究極の有限資源は、時間と意志力。
時間と意志力を死守せよ。なぜならそれらは究極の有限資源だから。
現代人が一歩外に出れば、無数の人やモノやコトがあなたの時間と意志力を奪いにくる。家庭を持つ者であれば、家の中でも同様だ。古人曰く、〈三十歳を過ぎれば、君の生活は妻子のものになる。〉(キングレイ・ウォード『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』新潮文庫 平成六年 p.34)
もしあなたがやりたいまたはやるべきと思えば、喜んで自分自身の時間と意志力を人・モノ・コトに差し出すがいい。
他者からみてそれが無価値であっても構わない。自分が選んだ人・モノ・コトに、存分に時間と意志力を捧げよ。
だが、究極の有限資源である時間と意志力を捧げたくない人・モノ・コトであれば、回避せよ。それが無理なら最小化を試みよ。
一番いけないのは無自覚なまま自分の時間と意志力を垂れ流し一生を終えることである。
意に反して自分の時間と意志力を奪う人・モノ・コトを回避するにはどうするか。もっとも身近な例で言えば、気が進まない飲み会。答えは、その場で断る。
我が人生の師の一人、Fさんは見事である。
Fさんは、気が進まない飲み会や会合に誘われたその時点で即座に断るのである。断り方も完成されていて、必ず「私はちょっと…」とおっしゃる。
小心者のぼくなどは気が進まない飲み会に誘われたときには、「断ったら悪いかな」などと思い参加の意思表示を保留にしてしまいがちだ。その場合、日を追うごとに気が重くなるし、ますます断りづらくなる。その間、心を煩わして無駄に意志力を浪費してしまう。
それに比べFさんの場合、断る瞬間の意志力は要るものの、断ったあとはずっと心は晴れやかである。
立場を替えて、自分が誘う側になったことを想像してみる。一番困るのは飲み会当日まで来るか来ないかわからない人だ。誘った瞬間に「私はちょっと…」と断られた場合には、あっさりと「また誘えばいいか」とスルーされるものなのだ。「私はちょっと…」の「ちょっと」とは何だろう、と思うかもしれないが。
究極の有限資源、時間と意志力を死守せよ。
一番大事なものに時間と意志力を思う存分、ふんだんに投入し、それ以外は極力時間と意志力をsaveせよ。
一番大事なものが他者にとって無価値であっても構わない。
一番大事なもの以外は大事ではない。
繰り返す。
一番大事なもの以外は、大事ではない。 ちょっと言い過ぎた。ごめんね。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』 2024年5月15日より)
SNSは承認欲求を肥大させ、そして同時に承認欲求をやせ細らせるという話。
SNSは承認欲求を肥大させ、そして同時に承認欲求をやせ細らせる。
SNSが承認欲求を肥大化させる問題は、しばしば指摘されてきた。 SNSでの承認が欲しいばかりに人はバイト先でアイスケースに横たわって写真をアップしたり飲食店での問題行動を動画に上げたりして失敗する。
しかしもう一方の、SNSが承認欲求をやせ細らせる問題はあまり指摘されていない。
前提として、適度な欲求や欲望は行動のエンジンであり、適度であるかぎり欲求や欲望は好ましいものと考える。
食欲があるからこそそれを満たすために我らは働き社会参加する。
もし人間が葉緑素を持っていたら、人間はわざわざ汗水垂らして働かず日がな一日ひなたぼっこして暮らすだろう。いいなそれ。
食欲などなどの欲望があるからこそそれを充足させようと我らはあがく。
承認欲求もしかりで、承認欲求を満たすために「も」我らは社会的活動をする。
さてここで問題が一つ。
承認欲求を満たす、他者からの承認にも「量」と「質」がある。
そして、ダニエル・カーネマンがいうところのシステム1は、他者からの承認の「量」は認識できても「質」は認識できないっぽいのだ。
滋養あふるる料理ではなくジャンク・フードでも手軽に空腹は満たされるように、承認欲求もまたインスタントな他者からの承認でも満たされてしまう。
承認欲求を満たすために「も」、学者は論文を書きビジネスマンは売り上げを上げ、それぞれの職業仲間から承認を得る。そうやって良質な承認を得ようとして前に進んでいく。
しかしSNSで指一本で承認がお手軽に大量に得られる時代になると、わざわざウイルスの研究に打ち込んでうんうんうなりながら論文書いて世に問うよりも、エキセントリックな言説でSNSの人気者になったほうが早い。
SNSによる承認欲求のインスタントな充足という問題は、目に見えにくい。
SNSのやりすぎによってインスタントに承認欲求を満たしてしまうのは考えようによっては怖
いことだ。
何かを成し遂げたいとか何者にかなりたいという人は、SNSとのつきあい方は慎重にしたほうがよいかもしれない。
(『カエル先生・髙橋宏和ブログ』2024年4月10日を加筆修正)
ふるさと納税は自己肯定感の夢を見るか。
大都市と地方の格差是正のためとして「ふるさと納税」が導入されたのが2008年。かれこれ16年になる。
この政策の良しあしを専門家がどう評価するかはわからぬ。万物と同じく功罪両方あるだろうが、プラスの面、特に心理的なプラスの面についてかんがえた。
いいことだけしか書かないのは知的にフェアではないので引っかかる点も書く。
実は、「ふるさと納税」制度には引っかかる点は3つある。
「ふるさと納税」制度では、本来居住地に納税されるはずのお金がほかの自治体に行ってしまうことで居住地の税収が減り、そのぶん住民サービスが低下するor「ふるさと納税」してない住民がその分を補てんすることになること。「ふるさと納税」していない納税者が割を喰うわけだ。これはよく言われている
また、「ふるさと納税」の「お礼」が高額になることで、実質税金逃れ的にも運用できてしまうことなどの問題点は以前より指摘されている。
たとえば仮に、「お礼」を商品券にして、ふるさと納税」の95パーセントの「お礼」を返すような制度にすると合法的な節税ががっつりできちゃいますね。ここらへんは導入当初と比べ返礼品の率を下げることである程度対応されている。
地味だけど大事なのは、「ふるさと納税」と間接民主主義の相性がいいのかどうかというところ。
どういうことかというと、
①間接民主主義では、有権者は納税額に関わらず一人一票の発言権を持ち、その発言権を代表(代議士とか)に預ける。リタイアして所得税払ってなくても一人一票、経営者で高額納税していても一人一票。
②預かった発言権を根拠に、代議士などはみんなで税金の使い道(=予算)を相談し決める。実質的には予算案は大筋で役所が作ったものではあるが、しくみ上は代表が話し合って「こういうふうに予算を使おう」「この分野は手厚く予算配分しよう」と決めることになっている。
③ふるさと納税はそのプロセスをすっとばし、税金の使い道を納税者が直接決める。
④しかもその裁量は納税額が大きいほど大きい。出所は自分の税金ではあるが、たくさん「ふるさと納税」する人は、自治体・国の予算の一部をどこに割り振るか決める権限が多いことになる。
⑤民主主義では発言権・裁量は出したお金の額と比例しない。出したお金の額が多いほど発言権・裁量が大きいのは一人一票の民主主義・選挙じゃなくて一株一票の株主総会。
⑥だから本当は「AKB総選挙」じゃなくて「AKB株主総会」が正しい。
最後のほうはふるさと納税の話でなくなっているが、税制の研究者などからみればふるさと納税はキメラのごとき制度なのであろう。
さはさりながら(業界用語)しかし実際には、大義名分と実利、さらに「自分が関与することで状況が変わる感」がセットになったこの制度は、まだまだ広がっていくのだろう。外資系企業が仲介事業に参入するとのことで、徴税業務の手数料が外資に流れてよいのかという問題提起もされているし。一方で納税者が直接税金の使い道を決める云々については、もともと寄付金控除という制度もあるしなあ。
そういうわけで、「ふるさと納税」は民主主義を考える上でも非常に興味深い。
アメリカなんかでは議員に有権者が意見するときには「As a tax payer、納税者として」なんて前置きをして話すそうでけれど、国民と有権者と納税者はイコールではないんですね。国民は未成年も含むし、有権者は納税していない人も含むわけで。
いずれにせよ、もし自分が新しくなにか制度を作るときには、大義名分と実利、さらに「自分が関与することで状況が変わる感」を意識して制度設計するといいようですね。
それにしても、和牛とお米、どっちがいいかなあ。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2016年12月5日・2024年3月14日を編集・加筆)
みんなもっと「無責任なアドバイス」をしあったほうがよいという話。
先日手にとった本にこんなことが書いてあった。曰く、
〈無責任なアドバイスこそ聞くに値する〉
(by 東京都・自営業 61才男性。『他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え』鉄人文庫 p40)
最近の人はみんないい人だから(大雑把)、無責任なアドバイスというのはしない傾向にある(当社調べ)。
相手のことをおもんばかって、こんなことを言ったらどう思われるかを瞬時に計算し、前後の話と矛盾がないか論理的一貫性はどうか実現可能性はあるか維持可能性はどうかなどなどを必死で計算して繰り上がり繰り下がり切り捨て切り上げ四捨五入してアドバイスするから、結果として小ぶりでしごく当たり前のアドバイスしかできない。
しかしながら背中を押されたりああそうなのかと天啓のごときひらめきを聞いた者に与えるのはいつだって「無責任なアドバイス」だ。
そうした「無責任なアドバイス」が与えられるのは多くの場合酔いどれ達がたむろしはじめる夕暮れの酒場だったりするけれど、コロナが流行ってからこっちなかなかそういう酒場も行きづらかったり羽目を外しにくかったりして、「無責任なアドバイス」も触れにくくなってしまった。
酒場の「無責任なアドバイス」業界のトップクラスの1人はマンガ『たそがれたかこ』の美馬さん。この人は〈蜘蛛は網張る 私は私を肯定する〉(山頭火)みたいな人で、こういう言った本人もすぐ忘れちゃうくらいのいい加減な人の言葉のパンチラインの中に現実を解決するライムが潜んでたりする。
たぶんみんな、もっと「無責任なアドバイス」を生み出したり聞き流したりしたほうがよいのだ。まあその結果どうなろうと責任は持てないが。
愚にもつかないアドバイスのことを「クソなアドバイス=クソバイス」というそうだが、「無責任なアドバイス」と「クソバイス」は似て非なるものだ。 どう違うかというと、強制性の有無にある。
「無責任なアドバイス」は言ったほうもすぐ忘れる。なにしろ無責任だから。 しかし「クソバイス」のほうは、クソバイスしたほうはしつこく覚えていやがる。「俺がこの間アドバイスしたあの件どうなった?」とか。うるせえ。
要は、「クソバイス」がクソなのはアドバイスの内容ではなく押し付けがましさゆえなのだろう。
まあそんなわけでみんなもっと「無責任なアドバイス」をしたほうがよい。そのかわり瞬時にアドバイスしたことを忘れるべきだ。
言われたほうも「無責任なアドバイス」を真に受けず、心に刺さったもの以外はぜんぶ「無責任やな笑」と受け流す。
それでこそ「無責任なアドバイス」が光り輝くのだ。
ちなみにぼくが受けた「無責任なアドバイス」ナンバーワンは、国境問題でひところ話題になった島の話を雑談でしてるときにH先生に言われた、
「あなた医者だろ?だったらあの島に診療所建てて住め。他国があの島に攻めてきてあなたがやられたら、邦人保護ってことで自衛隊も動けるから」
です。やだよおっかない。
(『カエル先生 高橋宏和ブログ』2024年1月19日を加筆修正)
なぜTwitterでのやりとりではイラっとすることがあるのか考ー議論と会話、7並べとUNO
おごりおごられ割り割られー「割り勘」考。
まずは1杯目のビールを人数分、Aさんがまとめて払う。
次に2杯目のビールは人数分、今度はBさんがまとめて払う。
3杯目のビールは人数分、Cさんがまとめて払う。
こうしたやりかたを、イギリスでは「ROUND」というそうだ。
友人Iさんから教えてもらったのだが、中華圏でも最近は「割り勘」も使われるようになっているとのこと。
「AA制」(「Acting Appointment」または「All Apart」の頭文字らしい)と呼ばれているそうである。。
友人Nさんの話では、20年ほど前の香港では、中国人同士だと「一番のお金持ちが全員分をおごる」という風潮だったそうだ。ポトラッチ的な感じですね。面白い。
社会や組織に変わり者が必要なわけ~ゾウリムシの繊毛の話
(イラストはシルエットACより)
ここ30年ばかり、心の片隅にゾウリムシがいる。
出典を確認すべく最近やっと取り寄せた上前淳一郎著『読むクスリ 15』(1991年 文藝春秋)にはこんなことが書いてある。
ゾウリムシは草履に似た微生物で、そのまわりには小さく細い毛、繊毛がびっしり生えていて、それがボートのオールのようにおんなじ方向に動いている。そのためにゾウリムシはすいすいと前へと進んでいくが、数百本の繊毛の中に数本だけ、全然別の動きをしている奴がいるというのだ。
なんでそんな非効率的な動きをしている奴がいるのか、数百本が全く同じように動いていたほうが無駄がないじゃないかと思って観察してみると、なんと勝手な動きをしている奴が大活躍する瞬間がある。ゾウリムシが、方向転換するときだ。
つまり、まっすぐ進んでいたゾウリムシが大きく方向を変えるとき、今まで少数派だった勝手な繊毛の動きに、ほかの数百本が動きを合わせることによって、ゾウリムシはスムーズに方向転換をするのだという。
そしてコラムはこう続く。
実は会社や組織というのもこれと同じで、5%程度の異端や異分子がいてこそなにかあったときにスムーズに方向転換できるのではないか、と(上掲書 p.132)。
それで思い出すのは東大理学部数学科出身の元大蔵官僚、髙橋洋一氏だ。
髙橋氏の著書にはこんな一節がある。
『大蔵省は話題づくりのために二年に一人くらいの割合で、変わった経歴の人間を採る。私はその「変人枠」で採用されたようだった。』(髙橋洋一「さらば財務省! 官僚すべてを敵にした男の告白」 講談社 2008年 p.40)
髙橋氏自身はここで「変人枠」を「話題づくり」と片付けているが、そこには旧大蔵省の組織保全というか環境変化への適応力の保険というか、そうした経験に基づいた組織の知恵というものがあるのではないかと思う。
5%の異端や異分子、異物を内部にビルトインすることで組織の健全化を図る知恵みたいなものが旧大蔵省の「変人枠」だったのではないだろうか。
10年くらい前にも、「役所のなかの役所」と呼ばれる中央官庁に「日本で一番難しい理系学部」卒業生が入省したという噂を聞いた。今はどうしているのか興味津々である。
こうした組織内の異端や異分子、異物を人為的につくりだそうとした試みが「ぶらぶら社員制度」であろう。
永谷園では1979年に、通常業務は一切せず、2年間の間、食べたいものを食べ、行きたいところに行き、新しい商品のアイディアを考えるだけの「ぶらぶら社員」という制度ができた。永谷園の「麻婆春雨」というヒット商品はこうして生まれたそうである。
(永谷園HP:マンガ「麻婆春雨」開発秘話 )
こうした「ぶらぶら社員」制度は、検索するとセブン&アイ・ホールディングスやキングレコードといった会社にもあり、面白いとは思うが、それほど多くの企業や組織で取り入れられていないのは何らかの無理があるのだろう。生真面目な本業の中に遊び心を入れることが「ぶらぶら社員」の本質なのに、社命とあらば生真面目に「ぶらぶら」してしまうお国柄のせいだろうか。
組織全体の中に異端の「繊毛」をつくるよりもむしろ、一人の個人の活動の中に異分子、異端を取り込むほうが現実的かもしれない。
不惑を前に思わず手に取った本、「40代を後悔しない50のリスト」(大塚寿著 ダイヤモンド社 2011年)には「8割は守りでいいから2割は攻めろ」と書いてあったし(p.49)、グーグル社の社員は勤務時間の20%は自分の好きにやってよい、という「20% ルール」があるという(http://googlejapan.blogspot.jp/2007/07/20.html)。
そんなわけで、「方向転換の時に役立つ5%の繊毛」に心惹かれながらここまで来たわけであるが、ここにきてふつふつと疑問が湧いてきた。心の拠り所にしてきたその繊毛の話が、そもそもウソだったらどうしよう、というものである。
というわけで、ゾウリムシの繊毛および「役所のなかの役所」の人事に詳しい方がいらしたら、ぜひぜひご一報ください。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2016年4月13日を加筆修正)
病院受診の質を上げるたった3つのこと。
3つのことをはっきりさせるだけで、病院受診の質を上げることができる。
非常に簡単かもしれないが、簡単ではないかもしれない。
完璧な受診なんてない。完璧な絶望がないようにね。
さてと。
病院受診の質を上げるため、あるいは受診の際の不完全燃焼感を下げるためには以下の3つのことをはっきりさせるとよい。
すなわち
①目的
②主語
③語尾 である。
まず大前提として、名医には巡り会えない。
1万人に1人の名医を求めてもそれは叶わない。 日本には33万9623人の医者がいるが(令和2年12月31日現在)、1万人に1人の名医を求めるならば、日本には名医は33人しかいないことになる。
「黙って座ればピタリと当たる」ような名医には巡り会えないと思うところから話は始まる。
病院を受診した際、あなたの目の前の医者は「黙って座ればピタリと当たる」名医ではないので、あなたが何を求めて病院に来たのかは明確にしたほうがよい。
「病気だから病院に来たに決まっているだろう」とお思いかもしれないが、人は様々な理由で病院を訪れる。
・具合が悪いので原因はどうでもいいからとにかくなんとかして欲しい
・具合が悪いので薬とかはいらないからとにかく原因が知りたい
・なんだかよくわからないけれどまわりの人やほかの医者から病院に行けと言われた
・症状は落ち着いているからいつもの薬だけだして欲しい
・役所や会社に出す書類を書いて欲しい。薬とかはいらない
それぞれの場合、医者の対応も変わってくる。
診察し仮診断を下しそれに基づいて必要なら検査などをして診断の正確性を上げ状況に応じて治療を行うという王道は変わらないが、時間の使い方や濃淡は変わってくる。
この「Youは何しに病院へ」を明確にすれば、病気の原因を知りたいだけだったのによくわからないまま山ほどの薬だけ出されて不完全燃焼のまま帰宅するという事態は減らせる。