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なぜあんな立派な人がコロナやワクチンの陰謀論にハマるのか~複雑な世界を理解するときの落とし穴(1)

高橋宏和(H4卒)
date:2021/7/15

(photoACより)


人間社会は複雑さを増すばかりだが、個としての人間はその複雑さをそのまま情報処理できるほど賢くない。そんな話をユヴァル・ノア・ハラリが書いている(『21Lessons』河出書房新書 2019年 16章「正義」)。
個体としての人間が情報処理できる関係性はせいぜい部族単位くらいまでで、それ以上の人数の関係性となるとお手上げだとハラリはいう。
人間が安定的な社会関係を保てる人数の上限をダンパー数(Dunbar’s number)と呼び、提唱者ロビン・ダンパーはその数を150人と見積もった。
Facebookでは「友達」として登録できる人数を5000人としている。やはり個人としての人間が関係性を把握できる人数に上限があるはずだという考えに基づいているのだろう。
 
この話の進行方向としては二つある。
一つめは、関係性の把握できる、安定した社会的関係性を保てる人数には有限だからこそ「正しい相手」を選んで付き合わなければならない、というゴールだ。この方向の話ならば「スモールワールド理論」やそれにインスパイアされたであろう映画『私に近い6人の他人(Six degrees of Separation)』(ウィル・スミス主演)を引用しつつ進むことになる。
もう一つは、理解できない複雑な社会の中で、我々個としての人間はどのように関係性を情報処理してるか、という話である。
今回は後者の方向性で話を進めたい。
 
さて、情報処理できないボリュームの関係性の中で人々はいかに関係性を情報処理しているか。
ハラリが正しければ、その方法は4つ。
 
①関係性のダウンサイジング 国同士の争いや内戦を、例えば敵の親玉と味方の親玉2人の対立として捉える。国際関係でいえば、例えば米中両国の対立と協働を、大統領個人と主席個人の対立と協働としてダウンサイズして理解する。
②複雑な関係性の中の、人間ドラマに注目 例えば格差や貧困、そしてその克服という構造的問題を、その中に生きる人の人間ドラマとして理解する。
③陰謀論 複雑な関係性をそのまま理解することが困難なので、モノゴトは誰かの陰謀として動いていると解釈する。グローバル経済はユダヤの陰謀だと言い出したり、ワクチンは大富豪の陰謀だと言い出したりする。
④政治的なドグマや宗教的な信条に身を委ねる 現実が複雑過ぎるゆえ、誰かが提供する強固な教義に従い世界を捉える。
 
最も大事なのは生き抜くこと、生きのびることなので(盲目的な生存への意志というのは生物の本質だと思うので、ここには疑いを挟まないこととする)、どのような方法をとって複雑な現代社会を理解しようと構わないが、ここにもまた落とし穴がある。

複雑な現代社会を生きる個としての人間が、世界を理解する上で上記の4つの方法を取りがちだということを悪用する者がいるのだ。

コロナ禍の中で特に目にすることがあるのが陰謀論だ。
なぜあんなに社会的地位がある人が、という人が得々と陰謀論を語ることがある(退職した部長さんとか)。
あるいは立派な大学に通っている大学生が過激な政治思想やカルト宗教のドグマに絡みとられることがある。
いずれも周囲は「なぜあんなに賢い人が」と不思議に思うが、ある意味で賢いからこそ陰謀論やドグマにはまるとも言える。
 
複雑な世界を複雑なまま理解することは、人間には許されていない。
それでもなお「わからない世界をわかりたい」という人間が、わからない世界をわかる(わかったような気になる)経路として、陰謀論という経路や強烈なドグマを通した世界理解という経路がある。
「わからない世界をわからないままにしたくない」というのが学びのモチベーションであるが、「わからない世界をわからないままにしたくない」という賢い人だからこそ、陰謀論やドグマにはまりこんでしまうのだ。
「わからない世界はわからないままでいいや」という人は、陰謀論やドグマとは無縁のまま、現世を楽しむのだ。
 
人間はまた、どっちつかずで白黒つかない『宙ぶらりん』の状況には耐えがたい。陰謀論やドグマに頼ってでも、「わからない」状態を「わかった」状態にしたいのだ。『宙ぶらりん』に耐えるには相当な知的スタミナが要る。
わからないことをわからないまま、それでもなおわかろうとするのが専門家である。
人間の脳みそのキャパでは、複雑な世界を複雑なまま理解することはできない、という話をしている。
大事な話だから繰り返すが、ハラリが正しければ人間は下記の方法でこの複雑な世界を理解しようとしがちだ。
 
①関係性のダウンサイジング
②関係性の中の人間ドラマに注目
③陰謀論
④ドグマやイデオロギーにのっとった理解
 
これらは無意識に行われるので、意図をもってそこにつけ込む人も出てくる。
 
たとえば湾岸戦争のときには油にまみれた海鳥を用意したり、15歳の少女をどこからか連れてきて人権委員会で涙ながらに証言させて世論形成を図った者がいた。ここらへんは上記②の心理につけ込んだ動きだといえよう。
あるいは「悪の枢軸」というレッテル貼りは③、「自由主義社会を守るための戦争」みたいなものは④につけ込んだプロパガンダともいえる。
何ものかのアピールによって自分の感情が過度に動かされたり、あるいは自分の世界理解が影響を受けそうになったら、一歩立ち止まって、どの手法が使われているか考えるとよい。
相手の使う手法をわかったうえでその話に乗るもよし、乗らぬもよし、そこはas you likeだが、無意識に他者の手法に振り回されるのもシャクだろう。
ぼく自身はあまりそうした手法を使うのを好まないが、あるいは上記①〜④の手法を使って他者に影響を与えることも出来る。
 
複雑に絡まった利害関係やしがらみを解きほぐして逐一説明し説得するより「あの組織のトップに一泡吹かせよう!」と仲間を鼓舞するほうが楽(手法①と②)だったりするし、格差と貧困みたいな話も構造的な話を延々とするより「こんなかわいそうな話があるんです!これをなんとかしなきゃ!」(手法②)とやったほうが人の心が動く。
陰謀論やドグマ、イデオロギーを振り回す人には近づきたくないが、斎藤幸平氏流にいえばSDGsだって④の手法といえる(「脱成長コミュニズム」もまた④だが)。
 
最低限いえるのは知らず知らずに誰かのカモにされるのは避けたいよねということで、そのためにはカモる側の手口を知っておく必要がある。
〈ゲームが始まって30分経って誰がカモか分からなければ、お前がカモだ。〉
(続く)

ライフワークは人生100年時代の最善の生存戦略である(その2)

高橋宏和(H4卒)
date:2021/5/17

ライフワークの話。

先日亡くなられたアメリカのビジネス有名人、『ザッポス』CEOのトニー・シェイはビジネス・ネットワークづくりのためのイベントが嫌いだという。日本だと名刺交換会みたいな、ビジネスチャンスを得るためのイベントは極力出ないらしい。

その上で、トニー・シェイはこう言う。

〈その代わり、相手のビジネス界での地位にかかわらず、さらにビジネスに携わっている人でなくても、私はその相手と人間関係を持ち、人として知ろうとすることに焦点を当てています。〉(トニー・シェイ『ザッポス伝説』ダイヤモンド社 2010年 p.142)

トニー・シェイはこう続ける。

〈何かを獲得しようとするのではなく、友情を築くために、あなたが知り合った人に対してどうすれば心から関心を寄せられるかを見出すことができれば、おかしなもので、いつか将来、ビジネスかプライベートでほぼ確実に何か恩恵を受けるものです。

どうしてそういうことが起きるのか、なぜうまくいくのかは実のところわかりませんが、その人を個人的に知ることで何か得るものがあるのは、たいてい付き合い始めて二、三年後です。〉(上掲書 p.143)

ライスワークもライフワークも、ついでに言えばライクワークも、遂行していくうちに何かしら人づきあいというものが関与してくる。

深いところで人づきあいから互いに何かを与え合うようになるには(トニー・シェイが正しいならば)、少なくとも二、三年はかかることになる。

四半期ごとの成果を求められたり、数年ごとに配置転換や人事異動があるライスワークでは、友情を保ちつつギブ・アンド・テイクの関係を作るには限界があるのではないか。

だからライフワークを持ち、じっくり人づきあいしながら生涯にわたって何かに取り組むほうが、良い成果が上がることもあるのではなかろうか。

蛇足だが、数年ごとに配置転換や人事異動がある日本の官公庁や銀行は、ベンチャー企業との付き合いやベンチャー投資に向かない仕組みではないかと思う。

Every body’s businesses is Nobody’s business,集団責任は無責任、ということもあるが、起業家の人となりを見据えて投資する/投資させてもらうベンチャー投資では長い付き合いの後に起業家を見極め、起業家や協力者と信頼関係を築く必要があるはずだからだ。

トニー・シェイのいう二、三年が経ってさあこれからというときに「ぼく、今度人事異動で担当かわりますので」というのを繰り返してしまうのが日本の官庁や銀行の仕組みのように見える。日本の官公庁や銀行での数年単位の配置転換の仕組みなどは、特定の業界や企業との癒着を減らし、メンバーが業務全体を把握できるというメリットもあるのだろう。まあ何ごとにもメリットデメリットがありますね。よう知らんけど。



さて、唐突だが、「カレーの早川くん」をご存知だろうか。

おそらく知らない方のほうが多いと思う。

アラフォー、アラフィフホイホイなB級グルメ漫画『めしばな刑事タチバナ』(坂戸佐兵衛・作、旅井とり・画 徳間書店)の超脇役である。

カレーの早川くんは、カレーを食べることこそがライフワークの人で、ありとあらゆるカレーを食べ続けているがゆえに“達人”の風格を身につけている。その風格のために、初めて入ったカレー屋ですらインド人店主に常連と勘違いされ「いつもどうも」と目で挨拶されたり、勝手にラッシーをサービスされたりする。

日本中のカレーを味わい尽くすことが早川くんのライフワークなので、毎秋には全国各地の大学祭のカレーを食べ歩くため会社を辞めたりすらする(13巻 p.23-24)。

まさにライフワークのためにライスワークも犠牲にする男なのだ。カレーの早川くんにとって、ライフワークこそが自分の存在理由であり、ライフワークに取り組み続けたからこそ誰も真似できない高みに到達したのである。

現実世界でもライフワークに取り組み続けて高みに到達した人というのは数多くいる。

瀧本哲史『戦略がすべて』(新潮社 2015年)の中に、地方議員について書かれたこんな一節がある。

〈幾つかの公共政策に関して学生が草の根のロビー活動を行うという自主ゼミの顧問を私は務めているが、最近その過程で、地方議員の思わぬ面を見ることができた。実は先進的な政策を実現することに対して最も熱心なのは、地方議員なのだ。〉(p.238-239)

〈たとえば、ある防災問題に一貫して取り組んできた地方議員がいる。しかしながら、防災問題は、地方行政だけで対応することはできない。そこで、その議員はもともと政党職員だったことを利用して、国会議員の中に防災問題に関心のある議員のネットワークを作ることに成功した。

結果、防災問題に関して、国会議員に直接陳情するよりも、この地方議員に陳情したほうが効果があるというほど重要な役割を担うようになった。〉(p.240)

防災問題をライフワークとして取り組み続けたゆえに、唯一無二の存在となったわけである。

ほかにも、日米関係をライフワークと自ら定め、野党時代から定期的に訪米し米国の政治家やシンクタンクと関係を築き、政権交代した際にそのネットワークを活かした国会議員もいる。

あるいは日露関係や北方領土問題をライフワークとして、(功罪・賛否はあるにせよ)やはり唯一無二の存在となった鈴木宗男氏のような人もいる。

「外交は票にならない」と政治業界では言うそうだ。しかしこうした人たちは、ライスワークとして政治家を見たときには短期的には役に立ちづらそうな防災や外交を「俺がやる」とライフワークとして定めたからこそ、高みに到達したわけである。

日々の糧であるライスワークに忙殺されながらも、何かしらライフワークを持つべきではないかと思う所以である。

それはそれとして、今日の昼ごはんはタイカレーにしようかインドカレーにしようか悩むところだ。



〈二一世紀には、人間は不死を目指して真剣に努力する見込みが高い。〉(ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』河出書房新社2018年 p.33)

同書によればグーグルなどの大企業が「死を解決すること」を使命とするスタートアップ企業に投資しているという(上掲書p.36-37。漫画『インベスターZ』にもそんな話が出てきましたね)。

いつどういう形で「不死」が実現するのか、そもそも人間がそんなことを成し遂げてよいのかはわからないが、最低限言えることは、様々な寿命延伸技術が上記の研究が生まれてくるだろうということだ。

リンダ・グラットン他『LIFE SHIFT』が人生100年時代にどう生きるかを世に問いかけたのは記憶に新しい。

『LIFE SHIFT』の参考文献の一つ、マックス・プランク協会レポート『老いの探求』によれば、先進国では過去160年間に、平均寿命は年平均3ヶ月ずつ伸びているという。

我々は、不死とはいかないがえらいこと長生きする、あるいは長生きしてしまう可能性があるわけである。

かつてないほど人類が長生きしたときに何が起こるだろうか。

おそらく、人生に“飽きる”のではないかと思う。

藤子・F・不二雄『21エモン』では、銀河系最高レベルの科学文明の星、ボタンポン星では人間は、死なない。

で、死ななくなったボタンポン星人は最終的に何をするか。

ベルトコンベヤーに乗って、0次元に旅立つのだ。

0次元では、全ての存在が消滅する。

死なないなんて素晴らしい、と言われたボタンポン星人はこういう。

「なにがすばらしいもんか!二千年も生きたらあきあきしちゃうよ」

不死も当面無理だし、二千年も生きないだろうが、我々は前人未到の長生き時代にいるのは間違いない。

その長い長〜い人生を、アイデンティティクライシスを回避し、すり減らず飽きずに楽しく生き抜くために、目先の状況に左右されずに長く取り組めるようなライフワークを持つのはとても大事ではないかと思うわけである。

ひとまずライフワークの話のまとめ。

〈生きているということ

いま生きているということ

それはミニスカート

それはプラネタリウム

それはヨハン・シュトラウス

それはピカソ

すべての美しいものに出会うということ

そして

かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ

いま生きているということ

泣けるということ

笑えるということ

怒れるということ

自由ということ〉(谷川俊太郎『生きる』より抜粋)

山あり谷あり、長い長ーい人生を送る上で、生きる糧を得る仕事・ライスワークと別でもいいから、自分のレゾン・デートル、存在理由となるような仕事・ライフワークを持つとよいのではないかと考えた。

他者の評価や外部の状況に左右されず、ただ淡々と己の喜びのためにだけ積み上げていく仕事。

放っておけば人生は、日々の慌ただしい生活の鋭い顎に持って生まれたいのちの塊をガリガリガリとかじりとられて終わってしまう。

人生に味わわれるのではなく、人生を味わうための仕事、そんなものがライフワークやライフテーマではないかと思う。

ミシンの機械についている、各メーカーのエンブレムマークを集めるのがライフワークだった者がいた。

世界中のミシンメーカーのありとあらゆるエンブレムマークのコレクションは、他人には無用なものだしぼくも要らないが、それでもなお、ぼくには尊くて神々しいものに見える。

彼か彼女かのコレクションは未完成だっただろうけれども、ミシンメーカーのエンブレムマークを集め続けるというライフワークを持ったことで彼か彼女かの人生は、充実したものとなったことだろう。

人生は、ライフワークを持たずに過ごすには長すぎるが、ライフワークを持って過ごすには短すぎる。

かくのごとく、ライフワークやライフテーマの中身はなんだってよい。生きている途中で、やっぱり違うとなれば変えてもいい。

大事なのは、自分のライフワークはこれだと思い定めることで人生に意味が与えられ、一つの芯を持って日々を送れるということだ。

自分語りで恥ずかしいが、ぼく自身のライフワーク、ライフテーマは「生きる」ということに定めている。

「生きる」について問い、「生きる」について情報を集め、「生きる」について考え、「生きる」について行動する。

何かを書きたくなったら沢尻エリカより「生きる」を優先して文章のテーマとする。

だからもしぼくが、深夜の公園のブランコに乗って「命短し 恋せよ乙女」と歌っていたら、「なるほど一生懸命ライフワークに勤しんでいるのだな」と思って生温かい目で見守っていただければ幸いである。志村喬か。



『カエル先生・高橋宏和ブログ』2019年11月19日等を加筆・転載)

ライフワークは人生100年時代の最善の生存戦略である(その1)

高橋宏和(H4卒)
date:2021/4/17

photoACより



ライフワーク、ライスワーク、ライクワーク

「ぼくね、人間にはライフワークとライスワークがあると思うんですよね。人生を通して取り組むのがライフワーク。んで、ごはんを食べるためにやるのがライスワーク。ダジャレですけど。あと、好きだからやるっていうライクワークもあるかな。

ライフワークとライスワーク、それからライクワークも、一致してればいいけど一致してなくてもいい。ライスワークやりながらごはん食べて、じっくりのんびりライフワークに取り組んだってええんやないかと思うんですわ」

そんなことを聞いたのは、大阪の淀川を行く屋形船の上であった。

<エリック・エリクソンは、人間のライフサイクルの最後の段階は「統合」を達成すること、つまり人生の過程で成し遂げてきたことや達成できなかったことを、自分自身のものとして主張できる意味のある物語として結び合わせることを含んでいると考えた。>(M.チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』世界思想社 1996年 p.166)

人生は前半で“発散”し、後半で“収束”する。

7、8年前まで大学生だったつもりでも(ほんとにそんな感覚なんです)、すでに47歳になってしまった。仮に「人生100年時代」が本当だとしても、現在47歳のぼくは、“収束”のフェイズに入りつつあることになる。マンマ・ミーア。

40歳を越えたころから人生の有限性を体感するようになった。

何でもかんでも首を突っ込むのもいいけど、その場合、あちこち駆けずり回ってすり減って、結局なんにも形にならないということにもなりかねない。

何かワンテーマに我が有限なる時間と気力を振り分けて、ライフワークとしてやっていったほうがよいのではないかなと思っている次第である。

ライフワークやライフテーマを持って生きている人は、強い。

ごはんを食べていくライスワークで右往左往し前進後退を繰り返しながらも、ライフワークやライフテーマがあれば人生の「軸」や「芯」や「プリンシプル」が持てるので、一貫した人生を送れる。

もしライフワークとライスワークが一致すればそれは最高だが、そうでなくてもライスワークで生活の糧を得ながらライフワークを少しずつやっていけば、迷い少なく楽しく生きていけるのではないだろうか。

ほら、オタクやマニアやコレクターって、楽しそうじゃないですか。

人生100年時代の、仕事

〈こころよく 我にはたらく仕事あれ

それを仕遂げて 死なむと思う〉(石川啄木)

死ぬ気もないし死にたいとも思わないが、仕事にもいろいろある。

生きる糧を得るための仕事や行きがかり上やらざるを得ない仕事もあれば、生きていく気力を与えてくれる仕事もある。

生きる糧を得るための仕事と生きがいになる仕事が一致すれば素晴らしい職業人生だが、一致しなくても構わない。

生きる糧を得るための仕事をライスワーク、生きがいになる仕事をライフワークと呼んで、そんなことを教えてくれたのは大阪の街づくりをライフワークにしている人だった。

歴史を振り返るとライスワークとライフワークが別だった人というのはたくさんいる。

遺跡発掘をライフワークとし、そのための費用を稼ぐために実業を行なったシュリーマン(諸説あり)もいれば、若くしてライフワークとなる(はずだった)詩作に出会いながらも、その後(後世の人からみれば、だが)ライスワーク中心の人生に移ったランボー。

アインシュタインは特許庁の仕事をしながらライフワークである物理学の論文を書いていた。

近年でもリーナス・トーバルズはライフワークであるLinuxの開発マネジメントを生きる糧を得るライスワークとは分けて行なった。

ライスワークしながらライフワークを行なった人は何も偉人ばかりではない。

淡々と日々の仕事をこなしながら郷土の歴史を調べてまとめ、後世に残すような地域の知識人は古今東西たくさんいるし、そうした人たちが積み重ねた郷土史は歴史家たちにとって宝石のように貴重なものになったりする。

だから、生きる糧を得るライスワークと生きる目的となるライフワークが全然別でも構わない。

実際に、前述のランボーなどは振れ幅が大きい人生で、ライフワークである詩人を卒業した後は骨太な実業家として生き、それでも飽き足らず常人離れしたトレーニングののちに筋骨隆々としたベトナム帰りの軍人として敵を倒しまくった。ウソですけども。

中年クライシス

中年クライシス、ミドルエイジクライシスというものがある。

人生の中年期や、現役引退期に襲ってくるもので、突如として「いったい自分は今まで何をしてきたのだろう」「自分がやりたかったことっていったい何なのだろう」「自分とはいったい何者なのだろう」という思いにとらわれる、自己一体感の悩みだ。「ああお前はなにをしてきたのだ…」と吹き来る風に問われるひとときが、中也ならずとも人生にはあるのだ。ゆやんゆよん。

クライシスというくらいなので、中年クライシスとは劇的かつ深刻なものとなることがある。

河合隼雄は中年クライシスの相談にくる人についてこう書いている。

<これらの多くの人は大なり小なり抑うつ症的な傾向に悩まされる。今まで面白かった仕事にまったく興味を失ってしまう。あるいは、何もする気がしなくなる。そして、重いときには自殺の可能性さえ出てくる。>(河合隼雄『中年クライシス』朝日新聞社 1993年 p.9)

中年クライシス、ミドルエイジクライシスは一言で言えばアイデンティティが揺らぐときである。アイデンティティとは自己同一性だ。自分が今まで自分自身であり、今このときも自分自身であり、これからもまた自分自身であり続けるという確信こそが、自分という存在の安心感のキモなのだから、それが揺らぐのはさぞ恐ろしいことだろう。

アイデンティティの構成要素の中に、「自分は何をしていた/いる人か」というものがある。一貫したアイデンティティを保つためには一貫したワークを持つのが有用だ。

それこそがライフワークだ。ライフワークを持つことは、人生100年時代を乗り切る最善の生存戦略なのだ。

ライフワークとライスワークを分けることは、時として有効な生存戦略となる

生存戦略としてライフワークをみたときに、生きる目的であるライフワークと生きる糧を得るライスワークが別であることは、時にプラスに働くことがある。

ライフワークとライスワークが一致すれば幸せな職業人生であるのは間違いない。

だが、ライスワークは構造的に外部依存的であり、自己コントロールが利かない部分がある。

非常に現実的な話をする。

ライスワークでは、生きる糧である報酬や評価は自分以外の外部からもたらされる。

どれだけ良い仕事をしても、自己以外の外部が評価してくれなければ報酬は得られずごはんが食べられない。

想像していただければわかるが、一次産業だろうが二次産業だろうが三次産業だろうがそれは同じだ。

また、金銭的報酬以外でも、政治分野であれば選挙に落ちたり政争に敗れればライスワークとしての仕事を手放さなければならない。

会社だって配置転換や人事移動があるし、景気という外部条件でライスワークとしての仕事が失われることもある。

いわゆる「土地持ち」で不動産収入で食っている人でも、人口減少社会では店子も減るし、天災や戦争で全てを失うこともある。

報酬や境遇が外部事情により左右されるライスワークでは、自己コントロールできない部分が、度合いの差はあれど残ってしまう(現実問題としては、その自己コントロール率の多い少ないの度合いこそが重要なのだが)。

アイデンティティの根幹をライスワークに求めることの危険性はかくのごとくであり、ライスワークと別にライフワークを持つメリットはここにある。

ライスワークは外部依存的であるがゆえに時に脆弱である。

生きる糧を得るライスワークの外部依存性をほぼゼロにするには、究極的には光合成でもしながら生きるしかない。

というわけで、ちょっと葉緑素を移植してくる。

(続く)

(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2019年11月18日~20日を加筆修正)

コロナワクチン準備中~私を月まで連れてって。

高橋宏和(H4卒)
date:2021/3/15

〈Fly me to the moon 私を月まで連れてって
Let me play among the stars 星の海で遊ばせて
Let me see what spring is like on 木星や火星の
A-Jupiter and Mars 春ってどんなものかしら〉
(photoACより)
あの頃は、毎晩ヘレン・メリルがかかっていた。
実話か都市伝説かは知らない。
ケネディ大統領がNASAを訪れ、たまたま居合わせた掃除夫に聞いた。「あなたはここで何をしてるんですか?」
掃除夫は床を拭くモップの手を止めて背筋を伸ばし、胸を張って言った。
「私はここで、人類が月に行くお手伝いをしています、ミスター・プレジデント」(*)
 
童話にも似たような話がある。
旅人が建設中の教会を通りかかった。3人のレンガ職人が、レンガを積んでいる。
旅人は尋ねた。ここで何をしてるんだい?
1人はこう言った。
「見りゃわかるだろう、レンガを積んでるんだ。毎日まいにち同じことの繰り返しさ」
2人目の職人は言った。
「壁を作ってるんだよ、仕事だからね。オレはこれで家族を養ってる」
3人目の職人は言った。
「教会を建ててるんだ。神に奉仕してるんだよ!教会が完成したら、ここでみんなが祈り、癒されるんだ。素晴らしいだろ!」
旅人はそれを聞くと、また旅を続けた。
 
2020年、コロナ禍で世界は変わってしまった。
この傷が癒やされるまで、10年はかかるという者もいる。まさに人類の歴史に残る災厄だ。

コロナからの経済回復、貧困層は10年以上 オックスファム

だが人類は、叡智によってこれを乗り越えるだろう。そう信じる。
もしぼくやあなたや彼らやみんながこのコロナ禍を生き抜けば、10年後20年後には、月旅行にだっていけるだろう。未知のウイルスに対するワクチンを一年たらずで完成させ、世界中でバンバン打ち始めているんだから、人類の叡智はそれだけすごい。 
ぼくはぼくで、目の前の出来ることを一つ一つやっていく。
 
悩むところもあるが、うちのクリニック・中條医院でも新型コロナウイルスのワクチン接種をやることにした。今までどんな病気にかかったことがあるか、腎臓の機能は落ちていないかのデータがないといけないから、当面のあいだはかかりつけの患者さんのみワクチン接種を行う予定だ。
もちろん、うまく運営できるか不安だし、正直うちのクリニックの規模ではうまく行ってもワクチン接種できるのは合計1000人くらいだろう。例年のインフルエンザワクチン接種の実績からいってもそんなもんだ。60数万人の船橋市民の数からいったら微々たるものだし、一億人の国民や世界数十億からいったら誤差範囲みたいなものだ。
 
だが将来、うまいことみんなでコロナ禍を生き抜いて孫ができて、その孫が歴史の教科書を開いて「おじいちゃんはコロナのころ何してたの?」と聞かれたら胸を張ってこう答えようと思う。
「おじいちゃんはね、人類がコロナを克服するお手伝いをしていたんだよ」
Let’s heal the world together, bros.&sis.

 

(*)・・・ケネディ大統領の話、ググるとジョンソン大統領バージョンもありますね。ザッカーバーグもスピーチのネタにしていた。

まあ普通に考えて、大統領が視察に来るなら掃除も一時中止させとく気もするので、都市伝説でしょうが。
原典ご存知なかた教えてくださいませ。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2021年1月29日を転載)

clubhouseと「タバコ部屋」、そしてコロナ以後。

高橋宏和(H4卒)
date:2021/2/20

「うちの病院からね、あちこちの離島に若手が赴任するでしょ。あちこちの離島を派遣医師用にイントラネットで結んだら、当初予想しなかった使われ方したんです」
10数年前に沖縄の病院で聞いた話。
「最初はね、自分のわからない症例をお互いに相談したりしてもらうためにイントラネット繋いだつもりだったんです。ほら、離島の赴任て基本的にひとりぼっちだから。
でも、イントラを運用してみたら、症例の相談もするんだけど、それよりはるかに多く、互いの孤独や、あるいは離島の医療を担うやりがいや喜び、そうした感情的なことを語り合う場になったんです。
そうやってお互いに励まし合いながらね、若い医者がそれぞれ離島でひとりで頑張ってるんだなって思って」
 
祭りには乗ってけとばかりに、ここ数日clubhouseを覗いてるんだけど、一番に思ったのは冒頭のエピソード。

コロナ禍で今までと同じように直接会って話したり、それこそ飲み会でしゃべったりするのが難しい。でも人間は誰かとしゃべりたい生き物で、そこを埋めるツールなのかなという仮説を立てたのだ。

その心の隙間を埋めるように音声SNS、clubhouseで遊んでいて、ああこれは、「ぼくにとって」タバコ部屋だ、と思った。
 
1999年に医者になったころはまだ、どの病院にも「タバコ部屋」というのがあった。いろんな科のスモーカーの医者が気だるそうにそこで紫煙をくゆらせているのだ。
ふだんは話しかけることも恐れ多いような他の科のベテランドクターも、タバコ部屋では話しかけることが出来た。もちろん、恐る恐るではあるが。
「あのー今こういう患者さんのことで困ってて…」とか「このあいだ、当直でこういう人が来て、こういう処置したんですけど、良かったですかね…」とかおずおずと聞くと、どのベテランもかったるそうに「しょうがねえなあ…そういうときはこうするんだよ」と教えてくれたものだ。なぜか誰もがかったるそうで、やっぱタバコって体に悪いんすかね。
 
「このあいだ外科に紹介したあの患者さん、どうなりましたかね…」と聞くと経過を教えてくれたりして、あれはあれで有意義な場だった。なぜか外科にはスモーカーが多い印象で、ある外科医に聞いたら「ストレス解消には酒かタバコだろ?酒にハマると手が震えるから、外科医はタバコを吸うんだよ」と言っていたが本当だろうか。
時は過ぎ、日本の病院から「タバコ部屋」は無くなった。喫煙の害は広く知られるようになったし、一人前の病院と認められるためには病院の敷地内に喫煙所があってはいけないという決まりがある(本当)。
健康とモラルは手に入れたが、そのために手離したものもあるというだけの話だ。
 
もっと時を遡る。
「オレがあの病院にいた頃はさ、夕方5時過ぎるとみんな医局でビール飲み始めて、麻雀するんだよね、夜中まで。心臓血管外科の先生とか麻雀強くて。夜中まで毎晩麻雀やってるから、救急車で重症患者が運ばれて来たりすると若い先生が血相変えて医局に飛び込んで来て、『センセイ!重症です!手、貸してください!』とか言うわけ。そうするとホロ酔いの猛者たちが、『しょうがねえなあ…』って麻雀やめて救急室に降りてくるわけ」。
昔、ベテラン脳外科医から聞いた話。
 
さすがにぼくが医者になった自分には、医局でビール飲んだり麻雀したりはなかったけど、そういう時代の若手はずいぶん心強かったことだろう。「しょうがねえなあ…」と救急室に現れる各科の猛者たちって、アベンジャーズみがあるよなあ。
 
まあそのころの先生がたってのは家庭生活は捨てていて、子どもの授業参観も行かないし、運動会や家族旅行中に患者の急変で病院に呼ばれるなんて当たり前だった。個人的には今のほうが良いが、そのときと同じような「いつでも病院にいてくれる、何があってもすぐ駆けつけてくれる医者」を求めることはもう出来ない。
 
ぼくが医者になったころはちょうど過渡期で、そのころまでは業務時間内に「各科対抗、新人医師によるソフトボール大会」とかあったし、科によっては「毎年元旦の朝は教授回診があり、医者は全員集合」というのもあった。正月には教授宅にあいさつにいくという風習があったり、餅つき大会やったり、花見やったり。
外科なんかは、新人医師の食事はすべて指導医のおごりで、遊びに行くのもぜんぶ指導医が持つという風習もあって、そのかわり手足となって働けというわけで、こういうのはお笑い芸人の「先輩が全部払う」という文化と相通じますね。今はどうなんだろう。
 
そういう時代が楽しかった人もいるし、息苦しかった人もいる。今は医者も個人主義が強くなってラクになったが、そのぶん研修医は孤独とアイデンティティの確立が難しいことで病んだりしている。まあ人間はいつだって無いものねだりで、誰しもその時代の中でなんとかやっていくしかない。
 
手に持てるものは限られている。何かを手にしたければ、何かを手離さなければならない。
仕事に浸食されない個人生活を手に入れたのだから、そのぶん濃厚な職場の人間関係は手離さざるを得ないという話だ。

いいとこどりはできない。
 
2020年2月、日本国内でもコロナのワクチン接種が開始となった。コロナ禍を埋めるように現れたclubhouseはこれからどう使われていくのだろう。
コロナ禍を乗り越えたあと、ぼくらは何を得、何を手離すのだろうか。

ドリフとツヨシとエナドリと。  コロナ禍1年

高橋宏和(H4卒)
date:2021/1/21

SNSの「1年前の投稿」表示が、新型コロナのパンデミックが世界に影響を及ぼしてから一年が経過したことを告げた。1年前、友人I氏が猛烈な勢いで警鐘を鳴らしていて、中国発のニュースを片端から訳してシェアし、「世界的な感染爆発が起きるかもしれない!」と教えてくれていた。



正直、はじめのうちはぼくを含めた日本(というか世界といっていいだろう)は新型コロナ爆発の恐ろしさに全く気づいていなかった。

「世界にはまだまだ未知の感染症があるんだなあ。中国の人は大変だ」くらいの温度感だった。己の不明を恥じるばかりである。



コロナ感染爆発から1年も経ったというべきか、1年しか経っていないというべきか。本当に、新型コロナが全てを変えてしまった。



2021年1月21日時点で、世界中でのコロナによる死亡者は207万人を超えたという。そのそれぞれに家族がいて友人がいて、どれだけ多くの苦しみがあり、どれだけ多くの涙が流されたことか。

https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/coronavirus-world-map/

経済の大打撃もしんどい。銀座の一等地の商業ビルでさえ、閉店や休業が相次ぐ。



https://ginza6.tokyo/news/76177



先が見えない状況が続く。



新しいウイルスが見つかってたったの一年でワクチンが完成し接種が始まっているのはまさに人類の叡智で、驚嘆すべきスピードだ。一日も早くワクチンを打ちたいと願うばかりだが、早くも反ワクチンの言説が世に現れ始めた。人類の叡智と、救い難さとを今日も同時に目の当たりにする。

コロナ疲れを体の芯に感じながら、それでも今日も日は昇る。

you know,「息の仕方を覚えてるだけで奇跡だぜ」。

TVショウを観ると年末年始も人出は多かったようだし、これだけ「密」を避けようといっているのに成人式を行った自治体もある。「密」ができればコロナ爆増する。結果、普段なら助かるはずの命も失われている。

気疲れと虚しさでちょっとしんどくなって、昔のことを思い出すことも多い。

動画サイトで子どものころ見たドリフターズの歌を漁ったり、自分が中学・高校生だった80年代~90年代の長渕剛の昔のCDなんか取り寄せてみて聴いたりなんかしている。今まで飲むことのなかったエナジードリンクを飲んでみたりもする。どうやら我ながら元気いっぱいというわけではなさそうだ。

全面的に、後ろ向きな気分にとらわれている。だが、生き抜くことが、生き抜くことだけが大事で、あとは些事だ。だから、後ろ向きになってもいいことにしよう。

ピアニストが出てくる映画を観たことがある。映画のラストシーンをいつも思い出す。

映画の最後に主人公はたしかこう言っていた。

「well,well,well,life goes on…」。人生は続く。



コロナ禍にエンドマークは出ず、マスクとソーシャルディスタンスの日常は続いていく。Life goes on.

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2021年1月9日、20日を加筆再掲

とある街場の感染対策ーコロナ禍の医療機関

高橋宏和(H4卒)
date:2020/12/16

平成4年卒の高橋宏和です。ふだんは生まれ故郷の千葉県で『中條医院』(船橋市)という内科・神経内科のクリニックを運営しています。

12月13日(日曜)は中條医院で日曜診療を行いました。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立っている人、室内

2020年コロナ禍の年の、とある街場の医療機関の日曜日の様子を日記風にお送りします。

【朝7時30分】

本日は日曜診療の当番日なので自分にログインボーナスを。

画像に含まれている可能性があるもの:飲み物、食べ物
うちのクリニックのある船橋市では、医師会所属の医療機関に医師会本部での夜間診療当番とはまた別にこの日曜祭日の当番医のdutyが回ってきます。
ふだんの診療と違い、この日曜診療では発熱や咳、風邪のかたの受診がメインなので少々気が重い…。
夜明けのマックでは夜通し遊んだ酔客が大声で飛沫を飛ばしまくっていますが、それはそれとして、心に炎を燃やして、俺は俺の責務を全うする!





【朝8時30分 診療準備】
 
感染拡大予防しながら診療開始です。
まずは入り口(クリニック外)での手指消毒とサーモグラフィーによる体温・マスク着用チェック。
発熱、咳のひどい方は車でお待ちいただくか別室案内。

画像に含まれている可能性があるもの:電話


【9時 診療開始】
入り口は開けっ放しで常時換気。エアコンをフルパワーでかけながらの換気で、寒いけどしかたない。
換気の重要性はナイチンゲール先生も『看護覚書』で強調してますね。

写真の説明はありません。
車の中など診療所外で待てるように呼び出し機は10台準備。
写真の説明はありません。
【9時30分】

例年だとインフルエンザや溶連菌は簡易検査して確かめるんですが、検査時の飛沫感染を避けるため今季は検査は省略。
問診をスピーディーに行いクリニック内滞在を短くするため問診票を活用。
(医療の本来的にはいいことではないですが)問診項目を根拠に、システマチックかつパターン化された処方になる予定。
 
写真の説明はありません。
問診票用のボードやペンは使いまわさず一週間放置の上、消毒。
紙やプラスチックの上でもウイルスは一定期間生きているはずなので。
今日のためにボードとペンを大量に買い込みました。
写真の説明はありません。
受け取った問診票はクリニック内ではビニール袋に入れて持ち運び。持ち運びは最小に。
ウイルスは接触により広がります。
写真の説明はありません。
診察券や保険証の受け渡しはファイルに入れて行います。
もちろんファイルは使いまわしません。
写真の説明はありません。
自動精算機も導入済み。
紙幣を介しての感染拡大リスクも最小限に。
画像に含まれている可能性があるもの:室内
【10時 発熱者診療】
発熱者用の別室に診察に行ってきます。
もちろんこのフェイスシールドとガウン、マスク、手袋も使い捨てです。
画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立っている人、室内
【10時30分 処方、お会計】
問診は極力電話で行い、問診項目によって処方箋を作成、あらかじめ会計計算を済ませて診察、処方箋受け渡しと会計を一度に行います(プライバシー保護のため診察券等は裏返して撮影)。
 
患者さんと物理的に接触するのはマスクやガウン装着した医師のみになります。
受け取った紙幣はビニール袋に入れ消毒した上で数日放置してから処理します。仮にコロナウイルスが付着している場合、紙幣の上でも数日はウイルスが生きているはずだからです。
写真の説明はありません。
これを患者さんが来るたびに延々繰り返します。
 
 
【利益相反開示】
自動精算機の導入等は、『医療機関・薬局等における感染拡大等の支援』制度の補助金で一部を補いました。入院施設の無い当クリニックは血税より100万円が補助されています。
自動精算機300万円弱、自動精算機を置くための窓口拡張および室内貼り替え工事70万、サーモフグラフィ30万円弱、自動呼出し機25万円弱なので正直足が出ていますが、本当に助かっています。
納税者の皆様(ぼくも納税してますが)や制度設立・運営にご尽力くださっている関係者の方々に感謝を込めてご報告。
 
厚生労働省「医療機関・薬局等における感染拡大防止等の支援」
 
【17時 日曜診療終了】
12月13日日曜日はそれほど混雑もなく、落ち着いた診療でした。
一昨年は一日に75名ほどの受診があり、9割以上インフルエンザでした。
 
無事に日曜診療終了しました。明日からまた通常診療なので、先週月曜日からの13連勤の折り返し地点です。
 
今回細かくアップしたのは「オレ頑張ってる」アピールしたいわけではなく、感染拡大予防対策の外部評価的なチェック目的とともに、医療者のありのままの内情をお伝えしたかったからです。
 
うちのクリニックは入院や救急の診療もなく、当番日の夕方までという期間限定の初期診療ですが、それでもスタッフみな非常に気疲れしました。
「いま診ている患者さんがコロナかもしれない」という心的ストレス、プレッシャーはなかなかにしんどいものです。
 
先の見えない中、ひっきりなしに運ばれてくる救急患者を診療し、急変に対応している病院の医療者の方々のご負担は想像を絶するものがあります。
いまこの瞬間、今晩も世界中で医療者がコロナとたたかっています。それぞれに家族がいて、未来があります。
 
どうか年末年始、ハメを外さず「三密」を避け、身も心も穏やかにお過ごしください。
医療者をはじめとするエッセンシャルワーカーに、理解とひとかけらの敬意を。
早くこのコロナ禍が収束しますように。病いと闘う患者さんと家族に愛を。
ちょっと早いですが、ハッピー・クリスマス。



公助の話~公助は魔法ではないが魔法使いを生んだ。

高橋宏和(H4卒)
date:2020/11/16

公助の話の続き。

すべての文章はなんらかの意図を持って書かれている。

この話は、「公助なんて甘え。自助こそ至高」という考えの人が、ちょっとだけ考えを変えてくれることを意図して書かれている。そうした自助派の人は少なくないが、そうした人たちが「やっぱり自助は必要だけど、共助・公助もあったほうがいいかもね」というふうに思想的な冒険をしてくれることを狙っている。題して『自助の奇妙な冒険』。すみませんでした。ゴゴゴゴゴゴ。

 

さて、「適切に運用された場合」、公助システムは個人と国家にとって、効率的なものとなる。

前述の人物像をターゲットに、響きそうな比喩を用いる。

 

一個人が自助のみにて犯罪から身を守る状況を想定してみる。

犯罪者がいつ何時、自らに襲いかかってくるかわからないから、格闘技の達人になるまで修行する必要がある。あるいはボディーガードを雇う手もある。24時間365日ボディーガードをつけるなら、相当な出費を覚悟しなければならない。

自宅には高い塀をつけ、近隣にも山ほど監視カメラをつけよう。

万が一、泥棒に入られたら、自分自身で捜査を進め、犯人を見つけ出す。やられたらやりかえさなければならないから、個人経営の私設刑務所も建てよう。

思考実験として、自助だけで犯罪から身を守る状況を考えてみた。とてもではないがやっていられない。

時間的金銭的コストは莫大なものとなり、自助だけではやっていられないからみんなで税金出し合って警察だの検察だのの公助システムを使っている。

 

「外からの敵」、犯罪から身を守るには、自助とともに公助システムがあったほうが効率的であるということを論じた。

さて、「内からの敵」、老いや病いから身を守る場合はどうか。

自助のみで病気から身を守るには、無数の病気について学ばなければならない。自分自身の手で山から薬草をとってきて薬を精製し、内臓に悪いところがあれば自分自身で麻酔をかけ、自分自身で手術する。仁やブラックジャックでもあるまいし、そんなのは無理だ。

自助だけでは到底まかなえないから、医療や福祉などの共助・公助システムがあるわけである。

 

言ってみれば共助・公助システムというのは、生身でか弱い個人を陰ながら守る「スタンド」みたいなものなのだ。「外からの敵」=犯罪や戦争、「内からの敵」=病いや老い、から自助のみで身を守るには、一個人というのは、貧弱貧弱ゥなものなのである。

…ちょっとなに言ってるかわからない。もちろん、公助は魔法ではないから、すべての人をすべての災厄から守ることはできない。



違う話をしてみたい。

あなたの目の前に、一人の女性が座っていると想像してほしい。

名前はジョアン。28歳のシングルマザーだ。パートナーと別れ、住む家もない。

彼女は子どもの頃から空想好きで、いろいろ楽しい話を考えるのが得意だという。今は仕事にあぶれて貧しいけれど、いつか小説を書いて人生を逆転させると言っている。

だから申し訳ないけれど、今月の生活費を69ポンドほど出してくれないだろうか、そうジョアンは言う。

あなたなら、夢見る自称小説家のジョアンに69ポンド出すだろうか。

出すわけがない?同情はするけれど、彼女の貧困は彼女の問題で、売れない小説なんか書いてないで、フィッシュ&チップスでも売って自助でなんとかしろって?

あなたはそう言って彼女を追い払うかもしれない。ジョアンはトボトボと歩いて家に帰り、絶望的な気持ちで原稿用紙を破り捨て、フィッシュ&チップス屋にバイトの面接に行った。彼女が筆を取ることは生涯二度となく、

そして、

人類は『ハリーポッター』の物語を読むことはなかった。永遠に。

 

ジョアンのペンネームはJ・K・ローリング。

実際にはジョアンはイギリスの生活保護をうけて「ハリーポッター」を書き上げ、シリーズは世界中で計4億部(!)売れた。

もちろんJ・K・ローリングは、例外事象だ。

だがイギリスに生活保護などの公助システムが無かったら『ハリーポッター』シリーズは生まれなかった。『ハリーポッター』シリーズの本や映画は人類を豊かにしたし、出版や映画、物品販売にイギリスのイメージアップなどなど、『ハリーポッター』関連で有形無形の財産を築いた人は無数にいる。そう考えるとイギリスは『ハリーポッター』を生んだだけで生活保護予算のモトは取ったんじゃなかろうか。ぼくもUSJにどれだけ貢いだか…。

ま、公助にはそんな面もある、というくらいの話だ。

公助は魔法ではないが、魔法使いを生んだ。

しつこいが、一連の話は、「自助サイコー!共助・公助は無駄無駄無駄ァっっ!」という人を想定して書いている。このため提示する話に偏りがある。

共助・公助というものは、「適切に運用されれば」、個人と国家にとって効率的なものになる。大数の法則が働き、個人が生きていく上での生涯に渡るリスクとコストを平均化できるからだ。

 

人間の一生を考えると、人生のはじめの10数年はどうしても自分で稼ぐインカムより、生存に必要なコストのほうが高い(マコーレカルキンや芦田愛菜なら別だが)。文字通りの「自助」だけでははじめの10数年は生き抜けず、親の庇護という「共助」や、保育や公教育という「公助」に助けられて成長する。

10数歳〜20代で人間は社会参加し働いてインカムを得ることが出来る。そこからの3、40年は一般に、「共助」「公助」の仕組みから得るものより、保険料・年金・税金あるいは子どもたちの教育費などの「共助」「公助」への出費のほうが多い。

だがこの生産年齢時代でも、病気やケガ、事故や破産などの人生リスクはある。

そうして人生を送り、6、70代を迎えると、年金を受け取り介護のお世話になる。この時期は幼少期と同じく「共助」「公助」からの恩恵が大きくなる。

幼少期と引退期のコストを完全に「自助」だけでやるのは困難だ。だから「共助」「公助」があるわけだ。

また、前述の通り病気やケガ、事故や破産といったリスクは確率の問題でいつ我が身に降りかかるかわからない。

 

一個人の人生で病気がいつ起こるかを予測するのは無理だが、個人をたくさん集めて集団化して統計を取ると、集団の中で年に何人くらい病気になるかは分かる。

だから集団から少しずつお金を集めて備えておけば、集団として戦略的に生存できる。これの最大のものが「公助」だ。

 

このように「公助」というものは「適切に運用されれば」大変によいものとなる。

しかしながら世界をぐるっと見回せば、そこには親切重税国家から冷淡軽税国家まで「自助」「共助」「公助」のバランスの取り方は様々だ。

要は、どれくらいの割合の「公助」が適切か、どの分野に重点的に配分すべきかは、まだ絶対的な答えはない。というよりは国や社会、時代によってベストバランスはどんどん変わる、というのが本当のところ。

 

「自助」「共助」「公助」はいずれも必要だ。だがどれくらいのバランスが適切かは、究極的には国民が決める。その意思表示をすることはとてもとても大事なので、とりあえず選挙には行っておきたい。自助であれ共助であれ公助であれ、良い国を作るのは国民なのだ。

 

「国家の価値とは、長い目で見れば、その国を構成している一人ひとりの価値にほかならない」

ージョン・スチュアート・ミル



(カエル先生・高橋宏和ブログ 2019年7月8日を加筆・修正https://www.hirokatz.jp/entry/2019/07/08/133817 )