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「何かやりたいけど何をやったらいいかわからない」「何者かになりたいけどそれが何かはわからない」という若者への無責任な11のアドバイス

高橋宏和(H4卒)
date:2022/9/16

「何かやりたいけど何をやったらいいかわからない」「何者かになりたいけどそれが何かはわからない」。

そんな思いにとらわれたことのある人は少なくない。

青年期特有のものなのか、人生100年時代には周期的に襲ってくるものかはわからない。

若かりし頃の、そうした自分自身に向けてアドバイスするとしたら何というか考えてみた。順不同です。

 

①自分の本当にやりたいことをやれ。

当然ながらこれはナンセンスなアドバイスである。

そんなものがわかっているのなら悩んでいないわけだから。

右往左往、行ったり来たりしながらそうしたものがうまい具合に見つかったらラッキー、そしたらやってみなはれ。

 

②なんでもいいから手当たりしだいにやってみなはれ。

手ごたえは手探りでないと掴めない。

やってみないとわからないことは山ほどあるし、やってみてはじめて自分の向き不向きもわかるというものだ。

キャリア形成における偶発性の持つウエイトの大きさを指摘し「ハプンスタンス・アプローチ」を提唱したクランボルツは、「情熱は行動によって作られる。必ずしも情熱のあとに行動があるわけではない。まず行動があり、そのあと情熱が生まれることも多い」と述べている(『その幸運は偶然ではないんです!』ダイヤモンド社p.76)。

 

③適性なんかそうそうわからない。

自分に何が向いているかなんてのはわからない。

iPS細胞でノーベル賞もらった山中先生も、整形外科医としてキャリアをスタートさせた。整形外科医としては不器用なほうで、周囲から「ジャマナカ」と言われていたという。

大事なことは、ノーベル賞受賞者ですら、キャリアをスタートする前には自分が整形外科医に向いていないことも基礎研究に向いていることもわからなかったということだ。

 

④来た仕事はひとまずなんでも受けてみよ。

自分に何が向いているかは世間が決めてくれる、という考え方である。

漫画家しりあがり寿氏は独立するとき、自分が漫画家として何がやりたいかわからなかったそうだ。

そこで氏のとったアプローチは、来た仕事は何でも受ける、というものだった。

〈きっと何でも受けていれば、自分がダメな分野の仕事はこなくなって、自然に仕事の幅が収斂してゆくだろう。逆にいつまでもいろんな仕事がくればそれはそれでいいじゃないか(略)〉(『表現したい人のためのマンガ入門』講談社現代新書p.164)と考えたという。

この話は、「何をしたいかわからない」段階の話なので、来た仕事を何でも受けているうちに自分自身で適性に気づいたり、仕事の好き嫌いがわかってくればシフトチェンジして構わない。

 

⑤「あるべき社会」「あってほしくない社会」から考えろ。

自分のことはよくわからないが、他人のことはよくわかる。

「何かやりたいけど何をやったらいいかわからない」段階では、思い切って「あるべき社会」や「あってほしくない社会」から考えてみる。

やなせたかし氏がアンパンマンを描いたのは、「世の中で一番の悪は、“飢え”だ」と思ったからだという。アンパンマンが自分の顔を差し出すのは、〈ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくしては正義は行えません(略)〉(『あんぱんまん』収載「あんぱんまん について)とやなせ氏が考えたからだ。

「あるべき社会」や「あってほしくない社会」をまず考え、その実現や回避のために自分ができることやれることを探すアプローチもある。

歴史を振り返れば人類のほぼ全ては食うや食わずで必死でやってきたわけで、「何かを成し遂げたい」「何者かになりたい」というのは言ってみればまあ贅沢な悩みであるわけだけれど、悩みは悩みなわけで、無責任なアドバイスもあってもいいだろう。贅沢の果てに病気になったとしても処方箋は必要なように。

 

⑥自分の本当に好きなことをやれ。

これまたナンセンスなアドバイスである。

こういうことをいう大人は多いんだけど、そんなものがあったら悩んでいない。

というわけで次。

 

⑦自分の好きなもののために動け。

自分が何をやるのが好きかわからなくても、自分の好きなものはわかるかもしれない。

自分の好きなもの、“推し”のために何が出来るか考えてみる。

エイベックスは、もともと社長が自分の好きなダンスミュージックを広めるために輸入レコード販売業をはじめ、それが発展してできた会社だという。

サブカルの王様みうらじゅん氏も、自分が前に出たいからではなく自分の好きなものを広めたいから動くという。

〈私が何かをやるときの主語は、あくまで「私が」ではありません。「海女が」とか「仏像が」という観点から始めるのです。〉(『「ない仕事」の作り方』文藝春秋kindle版1115/1490)。

好きなものがあれば好きなものが、好きな地域があれば好きな地域がより輝くために自分が何が出来るか考えて動く。そんなアプローチがあってもよい。

自分のためには頑張れなくても他人のためには頑張れる。そんな側面が、人間にはある。

 

⑧得意なことをやれ。

「やりたいこと」や「なりたいもの」がわからなくて動けないのであれば、得意なことをやる。徹底的にやる。

亡くなられた瀧本哲史氏が書いていた戦略の中に、「楽勝で出来ることを、徹底的にやる」というものがあった(『戦略がすべて』新潮新書p.95など)。

自分だけのしっかりした人生を歩み、「生(せい)の実感」を得たいのなら、楽勝でできること=「強み」を活かすのがもっとも手っ取り早い。

何故なら、

〈1 人の才能は一人ひとり独自のものであり、永続的なものである。

2 成長の可能性を最も多く秘めているのは、一人ひとりが一番の強みとして持っている分野である。〉から(〈〉内はマーカス・バッキンガム他『さあ、才能に目覚めよう』日本経済新聞出版社p.12。原題は『NOW,DISCOVER YOUR STRENGTH』)。

 

⑨自分が徹夜できることをやれ。

「自分が好きなこと」「自分が得意なこと」もよくわからない場合、自分が何のためなら徹夜できるか考えてみる。

映画『紅の豚』の中に登場する若き飛行艇職人フィオは依頼された飛行艇の設計を夢中でやっているうちに徹夜になる。そこまでして没頭できる飛行艇づくりが彼女の天職であるということだ。

秋元康氏は今の年齢になっても明け方まで作詞するという。作詞が彼の天職であるということだ。

 

自分が何なら徹夜できるのか考えるアプローチは、数年前に気づいた。ある研究者がSNSに「論文書いててまた徹夜になっちゃいました」と書いていたからだ。

論文を書くことは研究のすべてではないが、最重要プロセスの一つだ。

ぼく自身は論文を徹夜で書く根性はなく、当然ながら研究分野では到底勝てないと遅まきながら思い知らされた。

そのかわり、もし必要なら医療機関の運営のためなら徹夜できる。だから今、医療機関の運営に携わっている。

 

このアプローチ、徹夜できることをやれと言っているが徹夜しろとは言っていない。

いやむしろ、〈「徹夜はするな。睡眠不足はいい仕事の敵だ。それに、美容にもよくねえ」〉。

 

⑩まわりの人に聞きまくれ。

友人知人親や兄弟姉妹というのは、あなたが思っているよりもはるかにあなたのことをよく見ている。

「何かやりたいけど何をやったらよいかわからない」「何者かになりたいけれどそれが何かはわからない」、そんな思いにとらわれ身を焦がすほどの状況になったら、素直にまわりの人に聞きまくるのも手だ。

「君は〇〇が向いている」とか「××がいいんじゃない?」とか、それこそ無責任なアドバイスをたくさんもらえるだろう。

このアプローチで大事なことは、だれか一人の人の言うことを盲信しないということと、あくまで決定権は自分で握るということだ。

一人の人の言うことを盲信するとろくなことがないが、あくまで参考意見としてたくさんの人に聞きまくることで見えてくるものがある。

 

さて、話は変わるが、ストレスフルな現代社会を生き抜く、特にメンタル面に効くライフハックをご存知だろうか。

その一つが「心の中にオカマバーのママを住まわせる」というものだ。

グジグジ悩んでいるときも、「な〜に悩んでるのよっ。アンタなりによく頑張ってるじゃない。いいから早くそのボトル空けちゃいなさいよ!アタシも忙しいんだから!」とダミ声で励ましてくれる。

 

というわけで、グジグジ悩む若者に向けてのアドバイスの11番目はこちら。

 

⑪悩んで動けない時は、とにかく時給が高くなりそうなことをリストアップして眺めろ。

え何?「結局、金か」って?

…ま〜だグジグジ悩んでんの?!ほんといいご身分ね!

人間なんてね、有史以来み〜んな食うや食わず、食っていくため食わせるために必死のパッチで頑張ってんのよ!

それが何よ!何かやりたいけど何をしたらいいかわからない、だって!?アンタ何様のつもりよ?

アタシがアンタのために10コもアドバイス考えてあげたんだから、グジグジ悩んでないでとっとと動きなさいよ!

 

「でも…」ですって?!アンタ、アタシに刃向かう気?

まあいいわ、そんな時はね、何でもいいから時給が高くなりそうなものを全部リストアップしてみなさいよ!

何?「オレは金のために働くんじゃない」、ですって?!

アンタね、お金は大事よ!

お金で買える幸福は少ないけど、お金で回避できる不幸は多いんですからねっ!

 

何やるにしたってタネ銭は要るし、そんなにお金要らないなら、有り金全部アタシに寄越しなさいよっ!

だいたいね、仕事するのにかっこつけてお金の話ぼやかすのなんて東京モンくらいよ!

ニューヨークだってロンドンだって上海だって北京だって、仕事の話するなら「で、それなんぼになるん?」ってみんな聞くわよっ!

お金のこと軽んじるんなら、道頓堀に沈めるわよっ!

 

いい?よくお聞きなさい!

「何をすべきかわからない」、なんて時はね、とりあえず時給が高くなりそうなこと全部リストアップしてみなさい。

で、上から順にずーっと眺めていくと、「あ、この仕事、金にはなるけどオレはやりたくないな」とか「あんまり金にならないけど、この仕事ならやってみたいな」とかって心が動くから。

人間ってね、選択肢が与えられると途端に賢くなるから。

 

大事なのはね、ストレス発散も含めて時給計算すること。

8時間やって2万円もらえる仕事があっても、それがイヤな仕事で、仕事のあとキャバクラで1万5000円散財するような仕事じゃ、トータルの時給は下がるからね!

アタシら水商売でも、アブク銭稼いでてもストレスためてホストに貢いでトータル時給下げるコ、たくさんいるからね。そんな仕事なら、時給高いリストのランクは下がるからね。よく考えてリスト作りなさいよ!

 

あとね、いくら時給が高くても、自分で自分が嫌いになるようなことはあんまりやんないほうがいいわよ。

仕事とは縁が切れても、自分自身とは縁が切れないんだから。嫌いになった自分とずっと付き合ってくってのはシンドイからね。

 

とにかくね、心が動かないときは体動かしなさいよ!手を動かして足を動かして汗かいたら、心も動き出すから!「この仕事やりたくないな」でも「この仕事、もっとやりたいな」でもどっちでもいいから、心が動いたら次に進む道も見えるでしょ。

いい?わかったらとっとそのJINRO飲んじゃって!アタシも忙しいんだから!

 

というわけで皆様よい一日を。

ぼくも『脳内マツコ』を回収して、今日も仕事に取り掛かることにする。


(photoACより)



『カエル先生・高橋宏和ブログ』2020年7月21日25日27日を加筆修正)

現代社会において頭の良さとはメタ認知である。

高橋宏和(H4卒)
date:2022/8/20

現代社会において、いわゆる「頭の良さ」とはメタ認知である。
たくさんの知識を持っているということは素晴らしい。だが、インターネットと知の結合により、知識そのものを持っていることの相対的価値は下がっている。自分自身で知識を持つことの大事さはいくら強調しても強調し過ぎることはないが、それでも昔のように「あの人は“歩く辞典”だ」のような褒め方はしなくなった。
 
メタ認知とは1970年代に発達心理学者のジョン・フレイヴェルが使い始めた概念だという(三宮真智子『メタ認知で〈学ぶ力〉を高める』北大路書房 2018年 p.15)。
上掲書によれば、メタ認知的知識は、
〈①人間の認知特性についての知識
②課題についての知識
③課題解決の方略についての知識〉だという(p.16)。
 
たとえば①は、「人間は感情的になると間違えやすい」とか「人間は慌てると失敗する」などの、人間の特性についての知識だ。
これには他者の特性も含まれる。「チームの誰々さんはこんなことを知っている」とか、「自分がいま話している相手は、いま取り組んでいる課題についてこれくらい理解している」などなど。
 
②は、課題そのものについての知識である。
課題の本質がなんであるか、課題はどんなことをどの程度まで要求しているのかなどの知識や認識が十分であれば、クレバーにスマートに課題に取り組める。課題そのものへの知識認識が不十分であれば、その逆だ。
 
③は、課題に取り組むためにはどのような方法があるかの知識認識である。
ただし気をつけないといけないのは、〈(略)、人間の認知特性についての知識および課題についての知識をもっていてこそ、課題解決の方略についての知識が活かされるという点(略)〉(p.18)だ。
『人間を知る』『ものごとの本質は何か』が無ければ、全ては小手先の浅薄なハウツーに堕す。
 
自分という人間がどのような特性を持つのか、自分は何をどこまで知っているのか、相手は何をどこまで知っているのか、いまの課題は何か、課題は何をどこまで要求しているのか、その要求を満たすためにはどんな方法があるのか。
そんなメタ認知を働かせることが現代社会では求められるのである。
 
現代社会において「頭の良さ」とはメタ認知という話をしている。
自分が何をどれだけ知っているか、話している相手は何をどこまで知っているか、そのギャップを埋めるにはどのような言葉をどれだけ駆使すればよいか。いまの課題は何か、その本質とは何か、課題が解決されるには何がどこまで要求されているか。そんな知識や認識に関する俯瞰的な認知であるメタ認知の高い者こそが、現代社会では「頭が良い」とされるのだろう。
 
だがメタ認知にも落とし穴はある。
メタ認知の一部は、いわゆる「空気を読む」能力だ。その場の状況を把握し、展開されている人間関係を踏まえて行動する。空気を読む能力もまたメタ認知の一部だろう。
この「空気を読む」能力が行き過ぎると、過剰適応を起こす。あるいは現状追認的になる。
メタ認知の高い人間、頭の良い人間というのは、往々にして目の前の事象になんらかの理由づけをするのが得意だ。「〇〇が今の状況になったのには理由があって、それは××」とスマートに説明できてしまう。
だがそれはかなりの確率で、「だから仕方がない」という結論に結びついてしまうのだ。
 
しかしながら、現代社会においても不合理、不条理な出来事、差別や格差という社会問題は山ほどある。
そうした是正すべき問題に対しアクションを取るために、メタ認知能力が高すぎると勝手に合理化してかえって問題発見のセンサーが鈍ったり、問題解決のモチベーションが下がったりはしないだろうか。
 
だから、メタ認知能力を発揮する場合には、自分が過度にメタ認知能力を発揮しすぎてないかをさらにメタ認知する、いわばメタメタ認知が必要になる。しかしながら、これ以上考えるとキリがないのでここらへんで「公開」ボタンを押すことにする。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年6月25日を加筆修正)

我らが社会と陰と陽。

高橋宏和(H4卒)
date:2022/7/17

「俺らの世代は撤退戦。前の世代が広げ過ぎたものをうまく畳んで、次の世代に手渡すのが俺らの世代の仕事じゃないかな」

今から10数年前、友人Oがしきりにそんなことを言っていた。

当時はそうは言ってもなにかやりようがあるのではと反論したりもしていたが、ここ最近やはりOの言葉は真実ではないかと思うようになってきた。

言うまでもなく、少子化がすべてに影響している。

 

何度考えても胃が痛くなるが、日本では15歳から64歳までの生産年齢人口は減り続けている。総人口も減っており、2100年には日本の総人口が4959万人まで減るという(①)。今までと同じようなやりかたの仕事、今までと同じような仕事量は不可能だ。

国土全体でみても、インフラの老朽化、全国すみずみでの公共交通網の縮小は目を覆うばかりである。

広げるだけ広げたものを、畳む局面に来ているのだろう。

 

だが、畳むにしてもうまい畳み方とそうでない畳み方がある。うまい畳み方とはなにか。

 

四書五経の一つ『易経』に、陰と陽の考え方がある。

安岡正篤氏によれば、陰とは収束、集中する力、陽とは発展、拡大する力だという。

 

植物をイメージして欲しい。

種から芽が出て、茎が出る。茎はやがて根を伸ばして幹となる。幹からは枝がにょきにょきと伸びて葉を茂らせ、花を咲かす。この、幹から枝を伸ばして葉を茂らせる力が陽である。

逆に、繁茂しすぎた枝葉を落とし、幹へと根へとエネルギーを集中させてゆく力が陰である。

 

陰と陽はともに重要であり、陰の方向性のエネルギーと陽の方向性のエネルギーを止揚し中することこそが重要だと『易経』は教えている(と安岡氏は説いている)。

 

冒頭の話に当てはめると、我らの世代の撤退戦は単なるダウンサイジングであってはならない。それは単なる衰退である。

そうではなく、繁茂し過ぎた枝葉を剪定し、幹や根、まさにものごとの根幹にエネルギーを集中するということだろう。

そのためには、何がこの社会の根幹であるか、どの枝葉を残すべきかをよくよく見極めなければならない。

次なる陽のために、次なる世代の種を残すために。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年7月15日より加筆修正)




参考資料① 平成27年版厚生労働白書ー人口減少社会を考えるー序章

リモートワークと陰と陽。

高橋宏和(H4卒)
date:2022/6/20

社会がどう変わってゆくかに野次馬的関心がある。



まだまだ予断を許さないとはいえ、2022年のゴールデンウィーク明けにコロナ感染の爆発がなかったことは日本社会に自信を与えた。

大多数がワクチン接種を終えたあとであれば、2022年のゴールデンウィークくらいの社会活動は出来る(のではないか)ということで、だんだんとコロナ禍前の社会に戻りつつある。



それを前提に関心があるのが、リモートワークなどの遠隔での社会活動がどこまで定着するのかしないのかということだ。

多くの方々と同じように、ぼくもまたハイブリッド型の社会になっていくのだろうと予想する。



中国古典の『易経』では、物事の進行や人間の活動を、〈陰〉と〈陽〉の両面から考える。

安岡正篤氏の著作では、陰陽を植物に例えてこう説明している。

〈(略)一番わかりやすい具体的な例は植物であります。草木を産み育てていく創造自体は何かと申しますと根であります。次に幹であります。これが根幹であって、枝葉が分かれ、花が咲き実がなる。そこでこれを陰陽で申しますと、根幹が陰の代表であり、枝葉と花実は陽の代表であります。〉(安岡正篤『易と人生哲学』竹井出版 昭和六十三年 p.87)

安岡氏は、〈陰とは統一含蓄であり、陽は発現分化〉(p.88)とまとめている。



占いとしての易は信じていないが、物事の捉え方として非常に面白い。

根幹から発して上へ上へとどんどん枝葉を伸ばし花を咲かせる発展の方向性が〈陽〉、煩雑になり過ぎた枝葉を切り落とし物事の根幹へ根幹へと掘り下げてゆく方向性の精神活動が〈陰〉。さらに重要なのが、〈陰陽相待って堅実な創造活動がある〉(p.87)ということだ。



リモートワークの話に戻る。

リモートワークをはじめとする一人での作業は、〈陰〉の精神活動に向いている。物事を掘り下げ、枝葉末節を切り落とし根幹へ本質へと絞り込んでゆくには一人で集中してゆく必要がある。

それに対し、オフライン、フェイス・トゥー・フェイスで他者とワイワイガヤガヤやるのは〈陽〉の精神活動向きだ。ああでもないこうでもないと話はあっちにいったりこっちにいったりして枝葉に発展して話に花を咲かせる。異なる考え方を交配させ、実を結び、次の発展のタネを得る。

大事なのは、〈陰〉の精神活動も〈陽〉の精神活動も、両方必要だということだ。



というわけで、〈易〉の考え方を踏まえてもこれからの社会はハイブリッド化しかないだろうと占占うのだが、はてさてどうなることやら、当たるも八卦当たらぬも八卦。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年6月16日を加筆修正)



写真の説明はありません。

あらかじめ失われたふるさと~団塊ジュニアの老後問題。

高橋宏和(H4卒)
date:2022/5/20

<人は、中年になり急に演歌を聴くわけでもなく、老年になり急に文部省唱歌を聴くわけでもない。青春時代の愛聴曲を生涯愛するのだ。

だから、団塊Jrの老年期、老人ホームでは消灯時間にGet Wildが爆音でかかるようになる。老年の我らはGet Wildを聴きながら自室に帰るのだ。解けない愛のパズルを抱いて>

@hirokatz 2022年4月22日

1973年生まれの団塊ジュニアとして、自分たちの行く先というのをつらつら考えている。果たしてぼくらの老後ってどうなるんだろう?

冒頭に書いたのはいわば戯れ言だが、そもそも団塊ジュニアが老人ホームに入れるかもわからない。正直、厳しい。

この世代の課題としてあまり指摘されていないのは、「ふるさとモデル」が無効になることではないかと思う。

 
現在、日本の人口の半分は東京・名古屋・関西の三大都市圏に集中している。これは戦後、高度経済成長にともない地方から人が大都市圏に集まってきたことが大きな要因の一つだ。団塊ジュニア世代は、こうした人口移動で大都市圏に移ってきた人たちの第2世代や第3世代にあたる。
 
地方から大都市圏に移ってきた第1世代には「ふるさと」があった。
そこには父母や兄弟、親族に同級生がいて、盆暮れに帰れば旧交を温めて、いつの日か錦を飾る「ふるさと」。大都市での生活がうまくいかなければ、あるいは大都市での仮の生活が終われば、いつの日か「ふるさと」が温かく迎えてくれる、そんな「ふるさとモデル」が、第1世代では機能した。
ここで大事なのは、実際に「ふるさと」に帰らない者たちにも、心の安定装置として「ふるさと」が機能したということである。実際、「いつかはふるさとに帰る」と思い続け言い続けながらも結局は大都市圏で生涯を過ごす、あるいは過ごした第1世代のほうが多いと思う。
 
この話、ぼく自身は自分を第2世代と位置づけている。
ぼく自身だけなのかあるいは他の方々と共有できるのかはぜひ聞いてみたいが、第2世代や第3世代になると、この「ふるさとモデル」が機能していないのではないか。
「ふるさと」から大都市圏に出てきた第1世代は、高度経済成長と相まって、出世魚のように転居を繰り返した。社会全体の富も増えて、次から次へと大都市圏へ流入する人口も豊富だったから、住宅と住宅地のグレードアップも今よりは容易で、借り換え、買い替えによる転居が当たり前だった。
上記の第1世代にとって、大都市圏での生活は「仮の宿」だったので、結果的に大都市圏の特定の場所に「根を張る」意識は少なかった。
その結果、第1世代の子や孫である我らが団塊ジュニアは、「ふるさと」を持つことなく、老後を迎えることになる。
 
「ふるさとなんかいらない」という意見もあるだろう。
だがら団塊ジュニアの老後に問題となるかもしれないのが、退職などに伴う帰属先・帰属意識の消失と、日本的な低負担中福祉の社会保障モデルの機能不全である。
仮説だが、後者は「ふるさとモデル」が持つ弱い紐帯の存在を前提とし、公的社会保障を「ふるさと」による絆で補完・補強することであやうく成り立っている、または成り立っていたのではないか。
「ふるさとモデル」が機能しないとすると、団塊ジュニアの老後には、さまざまなことが今とは変わってくる。

最低限言えることは、過去の先に未来があると思ってはならないということだ。社会の人口構成の激変により、2030年や2040年には今とはまったく異なる光景が展開される。

 

河合雅司氏と牧野知弘氏の『2030年の東京』(祥伝社)によれば、〈(略)戦後、地方から絶えず人を入れ込んできた東京も、住民は今や第3世代(略)〉(p.73)。祖父祖母の代に地方から出てきて、父母の代には祖父母のふるさとと人的・心情的につながりがあったが、自分たち第2~3世代の代にはつながりはかなりの部分ヴァーチャルなものとなっている。
 
彼らは(というより僕らは)、代々東京生まれ東京育ちの人たちのように東京を「ふるさと」と思うことも少ない。ルーツの地と東京の価値観の二つを自己の内部で葛藤させつつ共存させた東京移住第1世代のようにコスモポリタンでもない。東京圏のマンションで生まれ育ち、人生のステージのそれぞれであちこちに転居した東京第3世代は悪くいえば根無し草であり、よくいえば〈「アドレスフリー」〉であり〈「ノマド」〉である(〈〉内は前掲書p.74)。
 
もちろん団塊ジュニア世代には生粋の東京人もたくさんいるが、東京圏(東京+その近郊のベッドタウン育ち)移住第2,3世代も一定数いる。繰り返しになるが、その第2,3世代は、「あらかじめふるさとを失った世代」である。
「地方から東京などの大都市圏に進学、就職で出てきて、盆暮正月には里帰りし、郷里に残った親族や同級生と旧交を温める。故郷に錦を飾る気で頑張り、退職後は郷里に帰って畑仕事しながら余生を過ごす」という「ふるさとモデル」は成り立たない、あるいは成り立たなくなりつつある、というのが『2030年の東京』の裏テーマかもしれない。
 
本題からそれるが、第4世代以降はいわゆる社会の階層固定化や産業構造の変化により物理的に人を集める必要性が減ることなどと相まって、近年50年に比べ転居は減り、東京圏や名古屋圏・関西圏各地に根を張り、大都市を「ふるさと」と認識していくのだろう。
 
老人ホームにも入れない、「ふるさと」もない団塊ジュニアはどうしたらよいのか。
「ふるさとモデル」では弱い紐帯として地縁や血縁が機能すると想定された(実際は人による。中島みゆき『ファイト!』みたいな地縁もあるだろう)。
だが、「ふるさとモデル」が喪失された「2030年の東京」の世界では、セイフティネットとしての地縁、血縁の機能は相当に失われている。
 
だからこそ何らかの方法で弱い紐帯を作る必要がある。そのための仕組みとしてフランスの「隣人祭り」みたいなことが広く行われていくのか、あるいは浅田次郎『母の待つ里』みたいなことが起こるのか(ネタばれを避けるため、これ以上は書けない。マエストロの作品構成力、人物造形、物語の運びが冴える逸品であり、45歳以上の都市生活者および都市近郊生活者なら刺さると思うのでぜひ)。
 
あらかじめふるさとが失われた世代は、どのようにしてインフォーマルなセーフティネットを作っていけばよいのか。
『2030年の東京』にはこんな一節がある。
〈高齢社会への道を進む日本において、決定的に欠けているのは大人の社交場なんです。〉
〈(2030年には)オタク文化の最初の世代が高齢者になるのですから、消費活動もその延長線上にあるはずです。〉(河合雅司・牧野知弘『2030年の東京』祥伝社新書2022年 p.127,129)
こうした大人の社交場を作ることが、もしかしたら「ふるさと」作りにつながるかもしれない。
インターネット上の仮想空間に「ふるさと」を作るという方向性もあるが、ここではリアルにこだわりたい。
 
リアルに大人の社交場を作り、それを「ふるさと」の代わりにする場合、意識しなければならにのは移動の制限だ。
高齢者は脚が悪くなるなどして、若者より移動できなくなる。また勤労人口の減少により、公共交通機関も間引き運転となる。2030~40年には、今よりもはるかに人々は移動しなくなる(かもしれない)。
だから、大人の社交場を作るとすれば、住宅地の近くになる。
2030年~2040年には人々は今より移動しなくなるとすると、自ずと商圏はせまくなるし、いわゆるオタク趣味というのは微に入り細に入る傾向にあるから、たとえば大規模テーマパークなどと真逆、少ないコアをターゲットにすることになる。
 
少ないコアなマーケットでは毎日十分な利益は出ないから期間限定のものとなろう。もちろん初期投資は抑えるべきだから既存の施設や店舗を利用するほうがよい。
というわけで、現存の店舗を利用し、「ドラゴンボールを語り尽くすday」とか「Get Wild全バージョンを聴き倒すday」とかの日替わりイベント(高齢者は夜早く寝るので、「~聞き倒すNight」ではなく「day」)を開催して、「大人のオタク社交場」を提供する。こうした事業とかはマジでそこそこニーズがあると思う。ダメならやめればよいだけの話だ。
たぶんキモはオーガナイザーが真のオタク/ファンであることと、参加者同士の双方向の交流の仕組みづくりだろう。
 
高齢社会は今より移動が困難になるので、住宅近接でのマイクロイベントを想定している。「ブックカフェ」の俗っぽい版みたいなものは結構ニーズがあると思う。



オタク趣味、懐古趣味をメインコンテンツにすえたのは理由がある。
認知症の治療の一つで「回想法」というものがある。これは患者さんが昔使っていたものなどを用い、過去を掘り起こしてもらうことで症状の安定を図るという手法だ。
 
回想法では、たとえば元大工の人であれば、大工道具を渡してどのように使うのか話してもらう。職業以外にも、あるいは子どものころや働き盛りのときに過ごしていた場所に一緒に行ったりその場所の写真を見てもらったりして思い出を語ってもらう。
 
実際に回想法(的なこと)をやってみると、皆ものすごく生き生きとする。「過去」と「推し」は「いま」を輝かせるのだ。
 
高齢社会において必要な「大人の社交場」だが、何も趣味系のイベントに限定することはない。
「北海道day」とか「沖縄day」とか、県人会のカフェ版みたいなことをやって各都道府県の出身者やその土地土地に暮らしたことがある人、旅したことがある人、さらにはいつかその土地に行ってみたい人を集めて語らってもらうというのがあってもよい。
あるいは「教育者day」とか「デザイン系day」とか、それぞれの仕事にゆかりのある人を集めて雑談してもらうスタイルとか。
 
大事なのは、「メンバーを固定化させない」ことと「テーマを固定化させない」こと、一言でいうとフレキシビリティーだろう。
こうした集まりはだんだん「ボス」を生み出し序列化する傾向にあるから、毎回テーマを変えるとよいだろう。各テーマごとに「ボス」が生まれてしまうのはやむを得ないが、たとえば「北海道day」ではボスになる人も「ビートルズday」では聞き役にまわることもあるはずだ。
 
だからいろんなテーマで「大人の社交場」を演出するのがよろしいと思う。
メンバーが各テーマごとに入れ替わることで、地域に「弱い紐帯」を何本も作れるはずだ。
 
「物理的な場所を」「新たに」つくるという方向性ではなく、「今ある場所を活用し」「人を活用する」という方向で持っていくべきだろう。
行政の予算は目に見えるところにつきやすいのと、日本は人に投資しない傾向にあるので、「町カフェ」みたいに箱物つくる方向に行かないように要注意だ。
オーガナイザーとかMC的に「場所を回す」人に予算をつけて、いまある場所を活用していくのが重要だと思う。
公民館でも既存のカフェでもいいので「場を回す」人があちこち出張していって、日替わりで「ドラゴンボールを語りつくすDay」とかやっていくイメージである。
10~30名規模のイベントなので、その「場を回す人」の日当をねん出するために行政が予算つけてくれるとリーズナブルなものになるのではないか。もちろん基本は独立採算だが。
 
あらかじめふるさとを失った団塊ジュニアの一員として、近い将来、こうしたイベントをやってみたいと思う。
とりあえず今やってみたいのはワールドカフェスタイルの「北斗の拳と美味しんぼとシティーハンターを語り倒す会」である。

もちろん閉店のBGMは『Get Wild』で。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年5月2日、5月6日な
どを加筆修正)

親子という”業”~子であることの苦しさ、親であることのほろ苦さ

高橋宏和(H4卒)
date:2022/4/16

〈(略)「舜が歴山で耕作していた時、田んぼに行っては天を仰いで号泣したと聞きます。どうして号泣したのでしょうか」。
孟子が答えた。「親に愛されないことをうらめしく残念に思い、また親を思い慕ったのだ」。
(略)
『自分は力を尽くして田んぼを耕し、子として慎んで職務を果たすだけだ。父母が私を愛してくださらないのは、きっと私に何らかの罪があるからなのだ』」。〉(佐野大介『孟子』角川ソフィア文庫 平成27年 p.160-161)
 
何年かぶりに『孟子』を読み返し、万章編でそんな箇所に当たった。書き下し文だと〈舜田に往き、旻天(びんてん)に号泣す。何為れぞ其れ号泣するや、と。孟子曰く、怨慕するなり、と。〉(上掲書p.159)となる。
前回読んだときは読み流していたのか記憶にないが、今回『孟子』を読んでみて衝撃を受けた。
舜という中国古典における聖人ですら、親に愛されたくて号泣するのか、ということにである。
 
親子というのは難しい。
特に子どもが小さいときには、親は子どもにとって世界の全てを占める。
〈小さな子供にとって、親は生存のためのすべてであり、そういう意味では、いわば神のようなものである。〉とすら言い切る学者もいる(スーザン・フォワード『毒になる親 一生苦しむ子供』講談社+α文庫 2001年 p.34)。
 
成長の段階で、健全に親との距離感を育み、「親には親の人生がある。私には私の人生がある。親と私は別人格で、まあそれでよい」という心境に到達できればよいが、そうでない人もいる。そうした人は人知れず葛藤し、無条件の愛を求めていつまでも天を仰いで悲嘆にくれる。そして、そういう人は、意外に多い。
 
その葛藤を自覚して意識化できれば救いはある(かもしれない)のだが、意識化できず無意識のうちに自分を突き動かす衝動のもととなってしまうと往々にして悲劇が待ち受けている。
 
だが、分かったようなことをいうのはやめよう。
舜という中国古典の聖人ですら、親子の関係は克服できなかったのだ。
ただ一言、親子というのは“業(ごう)”としか言いようのないものだ、と言うにとどめたいと思う。
 
*************
 
子であることが時に苦しいとすれば、親であることは時にほろ苦い。
ヘミングウェイの短編に、こんな一節がある。
 
〈「とてもいいストーリーじゃないか」少年の父親は言った。「どんなにいい出来か、自分でわかってるかい?」
「お母さんがパパに送りつけたのは心外だったよ、ぼく」
(略)
「しかし、おまえがあの小説で書いたカモメについてはどこで知った?」
「パパから教わったんじゃなかったかな、あれは」〉(ヘミングウェイ『何を見ても何かを思い出す』 新潮文庫『ヘミングウェイ全短編3』平成九年p.547-548)
 
誰かの子であることは時に苦しく、誰かの親であることは時にほろ苦い。
ヘミングウェイの短編『何を見ても何かを思い出す』(原題『I Guess Everything Reminds You of Something』)では、父と息子の交流のシーンが描かれる。明確には書かれてはいないが、ふだんは離れて暮らしている父と息子は、ひと夏をともに過ごす。
 
父と息子がひと夏を過ごし、何年も時が経つ。ある出来事がわかる。
ああ、あの夏のあれは、ああいうことだったのか。
父の胸に去来する感情を思うと、ただただほろ苦い。
 
畢竟、資本主義の世界ではほぼ全てのものが最終的にお金に換算されてしまう。
どんなに愛し合って一緒になった夫婦でも、こじれれば最後は算定表にしたがい関係は精算される。後腐れ無し、だ。
ただ、親子の関係性ばかりはそうはいかないのではないか。
子が親を思うとき親が子を思うときに発生する感情というのは、時に絡まり解けないパズルとなる。
 
親子の絆と言えば聞こえはよいが、「絆」と字は「ほだし」とも読む。
「きずな」と読めばポジティブな結びつきになるし、「ほだし」と読めば「自由を束縛するもの」となり心をがんじがらめにするものだ。「きずな」も「ほだし」も、どうしようもない。
 
子であることの苦しさ、親であることのほろ苦さと付き合いながら、「親には親の人生がある。子には子の人生がある。親の人生は親のもので、子の人生は子のものだ。ともにそれぞれの人生を自分の足で歩んでゆく。そして、それでよい」という境地を目指してゆくしかないのだろう。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年2月17日、24日を加筆修正)

バイアスから自由になることはとても難しい、という話。

高橋宏和(H4卒)
date:2022/3/15

「目の前の模擬患者さんが南極観測隊に行くとして、シミュレーション問診してください。では、はじめ!」

ずいぶん前に参加した、医者向けのとあるワークショップでの光景である。誰かを不用意に批判する意図は無いので、少し状況を変えて書く。

ワークショップは極地での医学に関心のある様々な科の医者向けの者で、バックグラウンドはさまざま。

耳鼻科医もいれば外科医もいるし、心臓専門の医者も、肺や呼吸が専門の医者もいた。

ある程度経験が長くなると、自分以外の医者の診察過程を直接見ることは少ない。ましてや自分と別の専門の科のドクターの診察プロセスを見る機会はほぼ皆無と言っていいだろう。

冒頭に戻る。

「目の前の患者さんが南極観測隊に行っていいか、医学的に可否を診断してください」

ファシリテーターの突然の言に、会場が静かにざわついた。事前に知らされていない、抜き打ちの模擬診察だったのだ。

「では、そちらのセンセイ、前へどうぞ」

司会に促され、呼吸器内科医が前に出る。

「じゃあやってみて。私が患者さん役やりますので、問診してみてください」

司会者が言う。

「…ええと…えー、ふだん咳とか出ませんか?持病に喘息は…?」

戸惑いながら、呼吸器内科のドクターがきく。

模擬診察がひとしきり続き、次の医者の番になる。

「もともと、鼻は悪いですか?」

耳鼻科医がきく。

「脈とか飛びませんか?ふだん血圧は高くない?」

次に呼ばれた循環器科医はそう切り出す。

「手とかしびれたことはない?力が入らなくなることは?頭痛や意識無くなったこととか?」

その次の脳外科医はまずそう聞いた。

ぼくはそれを見ながら、人間というのはこんなにも自分の専門分野に引きずられてモノを見るのかとある意味で感動した。

「目の前の患者さんが南極観測隊に参加して良いか医学的に判断を下す」というミッションは同じなのに、誰もがみな、知らず知らずのうちに自分の得意分野で勝負しようとする。バイアスのかかった目でモノを見て、バイアスのかかったアタマでジャッジしようとする。そして、夢中になればなるほど、自分にバイアスがかかっていることを忘れる。

バイアスから自由になってモノを見、モノを考え、ジャッジして、話したり書いたりするのはとてつもなく難しい。

完全にバイアスから自由になるのは正直言って人間にはムリだとすら思う。

せめて出来ることと言ったら、自分にどんなバイアスがかかっているか意識すること、どこまでそのバイアスが自分の言動に影響しているかときどき確認すること、それから誰かが何か言ったらそれを鵜呑みにせずに、そこになんらかのバイアスがかかっていないか健全に疑うことくらいだろうか。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2020年3月14日を加筆修正)

妓夫太郎と『ナナメの夕暮れ』

高橋宏和(H4卒)
date:2022/2/15

〈いつもの散歩コースの神社の階段を降りて大通りに出た。
すると、頭にすっぽりと黒いフードをかぶった暗い目をした男とすれ違った。
一瞬目があったけど、世界への恨みを募らせたような目つきが怖くて思わず目を背けた。
もう少し目を合わせている時間が長かったら、殴りかかってきていたのではないだろうかというような目つきだった。
「誰でもいいから殴りたい」。目がそう言っていた。
世界への恨みは歩き方にも現れていた。
歩行速度が遅く、あまり足を上げずに擦るように足を出す。
その足音が「ここには居たくない」ことと「行き先がない」ことを同時にあらわしていた。〉(若林正恭『ナナメの夕暮れ』文春E-BOOK 2018年あとがきkindle版1889/2037)
 
「たまたまだよな」
最近、友人たちが口々に言う。
「ほんと、俺たちがここにいるのはたまたまだよな。なんとか生き残ってこうしていられるのも、たまたまだよ」
ドリョクやサイノウやキモチノモチカタ、そうしたことの積み重ねで人と差をつけましょう。
本屋に行けばネットを開けばそんな言葉が溢れている。生き残りのために熾烈な戦いが要求される世の中だ。
なんとかかんとか40代後半まで泳いできて、広い意味では生き残ってきたといってよいのだろう。
だが、若林正恭氏のいう「黒いフードをかぶった暗い目をした男」と自分は、紙一重だった。そしてこれからも紙一重だ。
何が彼と自分を分けたのだろう?
答えはそう、「たまたま」だ。
 
『鬼滅の刃』遊郭編では、鬼の兄弟、妓夫太郎と堕姫に、炭治郎と禰豆子の兄妹が対峙する。
「もしかしたら、あいつがオレで、オレがあいつだったかもしれない」。
炭治郎と、おそらく妓夫太郎の心中に芽生えただろうそんな感情に、一部の視聴者はこころを揺さぶられただろう。
そう、紙一重で、たまたまが、あんなにも大きく二組の兄妹の道を分けてしまった。
 
〈違う、違う。
お前と俺は多分話が合うんだよ。
きっと苦しくて、なんでこんなに苦しいんだろう?ってずっと考えていたらそれは外の世界全体のせいのような気がしてるんだろ?
それでもし「誰でもいいから揉めたい」ってイラついているんだとしたら君と僕は話が合うんだよ。〉
若林正恭氏のエッセイはこう続く。
 
炭治郎は「誰でもいいから揉めたい」とは思っていないだろうし、僕だって「黒いフードをかぶった暗い目の男」と話が合うと思うほど楽観的ではない。人と人とは、分かり合えない。
だが、「黒いフードをかぶった暗い目の男」と自分は「紙一重」で、自分がこうしていられるのはほんとうに「たまたま」だったと思える人と、話がしたいと思う。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年2月15日より加筆修正