コロナワクチン準備中~私を月まで連れてって。
(photoACより)
(*)・・・ケネディ大統領の話、ググるとジョンソン大統領バージョンもありますね。ザッカーバーグもスピーチのネタにしていた。
clubhouseと「タバコ部屋」、そしてコロナ以後。
コロナ禍で今までと同じように直接会って話したり、それこそ飲み会でしゃべったりするのが難しい。でも人間は誰かとしゃべりたい生き物で、そこを埋めるツールなのかなという仮説を立てたのだ。
いいとこどりはできない。
ドリフとツヨシとエナドリと。 コロナ禍1年
SNSの「1年前の投稿」表示が、新型コロナのパンデミックが世界に影響を及ぼしてから一年が経過したことを告げた。1年前、友人I氏が猛烈な勢いで警鐘を鳴らしていて、中国発のニュースを片端から訳してシェアし、「世界的な感染爆発が起きるかもしれない!」と教えてくれていた。
正直、はじめのうちはぼくを含めた日本(というか世界といっていいだろう)は新型コロナ爆発の恐ろしさに全く気づいていなかった。
「世界にはまだまだ未知の感染症があるんだなあ。中国の人は大変だ」くらいの温度感だった。己の不明を恥じるばかりである。
コロナ感染爆発から1年も経ったというべきか、1年しか経っていないというべきか。本当に、新型コロナが全てを変えてしまった。
2021年1月21日時点で、世界中でのコロナによる死亡者は207万人を超えたという。そのそれぞれに家族がいて友人がいて、どれだけ多くの苦しみがあり、どれだけ多くの涙が流されたことか。
https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/coronavirus-world-map/
経済の大打撃もしんどい。銀座の一等地の商業ビルでさえ、閉店や休業が相次ぐ。
https://ginza6.tokyo/news/76177
先が見えない状況が続く。
新しいウイルスが見つかってたったの一年でワクチンが完成し接種が始まっているのはまさに人類の叡智で、驚嘆すべきスピードだ。一日も早くワクチンを打ちたいと願うばかりだが、早くも反ワクチンの言説が世に現れ始めた。人類の叡智と、救い難さとを今日も同時に目の当たりにする。
コロナ疲れを体の芯に感じながら、それでも今日も日は昇る。
you know,「息の仕方を覚えてるだけで奇跡だぜ」。
TVショウを観ると年末年始も人出は多かったようだし、これだけ「密」を避けようといっているのに成人式を行った自治体もある。「密」ができればコロナ爆増する。結果、普段なら助かるはずの命も失われている。
気疲れと虚しさでちょっとしんどくなって、昔のことを思い出すことも多い。
動画サイトで子どものころ見たドリフターズの歌を漁ったり、自分が中学・高校生だった80年代~90年代の長渕剛の昔のCDなんか取り寄せてみて聴いたりなんかしている。今まで飲むことのなかったエナジードリンクを飲んでみたりもする。どうやら我ながら元気いっぱいというわけではなさそうだ。

全面的に、後ろ向きな気分にとらわれている。だが、生き抜くことが、生き抜くことだけが大事で、あとは些事だ。だから、後ろ向きになってもいいことにしよう。
ピアニストが出てくる映画を観たことがある。映画のラストシーンをいつも思い出す。
映画の最後に主人公はたしかこう言っていた。
「well,well,well,life goes on…」。人生は続く。
コロナ禍にエンドマークは出ず、マスクとソーシャルディスタンスの日常は続いていく。Life goes on.
とある街場の感染対策ーコロナ禍の医療機関
平成4年卒の高橋宏和です。ふだんは生まれ故郷の千葉県で『中條医院』(船橋市)という内科・神経内科のクリニックを運営しています。
12月13日(日曜)は中條医院で日曜診療を行いました。

2020年コロナ禍の年の、とある街場の医療機関の日曜日の様子を日記風にお送りします。
【朝7時30分】











公助の話~公助は魔法ではないが魔法使いを生んだ。
公助の話の続き。
すべての文章はなんらかの意図を持って書かれている。
この話は、「公助なんて甘え。自助こそ至高」という考えの人が、ちょっとだけ考えを変えてくれることを意図して書かれている。そうした自助派の人は少なくないが、そうした人たちが「やっぱり自助は必要だけど、共助・公助もあったほうがいいかもね」というふうに思想的な冒険をしてくれることを狙っている。題して『自助の奇妙な冒険』。すみませんでした。ゴゴゴゴゴゴ。
さて、「適切に運用された場合」、公助システムは個人と国家にとって、効率的なものとなる。
前述の人物像をターゲットに、響きそうな比喩を用いる。
一個人が自助のみにて犯罪から身を守る状況を想定してみる。
犯罪者がいつ何時、自らに襲いかかってくるかわからないから、格闘技の達人になるまで修行する必要がある。あるいはボディーガードを雇う手もある。24時間365日ボディーガードをつけるなら、相当な出費を覚悟しなければならない。
自宅には高い塀をつけ、近隣にも山ほど監視カメラをつけよう。
万が一、泥棒に入られたら、自分自身で捜査を進め、犯人を見つけ出す。やられたらやりかえさなければならないから、個人経営の私設刑務所も建てよう。
思考実験として、自助だけで犯罪から身を守る状況を考えてみた。とてもではないがやっていられない。
時間的金銭的コストは莫大なものとなり、自助だけではやっていられないからみんなで税金出し合って警察だの検察だのの公助システムを使っている。
「外からの敵」、犯罪から身を守るには、自助とともに公助システムがあったほうが効率的であるということを論じた。
さて、「内からの敵」、老いや病いから身を守る場合はどうか。
自助のみで病気から身を守るには、無数の病気について学ばなければならない。自分自身の手で山から薬草をとってきて薬を精製し、内臓に悪いところがあれば自分自身で麻酔をかけ、自分自身で手術する。仁やブラックジャックでもあるまいし、そんなのは無理だ。
自助だけでは到底まかなえないから、医療や福祉などの共助・公助システムがあるわけである。
言ってみれば共助・公助システムというのは、生身でか弱い個人を陰ながら守る「スタンド」みたいなものなのだ。「外からの敵」=犯罪や戦争、「内からの敵」=病いや老い、から自助のみで身を守るには、一個人というのは、貧弱貧弱ゥなものなのである。
…ちょっとなに言ってるかわからない。もちろん、公助は魔法ではないから、すべての人をすべての災厄から守ることはできない。
違う話をしてみたい。
あなたの目の前に、一人の女性が座っていると想像してほしい。
名前はジョアン。28歳のシングルマザーだ。パートナーと別れ、住む家もない。
彼女は子どもの頃から空想好きで、いろいろ楽しい話を考えるのが得意だという。今は仕事にあぶれて貧しいけれど、いつか小説を書いて人生を逆転させると言っている。
だから申し訳ないけれど、今月の生活費を69ポンドほど出してくれないだろうか、そうジョアンは言う。
あなたなら、夢見る自称小説家のジョアンに69ポンド出すだろうか。
出すわけがない?同情はするけれど、彼女の貧困は彼女の問題で、売れない小説なんか書いてないで、フィッシュ&チップスでも売って自助でなんとかしろって?
あなたはそう言って彼女を追い払うかもしれない。ジョアンはトボトボと歩いて家に帰り、絶望的な気持ちで原稿用紙を破り捨て、フィッシュ&チップス屋にバイトの面接に行った。彼女が筆を取ることは生涯二度となく、
そして、
人類は『ハリーポッター』の物語を読むことはなかった。永遠に。
ジョアンのペンネームはJ・K・ローリング。
実際にはジョアンはイギリスの生活保護をうけて「ハリーポッター」を書き上げ、シリーズは世界中で計4億部(!)売れた。
もちろんJ・K・ローリングは、例外事象だ。
だがイギリスに生活保護などの公助システムが無かったら『ハリーポッター』シリーズは生まれなかった。『ハリーポッター』シリーズの本や映画は人類を豊かにしたし、出版や映画、物品販売にイギリスのイメージアップなどなど、『ハリーポッター』関連で有形無形の財産を築いた人は無数にいる。そう考えるとイギリスは『ハリーポッター』を生んだだけで生活保護予算のモトは取ったんじゃなかろうか。ぼくもUSJにどれだけ貢いだか…。
ま、公助にはそんな面もある、というくらいの話だ。
公助は魔法ではないが、魔法使いを生んだ。

しつこいが、一連の話は、「自助サイコー!共助・公助は無駄無駄無駄ァっっ!」という人を想定して書いている。このため提示する話に偏りがある。
共助・公助というものは、「適切に運用されれば」、個人と国家にとって効率的なものになる。大数の法則が働き、個人が生きていく上での生涯に渡るリスクとコストを平均化できるからだ。
人間の一生を考えると、人生のはじめの10数年はどうしても自分で稼ぐインカムより、生存に必要なコストのほうが高い(マコーレカルキンや芦田愛菜なら別だが)。文字通りの「自助」だけでははじめの10数年は生き抜けず、親の庇護という「共助」や、保育や公教育という「公助」に助けられて成長する。
10数歳〜20代で人間は社会参加し働いてインカムを得ることが出来る。そこからの3、40年は一般に、「共助」「公助」の仕組みから得るものより、保険料・年金・税金あるいは子どもたちの教育費などの「共助」「公助」への出費のほうが多い。
だがこの生産年齢時代でも、病気やケガ、事故や破産などの人生リスクはある。
そうして人生を送り、6、70代を迎えると、年金を受け取り介護のお世話になる。この時期は幼少期と同じく「共助」「公助」からの恩恵が大きくなる。
幼少期と引退期のコストを完全に「自助」だけでやるのは困難だ。だから「共助」「公助」があるわけだ。
また、前述の通り病気やケガ、事故や破産といったリスクは確率の問題でいつ我が身に降りかかるかわからない。
一個人の人生で病気がいつ起こるかを予測するのは無理だが、個人をたくさん集めて集団化して統計を取ると、集団の中で年に何人くらい病気になるかは分かる。
だから集団から少しずつお金を集めて備えておけば、集団として戦略的に生存できる。これの最大のものが「公助」だ。
このように「公助」というものは「適切に運用されれば」大変によいものとなる。
しかしながら世界をぐるっと見回せば、そこには親切重税国家から冷淡軽税国家まで「自助」「共助」「公助」のバランスの取り方は様々だ。
要は、どれくらいの割合の「公助」が適切か、どの分野に重点的に配分すべきかは、まだ絶対的な答えはない。というよりは国や社会、時代によってベストバランスはどんどん変わる、というのが本当のところ。
「自助」「共助」「公助」はいずれも必要だ。だがどれくらいのバランスが適切かは、究極的には国民が決める。その意思表示をすることはとてもとても大事なので、とりあえず選挙には行っておきたい。自助であれ共助であれ公助であれ、良い国を作るのは国民なのだ。
「国家の価値とは、長い目で見れば、その国を構成している一人ひとりの価値にほかならない」
ージョン・スチュアート・ミル
(カエル先生・高橋宏和ブログ 2019年7月8日を加筆・修正https://www.hirokatz.jp/entry/2019/07/08/133817 )
塾生皆泳~共助、公助
自助、共助、公助。
社会保障や防災・減災にどれも必要不可欠なもので、その必要不可欠性は勉強に置きかえるとイメージしやすい。
成績を伸ばそうとすれば自習(=自助)は欠かせない。自習だけでは限界があるから友人と教え合い(=共助)したり、学校で先生に教えてもらったり(=公助)したりする。自助だけでもダメ、公助だけでもダメで、自助、共助、公助すべて揃ってはじめて効率的な勉強ができるというものだ。
デンマークに高齢者福祉の見学に行ったときに感動したことがある。
エルドラセイエンという高齢者施設の前でせっかくだからと記念撮影しようと友人とカメラを片手にああだこうだと話していたら、近くで車が停まった。なかから見知らぬ背の高いデンマーク人が降りてきて、僕らにこう言った。
「写真撮るのかい?シャッター押してあげるからそこに並んで」
見知らぬデンマーク人は僕らの写真を撮ると、再び車に乗ってどこかへ走り去った。
この一例をもってデンマーク人は親切と一般化するつもりはない。だが、わが身に置き換えて、自動車運転中にどこかの「ガイジン」が自動撮影しようとしているのを見かけたからといってわざわざ車を停めて写真撮ってあげようと思うかを考えると相当な親切っぷりだと思う。高負担高福祉社会を成立させる背景には高・親切で高・共助な文化風土があるのかもしれない。
つらつら考えていくと、共助、公助というのは逆に厳しいものかもしれないと思い至る。
「塾生皆泳」という言葉がある。
慶應義塾大学の学生=塾生はみんな泳げなければならない、という考えで、実際に慶應大学では90年代前半まで水泳は必修だったそうだ。
なぜ「塾生皆泳」かというと、「溺れている人を助けようとするならば、自らが泳げなければならない。自ら泳げない者が溺れている人を助けようとしても、二人して溺れるだけだ」ということらしい(「中の人」、詳しく教えてください)。
すなわち、共助を本当に成り立たせるならば、それぞれがしっかりと自助できる力をつけよ、ということなのであろう。共助なら、助けてもらうだけではなく助ける場合もあるわけですからね。
今まで自助と共助について書いたので、少々荷が重いが、今度は公助について書く。
まず第一に、公助の起源(の一つ)は決して「慈善」だけではないということ。
知っている人には常識だが、世界初の全国民強制加入の社会保険制度は、鉄血宰相ビスマルクによって作られた。目的は、国民が社会主義に走るのを防ぐため。
国家が国民の生存を保証/保障することで、国民が「赤化」するのを防いだのだ(田中滋『社会保障制度はいつ何のために始まったか』生活福祉研究 通巻84号 巻頭言)。
また、日本の厚生労働省のルーツが富国強兵にあることも指摘しておきたい。
旧日本軍が徴兵制度を導入して成人男子を徴兵検査したところ、梅毒感染者が多く、また栄養状態が悪いものもいて、「このままでは強い軍隊が作れず欧米列強に負ける。なんとかせよ」と内務省に掛け合ったのが厚生労働省のルーツの一つである。
公助、社会保障の話になると、脊髄反射的に「左」扱いする人がいる。それでは議論にならないので、あえて上記のような話を出した。
社会保障は、いわゆる「左」の話でもないし、イデオロギー論争の無限ループに突入すべき話でもない。国民と国家が生存していくための、極めてプラグマティックな話だと感じていただければ幸いである。
いわゆる新自由主義者の中には公助や共助の概念をこき下ろし、自助のみで生きていくべきだという極論を述べる者もいる。しかしながら彼ら自身は、大学の終身教授や人材派遣会社の雇われ経営者というポジションを死んでも手離さない。自助のみで生きていくべきだという割には、なにかあったときの身分保障という共助システムから離脱する気はないのだろう(inspired byナシーム・ニコラス・タレブ『ブラック・スワン』ダイヤモンド社)。
時代や社会情勢によってバランスは変わっていくが、自助も共助も公助も全て必要だ、というのがぼくの立場だ。
「年金制度改革はね、数年前にポイント・オブ・ノー・リターン、戻れない地点を越えました」
今から10年ほど前、とある役所の人がぼくらに言った。
「2000年代はじめに、日本の有権者の過半数が50歳以上になったんです。50歳以上の人にとって、現行の年金制度というのは〈我がこと〉です。だからドラスティックに年金制度を変えようとすると猛烈な抵抗が起こる。50歳以上の人からすれば、既得権益を奪われるわけですから。有権者の過半数から猛烈な抵抗が起こった場合、ドラスティックな改革をするのは無理なのです」
その人は、淡々とそう言った。
公助の話をしている。
自助、共助、公助はいずれも必要である、というのがぼくの立場だ。
しかし時代や社会情勢によって、可能な自助・共助・公助のバランスはどんどん変わっていく。
今では皆が当たり前に使っている共助・公助システムである健康保険制度。だが国民皆保険が成立したばかりのころ、ある政治家が病院を受診して健康保険証を使ったところ国民から大批判が起こった。「政治家ともあろう者が健康保険を使うなんてけしからん。政治家なら、健康保険なんかに頼らず、今までどおり全部自費で払え!」、と。
そのころは、健康保険は貧しい人のためのもの、という国民的認識であったのだ。
ちなみに伝説の日本医師会会長、武見太郎氏が銀座でやっていた診療所は全額自費診療だったそうだ。だから保険医総辞退なんてことが言えたわけです。
今と昔の倫理観みたいな浅はかな綺麗事を言うつもりはない。時代が変われば制度も変わる。また制度は一回決まるとなかなか変えられないので、連続的に変化し続ける時代に対応するのは大変で、常に時代遅れになる宿命だという話をしている。
上記を前提に、次回は公助の必要性、有用性を論じてみたい。
公助の必要性にピンとこない人をターゲットに書くので、例示する話に偏りが出るであろうことを前もってお断りしておきたい。
(続く。『カエル先生・高橋宏和ブログ』2019年6月24日・7月6日を加筆修正
「自助・共助・公助、そして絆」に思う(その1)
菅義偉氏が首相となった。
総裁選の際に菅氏がこんなことを言った。「自助・共助・公助、そして絆」。「自助」と「共助」と「公助」と「絆」の中で政府の仕事って1つだけだよなーとか憎まれ口を叩いたりしながらも、「自助・共助・公助」についてつらつらと書いてみたい。

まずはじめに自助について。誰かを貶すつもりは全くない。また、公的機関によるサポート、公助の必要性はどれだけ強調してもし過ぎることはない。その上で、「おれがやる」と言って立ち上がった人々の話をしたい。
聞いた話。
東日本大震災では本当に多くの方々が亡くなった。
たくさんの家が瓦礫と化し、瓦礫の山を前に、再建の日ははるかに遠く感じられた。
だがある町では、どこよりも早く新しい家が建ちはじめた。保険会社の審査も途中で公的支援も始まらないうちに、自力で家を再建したのは誰か。漁師たちだ。
板子一枚下は地獄。漁師の世界はそう言われる。船底の板一枚割れてしまえば、そこには荒海という地獄しかない。
そんな世界で何千年も生きてきた漁師たちにとって、究極的には信用できるのは自分だけだ。
誰かが助けてくれるまで待ってなんかいられない。「おれがやる」。そう思って、率先して漁師たちは家を建て直したのだろう。
震災後、「おれがやる」と立ち上がった人々はもちろん漁師だけではない。
ある人は、地平線まで広がる瓦礫の山を前に、「おれがやる」と立ち上がった。
瓦礫の山を片付けるにはクレーン車が要る。教習所に通って、クレーン車の運転免許を取った。瓦礫を運び出すには大型トラックが必要だ。大型トラックの運転免許も取得した。瓦礫をトラックに載せるにはショベルカーがなければならない。ショベルカーの免許も取った。ブルドーザーも、ロードローラーも、という具合に、気づけば何十もの重機を使って、故郷の再建に奔走するようになったという。
ここにもまた、「おれがやる」と言って立ち上がった人がいた。
「おれがやる」。
大震災のニュースを見て、ある医師はただちに立ち上がった。病院所有の車にありったけの薬を載せ、同僚の医師たちを募って、名古屋から東北へと向かった。現地の市役所で「医療支援は間に合っている」と門前払いされかけたという。大混乱で被災の規模やどこにどんな医療支援が必要かという情報が皆無というタイミングで現地に着いたのだ。今までの経験から、医療支援が間に合っているはずがないと直感した彼は、直接避難所に向かい医療支援に取りかかったという。
よくそんな素早く決断して動けたね。自分の職場の病院だって、何人もの医師がボランティアに行っちゃったら、正直日常診療も回らなくならない?後年、彼に聞いてみた。
「うちは親父も外科医でさ、神戸の震災の時にも親父が率先して駆けつけてた。そういうの、ずっと見て育ってるからな。
それに、ほかの地域の災害支援の経験というのは、万が一、自分たちの地域が被災した時に必ず役立つだろ。どう動けばいいか、身にしみてるわけだからさ。そう病院職員は説得してるよ。
まあさ、おれも医者だしさ、おれがやる、ってなっちゃうんだよね」
彼はこともなげにそう言った。
「おれがやる」、そう言い出せない人を責めたいという話ではない。
公助の必要性も、絶対だ。
それはそれとして、いざというときに、「おれがやる」と立ち上がれるかどうか、ぼくはいつも自問自答している。
(続く)
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2019年6月14日https://www.hirokatz.jp/entry/2019/06/14/080737 を加筆再掲)
『人生の幸福度は47~48歳が最低』とのこと~47歳に思う(その2)

人生には3つの坂がある。
上り坂。下り坂。まさか。
47歳になったことをとある後輩に言ったら、「じゃあ『下り坂47』ですね」と言われた。まさか自分が47歳になった途端に『下り坂47』に選抜されるとは思ってもみなかった。
デビュー曲は『新型インフルエンザー』(宮下あきら作詞作曲)、カップリングは『frying nugget』(愛称「フナゲ」。KFCとのタイアップ曲です)。センター目指して頑張ります!
さてと。
中学高校からはるかに月日が経ち、47歳で思うものといえばこんなこと。すなわち、我々が後世に遺せるものは何か。
内村鑑三はかつて、このテーマに対してまず第一に「金」を挙げた(『後世への最大遺物』)。
巨万の富を後世に遺せば、世界一の孤児院を建てることができる、たくさんの人に教育の機会を与えることができる。
内村は言った。
〈(略)われわれの今日の実際問題は社会問題であろうと、教会問題であろうと、青年問題であろうと、教育問題であろうとも、それを煎じつめてみれば、やはり金銭問題です。ここにいたって誰が金が不要だなぞというものがありますか。ドウゾ、キリスト信者のなかに金持が起こってもらいたいです、実業家が起こってもらいたいです。〉(『後世への最大遺物』岩波文庫p.21)
しかし。
しかしですよ諸君。
内村は続ける。
金を作る溜める遺すというのはやはり一種の才能、geniusであって、誰にでもできるわけではない。残念ながら私(内村)にはその才は無い。
ではどうするか。
後世に金を遺すことができなければ、金よりも良いものを遺そう。
それは、金を使うこと、すなわち「事業」。「事業」を遺すのがもっと良いのではないか。そう内村は話したのだ。
例えば土木事業。
ある人が運河を遺せば、後世の人は永きに渡って移動しものを運ぶことが出来る。
橋を遺せば人が渡れる。トンネルを遺せばたくさんの人が行き来できる。
土木事業に限らず、金を遺せないならば、事業を遺せばよい。
後世に事業を遺す。〈(略)「わが愛する友よ、われわれが死ぬときは、われわれが生まれたときより世の中を少しなりともよくして往こうではないか」(略)〉(天文学者ハーシェルの言葉。前掲書p.18)
この話、まだまだ続きます。下り坂ってのは意外に長いのです。
内村鑑三の話に戻ります。
内村鑑三は、明治27年に箱根のキリスト教徒第六夏期学校において若きキリスト者たちに講話を行なった。題して、『後世への最大遺物』。
われわれはみな、いつの日かこの世を去る。そのときに、この地上に何を遺して逝けるだろうか。それがこの講話のテーマです。
後世へ遺していけるもの、まず第一に「金」。
いきなり「金」といわれた若者たちはさぞギョッとしたと思うが内村の真意はこうです。正しく稼いだ金を遺せば、たくさんの人が救える。何しろこの地上の問題の根っこの多くは、つきつめれば金銭問題なのだから。
しかし誰もが「金」を遺せるわけではない。
正しく「金」を遺すにはやはり、才覚がいるのだ。
「金」を遺すことができる人が限られる以上、もっとよいのは「事業」を遺すことだ、と内村は続けます。
事業を遺せば、やはりこれは後世の人の役に立つ。
しかしまた、誰もが事業を遺せるわけでもない。事業を遺すにも、やはり天が与えたもうた才が要る。
私(内村)自身も、「事業」を遺せないかもしれない。
だが、それでもまだ、人には遺せるものがある。「思想」である。
〈もしこの世の中において私が私の考えを実行することができなければ、私はこれを実行する精神を筆と墨とをもって紙の上に遺すことができる。〉(前掲書p.35-36)
著述と教育により、自らの「思想」を後世に遺し、〈少しなりともこの世の中を善くして往きたい(略)〉(前掲書 p.18)という思いを果たすことができる、と内村は語った。
思想を後世に遺す一形態が文学であり、〈文学はわれわれがこの世界に戦争するときの道具である。今日戦争することはできないから未来において戦争しようというのが文学であります。〉(前掲書p.41)とまで言い切ります。ここでいう「戦争」は敵をせん滅するとかではなく、よいことばかりではない世を渡っていくための、そしてこの地上を良きものにするための「戦い」というふうにとるべきでしょう。
後世に遺せるものは何か。金か事業か思想なのか。
しかしやはり誰もが金を遺せるわけでもなく事業を遺せるわけでもなく思想を遺せるわけでもない。何を遺すことも出来ない者は価値がないのだろうか、と思うかもしれない。しかし全くもってそれは間違いである。
金より事業より思想よりはるかに大事で、それでいて誰しもが遺すことが出来るものがまだ存在するのであります、と内村は説く。それこそがまさに『後世の最大遺物』。
その最大遺物とは諸君、と内村は続けるのであります。
金を遺すも良し事業を遺すも良し、思想や文学を後世に遺すのもなお良し。
しかし諸君、誰にでも遺すことが出来てさらに後世に害なく益ばかりある最大遺物がある。それはなにかといえば、〈勇ましい高尚なる生涯〉である、と内村は説いた。
生きていればさまざまなハードルがある。
生まれついた境遇や巡り合わせ、置かれた環境に降ってくる災難。家族や隣人たちに時に足を引っ張っられ、信頼していた人に裏切られ、仕事では次から次へと厄介ごとが押し寄せる。
まことにもって、生きていればありとあらゆる災厄がこの身に降り注いでくる。
だがしかし、にもかかわらず、われわれは〈勇ましい高尚なる生涯〉を送ることができ、その姿を後世に遺すことが出来るのだ。
二宮尊徳を見たまえ、彼は窮乏の中から自らの意志で学び人を助けたではないか。その生涯を見て、後世のわれわれは勇気づけられるのだ、と内村は言った。
我々が〈勇ましい高尚なる生涯〉を後世に遺せばどうなるか。それを見た後世の人々に伝わるものは何か。
〈勇ましい高尚なる生涯〉を遺すということはなんなのか。
〈すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。〉(前掲書p.54)
そしてそのためには、境遇や環境やハンデが大きいのは嘆くことではない。大変な境遇であればあるほど、「dennoch,にもかかわらず」、〈勇ましい高尚なる生涯〉を送ることは偉業になるのだから。
そんなことを、内村鑑三は言った。
47歳、人生の幸福度が最も低いといわれる40代後半のミドルエイジクライシスまっただ中のぼくにとって、今の指針はこの『後世への最大遺物』である。
勇ましく高尚なる生涯なるものを送れるかどうかはわからないが、いろいろあるけど「dennoch,にもかかわらず」、小さな音で口笛でも吹きながら、せいぜい喜びにあふれた楽しく誇り高い生涯くらいは後世に遺していきたいものである。














