なぜあんな立派な人がコロナやワクチンの陰謀論にハマるのか~複雑な世界を理解するときの落とし穴(1)

(photoACより)
人間社会は複雑さを増すばかりだが、個としての人間はその複雑さをそのまま情報処理できるほど賢くない。そんな話をユヴァル・ノア・ハラリが書いている(『21Lessons』河出書房新書 2019年 16章「正義」)。
複雑な現代社会を生きる個としての人間が、世界を理解する上で上記の4つの方法を取りがちだということを悪用する者がいるのだ。
ライフワークは人生100年時代の最善の生存戦略である(その2)
ライフワークの話。
先日亡くなられたアメリカのビジネス有名人、『ザッポス』CEOのトニー・シェイはビジネス・ネットワークづくりのためのイベントが嫌いだという。日本だと名刺交換会みたいな、ビジネスチャンスを得るためのイベントは極力出ないらしい。
その上で、トニー・シェイはこう言う。
〈その代わり、相手のビジネス界での地位にかかわらず、さらにビジネスに携わっている人でなくても、私はその相手と人間関係を持ち、人として知ろうとすることに焦点を当てています。〉(トニー・シェイ『ザッポス伝説』ダイヤモンド社 2010年 p.142)
トニー・シェイはこう続ける。
〈何かを獲得しようとするのではなく、友情を築くために、あなたが知り合った人に対してどうすれば心から関心を寄せられるかを見出すことができれば、おかしなもので、いつか将来、ビジネスかプライベートでほぼ確実に何か恩恵を受けるものです。
どうしてそういうことが起きるのか、なぜうまくいくのかは実のところわかりませんが、その人を個人的に知ることで何か得るものがあるのは、たいてい付き合い始めて二、三年後です。〉(上掲書 p.143)
ライスワークもライフワークも、ついでに言えばライクワークも、遂行していくうちに何かしら人づきあいというものが関与してくる。
深いところで人づきあいから互いに何かを与え合うようになるには(トニー・シェイが正しいならば)、少なくとも二、三年はかかることになる。
四半期ごとの成果を求められたり、数年ごとに配置転換や人事異動があるライスワークでは、友情を保ちつつギブ・アンド・テイクの関係を作るには限界があるのではないか。
だからライフワークを持ち、じっくり人づきあいしながら生涯にわたって何かに取り組むほうが、良い成果が上がることもあるのではなかろうか。
蛇足だが、数年ごとに配置転換や人事異動がある日本の官公庁や銀行は、ベンチャー企業との付き合いやベンチャー投資に向かない仕組みではないかと思う。
Every body’s businesses is Nobody’s business,集団責任は無責任、ということもあるが、起業家の人となりを見据えて投資する/投資させてもらうベンチャー投資では長い付き合いの後に起業家を見極め、起業家や協力者と信頼関係を築く必要があるはずだからだ。
トニー・シェイのいう二、三年が経ってさあこれからというときに「ぼく、今度人事異動で担当かわりますので」というのを繰り返してしまうのが日本の官庁や銀行の仕組みのように見える。日本の官公庁や銀行での数年単位の配置転換の仕組みなどは、特定の業界や企業との癒着を減らし、メンバーが業務全体を把握できるというメリットもあるのだろう。まあ何ごとにもメリットデメリットがありますね。よう知らんけど。
さて、唐突だが、「カレーの早川くん」をご存知だろうか。
おそらく知らない方のほうが多いと思う。
アラフォー、アラフィフホイホイなB級グルメ漫画『めしばな刑事タチバナ』(坂戸佐兵衛・作、旅井とり・画 徳間書店)の超脇役である。
カレーの早川くんは、カレーを食べることこそがライフワークの人で、ありとあらゆるカレーを食べ続けているがゆえに“達人”の風格を身につけている。その風格のために、初めて入ったカレー屋ですらインド人店主に常連と勘違いされ「いつもどうも」と目で挨拶されたり、勝手にラッシーをサービスされたりする。
日本中のカレーを味わい尽くすことが早川くんのライフワークなので、毎秋には全国各地の大学祭のカレーを食べ歩くため会社を辞めたりすらする(13巻 p.23-24)。
まさにライフワークのためにライスワークも犠牲にする男なのだ。カレーの早川くんにとって、ライフワークこそが自分の存在理由であり、ライフワークに取り組み続けたからこそ誰も真似できない高みに到達したのである。
現実世界でもライフワークに取り組み続けて高みに到達した人というのは数多くいる。
瀧本哲史『戦略がすべて』(新潮社 2015年)の中に、地方議員について書かれたこんな一節がある。
〈幾つかの公共政策に関して学生が草の根のロビー活動を行うという自主ゼミの顧問を私は務めているが、最近その過程で、地方議員の思わぬ面を見ることができた。実は先進的な政策を実現することに対して最も熱心なのは、地方議員なのだ。〉(p.238-239)
〈たとえば、ある防災問題に一貫して取り組んできた地方議員がいる。しかしながら、防災問題は、地方行政だけで対応することはできない。そこで、その議員はもともと政党職員だったことを利用して、国会議員の中に防災問題に関心のある議員のネットワークを作ることに成功した。
結果、防災問題に関して、国会議員に直接陳情するよりも、この地方議員に陳情したほうが効果があるというほど重要な役割を担うようになった。〉(p.240)
防災問題をライフワークとして取り組み続けたゆえに、唯一無二の存在となったわけである。
ほかにも、日米関係をライフワークと自ら定め、野党時代から定期的に訪米し米国の政治家やシンクタンクと関係を築き、政権交代した際にそのネットワークを活かした国会議員もいる。
あるいは日露関係や北方領土問題をライフワークとして、(功罪・賛否はあるにせよ)やはり唯一無二の存在となった鈴木宗男氏のような人もいる。
「外交は票にならない」と政治業界では言うそうだ。しかしこうした人たちは、ライスワークとして政治家を見たときには短期的には役に立ちづらそうな防災や外交を「俺がやる」とライフワークとして定めたからこそ、高みに到達したわけである。
日々の糧であるライスワークに忙殺されながらも、何かしらライフワークを持つべきではないかと思う所以である。
それはそれとして、今日の昼ごはんはタイカレーにしようかインドカレーにしようか悩むところだ。
〈二一世紀には、人間は不死を目指して真剣に努力する見込みが高い。〉(ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』河出書房新社2018年 p.33)
同書によればグーグルなどの大企業が「死を解決すること」を使命とするスタートアップ企業に投資しているという(上掲書p.36-37。漫画『インベスターZ』にもそんな話が出てきましたね)。
いつどういう形で「不死」が実現するのか、そもそも人間がそんなことを成し遂げてよいのかはわからないが、最低限言えることは、様々な寿命延伸技術が上記の研究が生まれてくるだろうということだ。
リンダ・グラットン他『LIFE SHIFT』が人生100年時代にどう生きるかを世に問いかけたのは記憶に新しい。
『LIFE SHIFT』の参考文献の一つ、マックス・プランク協会レポート『老いの探求』によれば、先進国では過去160年間に、平均寿命は年平均3ヶ月ずつ伸びているという。
我々は、不死とはいかないがえらいこと長生きする、あるいは長生きしてしまう可能性があるわけである。
かつてないほど人類が長生きしたときに何が起こるだろうか。
おそらく、人生に“飽きる”のではないかと思う。
藤子・F・不二雄『21エモン』では、銀河系最高レベルの科学文明の星、ボタンポン星では人間は、死なない。
で、死ななくなったボタンポン星人は最終的に何をするか。
ベルトコンベヤーに乗って、0次元に旅立つのだ。
0次元では、全ての存在が消滅する。
死なないなんて素晴らしい、と言われたボタンポン星人はこういう。
「なにがすばらしいもんか!二千年も生きたらあきあきしちゃうよ」
不死も当面無理だし、二千年も生きないだろうが、我々は前人未到の長生き時代にいるのは間違いない。
その長い長〜い人生を、アイデンティティクライシスを回避し、すり減らず飽きずに楽しく生き抜くために、目先の状況に左右されずに長く取り組めるようなライフワークを持つのはとても大事ではないかと思うわけである。
ひとまずライフワークの話のまとめ。
〈生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ〉(谷川俊太郎『生きる』より抜粋)
山あり谷あり、長い長ーい人生を送る上で、生きる糧を得る仕事・ライスワークと別でもいいから、自分のレゾン・デートル、存在理由となるような仕事・ライフワークを持つとよいのではないかと考えた。
他者の評価や外部の状況に左右されず、ただ淡々と己の喜びのためにだけ積み上げていく仕事。
放っておけば人生は、日々の慌ただしい生活の鋭い顎に持って生まれたいのちの塊をガリガリガリとかじりとられて終わってしまう。
人生に味わわれるのではなく、人生を味わうための仕事、そんなものがライフワークやライフテーマではないかと思う。
ミシンの機械についている、各メーカーのエンブレムマークを集めるのがライフワークだった者がいた。
世界中のミシンメーカーのありとあらゆるエンブレムマークのコレクションは、他人には無用なものだしぼくも要らないが、それでもなお、ぼくには尊くて神々しいものに見える。
彼か彼女かのコレクションは未完成だっただろうけれども、ミシンメーカーのエンブレムマークを集め続けるというライフワークを持ったことで彼か彼女かの人生は、充実したものとなったことだろう。
人生は、ライフワークを持たずに過ごすには長すぎるが、ライフワークを持って過ごすには短すぎる。
かくのごとく、ライフワークやライフテーマの中身はなんだってよい。生きている途中で、やっぱり違うとなれば変えてもいい。
大事なのは、自分のライフワークはこれだと思い定めることで人生に意味が与えられ、一つの芯を持って日々を送れるということだ。
自分語りで恥ずかしいが、ぼく自身のライフワーク、ライフテーマは「生きる」ということに定めている。
「生きる」について問い、「生きる」について情報を集め、「生きる」について考え、「生きる」について行動する。
何かを書きたくなったら沢尻エリカより「生きる」を優先して文章のテーマとする。
だからもしぼくが、深夜の公園のブランコに乗って「命短し 恋せよ乙女」と歌っていたら、「なるほど一生懸命ライフワークに勤しんでいるのだな」と思って生温かい目で見守っていただければ幸いである。志村喬か。
ライフワークは人生100年時代の最善の生存戦略である(その1)

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ライフワーク、ライスワーク、ライクワーク
「ぼくね、人間にはライフワークとライスワークがあると思うんですよね。人生を通して取り組むのがライフワーク。んで、ごはんを食べるためにやるのがライスワーク。ダジャレですけど。あと、好きだからやるっていうライクワークもあるかな。
ライフワークとライスワーク、それからライクワークも、一致してればいいけど一致してなくてもいい。ライスワークやりながらごはん食べて、じっくりのんびりライフワークに取り組んだってええんやないかと思うんですわ」
そんなことを聞いたのは、大阪の淀川を行く屋形船の上であった。
<エリック・エリクソンは、人間のライフサイクルの最後の段階は「統合」を達成すること、つまり人生の過程で成し遂げてきたことや達成できなかったことを、自分自身のものとして主張できる意味のある物語として結び合わせることを含んでいると考えた。>(M.チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』世界思想社 1996年 p.166)
人生は前半で“発散”し、後半で“収束”する。
7、8年前まで大学生だったつもりでも(ほんとにそんな感覚なんです)、すでに47歳になってしまった。仮に「人生100年時代」が本当だとしても、現在47歳のぼくは、“収束”のフェイズに入りつつあることになる。マンマ・ミーア。
40歳を越えたころから人生の有限性を体感するようになった。
何でもかんでも首を突っ込むのもいいけど、その場合、あちこち駆けずり回ってすり減って、結局なんにも形にならないということにもなりかねない。
何かワンテーマに我が有限なる時間と気力を振り分けて、ライフワークとしてやっていったほうがよいのではないかなと思っている次第である。
ライフワークやライフテーマを持って生きている人は、強い。
ごはんを食べていくライスワークで右往左往し前進後退を繰り返しながらも、ライフワークやライフテーマがあれば人生の「軸」や「芯」や「プリンシプル」が持てるので、一貫した人生を送れる。
もしライフワークとライスワークが一致すればそれは最高だが、そうでなくてもライスワークで生活の糧を得ながらライフワークを少しずつやっていけば、迷い少なく楽しく生きていけるのではないだろうか。
ほら、オタクやマニアやコレクターって、楽しそうじゃないですか。
人生100年時代の、仕事
〈こころよく 我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて 死なむと思う〉(石川啄木)
死ぬ気もないし死にたいとも思わないが、仕事にもいろいろある。
生きる糧を得るための仕事や行きがかり上やらざるを得ない仕事もあれば、生きていく気力を与えてくれる仕事もある。
生きる糧を得るための仕事と生きがいになる仕事が一致すれば素晴らしい職業人生だが、一致しなくても構わない。
生きる糧を得るための仕事をライスワーク、生きがいになる仕事をライフワークと呼んで、そんなことを教えてくれたのは大阪の街づくりをライフワークにしている人だった。
歴史を振り返るとライスワークとライフワークが別だった人というのはたくさんいる。
遺跡発掘をライフワークとし、そのための費用を稼ぐために実業を行なったシュリーマン(諸説あり)もいれば、若くしてライフワークとなる(はずだった)詩作に出会いながらも、その後(後世の人からみれば、だが)ライスワーク中心の人生に移ったランボー。
アインシュタインは特許庁の仕事をしながらライフワークである物理学の論文を書いていた。
近年でもリーナス・トーバルズはライフワークであるLinuxの開発マネジメントを生きる糧を得るライスワークとは分けて行なった。
ライスワークしながらライフワークを行なった人は何も偉人ばかりではない。
淡々と日々の仕事をこなしながら郷土の歴史を調べてまとめ、後世に残すような地域の知識人は古今東西たくさんいるし、そうした人たちが積み重ねた郷土史は歴史家たちにとって宝石のように貴重なものになったりする。
だから、生きる糧を得るライスワークと生きる目的となるライフワークが全然別でも構わない。
実際に、前述のランボーなどは振れ幅が大きい人生で、ライフワークである詩人を卒業した後は骨太な実業家として生き、それでも飽き足らず常人離れしたトレーニングののちに筋骨隆々としたベトナム帰りの軍人として敵を倒しまくった。ウソですけども。
中年クライシス
中年クライシス、ミドルエイジクライシスというものがある。
人生の中年期や、現役引退期に襲ってくるもので、突如として「いったい自分は今まで何をしてきたのだろう」「自分がやりたかったことっていったい何なのだろう」「自分とはいったい何者なのだろう」という思いにとらわれる、自己一体感の悩みだ。「ああお前はなにをしてきたのだ…」と吹き来る風に問われるひとときが、中也ならずとも人生にはあるのだ。ゆやんゆよん。
クライシスというくらいなので、中年クライシスとは劇的かつ深刻なものとなることがある。
河合隼雄は中年クライシスの相談にくる人についてこう書いている。
<これらの多くの人は大なり小なり抑うつ症的な傾向に悩まされる。今まで面白かった仕事にまったく興味を失ってしまう。あるいは、何もする気がしなくなる。そして、重いときには自殺の可能性さえ出てくる。>(河合隼雄『中年クライシス』朝日新聞社 1993年 p.9)
中年クライシス、ミドルエイジクライシスは一言で言えばアイデンティティが揺らぐときである。アイデンティティとは自己同一性だ。自分が今まで自分自身であり、今このときも自分自身であり、これからもまた自分自身であり続けるという確信こそが、自分という存在の安心感のキモなのだから、それが揺らぐのはさぞ恐ろしいことだろう。
アイデンティティの構成要素の中に、「自分は何をしていた/いる人か」というものがある。一貫したアイデンティティを保つためには一貫したワークを持つのが有用だ。
それこそがライフワークだ。ライフワークを持つことは、人生100年時代を乗り切る最善の生存戦略なのだ。
ライフワークとライスワークを分けることは、時として有効な生存戦略となる
生存戦略としてライフワークをみたときに、生きる目的であるライフワークと生きる糧を得るライスワークが別であることは、時にプラスに働くことがある。
ライフワークとライスワークが一致すれば幸せな職業人生であるのは間違いない。
だが、ライスワークは構造的に外部依存的であり、自己コントロールが利かない部分がある。
非常に現実的な話をする。
ライスワークでは、生きる糧である報酬や評価は自分以外の外部からもたらされる。
どれだけ良い仕事をしても、自己以外の外部が評価してくれなければ報酬は得られずごはんが食べられない。
想像していただければわかるが、一次産業だろうが二次産業だろうが三次産業だろうがそれは同じだ。
また、金銭的報酬以外でも、政治分野であれば選挙に落ちたり政争に敗れればライスワークとしての仕事を手放さなければならない。
会社だって配置転換や人事移動があるし、景気という外部条件でライスワークとしての仕事が失われることもある。
いわゆる「土地持ち」で不動産収入で食っている人でも、人口減少社会では店子も減るし、天災や戦争で全てを失うこともある。
報酬や境遇が外部事情により左右されるライスワークでは、自己コントロールできない部分が、度合いの差はあれど残ってしまう(現実問題としては、その自己コントロール率の多い少ないの度合いこそが重要なのだが)。
アイデンティティの根幹をライスワークに求めることの危険性はかくのごとくであり、ライスワークと別にライフワークを持つメリットはここにある。
ライスワークは外部依存的であるがゆえに時に脆弱である。
生きる糧を得るライスワークの外部依存性をほぼゼロにするには、究極的には光合成でもしながら生きるしかない。
というわけで、ちょっと葉緑素を移植してくる。
(続く)
コロナワクチン準備中~私を月まで連れてって。
(photoACより)
(*)・・・ケネディ大統領の話、ググるとジョンソン大統領バージョンもありますね。ザッカーバーグもスピーチのネタにしていた。
clubhouseと「タバコ部屋」、そしてコロナ以後。
コロナ禍で今までと同じように直接会って話したり、それこそ飲み会でしゃべったりするのが難しい。でも人間は誰かとしゃべりたい生き物で、そこを埋めるツールなのかなという仮説を立てたのだ。
いいとこどりはできない。
ドリフとツヨシとエナドリと。 コロナ禍1年
SNSの「1年前の投稿」表示が、新型コロナのパンデミックが世界に影響を及ぼしてから一年が経過したことを告げた。1年前、友人I氏が猛烈な勢いで警鐘を鳴らしていて、中国発のニュースを片端から訳してシェアし、「世界的な感染爆発が起きるかもしれない!」と教えてくれていた。
正直、はじめのうちはぼくを含めた日本(というか世界といっていいだろう)は新型コロナ爆発の恐ろしさに全く気づいていなかった。
「世界にはまだまだ未知の感染症があるんだなあ。中国の人は大変だ」くらいの温度感だった。己の不明を恥じるばかりである。
コロナ感染爆発から1年も経ったというべきか、1年しか経っていないというべきか。本当に、新型コロナが全てを変えてしまった。
2021年1月21日時点で、世界中でのコロナによる死亡者は207万人を超えたという。そのそれぞれに家族がいて友人がいて、どれだけ多くの苦しみがあり、どれだけ多くの涙が流されたことか。
https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/coronavirus-world-map/
経済の大打撃もしんどい。銀座の一等地の商業ビルでさえ、閉店や休業が相次ぐ。
https://ginza6.tokyo/news/76177
先が見えない状況が続く。
新しいウイルスが見つかってたったの一年でワクチンが完成し接種が始まっているのはまさに人類の叡智で、驚嘆すべきスピードだ。一日も早くワクチンを打ちたいと願うばかりだが、早くも反ワクチンの言説が世に現れ始めた。人類の叡智と、救い難さとを今日も同時に目の当たりにする。
コロナ疲れを体の芯に感じながら、それでも今日も日は昇る。
you know,「息の仕方を覚えてるだけで奇跡だぜ」。
TVショウを観ると年末年始も人出は多かったようだし、これだけ「密」を避けようといっているのに成人式を行った自治体もある。「密」ができればコロナ爆増する。結果、普段なら助かるはずの命も失われている。
気疲れと虚しさでちょっとしんどくなって、昔のことを思い出すことも多い。
動画サイトで子どものころ見たドリフターズの歌を漁ったり、自分が中学・高校生だった80年代~90年代の長渕剛の昔のCDなんか取り寄せてみて聴いたりなんかしている。今まで飲むことのなかったエナジードリンクを飲んでみたりもする。どうやら我ながら元気いっぱいというわけではなさそうだ。

全面的に、後ろ向きな気分にとらわれている。だが、生き抜くことが、生き抜くことだけが大事で、あとは些事だ。だから、後ろ向きになってもいいことにしよう。
ピアニストが出てくる映画を観たことがある。映画のラストシーンをいつも思い出す。
映画の最後に主人公はたしかこう言っていた。
「well,well,well,life goes on…」。人生は続く。
コロナ禍にエンドマークは出ず、マスクとソーシャルディスタンスの日常は続いていく。Life goes on.
とある街場の感染対策ーコロナ禍の医療機関
平成4年卒の高橋宏和です。ふだんは生まれ故郷の千葉県で『中條医院』(船橋市)という内科・神経内科のクリニックを運営しています。
12月13日(日曜)は中條医院で日曜診療を行いました。

2020年コロナ禍の年の、とある街場の医療機関の日曜日の様子を日記風にお送りします。
【朝7時30分】











公助の話~公助は魔法ではないが魔法使いを生んだ。
公助の話の続き。
すべての文章はなんらかの意図を持って書かれている。
この話は、「公助なんて甘え。自助こそ至高」という考えの人が、ちょっとだけ考えを変えてくれることを意図して書かれている。そうした自助派の人は少なくないが、そうした人たちが「やっぱり自助は必要だけど、共助・公助もあったほうがいいかもね」というふうに思想的な冒険をしてくれることを狙っている。題して『自助の奇妙な冒険』。すみませんでした。ゴゴゴゴゴゴ。
さて、「適切に運用された場合」、公助システムは個人と国家にとって、効率的なものとなる。
前述の人物像をターゲットに、響きそうな比喩を用いる。
一個人が自助のみにて犯罪から身を守る状況を想定してみる。
犯罪者がいつ何時、自らに襲いかかってくるかわからないから、格闘技の達人になるまで修行する必要がある。あるいはボディーガードを雇う手もある。24時間365日ボディーガードをつけるなら、相当な出費を覚悟しなければならない。
自宅には高い塀をつけ、近隣にも山ほど監視カメラをつけよう。
万が一、泥棒に入られたら、自分自身で捜査を進め、犯人を見つけ出す。やられたらやりかえさなければならないから、個人経営の私設刑務所も建てよう。
思考実験として、自助だけで犯罪から身を守る状況を考えてみた。とてもではないがやっていられない。
時間的金銭的コストは莫大なものとなり、自助だけではやっていられないからみんなで税金出し合って警察だの検察だのの公助システムを使っている。
「外からの敵」、犯罪から身を守るには、自助とともに公助システムがあったほうが効率的であるということを論じた。
さて、「内からの敵」、老いや病いから身を守る場合はどうか。
自助のみで病気から身を守るには、無数の病気について学ばなければならない。自分自身の手で山から薬草をとってきて薬を精製し、内臓に悪いところがあれば自分自身で麻酔をかけ、自分自身で手術する。仁やブラックジャックでもあるまいし、そんなのは無理だ。
自助だけでは到底まかなえないから、医療や福祉などの共助・公助システムがあるわけである。
言ってみれば共助・公助システムというのは、生身でか弱い個人を陰ながら守る「スタンド」みたいなものなのだ。「外からの敵」=犯罪や戦争、「内からの敵」=病いや老い、から自助のみで身を守るには、一個人というのは、貧弱貧弱ゥなものなのである。
…ちょっとなに言ってるかわからない。もちろん、公助は魔法ではないから、すべての人をすべての災厄から守ることはできない。
違う話をしてみたい。
あなたの目の前に、一人の女性が座っていると想像してほしい。
名前はジョアン。28歳のシングルマザーだ。パートナーと別れ、住む家もない。
彼女は子どもの頃から空想好きで、いろいろ楽しい話を考えるのが得意だという。今は仕事にあぶれて貧しいけれど、いつか小説を書いて人生を逆転させると言っている。
だから申し訳ないけれど、今月の生活費を69ポンドほど出してくれないだろうか、そうジョアンは言う。
あなたなら、夢見る自称小説家のジョアンに69ポンド出すだろうか。
出すわけがない?同情はするけれど、彼女の貧困は彼女の問題で、売れない小説なんか書いてないで、フィッシュ&チップスでも売って自助でなんとかしろって?
あなたはそう言って彼女を追い払うかもしれない。ジョアンはトボトボと歩いて家に帰り、絶望的な気持ちで原稿用紙を破り捨て、フィッシュ&チップス屋にバイトの面接に行った。彼女が筆を取ることは生涯二度となく、
そして、
人類は『ハリーポッター』の物語を読むことはなかった。永遠に。
ジョアンのペンネームはJ・K・ローリング。
実際にはジョアンはイギリスの生活保護をうけて「ハリーポッター」を書き上げ、シリーズは世界中で計4億部(!)売れた。
もちろんJ・K・ローリングは、例外事象だ。
だがイギリスに生活保護などの公助システムが無かったら『ハリーポッター』シリーズは生まれなかった。『ハリーポッター』シリーズの本や映画は人類を豊かにしたし、出版や映画、物品販売にイギリスのイメージアップなどなど、『ハリーポッター』関連で有形無形の財産を築いた人は無数にいる。そう考えるとイギリスは『ハリーポッター』を生んだだけで生活保護予算のモトは取ったんじゃなかろうか。ぼくもUSJにどれだけ貢いだか…。
ま、公助にはそんな面もある、というくらいの話だ。
公助は魔法ではないが、魔法使いを生んだ。

しつこいが、一連の話は、「自助サイコー!共助・公助は無駄無駄無駄ァっっ!」という人を想定して書いている。このため提示する話に偏りがある。
共助・公助というものは、「適切に運用されれば」、個人と国家にとって効率的なものになる。大数の法則が働き、個人が生きていく上での生涯に渡るリスクとコストを平均化できるからだ。
人間の一生を考えると、人生のはじめの10数年はどうしても自分で稼ぐインカムより、生存に必要なコストのほうが高い(マコーレカルキンや芦田愛菜なら別だが)。文字通りの「自助」だけでははじめの10数年は生き抜けず、親の庇護という「共助」や、保育や公教育という「公助」に助けられて成長する。
10数歳〜20代で人間は社会参加し働いてインカムを得ることが出来る。そこからの3、40年は一般に、「共助」「公助」の仕組みから得るものより、保険料・年金・税金あるいは子どもたちの教育費などの「共助」「公助」への出費のほうが多い。
だがこの生産年齢時代でも、病気やケガ、事故や破産などの人生リスクはある。
そうして人生を送り、6、70代を迎えると、年金を受け取り介護のお世話になる。この時期は幼少期と同じく「共助」「公助」からの恩恵が大きくなる。
幼少期と引退期のコストを完全に「自助」だけでやるのは困難だ。だから「共助」「公助」があるわけだ。
また、前述の通り病気やケガ、事故や破産といったリスクは確率の問題でいつ我が身に降りかかるかわからない。
一個人の人生で病気がいつ起こるかを予測するのは無理だが、個人をたくさん集めて集団化して統計を取ると、集団の中で年に何人くらい病気になるかは分かる。
だから集団から少しずつお金を集めて備えておけば、集団として戦略的に生存できる。これの最大のものが「公助」だ。
このように「公助」というものは「適切に運用されれば」大変によいものとなる。
しかしながら世界をぐるっと見回せば、そこには親切重税国家から冷淡軽税国家まで「自助」「共助」「公助」のバランスの取り方は様々だ。
要は、どれくらいの割合の「公助」が適切か、どの分野に重点的に配分すべきかは、まだ絶対的な答えはない。というよりは国や社会、時代によってベストバランスはどんどん変わる、というのが本当のところ。
「自助」「共助」「公助」はいずれも必要だ。だがどれくらいのバランスが適切かは、究極的には国民が決める。その意思表示をすることはとてもとても大事なので、とりあえず選挙には行っておきたい。自助であれ共助であれ公助であれ、良い国を作るのは国民なのだ。
「国家の価値とは、長い目で見れば、その国を構成している一人ひとりの価値にほかならない」
ージョン・スチュアート・ミル
(カエル先生・高橋宏和ブログ 2019年7月8日を加筆・修正https://www.hirokatz.jp/entry/2019/07/08/133817 )












