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ホームセンター業界のトップに躍り出たカインズを率いる高家正行社長インタビュー

麻布流儀編集部
麻布流儀編集部
date:2020/10/21
ホームセンター業界のトップに躍り出たカインズを率いる高家正行社長インタビュー

麻布流儀編集部です。

今回は、1981年麻布卒で株式会社カインズの代表取締役社長の高家正行さんが登場。

カインズがホームページ上で発表した2020年2月期の売上高は4410億円で、前年までトップだったDCMホールディングスを上回りホームセンター業界のトップに躍り出た。カインズの高家正行社長は麻布のOBで、このコロナ禍でも力強くその手腕を発揮されていて、様々なニュースサイトなどでも取り上げられています。この度高家さんにお時間をいただきインタビューしました。



高家社長がプロ経営者になるまでの歩み

前田「本日はありがとうございます。麻布流儀は様々な分野で活躍されている有名なOBや、それぞれの分野でフロンティアと言いますか、先駆者というか群れるのが嫌いだからこそその道を極めていく人がたくさんいると思いますが、まさに高家社長も経営のプロだと思います。」

前川「高家さんのプロフィールについては経済紙その他業界紙などでもちろん存じ上げておりますが、せっかくですので、自己紹介というかプロフィールをご自身からご紹介いただければと思います。」

高家1981年に麻布を卒業して、現役で慶應義塾大学に入学しました。麻布での成績は大体100番前後とか良くて二桁番。当時の麻布生はみんな東大を受けるので僕も受けたのですが受からず、早慶は合格。ずっと受験勉強ばかりの浪人生活を1年間送るのは耐えられそうもないと思い、慶應大学に進学しました。

当時の麻布はそこそこ真面目に勉強してきた人間は皆東大受験するだろうとか、一浪するくらいは普通だったので「え〜そのまま慶應行くの?」みたいな空気はありました。

大学を4年で卒業して、就職したのが三井銀行でした。

その後三井銀行は、太陽神戸銀行と合併して太陽神戸三井になり、銀行名が「さくら銀行」に変わり、さらに住友と一緒になって三井住友銀行になってという歴史でしたが、三井住友銀行になる前に僕は銀行を辞めました。

三井銀行とさくら銀行時代、ちょうど35歳の時に転職したので13年程在籍したことになります。

銀行に就職したのは、経済学部で所属したマクロ経済・財政金融ゼミの先輩たちの多くが金融機関に就職していたから、という自然な流れでした。

今と違って、当時は都市銀行+興銀、長銀、日債銀で14行の都市銀行があった時代。給料が高くて、業界としても安定しているというイメージが強く、金融危機なんて全く想像できる時代ではなかった。経済を学ぶ中で、金融は産業を強くしていく血液みたいなもので、金融機関はその日本の産業や企業を強くするという使命感がある業界というのが就職を決めた理由でしたが、正直言って、当時はそれ以上に確固たる問題意識はありませんでした。

入行してからの主な仕事は企業融資でした。バブルの時代、更にバブルがはじけていく時代も見ていく中で、本当に金融機関が企業の成長に貢献することができているのか、という疑問を感じるようになっていきました。金融機関は「晴れの日に傘を貸して、雨の日には傘を取り上げる」なんて揶揄されていた時代でもありました。

自分が担当した中でも倒産していく企業があり、それを目の当たりにして、銀行の使命って一体何なのだろうと、考えさせられた20代の後半でした。

そんな時期に、ちょうどプロフェッショナルな経営者というものの存在を知りました。アメリカで、経営難に陥ったIBMを再生させたマッキンゼー出身のルイス・ガースナーが華やかに取り上げられていて、「こういう職業、役割ってあるんだ」と自分の中で意識し始めたのが30歳前後のことです。」

高家「当時の日本の大企業では、基本的に新卒入社の中で出世競争に勝ち残った人が社長や頭取になるということが当たり前の時代で、外部から「職業経営者」を招き入れて会社を成長させたり、再生させたりっていうのは想像が難しい時代でした。

戦前の財閥時代にはそのような事例はあったものの、戦後の高度成長期を過ぎた頃には影も形も無かったのだと思います。アメリカでの「職業経営者」の活躍を見て「こういう職業は魅力的だ」というのが、「プロ経営者」を目指すきっかけでした。

その頃ちょうど現場の企業融資の仕事から、従業員組合の専従になるタイミングがあり、書記長になりました。大企業の労働組合は基本的に労使協調路線ですから、戦後のような思想が強い組合とは違います。むしろ、当時の専従経験者はエリートコースと言われ、同期からは「これで役員になれるな」と冷やかされる時代でした。もちろん現実は違いますが。

そんな仕事にたまたま就いたことから、定期的に頭取をはじめとした経営陣と労使協議会のような顔を合わせる機会がありました。30歳そこそこで頭取と会うという機会は、一般的にはなかなかありませんが、組合の代表なので労使対等な立場で協議する、そんな貴重な経験ができた一年でした。

銀行の頭取はじめ経営陣は皆、見識があって人格的にも優れた人たちばかりでした。一方で、僕自身が経営というものに興味を持ち始めた時期だったので、銀行はどのように経営されているのか?に関心がありました。そうしてみると、銀行って誰が「経営」しているのか、銀行の独自の経営戦略とは何か、銀行が社会や企業に発揮している価値は何か、そういう事が経営陣を通してもよく見えてこなかったのです。

このまま銀行に残って熾烈な出世争いに万に一、千に一でも勝ち残って経営幹部になれたとして、そこで銀行の経営ができるのか、ということに残念ながら疑問を感じるようになっていきました。

同時に、職業としてのプロフェッショナルな経営者というものに挑戦してみたいという想いがどんどん高まり、このまま銀行に残るのか、あるいは外に出てプロ経営者を目指すのかというのをいろいろ悩んだ挙句、自分の描くプロ経営者を目指すために35歳の時に転職しました。」



プロ経営者を目指しはじめての転職

高家 「目的はプロの経営者になることだったのですが、大銀行の看板がなくなるとただの人間です。経営の何かができるわけでもなく、起業して経営者になるというアイデアもありませんでした。

当時、グローバルな経営コンサルティングファームが、日本の大企業の経営トップの黒子役として、戦略を一緒に考え実行し企業価値をあげていく役割を担っていたので、経営経験を積んだり、マネジメント手法や経営理論を勉強し実践するには最適だろうと考えA.T.カーニーという戦略ファームに転職しました。

3年から5年で自分の目的が達成できたら次のキャリアに進もうというイメージは最初から持っていました。様々な業務に携わり仕事は面白かったですが、当初の目的が一定達成できたと感じ、ちょうど40歳の時に実業に打って出ようということでミスミ(現ミスミグループ本社)に転職しました。」

前川「ミスミとはそのコンサル時代に何か担当されていたとかではないのですか?」

高家「ミスミにはコンサル時代に縁があったわけではありません。ミスミは、創業者の田口さんが会社を興し約40年で引退を決めた後、いわゆる日本のプロ経営者の草分け的存在の三枝匡さんが田口さんの後を継いで2代目の経営者となって少し経った時期でした。プロパー社員だけではなかなか思い描く成長を描けないので、広く外部から僕みたいな経営者を目指す人材をどんどん募集していた時代でした。

三枝匡さんについては、僕自身も著書も読んでいて自分と似たようなことを考えているこんな人がいたのだということは知っていました。10人程度の経営会議メンバーの経営企画室長というポジションで、しかも三枝さんの直下で経営陣として働けるという、まさに実戦にはうってつけだったのです。

その後、ミスミは世の中の景気にも押されて毎年二桁成長、積極的にM&Aや海外展開などを進めていました。僕も毎年責任範囲が広くなり肩書きが上がり、ちょうど5年経った時に三枝さんから「次の社長やってくれ」と言われ、45歳でミスミグループ本社というホールディングスの社長に就任しました。

プロ経営者になろうと30歳頃から思い始めて、転職で自分の腕を磨き続けて到達するのに15年かかりました。

それが早かったのか遅かったのかはわかりません。ミスミの経営会議メンバーになって、執行役員になって、常務になってと段々に自分のポジションが上がっていく中で、いつかは経営トップをやってみたいというのはあったので、45歳でそういう話になった時には「目指してやってきたところに、いよいよきたか」っていうワクワク感がありました」

前川「なかなか世代交代できない会社が多い世の中の現状を見て、当時45歳にきっちりとバトンタッチしたという状況をどう思いますか?」

高家「2008年10月、社長就任してすぐあのリーマンショックがきっかけの世界不況が起きて、ミスミも売り上げがガンガン下がり、営業利益ベースで何ヶ月か赤字という状況でした。

とにかく脇を締めてリーマンショックをどう乗り切るか。最初はそこに翻弄されましたが、おかげさまで1年くらい経ってそこから抜けて、社長在位通算5年の後半は次の成長戦略をどう描くかに注力できました。今振り返ると激動の社長時代5年間だったと思います。」



そして2019年3月カインズの社長へ。そしてコロナ禍へ。

前川「カインズの社長就任が2019年の3月ということで、就任1年もしないうちに陥った想像もしなかった全世界的非常事態の中でのどんな判断を下して舵取りをされているのか、少し教えてください」

高家「リーマンショックとは状況が異なりますが、未曽有の危機の時に、何を考えたか、どう行動したか、という経験がデータとして自分の中にあるのは、このコロナ禍においてもとても役に立っていると思います。

いわゆる平時と戦時という様な言い方を僕はよくしています。

平時と戦時で経営者としての動きのスイッチを切り替えなければいけないと考えています。

コロナ前には平時の経営でうまくいっていたとしてもコロナ禍やリーマンショックの時には完全にスイッチを切り替えて、経営の仕方を変えます。すなわち優先順位をガラッと大きく変えます。その切り替えをちゃんとしないと、ズルズルと判断が遅れ、時には会社が危機に直面することすらあると思います。

戦時になった瞬間にまず考えるのは企業の存続です。企業の存続リスクは、会社の状況によって、資金、人、その他経営資源などのどこに一番のリスクがあるのか違ってくるのですが、それがどこにどのくらいあるのかを真っ先に判断し手当てすることが最重要なのです。

ミスミもカインズも、幸い財務基盤は強固なので早期の資金繰りの心配はなかったものの、真っ先に計算したのは、この状態がどれだけ続くと資金繰りに問題が生じてくるかということ。これを把握することが最初の一歩でした。

今もコロナ禍での追加の資金調達は行っていませんが、予め取引金融機関には「こういった状態までいくと、このくらいの資金調達が必要になるかもしれません」ときちんと話しています。

そして、戦時において一番違うのは「権限の集中」です。普通の状態ではないので、予期せぬことがそこかしこで頻繁に起きます。平時なら過去のケースや他社動向など、それなりに検討・分析、情報収集してから動きます。しかし戦時では、時間をかけている間に機を逸したり判断を誤ってしまうので、基本的にはほとんどすべての情報を社長である私のところに集め、自分のところで現場のことまでもスピード感をもって意思決定をしていく。まさに権限の一極集中をしていかないと戦時は乗り切れないと考えています。

対策本部を設置し、その本部長に自分が就きました。そこへ現場の全ての情報が上がってきて、その場で意思決定し、会社を回していくという形をピーク時は毎日続けていました。」

前川「カインズという一万人規模の会社ですと、対策本部というと何人くらいで動かすイメージなのでしょうか」

高家「対策本部は全体で3040人です。僕の下に本部長クラスが10人くらい、それで通常会社の全ての組織をカバーします。その10人ぐらいのメンバーとその下の部長クラスで構成しました。

対策本部が常に走りながら判断する状態。そこでは朝令暮改もありです。通常であれば社長がコロコロと指示を変えるとなると、「何やっているんだ、社長は!」となりますが、そんなことを言ってる場合ではないので、間違っていたらすぐに指示を変えるというのが正しい行動です。すべての情報を集めてから判断しようとしたら、それこそ機を逸してしまう、というのが平時と全く違うことです。」

前川「コロナ収束後にどこまで生活洋式が変わるのかなどちょっと不明ですがこの先にどの様な展開を描いていますか?」

高家「今回のコロナの様な戦時真っ只中に突入すると、やっぱり自分たちの会社の存在価値ってなんだろうと改めて問われることになります。

4月の緊急事態宣言発令時、東京都が営業休止要請の対象とする業種を検討した対象の中に、当初ホームセンターも含まれていました。それをテレビで見て正直びっくりしてしまって。ホームセンターは、これまで東日本大震災はじめ昨今の台風や洪水などの災害の時に、水やブルーシート等の資材といった地域のライフラインを支える役割を担ってきたという自負がある中で、コロナ禍という“戦時”の状況で我々が営業しないのは「どうして?」と思いました。その報道が出た後すぐに幹部を集めてこの状況にどう対処すべきか、営業休止要請が出た場合それに従うのか、自分達の使命感に基づき営業継続するのか社内でも侃々諤々と議論しました。

最終的には、我々としてこういった非常時に社会のライフラインを支えてきた自負があるから、まずは営業継続する考えであると表明しようということになりました。最終判断が決まる前に我々はプレスリリースを出して、「営業を継続していく考えです」と。

DIY協会という業界団体的役割をしているところにも働きかけ、協会としても声明を出すべきだと進言しました。結果としてホームセンターは営業休止の対象から外れ、我々としては良かったなというところに落ちつきました。」

前川「ホームセンターの営業休止要請除外と決まってどう思われましたか?またコロナ失業などの雇用の問題が叫ばれる中、雇用枠3000人拡大などを発表されましたが、その辺りを教えてください。」

高家「我々ホームセンターにとって、そもそもどんな価値を社会に提供しているのかということを改めて考えさせられる良いきっかけになりました。緊急事態宣言が発令されても営業継続できることになりましたので、我々がやるべきことは、従業員の安全を確保して、来店されるお客様の安全を確保した上で地域のくらし、ライフラインを支えることだと。

3000人の雇用の話ですが、我々が営業を継続すること自体が社会に対して一つの価値を提供していくことだという自負はあったものの、もう一歩踏み込んで我々に何ができるのかと考えた時、小売業としてそれぞれの地域の雇用創出ができるのではないかと考えました。

目的がないのに雇用だけ進めるわけにもいきませんが、受け皿はありました。コロナの1年ほど前から、企業変革に取り組む中、ちょうどデジタル戦略において様々な新サービスが立ち上がっていました。例えばデジタルを使ったピックアップサービス。コロナ禍での「より安全な買物」「より短時間での買物」が可能ということから、非常に利用件数が伸びていました。そのため、予定より前倒しで店舗へのピックアップロッカー設置を進めるとともに、人員を増やそうとしていましたので、このタイミングでもう一段踏み込んで社会に対して貢献していこうと、このような新たなサービス展開なども含め3000人雇用創出を発表するに至りました。

そういう意味でも、我々の本源的価値が改めて問われたのが、このコロナだったとおもいます。」

 

高家社長の経営観と麻布

前川「オーナー企業の強みについてどうお考えですか。高家社長の考える経営判断や株主に対しての考え方など教えてください。」

高家「オーナー企業をひと括りにして論じるのは難しいです。同一企業でも、企業の変遷の中でうまくいってる時期とそうでない時期があると思います。僕はいわゆる経営者という立場を自分の職業と考えているので、そういう立場からするとオーナーや創業家はいわゆるステークホルダーです。ミスミは上場企業だったので、株主はマーケット、その中に個人投資家や機関投資家など様々な投資家がいるものの、資本市場がステークホルダーだった。それ以外の従業員や取引先、社会などは変わらないけど、上場会社とオーナー会社で大きく違うのはステークホルダーが誰かということ。

上場企業のステークホルダーが市場であるとすると、オーナー企業は創業家。経営者という立場からすると、株主というステークホルダーと連携を取って、自分が進めていこうとする経営の方向をきちんと理解してもらうというところに尽きると思います。

ミスミのような上場会社であれば、投資家向け説明会や決算説明会を開いて、会社の業績を説明するだけでなく、将来こういうところを目指しているので引き続き株を持ってください、投資してくださいということになるわけです。

その相手が創業家になってもコミュニケーションする内容は一緒です。

「こういう経営をし、将来この会社をこういう風に成長させていきたい」ということについて創業家に理解してもらう必要があることは、ステークホルダーマネジメントという観点からは同じことかと思います。

ただし、資本市場との対話は投資リターンという共通言語の中で会話ができますが、創業家との会話は投資リターンという共通言語以外の要素も重要です。企業の社会に対する本質的な価値であったり、それに基づく長期視点での企業価値向上であったり。むしろこちらのほうが、プライオリティが高かったりもします。ミスミ時代の経営経験から学んだのは、経営者も「人間の機微」に敏感にならないといけないということでした。それは必ずしも創業家だけでなく部下である幹部や社員、そしてお客様も同じです。必ずしも、経済合理性だけでは動かないということをミスミの経営時に経験できたことは、今オーナー企業の経営に携わる際にも生きていると思っています。」

前川「インタビューさせていただいております我々はいわゆる団塊ジュニアというような世代で事業承継される側の世代、で今みたいな話の論理の理論を振りかざし、上の世代と対峙してしますが、感情や人間の機微みたいなことを学んだ上で臨んでいかなくてはならないということをお話を聞いていて感じました。ここまでは高家さんのこれまでのビジネスマンとしての歩みなど色々教えていただきましたが、さらに掘り下げて学生時代、麻布時代に受けた影響などお話しいただけたらと存じます」

高家「麻布に入るきっかけは、御三家の中でも一番自由な校風が気に入ったことでした。

そして実際に入学してみると、圧倒的に自分が凡人だということに気付かされました。皆そうでしょうが、小学校ではそこそこできる生徒だったんですよね。塾でもそれなりに成績が良かったと思うんだけど入ってみたらどんなに頑張っても頭の構造が違うんじゃないかってやつがいっぱいいるなと。さらには、勉強ができるというのとは違う、当時の世の中の一般的な尺度だった学歴社会みたいものとは異なるところで、その時代から堂々と自分の価値観を貫いているやつがいっぱいいて。ただの真面目な受験生からただの真面目な麻布生になった自分がどれだけ平凡なのかということをずっと思い知らされるような6年間でした。実はこれは今でも思います(笑)」

前川「もちろんとんがったOBはたくさん目にしますが、でも麻布では超有名人とまで知られてなかったとしても、実は社会で大活躍されてる方の話を発信していきたいという思いが(麻布流儀には)あります!その道のプロ、先駆者という意味では高家社長もプロ経営者としてのフロンティアですね」

高家「麻布という強烈な個性を持つ連中の中で、自分の平凡さを痛感しながら、それがコンプレックスになる訳でなく、しっかり自己認識しながら楽しく過ごした6年でした。その後40年経った今、私は毎年新入社員に「自我作古」という言葉を送っています。意味としては自分が歩いてきた道の後はそれが普通なものとなっていく、世の中を切り拓いていくフロンティアたれということです。どれだけ有名だとか、どれだけ金が稼げるとかに関係なく、自分がこの分野ではこれをやってきたのだというようなものを持ってほしい、ということを伝えています。自分自身もそれを人生哲学として持ち続けています。今から振り返ると麻布時代の経験がそこに大きく影響しているのかなと思います。

フロンティアといっても、決して発明家や起業家ということではなく、一企業の中でも自分にしかできないこと、自分にしか作れないものを作ることに十分な意味、価値があると思ってます。」

前川「最近O Bページへの投稿、あるいはメディアへの発信はどのようなことを意識していますか?ご自身の人脈やコミュニティをどのように生かしていらっしゃいますか?」

高家「正直に言うと学校のつながりをビジネスに活かすのはあまり好きではなく、そういうところから何か頼まれるのもあまり好きではありません(笑)。でも最近麻布O Bのページに自ら発信しているのは年齢的なものもありますね。銀行時代のことですが、当時から「麻の葉会」というのがあって入行前から仲間に入れてもらいました。当時の副頭取をはじめ偉い先輩方がいらっしゃって、陰になり日向になりお世話になりました。A Tカーニー時代も56人だったものの「麻の葉会」を作って飲み会したりもしましたね。僕は麻布が好きなので、だんだん自分の年齢が上がり、社会的立場を考えたときに、麻布について発信しても良いのかなと、最近O BS N Sなんかに投稿するようになりました。麻布のO Bもこんな業界の中で元気にやってます、挑戦してますよ、と知ってもらうだけでも何かの役に立てば・・・とそんな風に思っています。

 麻布生は、自分の価値観にこだわるタイプが多いので、時にそれが社会や企業に対して斜に構えているように見えることがあります。自分の話を披露することには躊躇するし、それに対してよく思われないかもしれないけど、それはそれ。麻布のネットワークの中で何か頼まれても、やれない事はやれないし、やりたくない事はやらない、と割り切っています。一方で、自分がやっていることが少しでもヒントになったり、誰かの役に立つことがあるのであればやろうと思っています。

前川「ありがとうございます。麻布流儀も約3年細々とでも何かやっててよかったなというか、こういう風に、高家さんみたいなOBが出てきてくれることは嬉しいです。「起業」だけじゃない「○○賞」だけじゃない、それぞれの「フロンティア」にスポットを当てていきたいという願望みたいなものがありました。ただ「群れる」のは嫌いですが、でも「本物の価値」は認め合えるのが流儀のスタンスです。

エネルギー持ってる若い子達がこういったインタビューなどから何かを感じてくれたらと思います。また何か一緒に面白いことができたらと思います。最後に、高家先輩が10年先にどんなことを見ているか。後輩たちにもメッセージをください。麻布流儀に対して流儀読者に対してのメッセージをお願いします。」

高家「ミスミの社長になるときに「自分が社長になった瞬間からバトンを渡すことを考えなければいけない」と言われました。昨年、カインズの社長になった際も、すぐではなくてもきちんとバトンを渡すことを常に頭にイメージしながらやっています。

自分の後継者を育てなければいけないなという意識は強く持っていますね。

経営者は全人格的な成熟が必要です。

もちろん経営者だけがゴールではありません。自分はたまたま経営者になりたいと思い、30代から勉強しキャリアも積んできましたが、自分が考えるゴール、目線をどこに置くのかという「問い」の方が大切だと思っています。

自分の若い頃は、経営者はロジカルで、でもハートが熱く、と思っていましたが、経営経験を積み重ねる中、組織がロジックだけで、あるいは経営者の熱い心だけで動くかというとそんなに簡単ではないと感じるようになりました。

組織が大きくなればなるほど、グローバル企業になればなおさら、それだけでは人も組織も動かないでしょう。やはり経営者の持つ人格、その人の持つ歴史観や人生観、時に宗教観や世界観からにじみ出る人間力みたいなものが、最終的に先ほど話したような戦時でみんな苦しくなったときに何でこの会社で頑張るのか、何でこの経営者のもとでこんなに苦しい時にやるのか、を決めるのではないでしょうか。給料の高さだけで働く人はもっと高い給料の会社があれば転職するだろうし、上司が怖いから指示に従っているだけというのであれば、あるタイミングで指示に従わなくなってしまうだろうし。

でも苦しい時にそれでも一緒に頑張ってくれる人というのは、その会社が持つ社会的使命やビジョン、価値、その会社を引っ張っている経営者が持つ全人格的な要素が最後のよりどころになるのではないかなと思っていて。自分自身の目標の目線は、そういう経営者に置いてるんですよね。

そういう意味では、自分が10年後にまだ経営者をやれているか、そこまで知力と気力と体力とが充実しているかはわからないですが、自分の目指す高いゴールを目指し続けないといけない、目指し続けたいと思っています。

 経営者を目指している方は、目線をどこに置くかということを、是非その時々に考えて欲しいです。そして昨今、日本のベンチャーで世界に通用するという経営者が出てきていて嬉しいという気持ちの反面、既存のエスタブリッシュな組織の経営者でもグローバルに通用する発信力、影響力のある経営者が少ないとも思っています。自分自身もまだそこには到達してないですし、これから経営者を目指す若い人たちには是非そういうところを目指して欲しいなと思います。

前川「ありがとうございます。麻布流儀は先輩後輩関係なく、ちょっと生意気な言い方になりますが、頑張っている麻布O Bの方を応援したいなと思ってますので、今後も是非よろしくお願い足ます!」

高家「こういう類のメディアは必ず賛否両論あると思います。でも先ほどの人生哲学ではないですが、何かを始めるということがすごく大事で。万人から賛成を得る事はとてもできないにしてもそこに集う人が少しずつ増えてきてそこに道ができる。それが太い道であろうが、細い道であろうがそんな事は関係なくて、みたいな事なのかなと思います。」

前田「高家さんと僕らの世代は6年間で被っていなかったので同じ時期を過ごしたわけではないのですが、6年かという麻布時代を過ごしたというだけで、どうしてこんなにも同じような思考というか、世の中を俯瞰して見ているというか、どこかで先を見据えているというか、麻布時代に先生から教わったわけでもないと思いますが、ものすごく共通項があるというか、勝手に共感してしまいました。それと同時に麻布の面白さというのはまだまだ奥が深くてもっともっと色々なOBをインタビューしたいと感じました。また今回はインタビューでしたが、またの機会に実際に若い経営者を目指すOBと話す機会だったりイベントだったりにもまたご登場いただけたらと存じます。1時間半にも及ぶロングインタビューありがとうございました」

高家さんは実に和かに優しく語ってくださいましたが、まっすぐ先を見据えた力強さみたいなものを感じました。またどこで高家さんを囲んだイベントなども実施できたらと考えております。ありがとうございました

高家正行<経歴>

1963年3月東京生まれ

1981年麻布高校卒業


1985年 慶應義塾大学経済学部卒業 

1985年 三井銀行(現 三井住友銀行)入行 

1999年 A.T.カーニー入社 

2004年 株式会社ミスミ(現 株式会社ミスミグループ本社)入社 

2008年~13年 ミスミグループ本社 代表取締役社長 

2016年 株式会社カインズ入社、取締役(非常勤) 就任 

2017年 取締役副社長(常勤) 就任 

    株式会社大都 社外取締役 就任 

2019年 代表取締役社長 就任