2024年11月5日はスーパーチューズデー-なぜアメリカでは火曜日に大統領選挙をやるのか

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2024年11月5日、アメリカで大統領選挙が行われる。
細かく言うと、行われるのは大統領を選ぶ人、選挙人を選ぶ選挙だ。
全米で538人の選挙人を選び、選ばれた選挙人たちが大統領を選ぶ。それぞれの州の選挙人数は、各州の上院と下院の議員数の合計と等しい。
選挙人を選ぶ選挙は、11月第1月曜日の翌日、火曜日と決まっている。
(参考サイト NHK『アメリカの大統領選はどう進むの?』)
https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/us-election/flow/
このように、アメリカでは大きな選挙は火曜日にやることが多い。
その理由をご存じだろうか。
答えは、「国土が広く、移動に時間がかかるから」。
その昔、馬や幌馬車でアメリカ人が移動していたころ、広大なアメリカ全土から投票所に行くのには大変時間がかかった。
ワイオミングの山奥やノースダコタの大農場から出発したら、下手したら投票所につくまで丸1日かかる。週のはじめの月曜日に家を出ても投票所に着くのは翌日の火曜日だ。
だから、アメリカでは大きな選挙は火曜日にやる。
日曜日に家を出ればいい?バカなことを言ってはいけない、日曜日は神のおつくりになった安息日ではないか。余計なことをせず、家でじっとしていなければいけない。
この話をはじめて知ったのは、東大からプロ野球に入った小林至の本『アメリカ人はバカなのか』(幻冬舎文庫 平成15年 p.96-97)だった。
俗説かと思って調べたら、アメリカには『Why Tuesday?』というNPOまであって、選挙日を火曜日から週末に変えましょうという啓発活動をしている。
(参考サイト『Why Tuesday?』FAQ)
https://whytuesday.org/faq
TEDでやった代表のプレゼンはわかりやすく、一見の価値がある。その中で上記NPOはギングリッチやジョン・ケリーといったいろんな政治家に「どうして選挙を火曜日にやるんですか?」とインタビューしているが、誰も答えられない(答えられない政治家ばかり出している可能性はある)。
NPO団体、Why Tuesdayによれば、火曜日に選挙をやるなんてことは独立宣言にも合衆国憲法にも書かれていない。1845年の「バカげた法律」に書かれている。
彼らはこれを変えて、選挙は火曜日ではなくて週末にやるように訴えている。
何故か?
前掲書の中で小林至はこう書いている。
<(略)今でも火曜に固執している理由は、伝統に名を借りて庶民を排除しているだけだ(略)>(p.96)
多くの勤め人たちの会社は火曜日は休みではない。仕事中に抜け出して投票に行けるほど暇な職場は少ない。そうなると、火曜日に投票に行けるのは大農場主や自営業者、熱心な政治支援者や宗教右派、リタイアした人や学生、失業者が中心になる。
「フツーの勤め人」は現実問題として投票に行けない/行かない。だから政治家の政策も投票に来てくれる人が喜ぶもの中心になりがちで、「フツーの勤め人」は後回しになるのではないかという指摘だ。
2012年の「Why Tuesday?」のインタビューでも、代表のJacob Soboroffは「15の州(*インタビュー当時)では事前投票ができず、火曜日しか投票できない。シングル・マザーやシングル・ファーザー、2つ3つ仕事を掛け持ちしている人はどうなる?」と問題提起している。
https://www.youtube.com/user/WhyTuesday
フツーの勤め人が火曜日に、どれくらい大統領選挙に行くものなのかアメリカに住んだことがないのでリアルな感触はわからない。「フツーの勤め人」がどれくらい投票に行くものなのか、身近にアメリカ人がいるかたは聞いてみて教えてください。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2016年11月7日を加筆修正)
人生は、前半と後半でルールががらっと変わるという話。
人生ゲームは過酷だ。
多くの人の人生ゲームは、前半と後半でガラッとルールが変わる。予告されることもなく。
人生の前半と後半は、ルールが全く違う。アメフトと編み物くらい違う。
ある種の人々は、人生の前半では「特別」であることを求め、あるいは求められる。
他人よりあしが速いこと、他人より面白いこと、他人より賢いこと、他人より美しいこと。何らかの形で他人より「特別」であることを自ら求め、あるいは「特別」であることを環境から求められる。
「特別」であることをがむしゃらに追い求め、気づけば人生後半戦に入る。ふとヤツらが現れる。虚無とタナトスだ。
虚無とタナトスはどこからか忍び寄り、足元に、あるいは背後に佇む。
あいつら、虚無とタナトスは、1匹いたら30匹はいると思え。
思えば虚無とタナトスがルール変更の合図なのだろう。
虚無とタナトスをしばしば見かけるようになったら、人生ゲームのルールが変わりつつあると思わなければならない。
人生ゲームの前半が「特別」を目指すゲームなら、後半戦は「幸せ」であること、「幸せ」になること、「幸せ」を維持することが人生ゲームの目的となる。
おそらく「特別」は、「幸せ」の必要条件であって十分条件ではないのだ。
いろんな「特別」があって、ほかの誰かではなくあなたやぼくに仕事が与えられる、あるいはほかの誰かではなくあなたが誰かの友人に選ばれるということもまた、「特別」の一つである。
だからなんらかの形で「特別」は追い求めなければならない。
ただ、人生ゲーム前半は「特別」を手に入れるために全エネルギーを投入してもよいけれど、後半は「幸せ」になること「幸せ」でいること「幸せ」を維持することにもエネルギーを振り分けなければならない。
そうでないと他人の人生を生きることになる。
洗脳なのか自己欺瞞なのかわからないけれど、ある種の人々は、「特別」になるためには「幸せ」になってはいけないという暗示にかかっている。 あるいは「特別」を手に入れれば「幸せ」もくっついてくると思い思わされている。
だが、「特別」になること「特別」であることの戦略と、「幸せ」になること「幸せ」であること「幸せ」を維持することの戦略はまた、まったく異なるのだ。
たぶん「幸せ」になる戦略はびっくりするほど簡単で、ポン酢しょうゆすら要らないくらいだけれど、気づけない人は気づけないままだ。
そして気づけない人は、気づけないまま「特別」であることを求めて求めてもちろんかなりの程度「特別」を手に入れて、そして最期に死の床で思うのだ。 「果たして俺の人生は幸せだったのか」、と。
人生後半戦に入ったら、真正面から「幸せ」であることを追求しても良いのだと思うよ。
*参考文献 アーサー・C・ブルックス『人生後半の戦略書』SBクリエイティブ

FIND/47 岐阜県 市之倉さかづき美術館
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2024年9月7日を加筆修正)
仕事や勉強のコツは”キリの悪いとこ”でやめる。
田中角栄のもとにはなぜ多くの政治家が集ったかー「カバン持ち」と知恵・情報。

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手土産は老舗で。
「雑誌の取材で地方に行くときにはね、手土産は東京の老舗のものがいい」
その昔、今はなき週刊HのカメラマンのTさんが教えてくれた。
「“お宝発見”みたいな企画で、地方の名家とか名士さんとかのところに行って、蔵の奥に眠ってる“お宝”を撮影させてもらったりするんだよ。
そういうときは、うまいこと機嫌取って写真撮らせてもらわなきゃなんない。
そういう地方の名家とかってさ、女主人とか奥さんとかは若い時に東京の大学とかに出してもらって、卒業したら呼び戻されたり、名家に嫁いだりしてるわけ。
で、そういう女主人とかお嫁さんとかに『これよろしかったら…』って東京の老舗の手土産を渡すと、『懐かしい!東京にいる時によく食べたワ』なんていって喜んでくれて、取材許可が出るわけ」
インターネット前夜のことで、それこそAmazonも楽天もない時代のことだから、今では手土産事情もだいぶ変わっていることだろう。
だがなぜだかこの話はずっと覚えている。

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今、人生の後半戦にこの話を思い出すと味わいが格段に深まっている。
あの頃は手土産を渡すTさんの側に近い年代だったが、今では地方の名家の女主人や「お嫁さん」側の年代に近い。
今では通販やデパートで、地方にいても東京の老舗のお菓子も手に入るだろう。
だがやはり、この話で手土産にするのは東京の老舗がふさわしい。最新流行のお店の品では下手すれば逆効果なのだ。
これは想像だし人によるけれど、大学時代だけ東京で遊学させてもらって実家に呼び戻されたりした女主人の中には、複雑な思いを抱えている人もいるだろう。
「ほんとは私ももっと東京にいたかったのに、実家の都合で呼び戻された!」とか。
そういう気持ちは揺れ動くものだから、「今さら仕方ない、まあいいか」みたいな境地の人もいるだろう。
しかしもし女主人が「もっと東京にいたかったのに!」みたいな気持ちのフェイズだったら、流行りものはヤバい。
「チャラチャラしたマスコミの若いヤツが、東京の流行りものを見せつけてきた!」みたいに変な地雷を踏んでしまうかもしれないのだ。
そんな見えないリスクを負うよりは、東京の老舗のお菓子のほうがリスクが少ない。
冒頭のように女主人のノスタルジーを呼び起こせるかもしれないし、相手の心に刺さらなくても「何がお好きかわからなかったので…」と言っとけば済む。
だから老舗は強い。
先日ネットをウロウロしてたら、「老舗の羊羹食べたらあまりのうまさにびっくりした」という話にぶち当たったのでそんな話を書いてみた。たしかに老舗の羊羹もうまいけど、手頃な値段の羊羹も、あれはあれでうまいすよね。安いやつは安いやつで、寒天感がいいんだよな。
ビールに例えると老舗の羊羹がギネスビール、手頃な羊羹はアサヒスーパードライやオリオンビールみたいな感じで(個人の感想です)、こってりゆったり味わいたい時もあれば日本の蒸しあっつい夏にサラサラヒヤヒヤっといきたいときもある。あっつい夏の日に、たとえば缶の羊羹をパキャッて開けて、上の部分の透明な薄い寒天の層を食べつつ、「もっと大きいサイズがあればいいのに」と思ったりして楽しむ羊羹の良さもあるよなあ。
手土産は老舗で、夏は水羊羹ってお話でした。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2024年5月24日を加筆修正)
究極の有限資源は、時間と意志力。

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時間と意志力を死守せよ。なぜならそれらは究極の有限資源だから。
現代人が一歩外に出れば、無数の人やモノやコトがあなたの時間と意志力を奪いにくる。家庭を持つ者であれば、家の中でも同様だ。古人曰く、〈三十歳を過ぎれば、君の生活は妻子のものになる。〉(キングレイ・ウォード『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』新潮文庫 平成六年 p.34)
もしあなたがやりたいまたはやるべきと思えば、喜んで自分自身の時間と意志力を人・モノ・コトに差し出すがいい。
他者からみてそれが無価値であっても構わない。自分が選んだ人・モノ・コトに、存分に時間と意志力を捧げよ。
だが、究極の有限資源である時間と意志力を捧げたくない人・モノ・コトであれば、回避せよ。それが無理なら最小化を試みよ。
一番いけないのは無自覚なまま自分の時間と意志力を垂れ流し一生を終えることである。
意に反して自分の時間と意志力を奪う人・モノ・コトを回避するにはどうするか。もっとも身近な例で言えば、気が進まない飲み会。答えは、その場で断る。
我が人生の師の一人、Fさんは見事である。
Fさんは、気が進まない飲み会や会合に誘われたその時点で即座に断るのである。断り方も完成されていて、必ず「私はちょっと…」とおっしゃる。
小心者のぼくなどは気が進まない飲み会に誘われたときには、「断ったら悪いかな」などと思い参加の意思表示を保留にしてしまいがちだ。その場合、日を追うごとに気が重くなるし、ますます断りづらくなる。その間、心を煩わして無駄に意志力を浪費してしまう。
それに比べFさんの場合、断る瞬間の意志力は要るものの、断ったあとはずっと心は晴れやかである。
立場を替えて、自分が誘う側になったことを想像してみる。一番困るのは飲み会当日まで来るか来ないかわからない人だ。誘った瞬間に「私はちょっと…」と断られた場合には、あっさりと「また誘えばいいか」とスルーされるものなのだ。「私はちょっと…」の「ちょっと」とは何だろう、と思うかもしれないが。
究極の有限資源、時間と意志力を死守せよ。
一番大事なものに時間と意志力を思う存分、ふんだんに投入し、それ以外は極力時間と意志力をsaveせよ。
一番大事なものが他者にとって無価値であっても構わない。
一番大事なもの以外は大事ではない。
繰り返す。
一番大事なもの以外は、大事ではない。 ちょっと言い過ぎた。ごめんね。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』 2024年5月15日より)
SNSは承認欲求を肥大させ、そして同時に承認欲求をやせ細らせるという話。

(photoACより)
SNSは承認欲求を肥大させ、そして同時に承認欲求をやせ細らせる。
SNSが承認欲求を肥大化させる問題は、しばしば指摘されてきた。 SNSでの承認が欲しいばかりに人はバイト先でアイスケースに横たわって写真をアップしたり飲食店での問題行動を動画に上げたりして失敗する。
しかしもう一方の、SNSが承認欲求をやせ細らせる問題はあまり指摘されていない。
前提として、適度な欲求や欲望は行動のエンジンであり、適度であるかぎり欲求や欲望は好ましいものと考える。
食欲があるからこそそれを満たすために我らは働き社会参加する。
もし人間が葉緑素を持っていたら、人間はわざわざ汗水垂らして働かず日がな一日ひなたぼっこして暮らすだろう。いいなそれ。
食欲などなどの欲望があるからこそそれを充足させようと我らはあがく。
承認欲求もしかりで、承認欲求を満たすために「も」我らは社会的活動をする。
さてここで問題が一つ。
承認欲求を満たす、他者からの承認にも「量」と「質」がある。
そして、ダニエル・カーネマンがいうところのシステム1は、他者からの承認の「量」は認識できても「質」は認識できないっぽいのだ。
滋養あふるる料理ではなくジャンク・フードでも手軽に空腹は満たされるように、承認欲求もまたインスタントな他者からの承認でも満たされてしまう。
承認欲求を満たすために「も」、学者は論文を書きビジネスマンは売り上げを上げ、それぞれの職業仲間から承認を得る。そうやって良質な承認を得ようとして前に進んでいく。
しかしSNSで指一本で承認がお手軽に大量に得られる時代になると、わざわざウイルスの研究に打ち込んでうんうんうなりながら論文書いて世に問うよりも、エキセントリックな言説でSNSの人気者になったほうが早い。
SNSによる承認欲求のインスタントな充足という問題は、目に見えにくい。
SNSのやりすぎによってインスタントに承認欲求を満たしてしまうのは考えようによっては怖
いことだ。
何かを成し遂げたいとか何者にかなりたいという人は、SNSとのつきあい方は慎重にしたほうがよいかもしれない。
(『カエル先生・髙橋宏和ブログ』2024年4月10日を加筆修正)
ふるさと納税は自己肯定感の夢を見るか。
大都市と地方の格差是正のためとして「ふるさと納税」が導入されたのが2008年。かれこれ16年になる。
この政策の良しあしを専門家がどう評価するかはわからぬ。万物と同じく功罪両方あるだろうが、プラスの面、特に心理的なプラスの面についてかんがえた。
いいことだけしか書かないのは知的にフェアではないので引っかかる点も書く。
実は、「ふるさと納税」制度には引っかかる点は3つある。
「ふるさと納税」制度では、本来居住地に納税されるはずのお金がほかの自治体に行ってしまうことで居住地の税収が減り、そのぶん住民サービスが低下するor「ふるさと納税」してない住民がその分を補てんすることになること。「ふるさと納税」していない納税者が割を喰うわけだ。これはよく言われている
また、「ふるさと納税」の「お礼」が高額になることで、実質税金逃れ的にも運用できてしまうことなどの問題点は以前より指摘されている。
たとえば仮に、「お礼」を商品券にして、ふるさと納税」の95パーセントの「お礼」を返すような制度にすると合法的な節税ががっつりできちゃいますね。ここらへんは導入当初と比べ返礼品の率を下げることである程度対応されている。
地味だけど大事なのは、「ふるさと納税」と間接民主主義の相性がいいのかどうかというところ。
どういうことかというと、
①間接民主主義では、有権者は納税額に関わらず一人一票の発言権を持ち、その発言権を代表(代議士とか)に預ける。リタイアして所得税払ってなくても一人一票、経営者で高額納税していても一人一票。
②預かった発言権を根拠に、代議士などはみんなで税金の使い道(=予算)を相談し決める。実質的には予算案は大筋で役所が作ったものではあるが、しくみ上は代表が話し合って「こういうふうに予算を使おう」「この分野は手厚く予算配分しよう」と決めることになっている。
③ふるさと納税はそのプロセスをすっとばし、税金の使い道を納税者が直接決める。
④しかもその裁量は納税額が大きいほど大きい。出所は自分の税金ではあるが、たくさん「ふるさと納税」する人は、自治体・国の予算の一部をどこに割り振るか決める権限が多いことになる。
⑤民主主義では発言権・裁量は出したお金の額と比例しない。出したお金の額が多いほど発言権・裁量が大きいのは一人一票の民主主義・選挙じゃなくて一株一票の株主総会。
⑥だから本当は「AKB総選挙」じゃなくて「AKB株主総会」が正しい。
最後のほうはふるさと納税の話でなくなっているが、税制の研究者などからみればふるさと納税はキメラのごとき制度なのであろう。
さはさりながら(業界用語)しかし実際には、大義名分と実利、さらに「自分が関与することで状況が変わる感」がセットになったこの制度は、まだまだ広がっていくのだろう。外資系企業が仲介事業に参入するとのことで、徴税業務の手数料が外資に流れてよいのかという問題提起もされているし。一方で納税者が直接税金の使い道を決める云々については、もともと寄付金控除という制度もあるしなあ。
そういうわけで、「ふるさと納税」は民主主義を考える上でも非常に興味深い。
アメリカなんかでは議員に有権者が意見するときには「As a tax payer、納税者として」なんて前置きをして話すそうでけれど、国民と有権者と納税者はイコールではないんですね。国民は未成年も含むし、有権者は納税していない人も含むわけで。
いずれにせよ、もし自分が新しくなにか制度を作るときには、大義名分と実利、さらに「自分が関与することで状況が変わる感」を意識して制度設計するといいようですね。
それにしても、和牛とお米、どっちがいいかなあ。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2016年12月5日・2024年3月14日を編集・加筆)















