親子という”業”~子であることの苦しさ、親であることのほろ苦さ
date:2022/4/16
〈(略)「舜が歴山で耕作していた時、田んぼに行っては天を仰いで号泣したと聞きます。どうして号泣したのでしょうか」。
孟子が答えた。「親に愛されないことをうらめしく残念に思い、また親を思い慕ったのだ」。
(略)
『自分は力を尽くして田んぼを耕し、子として慎んで職務を果たすだけだ。父母が私を愛してくださらないのは、きっと私に何らかの罪があるからなのだ』」。〉(佐野大介『孟子』角川ソフィア文庫 平成27年 p.160-161)
何年かぶりに『孟子』を読み返し、万章編でそんな箇所に当たった。書き下し文だと〈舜田に往き、旻天(びんてん)に号泣す。何為れぞ其れ号泣するや、と。孟子曰く、怨慕するなり、と。〉(上掲書p.159)となる。
前回読んだときは読み流していたのか記憶にないが、今回『孟子』を読んでみて衝撃を受けた。
舜という中国古典における聖人ですら、親に愛されたくて号泣するのか、ということにである。
親子というのは難しい。
特に子どもが小さいときには、親は子どもにとって世界の全てを占める。
〈小さな子供にとって、親は生存のためのすべてであり、そういう意味では、いわば神のようなものである。〉とすら言い切る学者もいる(スーザン・フォワード『毒になる親 一生苦しむ子供』講談社+α文庫 2001年 p.34)。
成長の段階で、健全に親との距離感を育み、「親には親の人生がある。私には私の人生がある。親と私は別人格で、まあそれでよい」という心境に到達できればよいが、そうでない人もいる。そうした人は人知れず葛藤し、無条件の愛を求めていつまでも天を仰いで悲嘆にくれる。そして、そういう人は、意外に多い。
その葛藤を自覚して意識化できれば救いはある(かもしれない)のだが、意識化できず無意識のうちに自分を突き動かす衝動のもととなってしまうと往々にして悲劇が待ち受けている。
だが、分かったようなことをいうのはやめよう。
舜という中国古典の聖人ですら、親子の関係は克服できなかったのだ。
ただ一言、親子というのは“業(ごう)”としか言いようのないものだ、と言うにとどめたいと思う。
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子であることが時に苦しいとすれば、親であることは時にほろ苦い。
ヘミングウェイの短編に、こんな一節がある。
〈「とてもいいストーリーじゃないか」少年の父親は言った。「どんなにいい出来か、自分でわかってるかい?」
「お母さんがパパに送りつけたのは心外だったよ、ぼく」
(略)
「しかし、おまえがあの小説で書いたカモメについてはどこで知った?」
「パパから教わったんじゃなかったかな、あれは」〉(ヘミングウェイ『何を見ても何かを思い出す』 新潮文庫『ヘミングウェイ全短編3』平成九年p.547-548)
誰かの子であることは時に苦しく、誰かの親であることは時にほろ苦い。
ヘミングウェイの短編『何を見ても何かを思い出す』(原題『I Guess Everything Reminds You of Something』)では、父と息子の交流のシーンが描かれる。明確には書かれてはいないが、ふだんは離れて暮らしている父と息子は、ひと夏をともに過ごす。
父と息子がひと夏を過ごし、何年も時が経つ。ある出来事がわかる。
ああ、あの夏のあれは、ああいうことだったのか。
父の胸に去来する感情を思うと、ただただほろ苦い。
畢竟、資本主義の世界ではほぼ全てのものが最終的にお金に換算されてしまう。
どんなに愛し合って一緒になった夫婦でも、こじれれば最後は算定表にしたがい関係は精算される。後腐れ無し、だ。
ただ、親子の関係性ばかりはそうはいかないのではないか。
子が親を思うとき親が子を思うときに発生する感情というのは、時に絡まり解けないパズルとなる。
親子の絆と言えば聞こえはよいが、「絆」と字は「ほだし」とも読む。
「きずな」と読めばポジティブな結びつきになるし、「ほだし」と読めば「自由を束縛するもの」となり心をがんじがらめにするものだ。「きずな」も「ほだし」も、どうしようもない。
子であることの苦しさ、親であることのほろ苦さと付き合いながら、「親には親の人生がある。子には子の人生がある。親の人生は親のもので、子の人生は子のものだ。ともにそれぞれの人生を自分の足で歩んでゆく。そして、それでよい」という境地を目指してゆくしかないのだろう。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年2月17日、24日を加筆修正)
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年2月17日、24日を加筆修正)