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コロナ禍とアイン・ランド『肩をすくめるアトラス』

高橋宏和(H4卒)
date:2022/1/19

世界はふたつに分けられる。
ぶつくさ文句を言いつつも問題解決に関わろうとする者たちと、文句だけ言っていれば誰かがどうにかしてくれると思っている者と。
 
アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』(“Atlas Shrugged”)の主題の一つはたぶんそれで、少なくともぼくはそう読んだ。
小説の中で「ワシントンのたかり屋たち」と呼ばれる後者の人々にうんざりして、企業家たちに代表される前者の人々はある日こつぜんと姿を消す。途端に世の中は、回らなくなる。
小説の中では、この「問題解決に関わろうとする者たち」と「誰かがどうにかしてくれると思っている者たち」というのは職域や立場や地位に関わらず存在していて、止まってしまった鉄道を動かすために立場を越えて前者の人たちが力を合わせて再開通させるシーンなどは感動的だ。
 
コロナ関連で残念な感じになってしまった小林よしのり氏だが、氏の著作で学んだ一つに「与党精神」というのがある。声高に現状を批判だけするのではなく、俺がやるという与党の精神ということだ。
「問題解決に関わろうとする者たち」というのは、この、俺がやるという与党精神を持った人たちといえるかもしれない。
 
実際には『肩をすくめるアトラス』のように綺麗に二者に分かれるわけではなく、多くの人の心に「ここは俺がやらなきゃ」という前者の部分と、「誰かがなんとかしてくれるだろ」という後者の部分が混在している。グラデュエーションもありますしね。
ネットばっかりやっているのが悪いのだが、ネット上でコロナ対応とかで批判や文句ばっかりしてれば誰かがなんとかしてくれるとタカをくくっている人たちをみるとつぶやきたくもなるものだ。Who is John Galt?
 
まあ世の中助け合いだしお互いさまで、たまたまコロナ禍で医療の出番が多くなってるだけではある。反ワクチンみたいな人に叩かれると疲れるけども。寒いし第6波きつそうだし許されるならアパラチア山脈の奥地で隠れ住みたいとこだけど。
 
というわけでぶつくさ文句も言うし下手な冗談も飛ばすし、それでも頑張って社会の持ち場で実務を回してまいりましょう。

〈荒野を走れ どこまでも 冗談を飛ばしながらも〉(B’z『RUN』)がテーマソングですね。がんばっていきましょう。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年1月8日を加筆修正)

ネットニュースに連日「ひろゆき」氏が出てくる「裏」の事情。

高橋宏和(H4卒)
date:2021/12/19

「それあなたの感想ですよね。データとかあるんですか」
道行く小学生がそんなことを言っていた。
ネットニュースを見れば連日のように「ひろゆき」氏が社会事象を「斬って」いるし、なぜこんなに「ひろゆき」氏的な物言いがウケているのだろうかと考えていくつかの仮説を得た。
 
だいたいああいう「論破(したつもり)ゲーム」はよくないですよね。相手が黙ってもそれはただ単に「こいつと話しても疲れるだけだから構わんとこ」ってだけだし、生産的でも創造的でもなく無駄にエネルギーを消費するだけで地球に優しくないからグレタさんに叱っても
らおう。
 
個人的には、若い時期にはまずスタンダード、オーソドックスな思想をある程度おさえておいて、その上でああした「ひろゆき」氏的物言いをこっそりフレーバーやスパイスとしてたまに取り入れるくらいがちょうどよいと思っております。少なくとも「ひろゆき」氏的なものを思想の主食にしてはいけないと思う。
さて、「ひろゆき」氏的物言いがウケている理由についての仮説。
日本人論の古典『日本人の意識構造』(会田雄次 講談社現代新書 昭和四七年)にこんな一節がある。
〈日本の特徴は日本人の意識に存するところの裏文化の優越にある。わたしたちの間では表文化はウソの世界だと考えられている。〉(前掲書p.57)
文化には「表」と「裏」があり、日本人の意識の中では「表」は虚飾とウソ、「裏」にこそ人生の真実があるとされているのではないか、というのが会田氏の主張だ。
たとえば芭蕉の「奥の細道」。裏道をトボトボあるいたからこそ芸術となった(のではないかと会田氏は主張する)。「裏」通りにこそ人生の悲哀と真実がある、と日本人は感じる(のではないかと会田氏)。
 
前掲書によれば、ここらへんの感覚は欧米人(欧米人といっても北欧とアングロサクソン国とラテン国とアメリカ東海岸・バイブルベルト・西海岸ではそれぞれ全然違うだろうが、ひとまずここでは欧米人としておく)には全然ない(という)。
「裏」はどこまでいっても「裏」で、正統な「表」の優越は揺らがない。
 
どちらがよいかの価値判断はしないが、こうした日本人の「裏」文化のほうに真実がある(のではないか)という感覚が、トリックスター「ひろゆき」氏をもてはやす遠因ではないだろうか。なんとかかんとかの「裏」の事情、とか書いてあると読みたくなるじゃないですか。
 
また、備忘録としてドナルド・キーン氏が「日本は英雄がいない国である」「日本は画一主義だが何故か奇人の存在を許す国である。平賀源内とか」と指摘しているのも書き添えておきたい(『日本人と日本文化』司馬遼太郎 ドナルド・キーン 中公新書 昭和47年。p.151とp.177あたり)。
 
以上、「ひろゆき」氏的な物言いがなぜこんなにウケているのかをつらつら考えた。その理由として、
①日本人はもともと「表」より「裏」に真実があると感じる価値観がある。トリックスターであり異端である「ひろゆき」氏にも、「裏」を知っている人こそ真実を知っていると期待しているのではないか。
②日本人は英雄は好まぬが奇人は好む。
という2点がmy仮説であるが、それあなたの感想ですよね。データとかあるんですか。

なぜあんな立派な人がコロナやワクチンの陰謀論にハマるのか(4)~陰謀論は人間の闇の欲望にフィットする&対策

高橋宏和(H4卒)
date:2021/11/17

2020年から始まったコロナ禍で、何人もの人が陰謀論に取りつかれるのを見た。

その中には社会的地位や名誉のある立派な人もいて、なぜあんな立派な人が陰謀論にハマるのだろうかと不思議に思ってきた。

ずっと考えてきて、少しだけ答えが見えた気がする。

 

人間の本質が善か悪は古来から議論されてきた。

まだ社会に染まりきっていない少年たちを無人島に放り出したらどうなるかの思考実験がジュール・ヴェルヌ『十五少年漂流記』でありウィリアム・ゴールディング『蝿の王』である。
性善説と性悪説の論争だが、僕自身は「性悪説(しょうわるせつ)」を取る。性悪説(しょうわるせつ)はたしか遠藤周作氏が提唱していた。
 
人間は、放っておいて全てうまくいくほど本質は善ではないが、悪に堕ち切るほどの悪でもない。放っておくと他人をけなしたり意地悪したり見下したりする「性悪(しょうわる)」な、いわば「てんで性悪キューピッド」が人間の本質ではなかろうか。
 
で、陰謀論というのはこの人間の本質にうまくフィットするんですな。
楽して他者をバカにしたいとか、自分だけ世界の真実を知ってる気になりたいとか、そうした人間の「性悪(しょうわる)」なとこにうまく訴求する。
飲んだだけでパワーアップした気になるエナジードリンクみたいなもんで、摂取しただけで生まれ変わった気にさせてくれるんでしょうね、陰謀論。モンスターエナジーパイプラインパンチうめえ。
 
陰謀論を信じて一人心の中で温めているうちはそんなに問題にならないが、陰謀論を振り回してるつもりで陰謀論に振り回されていくと、人生が狂い始める。
「そんなことも知らないのか!早く真実に目覚めてください!」とか周りの人をバカにし始めるともういけない。
「聞いた話だけど、コロナウイルスは熱に弱いから、25度のお湯を飲めばウイルスは死ぬ」とか大真面目に語り出して、だんだんと周囲から切りはなされていく。知人友人に怪しい動画のURLとかおくりまくって残念がられる。
そうやって周囲から孤立して先鋭化して、ますます沼にハマりこむのが陰謀論の怖さだ。
 
コロナウイルスが25度の熱で死ぬなら36度の体温でも死ぬはずだが、「自分だけが世界の真実を知っている立場になって、人々を教え導く立場になりたい」という人間の「性悪(しょうわる)」なところを刺激するのであろう、陰謀論。
だから現役時代に会社とかで偉い立場にいた人が引退後に陰謀論の動画とかにハマるんだろうなあ。
 
人間にはそうした「性悪(しょうわる)」なところがあって、そこをうまくつつくようなコンテンツが溢れている。
その中に陰謀論もあって、いつ自分もそこにハマるかわからないと自覚して生きるのが大事なのでしょうね。
 
このように、陰謀論は、人間の後ろ暗い欲求を刺激する。
「人を見下したい」「物知りぶりたい」「訳知り顔をしたい」「自分だけが真実を知っていて、それを使ってまわりの人をコントロールしたい」、そんな闇の欲望を刺激するからこそ、一部の人は陰謀論に取り込まれてしまうのだ。
 
恐ろしいことに、その闇の欲望は他人事ではない。誰の心にもそうした闇の欲望の芽はあって、多くの人はそれをうまい具合に飼い慣らしているだけだ。
 
僕がそれを自覚したのはコロナ禍のインフォデミックの中だった。
2021年の夏、こんな陰謀論がある、あんな陰謀論があると、古い知人とやりとりをしていた。
彼からもいろいろ情報を寄せてもらっていたのだが、どうも様子がおかしい。もらうメッセージが、次第に過激になっていくのだ。
「陰謀論の奴ら、こんなバカなこと言ってるよ」とか「バカなことを言ってるサイト見つけた!」とか、陰謀論に取り込まれた人をあからさまに嘲笑いこきおろすような文面が増えていき、しまいには毎日のように陰謀論動画のURLを送ってくるようになってしまった。
 
「陰謀論者もアンチ陰謀論者もお互いさま」などと言う気は全然まったく毛頭みじんもない。『喧嘩両成敗』主義は、思考停止をもたらす日本の悪しき風潮だ(参考文献 清水克行『喧嘩両成敗の誕生』講談社選書メチエ。めちゃめちゃ面白いのでおすすめです)
 
だが、我こそ正義なりと正論の刃を振るうときには気をつけなければならない。ダークサイドは、正義のすぐそばにあるかもしれない。
 
*************
 
陰謀論は足湯だ。肩までつかるもんじゃない。
諸外国を見ると全然油断できないが、2021年11月17日朝現在、今のところコロナ第6波は来ていないようで、これも関係者の皆様のご尽力のおかげだと思う。心より感謝の踊りを捧げたい。…踊り?
 
2020年から続くコロナ禍は、陰謀論やインチキ情報ウソ情報、デマに流言飛語との闘いでもある。
歴史の記録のために書いておくが、今まで
 
・コロナウイルスは熱に弱いので26〜27度のお湯を飲むと死滅する(デマ。2020年前半に流布)
・コロナワクチンを打つと5Gに接続する(デマ。2021年に流布)
などのデマが流布した(まとめておきたいのでほかにもデマがあればご指摘ください)。
SNS時代、デマの拡散は速く広く被害も大きく、「インフォデミック」「デマデミック」とまで呼ばれる事態となった。
 
これからもデマや陰謀論はたびたび出てくるはずだ。そんなデマや陰謀論に絡め取られないためには、3つのポイントがある。
 
・「本丸」を守る
・「宙ぶらりん」に耐える
・世間は案外正しい
だ。
 
「本丸」というのはあなたの人生の中心のことだ。
自分自身の心の安寧、家族関係・友人関係、仕事や職場、趣味やライフワークなどなど。
そうした人生の最優先事項は、徹底的に守り抜いたほうがよい。
陰謀論者の悲劇は、そうした最優先事項を陰謀論に振り回されることでズタズタにしてしまうことで起こる。
そうした「本丸」、最優先事項を守れるのならば何の問題もない。
楽しく健やかに「本丸」を守り抜けるのならば、陰謀論を信じたとしても何の問題もない。立派な社会人としてやっていけるのなら、陰謀論も紳士淑女の嗜みといったところだ。
「ご趣味は?」「地球平面説を少々たしなんでおります…」。
 
「宙ぶらりん」に耐える、というのは中西輝政氏の著書『本質を見抜く「考え方」』に出てくる言葉だ。
ものごとというのはそうそう白黒がつくものではない。ましてや人類にとって未知のウイルスとの闘いで、最先端の研究者だってわからないことだらけのタイミングでそう簡単に原因や対処法がわかるわけではない。
安易に結論に飛びついて行動に移したくなるのが人間ではあるが、「わからない」という「宙ぶらりん」に耐えることも必要だ。
調べること考えることが不要という意味では全くない。調べたうえ考えたうえで「今はまだわからないから、『わからない』ということを受け入れて、さらに調べて考え続けよう」という心構えが「宙ぶらりん」に耐える、ということだ。
中西氏が指摘している通り、これには相当の知的訓練が必要ではある。
 
世間というのは案外正しいもので、特にあなたの「本丸」以外ではほとんど場合結構正しい。
あなたの「本丸」がウイルス研究や感染対策である場合にはあなたが正解を知っている可能性は高まるが、あなたの「本丸」が別ならばあわてて陰謀論やデマに飛びつく必要はない。1、2週間〜半年くらい様子見たら何が正しくて何が間違っているかは明らかになる。慌てて陰謀論やデマに飛びつくより、1、2週間様子見て何が正しそうか見てから動くほうが失うものは少ない。
2014年の日本のベストセラーは『長生きしたけりゃふくらはぎをもみなさい』だったが、いま現在、長生きするためにふくらはぎを揉んでる人がどれだけいるだろうか。
You know,「Given enough eyeballs,all bugs are shallow./十分な目玉があれば、すべてのバグは洗い出される」(リーナスの法則)
 
陰謀論とその対策について思うところを述べた。
陰謀論対策ではよく「科学リテラシーを高めて云々」というが、全ての人が全てのことを知るのは無理だ。
上記の3対策は、悪くないと思う。どうか皆様、くれぐれも陰謀論には気をつけて。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2021年11月17日より加筆修正

なぜあんな立派な人がコロナやワクチンの陰謀論にハマるのか(3)~『ファスト&スロー』を下敷きに考える

高橋宏和(H4卒)
date:2021/10/15

「なぜあんな立派な人がコロナやワクチンの陰謀論にハマるのか」ということについて考えている。
 
ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』によれば、人間の判断は全く異なる2つのシステムによって下されるという。
すなわち、
・システム1 速い思考
・システム2 遅い思考
である。
 
システム1、速い思考は自動的に高速で働く。システム1の稼働に努力はあまり要らない。
システム2、遅い思考は難しい計算問題など困難な知的活動の時に働く。カーネマンによると、システム2は「怠け者」である。
 
ぼく自身、現時点で『ファスト&スロー』を十分に咀嚼し消化しきれていないことを告白する。解釈違い勘違いなどで間違ったことを書いたら順次修正していきたい。
で、カーネマンが正しいとすると、ぼくらは通常多くの判断をシステム1に負っている。
 
夜道を歩いていて前から人が近づいてきたときに、危険かもしれないと思って距離を取るのはシステム1の働きだ。
「あの人はどんな人か十分観察しよう。力の強さやヤバそうな奴か、どれくらいの確率で襲ってくる可能性があるかじっくり熟慮して、距離を取るために消費する身体的エネルギーの損失というコストに見合うかゆっくり検討しよう。行動はそれからだ」みたいにシステム2に判断を任せたりしない。
普段の生活ではシステム1は生存可能性を高めることに貢献してくれる。
 
ただし時々、あるいは頻繁にシステム1は誤作動を起こす。
そのための修正にシステム2を活用しなければならないのだが、システム2の活用には努力を要する。メンドくさいのだ。
 
これまたカーネマンが正しければ、システム1、直観的な思考・判断には多くの特徴がある。
たとえば数の判断が苦手(正確には「平均」は得意だが「合計」は苦手だという。前掲書p.168-169)だ。
また、感情や想起しやすさ(利用可能性 availability)など、様々な要素に影響されバイアスがかかる。
利用可能性とは思いだしやすさみたいなもので、未知のものに出会ったときに既知のものと置き換えて迅速な判断を下す。
 
つまみ食いであるのは承知しているが、こうしたシステム1の性質を知っていると、「コロナやワクチンの陰謀論にハマる人」の傾向が理解しやすくなる。こうした陰謀論にハマる人たちがシステム1の判断だけで発言しているとすると合点がいくのだ。
たとえば「コロナワクチンが効くというが、薬品Aも効くというデータがある。コロナに感染しても薬品Aがあるからワクチン不要」みたいな言説(仮の話が一人歩きするといやなので、わざと薬品Aと表記した)。
 
予防は治療に勝るという大原則はひとまず置いておく。薬品Aが効くというのが真かも置いておく。
ここで問題としたいのは、仮に仮に仮に(重要なので3回書いた)薬品Aが効くとして、「どれくらい効くか」という「数」の概念がすっぽり抜けていることだ。
コロナ感染者100人に投与して1人に効いても「効く」、100人全員に効いても「効く」である(RCTの話もひとまず置いておく)。
「薬品Aが効くというデータがある!」という主張には、この「どれくらい効くか」という「数」の視点はまったくない。
ワクチンの予防効果は95%くらいとされている。打っていない人が100人感染する環境で、打っている人たちを同数集めてきたら5人しか感染しないという数字だ。驚異的な効果である。
 
薬品Aが効くといっても、それほどの効果はない。
(ほんとは予防薬と治療薬を並列に論じるのはよくないよなあ、と思いつつ書いている)
「ワクチンも効くかもしれないが薬品Aも効く」というのは、「数」の概念が苦手な、システム1的言説なのではないだろうか。
またカーネマンは、よくわからないことを判断するときに身近なことに置き換えて判断するというシステム1の思考は、比較するために思い出せる事例があるかどうか、利用可能性availabilityに影響されると書いている。
 
面白いことに、利用可能性の影響を受けやすい条件というものがあり、<努力を要する別のタスクを同時に行っている。><タスクで評価する対象について生半可な知識を持っている。ただし本物の専門家は逆の結果になる。><強大な権力を持っている(またはそう信じ込まされている)。>だという(p.241-242)。
ここらへんに、冒頭の疑問「なぜあんな立派な人がコロナやワクチンの陰謀論にハマるのか」を解くカギがありそうだ。
(続く)

なぜあんな立派な人がコロナやワクチンの陰謀論にハマるのか(2)~3つのSにご用心。

高橋宏和(H4卒)
date:2021/8/19

複雑なこの世界は、今日もまた複雑化を加速させる。
 
〈南カリフォルニア大学の研究者によると、一九八六年の人は一日平均、新聞約四〇部に相当する情報にさらされていた。それが二〇〇六年には、四倍以上の一七四部相当になった。まいにち誰かが玄関ドアのまえに新聞を一七四部置いていくことを想像してみてほしい。〉(ベン・パー『アテンション』飛鳥新社 2016年 p.9)
現在2021年にはさらに何倍もの情報量に、ぼくらはさらされている。
 
そうした情報の大洪水のなかでぼくらに届く情報には3つのSの加工が施されている。
すなわち「サプライズ 驚き」、「シグニフィカンス 重要性」、そして「シンプリシティ 単純さ」である(上掲書第4章『破壊トリガー』)。
複雑な世界の中で、驚きと重要性と単純さをまとった情報やモノやコト、さらには人には、莫大なニーズがある。これらは先日論じた「人間ドラマ」、「陰謀論」、「ドグマ」、「イデオロギー」にも見事に当てはまる。
 
そんなことはない、自分は単純なことは嫌いだ、複雑なことを手間暇かけて理解したいし、単純なものになんか魅力を感じない、という人もいるだろうし、ぼくもその一人でありたいと思うが、悲しいかなそんなことを書くぼくの手にはしっかりとiPhoneが握られている。
あれだけたくさんのボタンのついたガラケーやBlackBerryを捨て、人はほとんどボタンのない、モノリスめいたこの単純なインターフェイスを選んだ。
単純なものは、売れるのだ。
 
「あんな単純なウソに、なんで騙されるんだろう」。
コロナやワクチンがらみのウソやデマに絡みとられた人を見て、まわりの人は呆れる。
だが、複雑な世界の複雑な病気や複雑な治療を前にして、「驚き」「重要性」「単純さ」の加工を施されたウソやデマや陰謀論に人は心惹かれる。
そして同じワナに、分野が違えばぼくやあなたや彼や彼女も、引っかかる可能性が高いのである。
 
この複雑な世界で何かを理解しようとすると、途端に怪しげな情報が押し寄せる。
3つのS、すなわちシグニフィカンス/重要性、サプライズ/驚き、シンプリシティー/単純さの加工を施されたそれらの情報の中には陰謀論やおかしなドグマやイデオロギーも豊富に含まれていて、ぼくらはそうしたものに取り込まれないようにしないといけない。
 
複雑な世界を理解しようとしたときに陰謀論やおかしなドグマ、イデオロギーに頼ることやフェイクニュースにハマることがあると指摘したのはユヴァル・ノア・ハラリだ。ハラリ自身は対策としてこう書く。
〈第一に、信頼できる情報が欲しければ、たっぷりお金をかけることだ。〉
身も蓋もないが、彼はこうも書く。
〈ある怪しげな億万長者が、次のような取引をあなたに持ちかけたとしよう。「毎月三〇ドル払いますから、その代わり、毎日一時間、あなたを洗脳して、私の望みどおりの政治的偏見や商品に関する偏見をあなたの頭にインストールさせてください」。あなたは、その取引に同意するだろうか?正気の人なら、まず同意しないだろう。だから、その怪しげな億万長者は、少しばかり違う取引を提案する。「毎日一時間、洗脳させてください。このサービスは無料で提供します」。すると今度は、突然この取引は何億もの人に魅力的に聞こえるらしい。そんな人々に倣ってはいけない。〉(『21Lessons』p.315-316)
 
ネットには無数の無料の情報が溢れている。
現在それらは社会的インフラとして誰もが利用しているが、それらの中にはハラリのいう広義の“洗脳”目的のものもある。身銭を切ることは大事だ。
〈たっぷりお金を払う〉ことで手に入る情報が全て有用とは限らないが、有用な情報の多くはなんらかの対価を要求する。
ネットの情報を見るときは、時々“書き手がこの情報を提供することで、誰が得をするのだろう”と立ち止まって考えることも必要である。

なぜあんな立派な人がコロナやワクチンの陰謀論にハマるのか~複雑な世界を理解するときの落とし穴(1)

高橋宏和(H4卒)
date:2021/7/15

(photoACより)


人間社会は複雑さを増すばかりだが、個としての人間はその複雑さをそのまま情報処理できるほど賢くない。そんな話をユヴァル・ノア・ハラリが書いている(『21Lessons』河出書房新書 2019年 16章「正義」)。
個体としての人間が情報処理できる関係性はせいぜい部族単位くらいまでで、それ以上の人数の関係性となるとお手上げだとハラリはいう。
人間が安定的な社会関係を保てる人数の上限をダンパー数(Dunbar’s number)と呼び、提唱者ロビン・ダンパーはその数を150人と見積もった。
Facebookでは「友達」として登録できる人数を5000人としている。やはり個人としての人間が関係性を把握できる人数に上限があるはずだという考えに基づいているのだろう。
 
この話の進行方向としては二つある。
一つめは、関係性の把握できる、安定した社会的関係性を保てる人数には有限だからこそ「正しい相手」を選んで付き合わなければならない、というゴールだ。この方向の話ならば「スモールワールド理論」やそれにインスパイアされたであろう映画『私に近い6人の他人(Six degrees of Separation)』(ウィル・スミス主演)を引用しつつ進むことになる。
もう一つは、理解できない複雑な社会の中で、我々個としての人間はどのように関係性を情報処理してるか、という話である。
今回は後者の方向性で話を進めたい。
 
さて、情報処理できないボリュームの関係性の中で人々はいかに関係性を情報処理しているか。
ハラリが正しければ、その方法は4つ。
 
①関係性のダウンサイジング 国同士の争いや内戦を、例えば敵の親玉と味方の親玉2人の対立として捉える。国際関係でいえば、例えば米中両国の対立と協働を、大統領個人と主席個人の対立と協働としてダウンサイズして理解する。
②複雑な関係性の中の、人間ドラマに注目 例えば格差や貧困、そしてその克服という構造的問題を、その中に生きる人の人間ドラマとして理解する。
③陰謀論 複雑な関係性をそのまま理解することが困難なので、モノゴトは誰かの陰謀として動いていると解釈する。グローバル経済はユダヤの陰謀だと言い出したり、ワクチンは大富豪の陰謀だと言い出したりする。
④政治的なドグマや宗教的な信条に身を委ねる 現実が複雑過ぎるゆえ、誰かが提供する強固な教義に従い世界を捉える。
 
最も大事なのは生き抜くこと、生きのびることなので(盲目的な生存への意志というのは生物の本質だと思うので、ここには疑いを挟まないこととする)、どのような方法をとって複雑な現代社会を理解しようと構わないが、ここにもまた落とし穴がある。

複雑な現代社会を生きる個としての人間が、世界を理解する上で上記の4つの方法を取りがちだということを悪用する者がいるのだ。

コロナ禍の中で特に目にすることがあるのが陰謀論だ。
なぜあんなに社会的地位がある人が、という人が得々と陰謀論を語ることがある(退職した部長さんとか)。
あるいは立派な大学に通っている大学生が過激な政治思想やカルト宗教のドグマに絡みとられることがある。
いずれも周囲は「なぜあんなに賢い人が」と不思議に思うが、ある意味で賢いからこそ陰謀論やドグマにはまるとも言える。
 
複雑な世界を複雑なまま理解することは、人間には許されていない。
それでもなお「わからない世界をわかりたい」という人間が、わからない世界をわかる(わかったような気になる)経路として、陰謀論という経路や強烈なドグマを通した世界理解という経路がある。
「わからない世界をわからないままにしたくない」というのが学びのモチベーションであるが、「わからない世界をわからないままにしたくない」という賢い人だからこそ、陰謀論やドグマにはまりこんでしまうのだ。
「わからない世界はわからないままでいいや」という人は、陰謀論やドグマとは無縁のまま、現世を楽しむのだ。
 
人間はまた、どっちつかずで白黒つかない『宙ぶらりん』の状況には耐えがたい。陰謀論やドグマに頼ってでも、「わからない」状態を「わかった」状態にしたいのだ。『宙ぶらりん』に耐えるには相当な知的スタミナが要る。
わからないことをわからないまま、それでもなおわかろうとするのが専門家である。
人間の脳みそのキャパでは、複雑な世界を複雑なまま理解することはできない、という話をしている。
大事な話だから繰り返すが、ハラリが正しければ人間は下記の方法でこの複雑な世界を理解しようとしがちだ。
 
①関係性のダウンサイジング
②関係性の中の人間ドラマに注目
③陰謀論
④ドグマやイデオロギーにのっとった理解
 
これらは無意識に行われるので、意図をもってそこにつけ込む人も出てくる。
 
たとえば湾岸戦争のときには油にまみれた海鳥を用意したり、15歳の少女をどこからか連れてきて人権委員会で涙ながらに証言させて世論形成を図った者がいた。ここらへんは上記②の心理につけ込んだ動きだといえよう。
あるいは「悪の枢軸」というレッテル貼りは③、「自由主義社会を守るための戦争」みたいなものは④につけ込んだプロパガンダともいえる。
何ものかのアピールによって自分の感情が過度に動かされたり、あるいは自分の世界理解が影響を受けそうになったら、一歩立ち止まって、どの手法が使われているか考えるとよい。
相手の使う手法をわかったうえでその話に乗るもよし、乗らぬもよし、そこはas you likeだが、無意識に他者の手法に振り回されるのもシャクだろう。
ぼく自身はあまりそうした手法を使うのを好まないが、あるいは上記①〜④の手法を使って他者に影響を与えることも出来る。
 
複雑に絡まった利害関係やしがらみを解きほぐして逐一説明し説得するより「あの組織のトップに一泡吹かせよう!」と仲間を鼓舞するほうが楽(手法①と②)だったりするし、格差と貧困みたいな話も構造的な話を延々とするより「こんなかわいそうな話があるんです!これをなんとかしなきゃ!」(手法②)とやったほうが人の心が動く。
陰謀論やドグマ、イデオロギーを振り回す人には近づきたくないが、斎藤幸平氏流にいえばSDGsだって④の手法といえる(「脱成長コミュニズム」もまた④だが)。
 
最低限いえるのは知らず知らずに誰かのカモにされるのは避けたいよねということで、そのためにはカモる側の手口を知っておく必要がある。
〈ゲームが始まって30分経って誰がカモか分からなければ、お前がカモだ。〉
(続く)

ライフワークは人生100年時代の最善の生存戦略である(その2)

高橋宏和(H4卒)
date:2021/5/17

ライフワークの話。

先日亡くなられたアメリカのビジネス有名人、『ザッポス』CEOのトニー・シェイはビジネス・ネットワークづくりのためのイベントが嫌いだという。日本だと名刺交換会みたいな、ビジネスチャンスを得るためのイベントは極力出ないらしい。

その上で、トニー・シェイはこう言う。

〈その代わり、相手のビジネス界での地位にかかわらず、さらにビジネスに携わっている人でなくても、私はその相手と人間関係を持ち、人として知ろうとすることに焦点を当てています。〉(トニー・シェイ『ザッポス伝説』ダイヤモンド社 2010年 p.142)

トニー・シェイはこう続ける。

〈何かを獲得しようとするのではなく、友情を築くために、あなたが知り合った人に対してどうすれば心から関心を寄せられるかを見出すことができれば、おかしなもので、いつか将来、ビジネスかプライベートでほぼ確実に何か恩恵を受けるものです。

どうしてそういうことが起きるのか、なぜうまくいくのかは実のところわかりませんが、その人を個人的に知ることで何か得るものがあるのは、たいてい付き合い始めて二、三年後です。〉(上掲書 p.143)

ライスワークもライフワークも、ついでに言えばライクワークも、遂行していくうちに何かしら人づきあいというものが関与してくる。

深いところで人づきあいから互いに何かを与え合うようになるには(トニー・シェイが正しいならば)、少なくとも二、三年はかかることになる。

四半期ごとの成果を求められたり、数年ごとに配置転換や人事異動があるライスワークでは、友情を保ちつつギブ・アンド・テイクの関係を作るには限界があるのではないか。

だからライフワークを持ち、じっくり人づきあいしながら生涯にわたって何かに取り組むほうが、良い成果が上がることもあるのではなかろうか。

蛇足だが、数年ごとに配置転換や人事異動がある日本の官公庁や銀行は、ベンチャー企業との付き合いやベンチャー投資に向かない仕組みではないかと思う。

Every body’s businesses is Nobody’s business,集団責任は無責任、ということもあるが、起業家の人となりを見据えて投資する/投資させてもらうベンチャー投資では長い付き合いの後に起業家を見極め、起業家や協力者と信頼関係を築く必要があるはずだからだ。

トニー・シェイのいう二、三年が経ってさあこれからというときに「ぼく、今度人事異動で担当かわりますので」というのを繰り返してしまうのが日本の官庁や銀行の仕組みのように見える。日本の官公庁や銀行での数年単位の配置転換の仕組みなどは、特定の業界や企業との癒着を減らし、メンバーが業務全体を把握できるというメリットもあるのだろう。まあ何ごとにもメリットデメリットがありますね。よう知らんけど。



さて、唐突だが、「カレーの早川くん」をご存知だろうか。

おそらく知らない方のほうが多いと思う。

アラフォー、アラフィフホイホイなB級グルメ漫画『めしばな刑事タチバナ』(坂戸佐兵衛・作、旅井とり・画 徳間書店)の超脇役である。

カレーの早川くんは、カレーを食べることこそがライフワークの人で、ありとあらゆるカレーを食べ続けているがゆえに“達人”の風格を身につけている。その風格のために、初めて入ったカレー屋ですらインド人店主に常連と勘違いされ「いつもどうも」と目で挨拶されたり、勝手にラッシーをサービスされたりする。

日本中のカレーを味わい尽くすことが早川くんのライフワークなので、毎秋には全国各地の大学祭のカレーを食べ歩くため会社を辞めたりすらする(13巻 p.23-24)。

まさにライフワークのためにライスワークも犠牲にする男なのだ。カレーの早川くんにとって、ライフワークこそが自分の存在理由であり、ライフワークに取り組み続けたからこそ誰も真似できない高みに到達したのである。

現実世界でもライフワークに取り組み続けて高みに到達した人というのは数多くいる。

瀧本哲史『戦略がすべて』(新潮社 2015年)の中に、地方議員について書かれたこんな一節がある。

〈幾つかの公共政策に関して学生が草の根のロビー活動を行うという自主ゼミの顧問を私は務めているが、最近その過程で、地方議員の思わぬ面を見ることができた。実は先進的な政策を実現することに対して最も熱心なのは、地方議員なのだ。〉(p.238-239)

〈たとえば、ある防災問題に一貫して取り組んできた地方議員がいる。しかしながら、防災問題は、地方行政だけで対応することはできない。そこで、その議員はもともと政党職員だったことを利用して、国会議員の中に防災問題に関心のある議員のネットワークを作ることに成功した。

結果、防災問題に関して、国会議員に直接陳情するよりも、この地方議員に陳情したほうが効果があるというほど重要な役割を担うようになった。〉(p.240)

防災問題をライフワークとして取り組み続けたゆえに、唯一無二の存在となったわけである。

ほかにも、日米関係をライフワークと自ら定め、野党時代から定期的に訪米し米国の政治家やシンクタンクと関係を築き、政権交代した際にそのネットワークを活かした国会議員もいる。

あるいは日露関係や北方領土問題をライフワークとして、(功罪・賛否はあるにせよ)やはり唯一無二の存在となった鈴木宗男氏のような人もいる。

「外交は票にならない」と政治業界では言うそうだ。しかしこうした人たちは、ライスワークとして政治家を見たときには短期的には役に立ちづらそうな防災や外交を「俺がやる」とライフワークとして定めたからこそ、高みに到達したわけである。

日々の糧であるライスワークに忙殺されながらも、何かしらライフワークを持つべきではないかと思う所以である。

それはそれとして、今日の昼ごはんはタイカレーにしようかインドカレーにしようか悩むところだ。



〈二一世紀には、人間は不死を目指して真剣に努力する見込みが高い。〉(ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』河出書房新社2018年 p.33)

同書によればグーグルなどの大企業が「死を解決すること」を使命とするスタートアップ企業に投資しているという(上掲書p.36-37。漫画『インベスターZ』にもそんな話が出てきましたね)。

いつどういう形で「不死」が実現するのか、そもそも人間がそんなことを成し遂げてよいのかはわからないが、最低限言えることは、様々な寿命延伸技術が上記の研究が生まれてくるだろうということだ。

リンダ・グラットン他『LIFE SHIFT』が人生100年時代にどう生きるかを世に問いかけたのは記憶に新しい。

『LIFE SHIFT』の参考文献の一つ、マックス・プランク協会レポート『老いの探求』によれば、先進国では過去160年間に、平均寿命は年平均3ヶ月ずつ伸びているという。

我々は、不死とはいかないがえらいこと長生きする、あるいは長生きしてしまう可能性があるわけである。

かつてないほど人類が長生きしたときに何が起こるだろうか。

おそらく、人生に“飽きる”のではないかと思う。

藤子・F・不二雄『21エモン』では、銀河系最高レベルの科学文明の星、ボタンポン星では人間は、死なない。

で、死ななくなったボタンポン星人は最終的に何をするか。

ベルトコンベヤーに乗って、0次元に旅立つのだ。

0次元では、全ての存在が消滅する。

死なないなんて素晴らしい、と言われたボタンポン星人はこういう。

「なにがすばらしいもんか!二千年も生きたらあきあきしちゃうよ」

不死も当面無理だし、二千年も生きないだろうが、我々は前人未到の長生き時代にいるのは間違いない。

その長い長〜い人生を、アイデンティティクライシスを回避し、すり減らず飽きずに楽しく生き抜くために、目先の状況に左右されずに長く取り組めるようなライフワークを持つのはとても大事ではないかと思うわけである。

ひとまずライフワークの話のまとめ。

〈生きているということ

いま生きているということ

それはミニスカート

それはプラネタリウム

それはヨハン・シュトラウス

それはピカソ

すべての美しいものに出会うということ

そして

かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ

いま生きているということ

泣けるということ

笑えるということ

怒れるということ

自由ということ〉(谷川俊太郎『生きる』より抜粋)

山あり谷あり、長い長ーい人生を送る上で、生きる糧を得る仕事・ライスワークと別でもいいから、自分のレゾン・デートル、存在理由となるような仕事・ライフワークを持つとよいのではないかと考えた。

他者の評価や外部の状況に左右されず、ただ淡々と己の喜びのためにだけ積み上げていく仕事。

放っておけば人生は、日々の慌ただしい生活の鋭い顎に持って生まれたいのちの塊をガリガリガリとかじりとられて終わってしまう。

人生に味わわれるのではなく、人生を味わうための仕事、そんなものがライフワークやライフテーマではないかと思う。

ミシンの機械についている、各メーカーのエンブレムマークを集めるのがライフワークだった者がいた。

世界中のミシンメーカーのありとあらゆるエンブレムマークのコレクションは、他人には無用なものだしぼくも要らないが、それでもなお、ぼくには尊くて神々しいものに見える。

彼か彼女かのコレクションは未完成だっただろうけれども、ミシンメーカーのエンブレムマークを集め続けるというライフワークを持ったことで彼か彼女かの人生は、充実したものとなったことだろう。

人生は、ライフワークを持たずに過ごすには長すぎるが、ライフワークを持って過ごすには短すぎる。

かくのごとく、ライフワークやライフテーマの中身はなんだってよい。生きている途中で、やっぱり違うとなれば変えてもいい。

大事なのは、自分のライフワークはこれだと思い定めることで人生に意味が与えられ、一つの芯を持って日々を送れるということだ。

自分語りで恥ずかしいが、ぼく自身のライフワーク、ライフテーマは「生きる」ということに定めている。

「生きる」について問い、「生きる」について情報を集め、「生きる」について考え、「生きる」について行動する。

何かを書きたくなったら沢尻エリカより「生きる」を優先して文章のテーマとする。

だからもしぼくが、深夜の公園のブランコに乗って「命短し 恋せよ乙女」と歌っていたら、「なるほど一生懸命ライフワークに勤しんでいるのだな」と思って生温かい目で見守っていただければ幸いである。志村喬か。



『カエル先生・高橋宏和ブログ』2019年11月19日等を加筆・転載)

ライフワークは人生100年時代の最善の生存戦略である(その1)

高橋宏和(H4卒)
date:2021/4/17

photoACより



ライフワーク、ライスワーク、ライクワーク

「ぼくね、人間にはライフワークとライスワークがあると思うんですよね。人生を通して取り組むのがライフワーク。んで、ごはんを食べるためにやるのがライスワーク。ダジャレですけど。あと、好きだからやるっていうライクワークもあるかな。

ライフワークとライスワーク、それからライクワークも、一致してればいいけど一致してなくてもいい。ライスワークやりながらごはん食べて、じっくりのんびりライフワークに取り組んだってええんやないかと思うんですわ」

そんなことを聞いたのは、大阪の淀川を行く屋形船の上であった。

<エリック・エリクソンは、人間のライフサイクルの最後の段階は「統合」を達成すること、つまり人生の過程で成し遂げてきたことや達成できなかったことを、自分自身のものとして主張できる意味のある物語として結び合わせることを含んでいると考えた。>(M.チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』世界思想社 1996年 p.166)

人生は前半で“発散”し、後半で“収束”する。

7、8年前まで大学生だったつもりでも(ほんとにそんな感覚なんです)、すでに47歳になってしまった。仮に「人生100年時代」が本当だとしても、現在47歳のぼくは、“収束”のフェイズに入りつつあることになる。マンマ・ミーア。

40歳を越えたころから人生の有限性を体感するようになった。

何でもかんでも首を突っ込むのもいいけど、その場合、あちこち駆けずり回ってすり減って、結局なんにも形にならないということにもなりかねない。

何かワンテーマに我が有限なる時間と気力を振り分けて、ライフワークとしてやっていったほうがよいのではないかなと思っている次第である。

ライフワークやライフテーマを持って生きている人は、強い。

ごはんを食べていくライスワークで右往左往し前進後退を繰り返しながらも、ライフワークやライフテーマがあれば人生の「軸」や「芯」や「プリンシプル」が持てるので、一貫した人生を送れる。

もしライフワークとライスワークが一致すればそれは最高だが、そうでなくてもライスワークで生活の糧を得ながらライフワークを少しずつやっていけば、迷い少なく楽しく生きていけるのではないだろうか。

ほら、オタクやマニアやコレクターって、楽しそうじゃないですか。

人生100年時代の、仕事

〈こころよく 我にはたらく仕事あれ

それを仕遂げて 死なむと思う〉(石川啄木)

死ぬ気もないし死にたいとも思わないが、仕事にもいろいろある。

生きる糧を得るための仕事や行きがかり上やらざるを得ない仕事もあれば、生きていく気力を与えてくれる仕事もある。

生きる糧を得るための仕事と生きがいになる仕事が一致すれば素晴らしい職業人生だが、一致しなくても構わない。

生きる糧を得るための仕事をライスワーク、生きがいになる仕事をライフワークと呼んで、そんなことを教えてくれたのは大阪の街づくりをライフワークにしている人だった。

歴史を振り返るとライスワークとライフワークが別だった人というのはたくさんいる。

遺跡発掘をライフワークとし、そのための費用を稼ぐために実業を行なったシュリーマン(諸説あり)もいれば、若くしてライフワークとなる(はずだった)詩作に出会いながらも、その後(後世の人からみれば、だが)ライスワーク中心の人生に移ったランボー。

アインシュタインは特許庁の仕事をしながらライフワークである物理学の論文を書いていた。

近年でもリーナス・トーバルズはライフワークであるLinuxの開発マネジメントを生きる糧を得るライスワークとは分けて行なった。

ライスワークしながらライフワークを行なった人は何も偉人ばかりではない。

淡々と日々の仕事をこなしながら郷土の歴史を調べてまとめ、後世に残すような地域の知識人は古今東西たくさんいるし、そうした人たちが積み重ねた郷土史は歴史家たちにとって宝石のように貴重なものになったりする。

だから、生きる糧を得るライスワークと生きる目的となるライフワークが全然別でも構わない。

実際に、前述のランボーなどは振れ幅が大きい人生で、ライフワークである詩人を卒業した後は骨太な実業家として生き、それでも飽き足らず常人離れしたトレーニングののちに筋骨隆々としたベトナム帰りの軍人として敵を倒しまくった。ウソですけども。

中年クライシス

中年クライシス、ミドルエイジクライシスというものがある。

人生の中年期や、現役引退期に襲ってくるもので、突如として「いったい自分は今まで何をしてきたのだろう」「自分がやりたかったことっていったい何なのだろう」「自分とはいったい何者なのだろう」という思いにとらわれる、自己一体感の悩みだ。「ああお前はなにをしてきたのだ…」と吹き来る風に問われるひとときが、中也ならずとも人生にはあるのだ。ゆやんゆよん。

クライシスというくらいなので、中年クライシスとは劇的かつ深刻なものとなることがある。

河合隼雄は中年クライシスの相談にくる人についてこう書いている。

<これらの多くの人は大なり小なり抑うつ症的な傾向に悩まされる。今まで面白かった仕事にまったく興味を失ってしまう。あるいは、何もする気がしなくなる。そして、重いときには自殺の可能性さえ出てくる。>(河合隼雄『中年クライシス』朝日新聞社 1993年 p.9)

中年クライシス、ミドルエイジクライシスは一言で言えばアイデンティティが揺らぐときである。アイデンティティとは自己同一性だ。自分が今まで自分自身であり、今このときも自分自身であり、これからもまた自分自身であり続けるという確信こそが、自分という存在の安心感のキモなのだから、それが揺らぐのはさぞ恐ろしいことだろう。

アイデンティティの構成要素の中に、「自分は何をしていた/いる人か」というものがある。一貫したアイデンティティを保つためには一貫したワークを持つのが有用だ。

それこそがライフワークだ。ライフワークを持つことは、人生100年時代を乗り切る最善の生存戦略なのだ。

ライフワークとライスワークを分けることは、時として有効な生存戦略となる

生存戦略としてライフワークをみたときに、生きる目的であるライフワークと生きる糧を得るライスワークが別であることは、時にプラスに働くことがある。

ライフワークとライスワークが一致すれば幸せな職業人生であるのは間違いない。

だが、ライスワークは構造的に外部依存的であり、自己コントロールが利かない部分がある。

非常に現実的な話をする。

ライスワークでは、生きる糧である報酬や評価は自分以外の外部からもたらされる。

どれだけ良い仕事をしても、自己以外の外部が評価してくれなければ報酬は得られずごはんが食べられない。

想像していただければわかるが、一次産業だろうが二次産業だろうが三次産業だろうがそれは同じだ。

また、金銭的報酬以外でも、政治分野であれば選挙に落ちたり政争に敗れればライスワークとしての仕事を手放さなければならない。

会社だって配置転換や人事移動があるし、景気という外部条件でライスワークとしての仕事が失われることもある。

いわゆる「土地持ち」で不動産収入で食っている人でも、人口減少社会では店子も減るし、天災や戦争で全てを失うこともある。

報酬や境遇が外部事情により左右されるライスワークでは、自己コントロールできない部分が、度合いの差はあれど残ってしまう(現実問題としては、その自己コントロール率の多い少ないの度合いこそが重要なのだが)。

アイデンティティの根幹をライスワークに求めることの危険性はかくのごとくであり、ライスワークと別にライフワークを持つメリットはここにある。

ライスワークは外部依存的であるがゆえに時に脆弱である。

生きる糧を得るライスワークの外部依存性をほぼゼロにするには、究極的には光合成でもしながら生きるしかない。

というわけで、ちょっと葉緑素を移植してくる。

(続く)

(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2019年11月18日~20日を加筆修正)