「何かやりたいけど何をやったらいいかわからない」「何者かになりたいけどそれが何かはわからない」という若者への無責任な11のアドバイス
「何かやりたいけど何をやったらいいかわからない」「何者かになりたいけどそれが何かはわからない」。
そんな思いにとらわれたことのある人は少なくない。
青年期特有のものなのか、人生100年時代には周期的に襲ってくるものかはわからない。
若かりし頃の、そうした自分自身に向けてアドバイスするとしたら何というか考えてみた。順不同です。
①自分の本当にやりたいことをやれ。
当然ながらこれはナンセンスなアドバイスである。
そんなものがわかっているのなら悩んでいないわけだから。
右往左往、行ったり来たりしながらそうしたものがうまい具合に見つかったらラッキー、そしたらやってみなはれ。
②なんでもいいから手当たりしだいにやってみなはれ。
手ごたえは手探りでないと掴めない。
やってみないとわからないことは山ほどあるし、やってみてはじめて自分の向き不向きもわかるというものだ。
キャリア形成における偶発性の持つウエイトの大きさを指摘し「ハプンスタンス・アプローチ」を提唱したクランボルツは、「情熱は行動によって作られる。必ずしも情熱のあとに行動があるわけではない。まず行動があり、そのあと情熱が生まれることも多い」と述べている(『その幸運は偶然ではないんです!』ダイヤモンド社p.76)。
③適性なんかそうそうわからない。
自分に何が向いているかなんてのはわからない。
iPS細胞でノーベル賞もらった山中先生も、整形外科医としてキャリアをスタートさせた。整形外科医としては不器用なほうで、周囲から「ジャマナカ」と言われていたという。
大事なことは、ノーベル賞受賞者ですら、キャリアをスタートする前には自分が整形外科医に向いていないことも基礎研究に向いていることもわからなかったということだ。
④来た仕事はひとまずなんでも受けてみよ。
自分に何が向いているかは世間が決めてくれる、という考え方である。
漫画家しりあがり寿氏は独立するとき、自分が漫画家として何がやりたいかわからなかったそうだ。
そこで氏のとったアプローチは、来た仕事は何でも受ける、というものだった。
〈きっと何でも受けていれば、自分がダメな分野の仕事はこなくなって、自然に仕事の幅が収斂してゆくだろう。逆にいつまでもいろんな仕事がくればそれはそれでいいじゃないか(略)〉(『表現したい人のためのマンガ入門』講談社現代新書p.164)と考えたという。
この話は、「何をしたいかわからない」段階の話なので、来た仕事を何でも受けているうちに自分自身で適性に気づいたり、仕事の好き嫌いがわかってくればシフトチェンジして構わない。
⑤「あるべき社会」「あってほしくない社会」から考えろ。
自分のことはよくわからないが、他人のことはよくわかる。
「何かやりたいけど何をやったらいいかわからない」段階では、思い切って「あるべき社会」や「あってほしくない社会」から考えてみる。
やなせたかし氏がアンパンマンを描いたのは、「世の中で一番の悪は、“飢え”だ」と思ったからだという。アンパンマンが自分の顔を差し出すのは、〈ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくしては正義は行えません(略)〉(『あんぱんまん』収載「あんぱんまん について)とやなせ氏が考えたからだ。
「あるべき社会」や「あってほしくない社会」をまず考え、その実現や回避のために自分ができることやれることを探すアプローチもある。
歴史を振り返れば人類のほぼ全ては食うや食わずで必死でやってきたわけで、「何かを成し遂げたい」「何者かになりたい」というのは言ってみればまあ贅沢な悩みであるわけだけれど、悩みは悩みなわけで、無責任なアドバイスもあってもいいだろう。贅沢の果てに病気になったとしても処方箋は必要なように。
⑥自分の本当に好きなことをやれ。
これまたナンセンスなアドバイスである。
こういうことをいう大人は多いんだけど、そんなものがあったら悩んでいない。
というわけで次。
⑦自分の好きなもののために動け。
自分が何をやるのが好きかわからなくても、自分の好きなものはわかるかもしれない。
自分の好きなもの、“推し”のために何が出来るか考えてみる。
エイベックスは、もともと社長が自分の好きなダンスミュージックを広めるために輸入レコード販売業をはじめ、それが発展してできた会社だという。
サブカルの王様みうらじゅん氏も、自分が前に出たいからではなく自分の好きなものを広めたいから動くという。
〈私が何かをやるときの主語は、あくまで「私が」ではありません。「海女が」とか「仏像が」という観点から始めるのです。〉(『「ない仕事」の作り方』文藝春秋kindle版1115/1490)。
好きなものがあれば好きなものが、好きな地域があれば好きな地域がより輝くために自分が何が出来るか考えて動く。そんなアプローチがあってもよい。
自分のためには頑張れなくても他人のためには頑張れる。そんな側面が、人間にはある。
⑧得意なことをやれ。
「やりたいこと」や「なりたいもの」がわからなくて動けないのであれば、得意なことをやる。徹底的にやる。
亡くなられた瀧本哲史氏が書いていた戦略の中に、「楽勝で出来ることを、徹底的にやる」というものがあった(『戦略がすべて』新潮新書p.95など)。
自分だけのしっかりした人生を歩み、「生(せい)の実感」を得たいのなら、楽勝でできること=「強み」を活かすのがもっとも手っ取り早い。
何故なら、
〈1 人の才能は一人ひとり独自のものであり、永続的なものである。
2 成長の可能性を最も多く秘めているのは、一人ひとりが一番の強みとして持っている分野である。〉から(〈〉内はマーカス・バッキンガム他『さあ、才能に目覚めよう』日本経済新聞出版社p.12。原題は『NOW,DISCOVER YOUR STRENGTH』)。
⑨自分が徹夜できることをやれ。
「自分が好きなこと」「自分が得意なこと」もよくわからない場合、自分が何のためなら徹夜できるか考えてみる。
映画『紅の豚』の中に登場する若き飛行艇職人フィオは依頼された飛行艇の設計を夢中でやっているうちに徹夜になる。そこまでして没頭できる飛行艇づくりが彼女の天職であるということだ。
秋元康氏は今の年齢になっても明け方まで作詞するという。作詞が彼の天職であるということだ。
自分が何なら徹夜できるのか考えるアプローチは、数年前に気づいた。ある研究者がSNSに「論文書いててまた徹夜になっちゃいました」と書いていたからだ。
論文を書くことは研究のすべてではないが、最重要プロセスの一つだ。
ぼく自身は論文を徹夜で書く根性はなく、当然ながら研究分野では到底勝てないと遅まきながら思い知らされた。
そのかわり、もし必要なら医療機関の運営のためなら徹夜できる。だから今、医療機関の運営に携わっている。
このアプローチ、徹夜できることをやれと言っているが徹夜しろとは言っていない。
いやむしろ、〈「徹夜はするな。睡眠不足はいい仕事の敵だ。それに、美容にもよくねえ」〉。
⑩まわりの人に聞きまくれ。
友人知人親や兄弟姉妹というのは、あなたが思っているよりもはるかにあなたのことをよく見ている。
「何かやりたいけど何をやったらよいかわからない」「何者かになりたいけれどそれが何かはわからない」、そんな思いにとらわれ身を焦がすほどの状況になったら、素直にまわりの人に聞きまくるのも手だ。
「君は〇〇が向いている」とか「××がいいんじゃない?」とか、それこそ無責任なアドバイスをたくさんもらえるだろう。
このアプローチで大事なことは、だれか一人の人の言うことを盲信しないということと、あくまで決定権は自分で握るということだ。
一人の人の言うことを盲信するとろくなことがないが、あくまで参考意見としてたくさんの人に聞きまくることで見えてくるものがある。
さて、話は変わるが、ストレスフルな現代社会を生き抜く、特にメンタル面に効くライフハックをご存知だろうか。
その一つが「心の中にオカマバーのママを住まわせる」というものだ。
グジグジ悩んでいるときも、「な〜に悩んでるのよっ。アンタなりによく頑張ってるじゃない。いいから早くそのボトル空けちゃいなさいよ!アタシも忙しいんだから!」とダミ声で励ましてくれる。
というわけで、グジグジ悩む若者に向けてのアドバイスの11番目はこちら。
⑪悩んで動けない時は、とにかく時給が高くなりそうなことをリストアップして眺めろ。
え何?「結局、金か」って?
…ま〜だグジグジ悩んでんの?!ほんといいご身分ね!
人間なんてね、有史以来み〜んな食うや食わず、食っていくため食わせるために必死のパッチで頑張ってんのよ!
それが何よ!何かやりたいけど何をしたらいいかわからない、だって!?アンタ何様のつもりよ?
アタシがアンタのために10コもアドバイス考えてあげたんだから、グジグジ悩んでないでとっとと動きなさいよ!
「でも…」ですって?!アンタ、アタシに刃向かう気?
まあいいわ、そんな時はね、何でもいいから時給が高くなりそうなものを全部リストアップしてみなさいよ!
何?「オレは金のために働くんじゃない」、ですって?!
アンタね、お金は大事よ!
お金で買える幸福は少ないけど、お金で回避できる不幸は多いんですからねっ!
何やるにしたってタネ銭は要るし、そんなにお金要らないなら、有り金全部アタシに寄越しなさいよっ!
だいたいね、仕事するのにかっこつけてお金の話ぼやかすのなんて東京モンくらいよ!
ニューヨークだってロンドンだって上海だって北京だって、仕事の話するなら「で、それなんぼになるん?」ってみんな聞くわよっ!
お金のこと軽んじるんなら、道頓堀に沈めるわよっ!
いい?よくお聞きなさい!
「何をすべきかわからない」、なんて時はね、とりあえず時給が高くなりそうなこと全部リストアップしてみなさい。
で、上から順にずーっと眺めていくと、「あ、この仕事、金にはなるけどオレはやりたくないな」とか「あんまり金にならないけど、この仕事ならやってみたいな」とかって心が動くから。
人間ってね、選択肢が与えられると途端に賢くなるから。
大事なのはね、ストレス発散も含めて時給計算すること。
8時間やって2万円もらえる仕事があっても、それがイヤな仕事で、仕事のあとキャバクラで1万5000円散財するような仕事じゃ、トータルの時給は下がるからね!
アタシら水商売でも、アブク銭稼いでてもストレスためてホストに貢いでトータル時給下げるコ、たくさんいるからね。そんな仕事なら、時給高いリストのランクは下がるからね。よく考えてリスト作りなさいよ!
あとね、いくら時給が高くても、自分で自分が嫌いになるようなことはあんまりやんないほうがいいわよ。
仕事とは縁が切れても、自分自身とは縁が切れないんだから。嫌いになった自分とずっと付き合ってくってのはシンドイからね。
とにかくね、心が動かないときは体動かしなさいよ!手を動かして足を動かして汗かいたら、心も動き出すから!「この仕事やりたくないな」でも「この仕事、もっとやりたいな」でもどっちでもいいから、心が動いたら次に進む道も見えるでしょ。
いい?わかったらとっとそのJINRO飲んじゃって!アタシも忙しいんだから!
というわけで皆様よい一日を。
ぼくも『脳内マツコ』を回収して、今日も仕事に取り掛かることにする。

(photoACより)
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2020年7月21日、25日、27日を加筆修正)
現代社会において頭の良さとはメタ認知である。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年6月25日を加筆修正)
我らが社会と陰と陽。
「俺らの世代は撤退戦。前の世代が広げ過ぎたものをうまく畳んで、次の世代に手渡すのが俺らの世代の仕事じゃないかな」
今から10数年前、友人Oがしきりにそんなことを言っていた。
当時はそうは言ってもなにかやりようがあるのではと反論したりもしていたが、ここ最近やはりOの言葉は真実ではないかと思うようになってきた。
言うまでもなく、少子化がすべてに影響している。
何度考えても胃が痛くなるが、日本では15歳から64歳までの生産年齢人口は減り続けている。総人口も減っており、2100年には日本の総人口が4959万人まで減るという(①)。今までと同じようなやりかたの仕事、今までと同じような仕事量は不可能だ。
国土全体でみても、インフラの老朽化、全国すみずみでの公共交通網の縮小は目を覆うばかりである。
広げるだけ広げたものを、畳む局面に来ているのだろう。
だが、畳むにしてもうまい畳み方とそうでない畳み方がある。うまい畳み方とはなにか。
四書五経の一つ『易経』に、陰と陽の考え方がある。
安岡正篤氏によれば、陰とは収束、集中する力、陽とは発展、拡大する力だという。
植物をイメージして欲しい。
種から芽が出て、茎が出る。茎はやがて根を伸ばして幹となる。幹からは枝がにょきにょきと伸びて葉を茂らせ、花を咲かす。この、幹から枝を伸ばして葉を茂らせる力が陽である。
逆に、繁茂しすぎた枝葉を落とし、幹へと根へとエネルギーを集中させてゆく力が陰である。
陰と陽はともに重要であり、陰の方向性のエネルギーと陽の方向性のエネルギーを止揚し中することこそが重要だと『易経』は教えている(と安岡氏は説いている)。
冒頭の話に当てはめると、我らの世代の撤退戦は単なるダウンサイジングであってはならない。それは単なる衰退である。
そうではなく、繁茂し過ぎた枝葉を剪定し、幹や根、まさにものごとの根幹にエネルギーを集中するということだろう。
そのためには、何がこの社会の根幹であるか、どの枝葉を残すべきかをよくよく見極めなければならない。
次なる陽のために、次なる世代の種を残すために。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年7月15日より加筆修正)
リモートワークと陰と陽。

社会がどう変わってゆくかに野次馬的関心がある。
まだまだ予断を許さないとはいえ、2022年のゴールデンウィーク明けにコロナ感染の爆発がなかったことは日本社会に自信を与えた。
大多数がワクチン接種を終えたあとであれば、2022年のゴールデンウィークくらいの社会活動は出来る(のではないか)ということで、だんだんとコロナ禍前の社会に戻りつつある。
それを前提に関心があるのが、リモートワークなどの遠隔での社会活動がどこまで定着するのかしないのかということだ。
多くの方々と同じように、ぼくもまたハイブリッド型の社会になっていくのだろうと予想する。
中国古典の『易経』では、物事の進行や人間の活動を、〈陰〉と〈陽〉の両面から考える。
安岡正篤氏の著作では、陰陽を植物に例えてこう説明している。
〈(略)一番わかりやすい具体的な例は植物であります。草木を産み育てていく創造自体は何かと申しますと根であります。次に幹であります。これが根幹であって、枝葉が分かれ、花が咲き実がなる。そこでこれを陰陽で申しますと、根幹が陰の代表であり、枝葉と花実は陽の代表であります。〉(安岡正篤『易と人生哲学』竹井出版 昭和六十三年 p.87)
安岡氏は、〈陰とは統一含蓄であり、陽は発現分化〉(p.88)とまとめている。
占いとしての易は信じていないが、物事の捉え方として非常に面白い。
根幹から発して上へ上へとどんどん枝葉を伸ばし花を咲かせる発展の方向性が〈陽〉、煩雑になり過ぎた枝葉を切り落とし物事の根幹へ根幹へと掘り下げてゆく方向性の精神活動が〈陰〉。さらに重要なのが、〈陰陽相待って堅実な創造活動がある〉(p.87)ということだ。
リモートワークの話に戻る。
リモートワークをはじめとする一人での作業は、〈陰〉の精神活動に向いている。物事を掘り下げ、枝葉末節を切り落とし根幹へ本質へと絞り込んでゆくには一人で集中してゆく必要がある。
それに対し、オフライン、フェイス・トゥー・フェイスで他者とワイワイガヤガヤやるのは〈陽〉の精神活動向きだ。ああでもないこうでもないと話はあっちにいったりこっちにいったりして枝葉に発展して話に花を咲かせる。異なる考え方を交配させ、実を結び、次の発展のタネを得る。
大事なのは、〈陰〉の精神活動も〈陽〉の精神活動も、両方必要だということだ。
というわけで、〈易〉の考え方を踏まえてもこれからの社会はハイブリッド化しかないだろうと占占うのだが、はてさてどうなることやら、当たるも八卦当たらぬも八卦。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年6月16日を加筆修正)

あらかじめ失われたふるさと~団塊ジュニアの老後問題。
<人は、中年になり急に演歌を聴くわけでもなく、老年になり急に文部省唱歌を聴くわけでもない。青春時代の愛聴曲を生涯愛するのだ。
だから、団塊Jrの老年期、老人ホームでは消灯時間にGet Wildが爆音でかかるようになる。老年の我らはGet Wildを聴きながら自室に帰るのだ。解けない愛のパズルを抱いて>
@hirokatz 2022年4月22日
1973年生まれの団塊ジュニアとして、自分たちの行く先というのをつらつら考えている。果たしてぼくらの老後ってどうなるんだろう?
冒頭に書いたのはいわば戯れ言だが、そもそも団塊ジュニアが老人ホームに入れるかもわからない。正直、厳しい。
この世代の課題としてあまり指摘されていないのは、「ふるさとモデル」が無効になることではないかと思う。
最低限言えることは、過去の先に未来があると思ってはならないということだ。社会の人口構成の激変により、2030年や2040年には今とはまったく異なる光景が展開される。
もちろん閉店のBGMは『Get Wild』で。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年5月2日、5月6日な
親子という”業”~子であることの苦しさ、親であることのほろ苦さ
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年2月17日、24日を加筆修正)
バイアスから自由になることはとても難しい、という話。
「目の前の模擬患者さんが南極観測隊に行くとして、シミュレーション問診してください。では、はじめ!」
ずいぶん前に参加した、医者向けのとあるワークショップでの光景である。誰かを不用意に批判する意図は無いので、少し状況を変えて書く。
ワークショップは極地での医学に関心のある様々な科の医者向けの者で、バックグラウンドはさまざま。
耳鼻科医もいれば外科医もいるし、心臓専門の医者も、肺や呼吸が専門の医者もいた。
ある程度経験が長くなると、自分以外の医者の診察過程を直接見ることは少ない。ましてや自分と別の専門の科のドクターの診察プロセスを見る機会はほぼ皆無と言っていいだろう。
冒頭に戻る。
「目の前の患者さんが南極観測隊に行っていいか、医学的に可否を診断してください」
ファシリテーターの突然の言に、会場が静かにざわついた。事前に知らされていない、抜き打ちの模擬診察だったのだ。
「では、そちらのセンセイ、前へどうぞ」
司会に促され、呼吸器内科医が前に出る。
「じゃあやってみて。私が患者さん役やりますので、問診してみてください」
司会者が言う。
「…ええと…えー、ふだん咳とか出ませんか?持病に喘息は…?」
戸惑いながら、呼吸器内科のドクターがきく。
模擬診察がひとしきり続き、次の医者の番になる。
「もともと、鼻は悪いですか?」
耳鼻科医がきく。
「脈とか飛びませんか?ふだん血圧は高くない?」
次に呼ばれた循環器科医はそう切り出す。
「手とかしびれたことはない?力が入らなくなることは?頭痛や意識無くなったこととか?」
その次の脳外科医はまずそう聞いた。
ぼくはそれを見ながら、人間というのはこんなにも自分の専門分野に引きずられてモノを見るのかとある意味で感動した。
「目の前の患者さんが南極観測隊に参加して良いか医学的に判断を下す」というミッションは同じなのに、誰もがみな、知らず知らずのうちに自分の得意分野で勝負しようとする。バイアスのかかった目でモノを見て、バイアスのかかったアタマでジャッジしようとする。そして、夢中になればなるほど、自分にバイアスがかかっていることを忘れる。
バイアスから自由になってモノを見、モノを考え、ジャッジして、話したり書いたりするのはとてつもなく難しい。
完全にバイアスから自由になるのは正直言って人間にはムリだとすら思う。
せめて出来ることと言ったら、自分にどんなバイアスがかかっているか意識すること、どこまでそのバイアスが自分の言動に影響しているかときどき確認すること、それから誰かが何か言ったらそれを鵜呑みにせずに、そこになんらかのバイアスがかかっていないか健全に疑うことくらいだろうか。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2020年3月14日を加筆修正)
妓夫太郎と『ナナメの夕暮れ』














