親子という”業”~子であることの苦しさ、親であることのほろ苦さ
〈(略)「舜が歴山で耕作していた時、田んぼに行っては天を仰いで号泣したと聞きます。どうして号泣したのでしょうか」。
孟子が答えた。「親に愛されないことをうらめしく残念に思い、また親を思い慕ったのだ」。
(略)
『自分は力を尽くして田んぼを耕し、子として慎んで職務を果たすだけだ。父母が私を愛してくださらないのは、きっと私に何らかの罪があるからなのだ』」。〉(佐野大介『孟子』角川ソフィア文庫 平成27年 p.160-161)
何年かぶりに『孟子』を読み返し、万章編でそんな箇所に当たった。書き下し文だと〈舜田に往き、旻天(びんてん)に号泣す。何為れぞ其れ号泣するや、と。孟子曰く、怨慕するなり、と。〉(上掲書p.159)となる。
前回読んだときは読み流していたのか記憶にないが、今回『孟子』を読んでみて衝撃を受けた。
舜という中国古典における聖人ですら、親に愛されたくて号泣するのか、ということにである。
親子というのは難しい。
特に子どもが小さいときには、親は子どもにとって世界の全てを占める。
〈小さな子供にとって、親は生存のためのすべてであり、そういう意味では、いわば神のようなものである。〉とすら言い切る学者もいる(スーザン・フォワード『毒になる親 一生苦しむ子供』講談社+α文庫 2001年 p.34)。
成長の段階で、健全に親との距離感を育み、「親には親の人生がある。私には私の人生がある。親と私は別人格で、まあそれでよい」という心境に到達できればよいが、そうでない人もいる。そうした人は人知れず葛藤し、無条件の愛を求めていつまでも天を仰いで悲嘆にくれる。そして、そういう人は、意外に多い。
その葛藤を自覚して意識化できれば救いはある(かもしれない)のだが、意識化できず無意識のうちに自分を突き動かす衝動のもととなってしまうと往々にして悲劇が待ち受けている。
だが、分かったようなことをいうのはやめよう。
舜という中国古典の聖人ですら、親子の関係は克服できなかったのだ。
ただ一言、親子というのは“業(ごう)”としか言いようのないものだ、と言うにとどめたいと思う。
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子であることが時に苦しいとすれば、親であることは時にほろ苦い。
ヘミングウェイの短編に、こんな一節がある。
〈「とてもいいストーリーじゃないか」少年の父親は言った。「どんなにいい出来か、自分でわかってるかい?」
「お母さんがパパに送りつけたのは心外だったよ、ぼく」
(略)
「しかし、おまえがあの小説で書いたカモメについてはどこで知った?」
「パパから教わったんじゃなかったかな、あれは」〉(ヘミングウェイ『何を見ても何かを思い出す』 新潮文庫『ヘミングウェイ全短編3』平成九年p.547-548)
誰かの子であることは時に苦しく、誰かの親であることは時にほろ苦い。
ヘミングウェイの短編『何を見ても何かを思い出す』(原題『I Guess Everything Reminds You of Something』)では、父と息子の交流のシーンが描かれる。明確には書かれてはいないが、ふだんは離れて暮らしている父と息子は、ひと夏をともに過ごす。
父と息子がひと夏を過ごし、何年も時が経つ。ある出来事がわかる。
ああ、あの夏のあれは、ああいうことだったのか。
父の胸に去来する感情を思うと、ただただほろ苦い。
畢竟、資本主義の世界ではほぼ全てのものが最終的にお金に換算されてしまう。
どんなに愛し合って一緒になった夫婦でも、こじれれば最後は算定表にしたがい関係は精算される。後腐れ無し、だ。
ただ、親子の関係性ばかりはそうはいかないのではないか。
子が親を思うとき親が子を思うときに発生する感情というのは、時に絡まり解けないパズルとなる。
親子の絆と言えば聞こえはよいが、「絆」と字は「ほだし」とも読む。
「きずな」と読めばポジティブな結びつきになるし、「ほだし」と読めば「自由を束縛するもの」となり心をがんじがらめにするものだ。「きずな」も「ほだし」も、どうしようもない。
子であることの苦しさ、親であることのほろ苦さと付き合いながら、「親には親の人生がある。子には子の人生がある。親の人生は親のもので、子の人生は子のものだ。ともにそれぞれの人生を自分の足で歩んでゆく。そして、それでよい」という境地を目指してゆくしかないのだろう。
(
『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年2月17日、24日を加筆修正)
バイアスから自由になることはとても難しい、という話。
「目の前の模擬患者さんが南極観測隊に行くとして、シミュレーション問診してください。では、はじめ!」
ずいぶん前に参加した、医者向けのとあるワークショップでの光景である。誰かを不用意に批判する意図は無いので、少し状況を変えて書く。
ワークショップは極地での医学に関心のある様々な科の医者向けの者で、バックグラウンドはさまざま。
耳鼻科医もいれば外科医もいるし、心臓専門の医者も、肺や呼吸が専門の医者もいた。
ある程度経験が長くなると、自分以外の医者の診察過程を直接見ることは少ない。ましてや自分と別の専門の科のドクターの診察プロセスを見る機会はほぼ皆無と言っていいだろう。
冒頭に戻る。
「目の前の患者さんが南極観測隊に行っていいか、医学的に可否を診断してください」
ファシリテーターの突然の言に、会場が静かにざわついた。事前に知らされていない、抜き打ちの模擬診察だったのだ。
「では、そちらのセンセイ、前へどうぞ」
司会に促され、呼吸器内科医が前に出る。
「じゃあやってみて。私が患者さん役やりますので、問診してみてください」
司会者が言う。
「…ええと…えー、ふだん咳とか出ませんか?持病に喘息は…?」
戸惑いながら、呼吸器内科のドクターがきく。
模擬診察がひとしきり続き、次の医者の番になる。
「もともと、鼻は悪いですか?」
耳鼻科医がきく。
「脈とか飛びませんか?ふだん血圧は高くない?」
次に呼ばれた循環器科医はそう切り出す。
「手とかしびれたことはない?力が入らなくなることは?頭痛や意識無くなったこととか?」
その次の脳外科医はまずそう聞いた。
ぼくはそれを見ながら、人間というのはこんなにも自分の専門分野に引きずられてモノを見るのかとある意味で感動した。
「目の前の患者さんが南極観測隊に参加して良いか医学的に判断を下す」というミッションは同じなのに、誰もがみな、知らず知らずのうちに自分の得意分野で勝負しようとする。バイアスのかかった目でモノを見て、バイアスのかかったアタマでジャッジしようとする。そして、夢中になればなるほど、自分にバイアスがかかっていることを忘れる。
バイアスから自由になってモノを見、モノを考え、ジャッジして、話したり書いたりするのはとてつもなく難しい。
完全にバイアスから自由になるのは正直言って人間にはムリだとすら思う。
せめて出来ることと言ったら、自分にどんなバイアスがかかっているか意識すること、どこまでそのバイアスが自分の言動に影響しているかときどき確認すること、それから誰かが何か言ったらそれを鵜呑みにせずに、そこになんらかのバイアスがかかっていないか健全に疑うことくらいだろうか。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2020年3月14日を加筆修正)
妓夫太郎と『ナナメの夕暮れ』
〈いつもの散歩コースの神社の階段を降りて大通りに出た。
すると、頭にすっぽりと黒いフードをかぶった暗い目をした男とすれ違った。
一瞬目があったけど、世界への恨みを募らせたような目つきが怖くて思わず目を背けた。
もう少し目を合わせている時間が長かったら、殴りかかってきていたのではないだろうかというような目つきだった。
「誰でもいいから殴りたい」。目がそう言っていた。
世界への恨みは歩き方にも現れていた。
歩行速度が遅く、あまり足を上げずに擦るように足を出す。
その足音が「ここには居たくない」ことと「行き先がない」ことを同時にあらわしていた。〉(若林正恭『ナナメの夕暮れ』文春E-BOOK 2018年あとがきkindle版1889/2037)
「たまたまだよな」
最近、友人たちが口々に言う。
「ほんと、俺たちがここにいるのはたまたまだよな。なんとか生き残ってこうしていられるのも、たまたまだよ」
ドリョクやサイノウやキモチノモチカタ、そうしたことの積み重ねで人と差をつけましょう。
本屋に行けばネットを開けばそんな言葉が溢れている。生き残りのために熾烈な戦いが要求される世の中だ。
なんとかかんとか40代後半まで泳いできて、広い意味では生き残ってきたといってよいのだろう。
だが、若林正恭氏のいう「黒いフードをかぶった暗い目をした男」と自分は、紙一重だった。そしてこれからも紙一重だ。
何が彼と自分を分けたのだろう?
答えはそう、「たまたま」だ。
『鬼滅の刃』遊郭編では、鬼の兄弟、妓夫太郎と堕姫に、炭治郎と禰豆子の兄妹が対峙する。
「もしかしたら、あいつがオレで、オレがあいつだったかもしれない」。
炭治郎と、おそらく妓夫太郎の心中に芽生えただろうそんな感情に、一部の視聴者はこころを揺さぶられただろう。
そう、紙一重で、たまたまが、あんなにも大きく二組の兄妹の道を分けてしまった。
〈違う、違う。
お前と俺は多分話が合うんだよ。
きっと苦しくて、なんでこんなに苦しいんだろう?ってずっと考えていたらそれは外の世界全体のせいのような気がしてるんだろ?
それでもし「誰でもいいから揉めたい」ってイラついているんだとしたら君と僕は話が合うんだよ。〉
若林正恭氏のエッセイはこう続く。
炭治郎は「誰でもいいから揉めたい」とは思っていないだろうし、僕だって「黒いフードをかぶった暗い目の男」と話が合うと思うほど楽観的ではない。人と人とは、分かり合えない。
だが、「黒いフードをかぶった暗い目の男」と自分は「紙一重」で、自分がこうしていられるのはほんとうに「たまたま」だったと思える人と、話がしたいと思う。
コロナ禍とアイン・ランド『肩をすくめるアトラス』

世界はふたつに分けられる。
ぶつくさ文句を言いつつも問題解決に関わろうとする者たちと、文句だけ言っていれば誰かがどうにかしてくれると思っている者と。
アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』(“Atlas Shrugged”)の主題の一つはたぶんそれで、少なくともぼくはそう読んだ。
小説の中で「ワシントンのたかり屋たち」と呼ばれる後者の人々にうんざりして、企業家たちに代表される前者の人々はある日こつぜんと姿を消す。途端に世の中は、回らなくなる。
小説の中では、この「問題解決に関わろうとする者たち」と「誰かがどうにかしてくれると思っている者たち」というのは職域や立場や地位に関わらず存在していて、止まってしまった鉄道を動かすために立場を越えて前者の人たちが力を合わせて再開通させるシーンなどは感動的だ。
コロナ関連で残念な感じになってしまった小林よしのり氏だが、氏の著作で学んだ一つに「与党精神」というのがある。声高に現状を批判だけするのではなく、俺がやるという与党の精神ということだ。
「問題解決に関わろうとする者たち」というのは、この、俺がやるという与党精神を持った人たちといえるかもしれない。
実際には『肩をすくめるアトラス』のように綺麗に二者に分かれるわけではなく、多くの人の心に「ここは俺がやらなきゃ」という前者の部分と、「誰かがなんとかしてくれるだろ」という後者の部分が混在している。グラデュエーションもありますしね。
ネットばっかりやっているのが悪いのだが、ネット上でコロナ対応とかで批判や文句ばっかりしてれば誰かがなんとかしてくれるとタカをくくっている人たちをみるとつぶやきたくもなるものだ。Who is John Galt?
まあ世の中助け合いだしお互いさまで、たまたまコロナ禍で医療の出番が多くなってるだけではある。反ワクチンみたいな人に叩かれると疲れるけども。寒いし第6波きつそうだし許されるならアパラチア山脈の奥地で隠れ住みたいとこだけど。
というわけでぶつくさ文句も言うし下手な冗談も飛ばすし、それでも頑張って社会の持ち場で実務を回してまいりましょう。
〈荒野を走れ どこまでも 冗談を飛ばしながらも〉(B’z『RUN』)がテーマソングですね。がんばっていきましょう。
ネットニュースに連日「ひろゆき」氏が出てくる「裏」の事情。
「それあなたの感想ですよね。データとかあるんですか」
道行く小学生がそんなことを言っていた。
ネットニュースを見れば連日のように「ひろゆき」氏が社会事象を「斬って」いるし、なぜこんなに「ひろゆき」氏的な物言いがウケているのだろうかと考えていくつかの仮説を得た。
だいたいああいう「論破(したつもり)ゲーム」はよくないですよね。相手が黙ってもそれはただ単に「こいつと話しても疲れるだけだから構わんとこ」ってだけだし、生産的でも創造的でもなく無駄にエネルギーを消費するだけで地球に優しくないからグレタさんに叱っても
らおう。
個人的には、若い時期にはまずスタンダード、オーソドックスな思想をある程度おさえておいて、その上でああした「ひろゆき」氏的物言いをこっそりフレーバーやスパイスとしてたまに取り入れるくらいがちょうどよいと思っております。少なくとも「ひろゆき」氏的なものを思想の主食にしてはいけないと思う。
さて、「ひろゆき」氏的物言いがウケている理由についての仮説。
日本人論の古典『日本人の意識構造』(会田雄次 講談社現代新書 昭和四七年)にこんな一節がある。
〈日本の特徴は日本人の意識に存するところの裏文化の優越にある。わたしたちの間では表文化はウソの世界だと考えられている。〉(前掲書p.57)
文化には「表」と「裏」があり、日本人の意識の中では「表」は虚飾とウソ、「裏」にこそ人生の真実があるとされているのではないか、というのが会田氏の主張だ。
たとえば芭蕉の「奥の細道」。裏道をトボトボあるいたからこそ芸術となった(のではないかと会田氏は主張する)。「裏」通りにこそ人生の悲哀と真実がある、と日本人は感じる(のではないかと会田氏)。
前掲書によれば、ここらへんの感覚は欧米人(欧米人といっても北欧とアングロサクソン国とラテン国とアメリカ東海岸・バイブルベルト・西海岸ではそれぞれ全然違うだろうが、ひとまずここでは欧米人としておく)には全然ない(という)。
「裏」はどこまでいっても「裏」で、正統な「表」の優越は揺らがない。
どちらがよいかの価値判断はしないが、こうした日本人の「裏」文化のほうに真実がある(のではないか)という感覚が、トリックスター「ひろゆき」氏をもてはやす遠因ではないだろうか。なんとかかんとかの「裏」の事情、とか書いてあると読みたくなるじゃないですか。
また、備忘録としてドナルド・キーン氏が「日本は英雄がいない国である」「日本は画一主義だが何故か奇人の存在を許す国である。平賀源内とか」と指摘しているのも書き添えておきたい(『日本人と日本文化』司馬遼太郎 ドナルド・キーン 中公新書 昭和47年。p.151とp.177あたり)。
以上、「ひろゆき」氏的な物言いがなぜこんなにウケているのかをつらつら考えた。その理由として、
①日本人はもともと「表」より「裏」に真実があると感じる価値観がある。トリックスターであり異端である「ひろゆき」氏にも、「裏」を知っている人こそ真実を知っていると期待しているのではないか。
②日本人は英雄は好まぬが奇人は好む。
という2点がmy仮説であるが、それあなたの感想ですよね。データとかあるんですか。
なぜあんな立派な人がコロナやワクチンの陰謀論にハマるのか(4)~陰謀論は人間の闇の欲望にフィットする&対策
2020年から始まったコロナ禍で、何人もの人が陰謀論に取りつかれるのを見た。
その中には社会的地位や名誉のある立派な人もいて、なぜあんな立派な人が陰謀論にハマるのだろうかと不思議に思ってきた。
ずっと考えてきて、少しだけ答えが見えた気がする。
人間の本質が善か悪は古来から議論されてきた。
まだ社会に染まりきっていない少年たちを無人島に放り出したらどうなるかの思考実験がジュール・ヴェルヌ『十五少年漂流記』でありウィリアム・ゴールディング『蝿の王』である。
性善説と性悪説の論争だが、僕自身は「性悪説(しょうわるせつ)」を取る。性悪説(しょうわるせつ)はたしか遠藤周作氏が提唱していた。
人間は、放っておいて全てうまくいくほど本質は善ではないが、悪に堕ち切るほどの悪でもない。放っておくと他人をけなしたり意地悪したり見下したりする「性悪(しょうわる)」な、いわば「てんで性悪キューピッド」が人間の本質ではなかろうか。
で、陰謀論というのはこの人間の本質にうまくフィットするんですな。
楽して他者をバカにしたいとか、自分だけ世界の真実を知ってる気になりたいとか、そうした人間の「性悪(しょうわる)」なとこにうまく訴求する。
飲んだだけでパワーアップした気になるエナジードリンクみたいなもんで、摂取しただけで生まれ変わった気にさせてくれるんでしょうね、陰謀論。モンスターエナジーパイプラインパンチうめえ。
陰謀論を信じて一人心の中で温めているうちはそんなに問題にならないが、陰謀論を振り回してるつもりで陰謀論に振り回されていくと、人生が狂い始める。
「そんなことも知らないのか!早く真実に目覚めてください!」とか周りの人をバカにし始めるともういけない。
「聞いた話だけど、コロナウイルスは熱に弱いから、25度のお湯を飲めばウイルスは死ぬ」とか大真面目に語り出して、だんだんと周囲から切りはなされていく。知人友人に怪しい動画のURLとかおくりまくって残念がられる。
そうやって周囲から孤立して先鋭化して、ますます沼にハマりこむのが陰謀論の怖さだ。
コロナウイルスが25度の熱で死ぬなら36度の体温でも死ぬはずだが、「自分だけが世界の真実を知っている立場になって、人々を教え導く立場になりたい」という人間の「性悪(しょうわる)」なところを刺激するのであろう、陰謀論。
だから現役時代に会社とかで偉い立場にいた人が引退後に陰謀論の動画とかにハマるんだろうなあ。
人間にはそうした「性悪(しょうわる)」なところがあって、そこをうまくつつくようなコンテンツが溢れている。
その中に陰謀論もあって、いつ自分もそこにハマるかわからないと自覚して生きるのが大事なのでしょうね。
このように、陰謀論は、人間の後ろ暗い欲求を刺激する。
「人を見下したい」「物知りぶりたい」「訳知り顔をしたい」「自分だけが真実を知っていて、それを使ってまわりの人をコントロールしたい」、そんな闇の欲望を刺激するからこそ、一部の人は陰謀論に取り込まれてしまうのだ。
恐ろしいことに、その闇の欲望は他人事ではない。誰の心にもそうした闇の欲望の芽はあって、多くの人はそれをうまい具合に飼い慣らしているだけだ。
僕がそれを自覚したのはコロナ禍のインフォデミックの中だった。
2021年の夏、こんな陰謀論がある、あんな陰謀論があると、古い知人とやりとりをしていた。
彼からもいろいろ情報を寄せてもらっていたのだが、どうも様子がおかしい。もらうメッセージが、次第に過激になっていくのだ。
「陰謀論の奴ら、こんなバカなこと言ってるよ」とか「バカなことを言ってるサイト見つけた!」とか、陰謀論に取り込まれた人をあからさまに嘲笑いこきおろすような文面が増えていき、しまいには毎日のように陰謀論動画のURLを送ってくるようになってしまった。
「陰謀論者もアンチ陰謀論者もお互いさま」などと言う気は全然まったく毛頭みじんもない。『喧嘩両成敗』主義は、思考停止をもたらす日本の悪しき風潮だ(参考文献 清水克行『喧嘩両成敗の誕生』講談社選書メチエ。めちゃめちゃ面白いのでおすすめです)
だが、我こそ正義なりと正論の刃を振るうときには気をつけなければならない。ダークサイドは、正義のすぐそばにあるかもしれない。
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陰謀論は足湯だ。肩までつかるもんじゃない。
諸外国を見ると全然油断できないが、2021年11月17日朝現在、今のところコロナ第6波は来ていないようで、これも関係者の皆様のご尽力のおかげだと思う。心より感謝の踊りを捧げたい。…踊り?
2020年から続くコロナ禍は、陰謀論やインチキ情報ウソ情報、デマに流言飛語との闘いでもある。
歴史の記録のために書いておくが、今まで
・コロナウイルスは熱に弱いので26〜27度のお湯を飲むと死滅する(デマ。2020年前半に流布)
・コロナワクチンを打つと5Gに接続する(デマ。2021年に流布)
などのデマが流布した(まとめておきたいのでほかにもデマがあればご指摘ください)。
SNS時代、デマの拡散は速く広く被害も大きく、「インフォデミック」「デマデミック」とまで呼ばれる事態となった。
これからもデマや陰謀論はたびたび出てくるはずだ。そんなデマや陰謀論に絡め取られないためには、3つのポイントがある。
・「本丸」を守る
・「宙ぶらりん」に耐える
・世間は案外正しい
「本丸」というのはあなたの人生の中心のことだ。
自分自身の心の安寧、家族関係・友人関係、仕事や職場、趣味やライフワークなどなど。
そうした人生の最優先事項は、徹底的に守り抜いたほうがよい。
陰謀論者の悲劇は、そうした最優先事項を陰謀論に振り回されることでズタズタにしてしまうことで起こる。
そうした「本丸」、最優先事項を守れるのならば何の問題もない。
楽しく健やかに「本丸」を守り抜けるのならば、陰謀論を信じたとしても何の問題もない。立派な社会人としてやっていけるのなら、陰謀論も紳士淑女の嗜みといったところだ。
「ご趣味は?」「地球平面説を少々たしなんでおります…」。
「宙ぶらりん」に耐える、というのは中西輝政氏の著書『本質を見抜く「考え方」』に出てくる言葉だ。
ものごとというのはそうそう白黒がつくものではない。ましてや人類にとって未知のウイルスとの闘いで、最先端の研究者だってわからないことだらけのタイミングでそう簡単に原因や対処法がわかるわけではない。
安易に結論に飛びついて行動に移したくなるのが人間ではあるが、「わからない」という「宙ぶらりん」に耐えることも必要だ。
調べること考えることが不要という意味では全くない。調べたうえ考えたうえで「今はまだわからないから、『わからない』ということを受け入れて、さらに調べて考え続けよう」という心構えが「宙ぶらりん」に耐える、ということだ。
中西氏が指摘している通り、これには相当の知的訓練が必要ではある。
世間というのは案外正しいもので、特にあなたの「本丸」以外ではほとんど場合結構正しい。
あなたの「本丸」がウイルス研究や感染対策である場合にはあなたが正解を知っている可能性は高まるが、あなたの「本丸」が別ならばあわてて陰謀論やデマに飛びつく必要はない。1、2週間〜半年くらい様子見たら何が正しくて何が間違っているかは明らかになる。慌てて陰謀論やデマに飛びつくより、1、2週間様子見て何が正しそうか見てから動くほうが失うものは少ない。
2014年の日本のベストセラーは『長生きしたけりゃふくらはぎをもみなさい』だったが、いま現在、長生きするためにふくらはぎを揉んでる人がどれだけいるだろうか。
You know,「Given enough eyeballs,all bugs are shallow./十分な目玉があれば、すべてのバグは洗い出される」(リーナスの法則)
陰謀論とその対策について思うところを述べた。
陰謀論対策ではよく「科学リテラシーを高めて云々」というが、全ての人が全てのことを知るのは無理だ。
なぜあんな立派な人がコロナやワクチンの陰謀論にハマるのか(3)~『ファスト&スロー』を下敷きに考える
「なぜあんな立派な人がコロナやワクチンの陰謀論にハマるのか」ということについて考えている。
ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』によれば、人間の判断は全く異なる2つのシステムによって下されるという。
すなわち、
・システム1 速い思考
・システム2 遅い思考
である。
システム1、速い思考は自動的に高速で働く。システム1の稼働に努力はあまり要らない。
システム2、遅い思考は難しい計算問題など困難な知的活動の時に働く。カーネマンによると、システム2は「怠け者」である。
ぼく自身、現時点で『ファスト&スロー』を十分に咀嚼し消化しきれていないことを告白する。解釈違い勘違いなどで間違ったことを書いたら順次修正していきたい。
で、カーネマンが正しいとすると、ぼくらは通常多くの判断をシステム1に負っている。
夜道を歩いていて前から人が近づいてきたときに、危険かもしれないと思って距離を取るのはシステム1の働きだ。
「あの人はどんな人か十分観察しよう。力の強さやヤバそうな奴か、どれくらいの確率で襲ってくる可能性があるかじっくり熟慮して、距離を取るために消費する身体的エネルギーの損失というコストに見合うかゆっくり検討しよう。行動はそれからだ」みたいにシステム2に判断を任せたりしない。
普段の生活ではシステム1は生存可能性を高めることに貢献してくれる。
ただし時々、あるいは頻繁にシステム1は誤作動を起こす。
そのための修正にシステム2を活用しなければならないのだが、システム2の活用には努力を要する。メンドくさいのだ。
これまたカーネマンが正しければ、システム1、直観的な思考・判断には多くの特徴がある。
たとえば数の判断が苦手(正確には「平均」は得意だが「合計」は苦手だという。前掲書p.168-169)だ。
また、感情や想起しやすさ(利用可能性 availability)など、様々な要素に影響されバイアスがかかる。
利用可能性とは思いだしやすさみたいなもので、未知のものに出会ったときに既知のものと置き換えて迅速な判断を下す。
つまみ食いであるのは承知しているが、こうしたシステム1の性質を知っていると、「コロナやワクチンの陰謀論にハマる人」の傾向が理解しやすくなる。こうした陰謀論にハマる人たちがシステム1の判断だけで発言しているとすると合点がいくのだ。
たとえば「コロナワクチンが効くというが、薬品Aも効くというデータがある。コロナに感染しても薬品Aがあるからワクチン不要」みたいな言説(仮の話が一人歩きするといやなので、わざと薬品Aと表記した)。
予防は治療に勝るという大原則はひとまず置いておく。薬品Aが効くというのが真かも置いておく。
ここで問題としたいのは、仮に仮に仮に(重要なので3回書いた)薬品Aが効くとして、「どれくらい効くか」という「数」の概念がすっぽり抜けていることだ。
コロナ感染者100人に投与して1人に効いても「効く」、100人全員に効いても「効く」である(RCTの話もひとまず置いておく)。
「薬品Aが効くというデータがある!」という主張には、この「どれくらい効くか」という「数」の視点はまったくない。
ワクチンの予防効果は95%くらいとされている。打っていない人が100人感染する環境で、打っている人たちを同数集めてきたら5人しか感染しないという数字だ。驚異的な効果である。
薬品Aが効くといっても、それほどの効果はない。
(ほんとは予防薬と治療薬を並列に論じるのはよくないよなあ、と思いつつ書いている)
「ワクチンも効くかもしれないが薬品Aも効く」というのは、「数」の概念が苦手な、システム1的言説なのではないだろうか。
またカーネマンは、よくわからないことを判断するときに身近なことに置き換えて判断するというシステム1の思考は、比較するために思い出せる事例があるかどうか、利用可能性availabilityに影響されると書いている。
面白いことに、利用可能性の影響を受けやすい条件というものがあり、<努力を要する別のタスクを同時に行っている。><タスクで評価する対象について生半可な知識を持っている。ただし本物の専門家は逆の結果になる。><強大な権力を持っている(またはそう信じ込まされている)。>だという(p.241-242)。
ここらへんに、冒頭の疑問「なぜあんな立派な人がコロナやワクチンの陰謀論にハマるのか」を解くカギがありそうだ。
(続く)
なぜあんな立派な人がコロナやワクチンの陰謀論にハマるのか(2)~3つのSにご用心。
〈南カリフォルニア大学の研究者によると、一九八六年の人は一日平均、新聞約四〇部に相当する情報にさらされていた。それが二〇〇六年には、四倍以上の一七四部相当になった。まいにち誰かが玄関ドアのまえに新聞を一七四部置いていくことを想像してみてほしい。〉(ベン・パー『アテンション』飛鳥新社 2016年 p.9)
現在2021年にはさらに何倍もの情報量に、ぼくらはさらされている。
そうした情報の大洪水のなかでぼくらに届く情報には3つのSの加工が施されている。
すなわち「サプライズ 驚き」、「シグニフィカンス 重要性」、そして「シンプリシティ 単純さ」である(上掲書第4章『破壊トリガー』)。
複雑な世界の中で、驚きと重要性と単純さをまとった情報やモノやコト、さらには人には、莫大なニーズがある。これらは先日論じた「人間ドラマ」、「陰謀論」、「ドグマ」、「イデオロギー」にも見事に当てはまる。
そんなことはない、自分は単純なことは嫌いだ、複雑なことを手間暇かけて理解したいし、単純なものになんか魅力を感じない、という人もいるだろうし、ぼくもその一人でありたいと思うが、悲しいかなそんなことを書くぼくの手にはしっかりとiPhoneが握られている。
あれだけたくさんのボタンのついたガラケーやBlackBerryを捨て、人はほとんどボタンのない、モノリスめいたこの単純なインターフェイスを選んだ。
単純なものは、売れるのだ。
「あんな単純なウソに、なんで騙されるんだろう」。
コロナやワクチンがらみのウソやデマに絡みとられた人を見て、まわりの人は呆れる。
だが、複雑な世界の複雑な病気や複雑な治療を前にして、「驚き」「重要性」「単純さ」の加工を施されたウソやデマや陰謀論に人は心惹かれる。
そして同じワナに、分野が違えばぼくやあなたや彼や彼女も、引っかかる可能性が高いのである。
この複雑な世界で何かを理解しようとすると、途端に怪しげな情報が押し寄せる。
3つのS、すなわちシグニフィカンス/重要性、サプライズ/驚き、シンプリシティー/単純さの加工を施されたそれらの情報の中には陰謀論やおかしなドグマやイデオロギーも豊富に含まれていて、ぼくらはそうしたものに取り込まれないようにしないといけない。
複雑な世界を理解しようとしたときに陰謀論やおかしなドグマ、イデオロギーに頼ることやフェイクニュースにハマることがあると指摘したのはユヴァル・ノア・ハラリだ。ハラリ自身は対策としてこう書く。
〈第一に、信頼できる情報が欲しければ、たっぷりお金をかけることだ。〉
身も蓋もないが、彼はこうも書く。
〈ある怪しげな億万長者が、次のような取引をあなたに持ちかけたとしよう。「毎月三〇ドル払いますから、その代わり、毎日一時間、あなたを洗脳して、私の望みどおりの政治的偏見や商品に関する偏見をあなたの頭にインストールさせてください」。あなたは、その取引に同意するだろうか?正気の人なら、まず同意しないだろう。だから、その怪しげな億万長者は、少しばかり違う取引を提案する。「毎日一時間、洗脳させてください。このサービスは無料で提供します」。すると今度は、突然この取引は何億もの人に魅力的に聞こえるらしい。そんな人々に倣ってはいけない。〉(『21Lessons』p.315-316)
ネットには無数の無料の情報が溢れている。
現在それらは社会的インフラとして誰もが利用しているが、それらの中にはハラリのいう広義の“洗脳”目的のものもある。身銭を切ることは大事だ。
〈たっぷりお金を払う〉ことで手に入る情報が全て有用とは限らないが、有用な情報の多くはなんらかの対価を要求する。
ネットの情報を見るときは、時々“書き手がこの情報を提供することで、誰が得をするのだろう”と立ち止まって考えることも必要である。