なぜTwitterでのやりとりではイラっとすることがあるのか考ー議論と会話、7並べとUNO

photoACより
おごりおごられ割り割られー「割り勘」考。

(photoACより)
まずは1杯目のビールを人数分、Aさんがまとめて払う。
次に2杯目のビールは人数分、今度はBさんがまとめて払う。
3杯目のビールは人数分、Cさんがまとめて払う。
こうしたやりかたを、イギリスでは「ROUND」というそうだ。
友人Iさんから教えてもらったのだが、中華圏でも最近は「割り勘」も使われるようになっているとのこと。
「AA制」(「Acting Appointment」または「All Apart」の頭文字らしい)と呼ばれているそうである。。
友人Nさんの話では、20年ほど前の香港では、中国人同士だと「一番のお金持ちが全員分をおごる」という風潮だったそうだ。ポトラッチ的な感じですね。面白い。
社会や組織に変わり者が必要なわけ~ゾウリムシの繊毛の話

(イラストはシルエットACより)
ここ30年ばかり、心の片隅にゾウリムシがいる。
出典を確認すべく最近やっと取り寄せた上前淳一郎著『読むクスリ 15』(1991年 文藝春秋)にはこんなことが書いてある。
ゾウリムシは草履に似た微生物で、そのまわりには小さく細い毛、繊毛がびっしり生えていて、それがボートのオールのようにおんなじ方向に動いている。そのためにゾウリムシはすいすいと前へと進んでいくが、数百本の繊毛の中に数本だけ、全然別の動きをしている奴がいるというのだ。
なんでそんな非効率的な動きをしている奴がいるのか、数百本が全く同じように動いていたほうが無駄がないじゃないかと思って観察してみると、なんと勝手な動きをしている奴が大活躍する瞬間がある。ゾウリムシが、方向転換するときだ。
つまり、まっすぐ進んでいたゾウリムシが大きく方向を変えるとき、今まで少数派だった勝手な繊毛の動きに、ほかの数百本が動きを合わせることによって、ゾウリムシはスムーズに方向転換をするのだという。
そしてコラムはこう続く。
実は会社や組織というのもこれと同じで、5%程度の異端や異分子がいてこそなにかあったときにスムーズに方向転換できるのではないか、と(上掲書 p.132)。
それで思い出すのは東大理学部数学科出身の元大蔵官僚、髙橋洋一氏だ。
髙橋氏の著書にはこんな一節がある。
『大蔵省は話題づくりのために二年に一人くらいの割合で、変わった経歴の人間を採る。私はその「変人枠」で採用されたようだった。』(髙橋洋一「さらば財務省! 官僚すべてを敵にした男の告白」 講談社 2008年 p.40)
髙橋氏自身はここで「変人枠」を「話題づくり」と片付けているが、そこには旧大蔵省の組織保全というか環境変化への適応力の保険というか、そうした経験に基づいた組織の知恵というものがあるのではないかと思う。
5%の異端や異分子、異物を内部にビルトインすることで組織の健全化を図る知恵みたいなものが旧大蔵省の「変人枠」だったのではないだろうか。
10年くらい前にも、「役所のなかの役所」と呼ばれる中央官庁に「日本で一番難しい理系学部」卒業生が入省したという噂を聞いた。今はどうしているのか興味津々である。
こうした組織内の異端や異分子、異物を人為的につくりだそうとした試みが「ぶらぶら社員制度」であろう。
永谷園では1979年に、通常業務は一切せず、2年間の間、食べたいものを食べ、行きたいところに行き、新しい商品のアイディアを考えるだけの「ぶらぶら社員」という制度ができた。永谷園の「麻婆春雨」というヒット商品はこうして生まれたそうである。
(永谷園HP:マンガ「麻婆春雨」開発秘話 )
こうした「ぶらぶら社員」制度は、検索するとセブン&アイ・ホールディングスやキングレコードといった会社にもあり、面白いとは思うが、それほど多くの企業や組織で取り入れられていないのは何らかの無理があるのだろう。生真面目な本業の中に遊び心を入れることが「ぶらぶら社員」の本質なのに、社命とあらば生真面目に「ぶらぶら」してしまうお国柄のせいだろうか。
組織全体の中に異端の「繊毛」をつくるよりもむしろ、一人の個人の活動の中に異分子、異端を取り込むほうが現実的かもしれない。
不惑を前に思わず手に取った本、「40代を後悔しない50のリスト」(大塚寿著 ダイヤモンド社 2011年)には「8割は守りでいいから2割は攻めろ」と書いてあったし(p.49)、グーグル社の社員は勤務時間の20%は自分の好きにやってよい、という「20% ルール」があるという(http://googlejapan.blogspot.jp/2007/07/20.html)。
そんなわけで、「方向転換の時に役立つ5%の繊毛」に心惹かれながらここまで来たわけであるが、ここにきてふつふつと疑問が湧いてきた。心の拠り所にしてきたその繊毛の話が、そもそもウソだったらどうしよう、というものである。
というわけで、ゾウリムシの繊毛および「役所のなかの役所」の人事に詳しい方がいらしたら、ぜひぜひご一報ください。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2016年4月13日を加筆修正)
病院受診の質を上げるたった3つのこと。
3つのことをはっきりさせるだけで、病院受診の質を上げることができる。
非常に簡単かもしれないが、簡単ではないかもしれない。
完璧な受診なんてない。完璧な絶望がないようにね。
さてと。
病院受診の質を上げるため、あるいは受診の際の不完全燃焼感を下げるためには以下の3つのことをはっきりさせるとよい。
すなわち
①目的
②主語
③語尾 である。
まず大前提として、名医には巡り会えない。
1万人に1人の名医を求めてもそれは叶わない。 日本には33万9623人の医者がいるが(令和2年12月31日現在)、1万人に1人の名医を求めるならば、日本には名医は33人しかいないことになる。
「黙って座ればピタリと当たる」ような名医には巡り会えないと思うところから話は始まる。
病院を受診した際、あなたの目の前の医者は「黙って座ればピタリと当たる」名医ではないので、あなたが何を求めて病院に来たのかは明確にしたほうがよい。
「病気だから病院に来たに決まっているだろう」とお思いかもしれないが、人は様々な理由で病院を訪れる。
・具合が悪いので原因はどうでもいいからとにかくなんとかして欲しい
・具合が悪いので薬とかはいらないからとにかく原因が知りたい
・なんだかよくわからないけれどまわりの人やほかの医者から病院に行けと言われた
・症状は落ち着いているからいつもの薬だけだして欲しい
・役所や会社に出す書類を書いて欲しい。薬とかはいらない
それぞれの場合、医者の対応も変わってくる。
診察し仮診断を下しそれに基づいて必要なら検査などをして診断の正確性を上げ状況に応じて治療を行うという王道は変わらないが、時間の使い方や濃淡は変わってくる。
この「Youは何しに病院へ」を明確にすれば、病気の原因を知りたいだけだったのによくわからないまま山ほどの薬だけ出されて不完全燃焼のまま帰宅するという事態は減らせる。
なぜ世の中の友達というものは病気の人にテキトーなアドバイスをするのだろうか。
「右から左へ受け流してください。全力で」
たまりかねてぼくはそう言った。ある日の診察室での出来事。
「血圧の薬は飲み始めると一生やめられないから飲まないほうがいいって友達に言われた」
「クレストールは飲むと死ぬって友達に言われた」
「糖尿病になったらずっと大変って友達に言われた」
「認知症になったらそのうち徘徊しちゃうわよって友達に言われた」
「認知症かもしれないからMRI撮ってもらいなさいって友達に言われた」
「病院変えたほうがいいんじゃないって友達に言われた」
患者さんがまわりの友達から言われたという言葉の数々である。どうしてこう世の中の友達というのは病気の人にテキトーなアドバイスをするのか。善意を疑うわけではないが、言ってしまえばまあ余計なお世話である。
念のため言っておくと、上記の「友達のアドバイス」はいずれも間違いである。
降圧剤を飲み始めても、減塩や禁煙、減量などの生活改善・体質改善に成功して血圧が十分下がれば降圧剤はやめられる(ことも時にはある)。
コレステロールを下げる薬クレストールにも重大な副作用はあるが、飲んだ人が全員死ぬわけではない(“長期的にみれば我々は皆死んでしまう”わけではあるが)。
糖尿病になったら大変かもしれないが、食事指導や薬の治療でがんばってらっしゃるかたが大半だ。
認知症になってもおだやかに経過する人も多く、徘徊が見られるのは半分くらいの割合なはず。
認知症の診断は総合的なもので、臨床症状もないのにMRIだけで認知症と診断されることはない(医学が進歩すればまた違うかもしれないが)。
病院変えた方がいいというアドバイスは……そういうこともありますね。
こういうテキトーなアドバイスをする人というのは昔っからいる。
ナイチンゲールの『看護覚え書き』にもこんな一節がある。
<この世で、病人に浴びせかけられる忠告ほど、虚ろで空しいものはほかにない。それに答えて病人が何を言っても無駄なのである。というのは、これら忠告者たちの望むところは、病人の状態について本当のところを知りたいと言うのではなくて、病人が言うことを何でも自分の理屈に都合のよいように捻じ曲げることーこれは繰り返して言っておかなくてはならないーつまり、病人の現実の状態について何も尋ねもしないで、ともかくも自分の考えを押しつけたいということなのである。>(フロレンス・ナイチンゲール『看護覚え書き 改訂第7版』 現代社 2014年 p.172)
ナイチンゲール先生、なかなかに憤ってらっしゃる。白衣の天使は辛辣なのだ。
日々患者さんと接していると、冒頭のような「友達がこう言った」「友達がああ言った」と、友達のテキトーなアドバイスに振り回されている方によくお会いする。
そのたびに脳裡をよぎるのは「友とするのに悪きもの、病いなく身強き人」という言葉であったり、「友とするのに悪きもの、虚言(そらごと=うそ)する人」という言葉だったり。あまりにいい加減なアドバイスをされた人に会うと「友達というよりはフレネミー(frenemy=friend+enemy、友達と見せかけて実は敵、みたいな人)というべきじゃないの」と言いそうになる。
そうは言っても患者さんの友達の悪口を言うべきでもなく、脳裡をよぎるいくつかの言葉はぐっと飲み込んでおくしかない。
いろいろな思いを飲み込みつつ、自分の中でかろうじて言ってもいいかなという言葉が冒頭のアレ、「右から左へ受け流してください」というわけなのだ。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2016年12月15日を加筆・修正)
ジミーの流儀。

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(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2023年5月21日を加筆再掲)
58個のささいなこと、些事をいくつか片付けたら無力感から解放された話。
実はここしばらく、人生迷子になってしまっておりました。
一言で言えば、「枯渇」。こうしたい!とかこうあるべきだ!みたいな湧き上がるものが無くなってしまったのです。
仕事とかはもちろんちゃんとやるけれど、何かそれに加えて、いや加えてというか生活や人生をドライブさせるような腹の底からの衝動みたいなものが枯れてしまっていた。ただ淡々と日々をこなす感じとでも言いましょうか。
まあ昔は人間五十年なんていっていたくらいだし、ほっとけば生のエネルギーなんてものは50年くらいで枯渇するものなのかもしれません。このまま凪のような心持ちで過ごしていくのかなあと思いつつ、少し足掻いてみました。
ぼくのネタ本の一つ、デビッド・アレンの『はじめてのGTD ストレスフリーの整理術』の教えに、「人間のアタマはタスクの重要性を区別しない。つまらないタスクやささいなタスクも人生の重大事も同じように扱う。つまらないタスクやささいなタスクをそのままにしておくと、アタマのキャパがそちらに取られるので、重大なタスクにアタマが回らない」というものがあります(「脳」というワードはぼくにとって正確に扱うべきテクニカルタームなので「アタマ」という日常生活用語を使っています)。
アレンのこの仮説はなかなかに示唆的です。
このアレンの仮説を思い出して、「生のエネルギーが枯渇してきたのは日常の些事にアタマのキャパを奪われているからではないか」と考えました。
アレンが勧めているのは「やらなきゃいけないこと、気になってることを紙に書き出せ。書き出したらそれを上から順にこなせ」という方法です。
で、やってみた。
日常生活上で気になっていること、やらなきゃいけないと思っていること、なんとなくやだなと感じていることを書き出してみました。
自分で驚いたんですが、なんとそうした些事や心わずらわされていることが合計58個ありました(本当)。
ぼくは自分自身を基本的に大雑把な性格と自認しているのですが、それでも58個も心わずらわされてることがあったのです。そりゃ心も動かんわ。
備忘録として、やり方はこう。
一日の流れを朝から思い浮かべます。
朝起きてヒゲを剃る。「シェービングクリームが切れてるんだよな。ここのところ毎朝『買わなきゃ』と思ってるよな」と思い至る。これで1個。
家を出るシーンを思い浮かべる。
「靴がくたびれてるんだよな。『そのうち買わなきゃ』って何ヶ月も前から思ってるよな」。これで2個。
朝から晩までの流れを回想して些事をピックアップしたら、今度は月曜から日曜までの流れを回想します。
すると「毎週◯曜日のあの検査の時、検査依頼書の文言書くのがちょっと手間なんだよな。いつも『簡略化できないか』と思うけどそのままなんだよな」と思い出す。
一週間の流れを振り返ったあとは一ヶ月の流れを反芻します。
今度は「月末の支払いの振り込み、毎月毎月ちょい面倒なんだよな」と思い至ります。
一ヶ月の流れを振り返ったら今度は一年。
そうやって、気になること、やらなきゃいけないと思ってること、心煩わされていることを全部書き出したら、58個ありました。むしろ少ない方かもしれません。
唐突ですが、四書五経の一つ易経には、陰と陽の考えかたがあります。
陽は発展とか成長とか拡散とかの力の方向性。植物でいえば、根から幹、幹から枝、枝から葉へと流れる、外へ外へと伸びてゆく力の流れです。
陰は集中とか成熟とか集約とかの方向性で、植物でいえば、葉を落とし枝を落として、幹へ根へとエネルギーを絞り込んでゆく力の流れですね。
超自然的な占いとかとは距離を置きますが、この易経の陰陽の考えかたは非常に興味深い。
我がことに当てはめると、外へ外へ、上へ上へという陽のエネルギーが枯渇した状態がここ最近だったといえます。
で、今回実感したのですが、陽のエネルギーが枯渇しているときには、陰の方向で対処すればよいようです。
心のエネルギーを知らず知らずに奪っている58個の些細なこと、気になっていること、心煩わされていることを書き出して、一個いっこ対処しました。
「対処するために必要な手間ひま」を横軸に、「対処した場合に気が楽になる程度や効果持続期間」を縦軸に4象限の図に落としこんで、「比較的あっさりできること」かつ「対処した場合に持続期間の長いこと」から優先的に手をつけてみました。
たとえば「家の鍵の変形」。
家の鍵の持ち手の部分が変形していて毎朝毎晩気になっていたのです。これも業者に依頼したらあっという間に解決しました。もっと早く頼めばよかった。
あるいは仕事場の家賃振り込み。月末振り込みの契約なんだけど、支払いタイミングをコントローラブルにしておきたいという心理からか、今まで毎月自分で振り込んでました。毎月月末になると「そろそろ家賃振り込まなきゃ」と気にしてたので、これも(ようやく)口座引き落としにしました。
面白いことに、リストアップした58個のうち5〜10個対処した時点でちょっと元気になりました。
おそらく、些細だけど気になること、心煩わされることを放置すると自己肯定感が下がるんじゃないかな。無意識のうちに「こんな些細なこともできないのか」と無力感が湧いてきちゃうのかもしれない。そこで瑣末なことでもいくつか対処するうちに自分のことを「やればできる子」と認識するのではないでしょうか。
ここまでのところをまとめると、生のエネルギーを芽生えさせ育てるために、心の表面に繁茂していた雑草のような瑣末な事柄を一つ一つ抜いてまず土地を作ったというところですね。
昨日も使わなくなって放置していたクレジットカードをようやく解約しました。
銀行の休眠口座も整理しなきゃ…。
それじゃまた。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2023年7月20日より抜粋)
バイアスから自由になることはとても難しいという話。

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「目の前の模擬患者さんが南極観測隊に行くとして、シミュレーション問診してください。では、はじめ!」
ずいぶん前に参加した、医者向けのとあるワークショップでの光景である。誰かを不用意に批判する意図は無いので、少し状況を変えて書く。
ワークショップは極地での医学に関心のある様々な科の医者向けのもので、参加した医者のバックグラウンドはさまざま。
耳鼻科医もいれば外科医もいるし、心臓専門の医者も、肺や呼吸が専門の医者もいた。
ある程度経験が長くなると、自分以外の医者の診察過程を直接見ることは少ない。ましてや自分と別の専門の科のドクターの診察プロセスを見る機会はほぼ皆無と言っていいだろう。
冒頭に戻る。
「目の前の患者さんが南極観測隊に行っていいか、医学的に可否を診断してください」
ファシリテーターの突然の言に、会場が静かにざわついた。事前に知らされていない、抜き打ちの模擬診察だったのだ。
「では、そちらのセンセイ、前へどうぞ」
司会に促され、呼吸器内科医が前に出る。
「じゃあやってみて。私が患者さん役やりますので、問診してみてください」
司会者が言う。
「…ええと…えー、ふだん咳とか出ませんか?持病に喘息は…?」
戸惑いながら、呼吸器内科のドクターがきく。
模擬診察がひとしきり続き、次の医者の番になる。
「もともと、鼻は悪いですか?」
耳鼻科医がきく。
「脈とか飛びませんか?ふだん血圧は高くない?」
次に呼ばれた循環器科医はそう切り出す。
「手とかしびれたことはない?力が入らなくなることは?頭痛や意識無くなったこととか?」
その次の脳外科医はまずそう聞いた。
ぼくはそれを見ながら、人間というのはこんなにも自分の専門分野に引きずられてモノを見るのかとある意味で感動した。
「目の前の患者さんが南極観測隊に参加して良いか医学的に判断を下す」というミッションは同じなのに、誰もがみな、知らず知らずのうちに自分の得意分野で勝負しようとする。バイアスのかかった目でモノを見て、バイアスのかかったアタマでジャッジしようとする。そして、夢中になればなるほど、自分にバイアスがかかっていることを忘れる。
職業、性別、年齢。生まれ育った環境に今おかれている状況。
ぼくらは本当に無数のバイアスにとらわれている。
そうしたバイアスから自由になってモノを見、モノを考え、ジャッジして、話したり書いたりするのはとてつもなく難しい。
完全にバイアスから自由になるのは正直言って人間にはムリだとすら思う。
せめて出来ることと言ったら、自分にどんなバイアスがかかっているか意識すること、どこまでそのバイアスが自分の言動に影響しているかときどき確認すること、それから誰かが何か言ったらそれを鵜呑みにせずに、そこになんらかのバイアスがかかっていないか健全に疑うことくらいだろうか。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2020年3月14日を加筆・修正)













