分がダメか、ある部分が欠点であるかということを前提に施策を考える。これは予算を取るための手法としては間違いではない。(略)笑い話で、例えば市長が東京に行って予算の陳情をやります。それは結局「私のところはいかにダメか」を言うわけです。そうすると予算がつくのです。人間というのは、そんなことを繰り返し言っていますと、いつの間にか自分の頭の中に「自分たちはダメだ」ということを刷り込んでしまうのです。これが、地方をダメにしている原因でもあるのです。〉
(小宮一夫/新嶋聡 編 河内山哲朗著『自律と自立のまちづくり』吉田書店2024年 p.135)
 
通常の陳情というのは我が市我が町のここがダメだから税金回してくれということで、これを繰り返していると自分で自分に「ダメだ」という自己暗示をかけてしまうということだろう。地域の自己肯定感が下がってしまうのだ。
 
これに対し、ふるさと納税、そしてインバウンド政策は真逆のベクトルを与える。
我が市我が町のこれが良いここが良いからふるさと納税してくれとか観光に来てくれとやるわけで、これは逆に地域の自己肯定感を上げることになる(かもしれない)。
もちろん税の公平性とかそもそもの税の意義とか効率性の問題点がふるさと納税制度にはあるし、オーバーツーリズムなどなどの問題がインバウンド政策にはある。
 
さはさりながら、今まで「我が市我が町のここがダメだから予算つけてほしい」という地域の自己肯定感を下げる陳情が首長の仕事であったのが、それに加えて「我が市我が町のここが良いから予算つけてほしい」という地域の自己肯定感を上げるふるさと納税などのシティセールス、シティアイデンティティの仕事が新たに加わったというのは非常に面白いことだと思う。

いいことだけしか書かないのは知的にフェアではないので引っかかる点も書く。

実は、「ふるさと納税」制度には引っかかる点は3つある。

「ふるさと納税」制度では、本来居住地に納税されるはずのお金がほかの自治体に行ってしまうことで居住地の税収が減り、そのぶん住民サービスが低下するor「ふるさと納税」してない住民がその分を補てんすることになること。「ふるさと納税」していない納税者が割を喰うわけだ。これはよく言われている

 

また、「ふるさと納税」の「お礼」が高額になることで、実質税金逃れ的にも運用できてしまうことなどの問題点は以前より指摘されている。

たとえば仮に、「お礼」を商品券にして、ふるさと納税」の95パーセントの「お礼」を返すような制度にすると合法的な節税ががっつりできちゃいますね。ここらへんは導入当初と比べ返礼品の率を下げることである程度対応されている。


地味だけど大事なのは、「ふるさと納税」と間接民主主義の相性がいいのかどうかというところ。

どういうことかというと、

 ①間接民主主義では、有権者は納税額に関わらず一人一票の発言権を持ち、その発言権を代表(代議士とか)に預ける。リタイアして所得税払ってなくても一人一票、経営者で高額納税していても一人一票。

 ②預かった発言権を根拠に、代議士などはみんなで税金の使い道(=予算)を相談し決める。実質的には予算案は大筋で役所が作ったものではあるが、しくみ上は代表が話し合って「こういうふうに予算を使おう」「この分野は手厚く予算配分しよう」と決めることになっている。

 ③ふるさと納税はそのプロセスをすっとばし、税金の使い道を納税者が直接決める。

 ④しかもその裁量は納税額が大きいほど大きい。出所は自分の税金ではあるが、たくさん「ふるさと納税」する人は、自治体・国の予算の一部をどこに割り振るか決める権限が多いことになる。

 ⑤民主主義では発言権・裁量は出したお金の額と比例しない。出したお金の額が多いほど発言権・裁量が大きいのは一人一票の民主主義・選挙じゃなくて一株一票の株主総会。

 ⑥だから本当は「AKB総選挙」じゃなくて「AKB株主総会」が正しい。

最後のほうはふるさと納税の話でなくなっているが、税制の研究者などからみればふるさと納税はキメラのごとき制度なのであろう。

さはさりながら(業界用語)しかし実際には、大義名分と実利、さらに「自分が関与することで状況が変わる感」がセットになったこの制度は、まだまだ広がっていくのだろう。外資系企業が仲介事業に参入するとのことで、徴税業務の手数料が外資に流れてよいのかという問題提起もされているし。一方で納税者が直接税金の使い道を決める云々については、もともと寄付金控除という制度もあるしなあ。

 

そういうわけで、「ふるさと納税」は民主主義を考える上でも非常に興味深い。

アメリカなんかでは議員に有権者が意見するときには「As a tax payer、納税者として」なんて前置きをして話すそうでけれど、国民と有権者と納税者はイコールではないんですね。国民は未成年も含むし、有権者は納税していない人も含むわけで。

いずれにせよ、もし自分が新しくなにか制度を作るときには、大義名分と実利、さらに「自分が関与することで状況が変わる感」を意識して制度設計するといいようですね。

それにしても、和牛とお米、どっちがいいかなあ。

(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2016年12月5日2024年3月14日を編集・加筆)

 

みんなもっと「無責任なアドバイス」をしあったほうがよいという話。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/2/17

(photoACより)



先日手にとった本にこんなことが書いてあった。曰く、

〈無責任なアドバイスこそ聞くに値する〉

(by 東京都・自営業 61才男性。『他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え』鉄人文庫 p40)

 

最近の人はみんないい人だから(大雑把)、無責任なアドバイスというのはしない傾向にある(当社調べ)。

相手のことをおもんばかって、こんなことを言ったらどう思われるかを瞬時に計算し、前後の話と矛盾がないか論理的一貫性はどうか実現可能性はあるか維持可能性はどうかなどなどを必死で計算して繰り上がり繰り下がり切り捨て切り上げ四捨五入してアドバイスするから、結果として小ぶりでしごく当たり前のアドバイスしかできない。

 

しかしながら背中を押されたりああそうなのかと天啓のごときひらめきを聞いた者に与えるのはいつだって「無責任なアドバイス」だ。

そうした「無責任なアドバイス」が与えられるのは多くの場合酔いどれ達がたむろしはじめる夕暮れの酒場だったりするけれど、コロナが流行ってからこっちなかなかそういう酒場も行きづらかったり羽目を外しにくかったりして、「無責任なアドバイス」も触れにくくなってしまった。

 

酒場の「無責任なアドバイス」業界のトップクラスの1人はマンガ『たそがれたかこ』の美馬さん。この人は〈蜘蛛は網張る 私は私を肯定する〉(山頭火)みたいな人で、こういう言った本人もすぐ忘れちゃうくらいのいい加減な人の言葉のパンチラインの中に現実を解決するライムが潜んでたりする。

たぶんみんな、もっと「無責任なアドバイス」を生み出したり聞き流したりしたほうがよいのだ。まあその結果どうなろうと責任は持てないが。

 

愚にもつかないアドバイスのことを「クソなアドバイス=クソバイス」というそうだが、「無責任なアドバイス」と「クソバイス」は似て非なるものだ。 どう違うかというと、強制性の有無にある。

「無責任なアドバイス」は言ったほうもすぐ忘れる。なにしろ無責任だから。 しかし「クソバイス」のほうは、クソバイスしたほうはしつこく覚えていやがる。「俺がこの間アドバイスしたあの件どうなった?」とか。うるせえ。

要は、「クソバイス」がクソなのはアドバイスの内容ではなく押し付けがましさゆえなのだろう。

 

まあそんなわけでみんなもっと「無責任なアドバイス」をしたほうがよい。そのかわり瞬時にアドバイスしたことを忘れるべきだ。

言われたほうも「無責任なアドバイス」を真に受けず、心に刺さったもの以外はぜんぶ「無責任やな笑」と受け流す。

それでこそ「無責任なアドバイス」が光り輝くのだ。

 

ちなみにぼくが受けた「無責任なアドバイス」ナンバーワンは、国境問題でひところ話題になった島の話を雑談でしてるときにH先生に言われた、

「あなた医者だろ?だったらあの島に診療所建てて住め。他国があの島に攻めてきてあなたがやられたら、邦人保護ってことで自衛隊も動けるから」

です。やだよおっかない。

『カエル先生 高橋宏和ブログ』2024年1月19日を加筆修正)