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死生観と現世。

高橋宏和(H4卒)
date:2026/3/16

FIND/47より茨城県 高戸小浜海岸



生活が思考を作り、思考が生活を作る。

たとえば死生観。

伊佐敷隆弘氏によれば、「人間は死んだらどうなるか」について、人類が出した答えは6つしかない。

すなわち、

〈1 他の人間や動物に生まれ変わる

2 別の世界で永遠に生き続ける

3 すぐそばで子孫を見守る

4 子孫の命の中に生き続ける

5 自然の中に還る

6 完全に消滅する〉

(伊佐敷隆弘『死んだらどうなるのか?死生観をめぐる6つの哲学』亜紀書房2019年 p.013)

死に対する態度という意味では、これに孔子や(おそらく)本居宣長の「わからないからそのままにしておく」という態度を付け加えたい。

人類が生み出した上記6つ+1の死生観は、1人の人の中で混在している(という)。

日本人の多くの人の心の中は1の、輪廻転生的な感覚をうっすら持ちつつ3とか6とかが共存しているのではないか。「前世」とか「生まれ変わったら」みたいな話は冗談半分の雑談としてするし、一方で「ご先祖さまに申し訳ない」みたいな感覚も生きている。

さて、こうしたうっすらとした死生観は、意外にも普段の生き方につながっているのではないか、というのが今日の仮説である。

梅原猛氏はこんなことを書いている。

〈(略)しかし、生まれ変わりの信仰をもつとしたら、今後、また自分がこの世に生きてくるときのことを考えないわけにはいかない。今度生まれてきた時に地球が人間の住めないところとなっていては困る。それゆえ、今度生まれてきた日のために、できるだけクリーンな地球を残さねばならない。(略)〉(増谷文雄・梅原猛『絶望と歓喜〈親鸞〉』角川ソフィア文庫 平成8年 p.12)

あるいは2、別の世界に生まれ変わるという死生観を持つ宗教としてはユダヤ教、キリスト教、イスラム教があるが、そうした宗教の一部の人には「早いところ〈終末〉を到来させて別の世界を実現しよう」と本当に思っている人もいるようだ。

そうした人々の死生観がベースにあるから、おそらく加速主義、特にe/accのような過激思想、〈終末〉が来たあとのことは一切知らない、みたいなスタンスが欧米から出てくるのではないか。d/accのほうはもう少しおだやかな気がする(この部分の参考文献は樋口恭介『21世紀を動かす思想』集英社新書二〇二六年。加速主義についてこの本に書かれている以上の知識を持たないことを明示しておく)。

輪廻転生の感覚は、欧米からみた「アジアの停滞」や「アジアの悠久不変」の土壌になっている(のではないか)。生まれ変わったときに世の中があまりに変わってると困るから。

こうした死生観に正解はないが、他者の行動の根底にその人がどこような死生観を持つかに思いを至らせてみるのも一興であろう。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2026年3月14日を加筆・修正)

アニメとRAPの素敵な関係。

高橋宏和(H4卒)
date:2026/2/16

J-POPやJ-RAPとアニメとの幸せな関係について考えている。

90年代を駆け抜けた昭和48年生まれなので、CDが大量に売れた時代に何が起こったかは知っている。

あの時代、大ヒットの多くはドラマやCMのタイアップ曲で、手っ取り早く効果的に曲を売るためにはタイアップが必要だったようだ。その裏で「あの曲が売れたのはタイアップのおかげだよね」とコソコソと言われ、特にハーコー、アンダーグラウンドなアーティストとかには「アイツもセルアウトしやがって」とこき下ろされたりした(と思う)。

時は流れ、特にアニメのOP、EDとかはJ-POPやJ-RAPの独壇場となった。そしてそれを悪く言う者はいない。

これはなぜか。

もちろんアニメとのコラボが、特に世界進出への勝利のフォーマットであるのは言うまでもない。

だがもう一点、アーティスト側にメリットがあるのではないかと気がついた。

モチーフ、世界観の提供である。

〈ラップの詞のむずかしさって、一回作った内容については二度とできないっていうことだよね。ラブソングだったら、ラブソングっていう大前提のなかで、手を替え、品を替え、同じ内容のことをいい回しだけで、作れるんだけど……。

ラップって、次の回には、ちがうタイトルで、ちがう内容じゃないと、自分でやっててつまんないわけですよ。

技術以前の問題として、〈なにを今回テーマにするか〉っていう、テーマの見つけ方に一番苦労した。しかも、最初のうちに大きなテーマを歌っちゃったりすると、総論みたいなものを歌っちゃってるから、各論みたいな部分についてはもう歌えなくなっちゃう。〉(後藤明夫・編『Jラップ以前』TOKYO FM出版1997年  p.88)と近田春夫氏が語っている。

実際、近田氏がビブラストーンを辞めたのはそういった歌うべきことは全て歌ってしまったことも一因だという(近田春夫(『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』リトルモア2021年kindle版214/365)。

聞き手側は気づかないけれど、この「歌うべきモチーフ、テーマの喪失」というのは作り手、歌い手にとって、かなり根源的な問題なのではないか。

売れっ子アーティストほど、ライブやツアーとスタジオ作業の繰り返しとなる。新しいテーマに出会う機会は減る。

一方で、売れっ子アーティストほど技術の向上には熱心だから、スキルは上がっていく。

スキルは上がっていく。歌うべきテーマは枯渇する。

〈言葉のジグゾーパズルのためだったら 辞書だって引くぞ〉なラッパーも、歌うべきテーマを求めて〈朝から瓦版に目を通す山田マン〉となる。

かつてある書き手が、〈表現したいことは山ほどある。言いたいことは別に無い〉と書いていた。

表現者としてのスキルはぐんぐん上がるのに、歌うべきテーマは喪失してしまう。

そんなアーティストにとって、アニメとのコラボは渡りに船なのではないか。

「この世界を曲で表現してください」という依頼が来たら、「よしきた任せとけ!」みたいな感じで曲作りに没頭する。

コラボのアニメの世界観をガツガツと咀嚼し、有り余るスキルでアニメのテーマや世界を描き尽くす。

アニメの世界観と、アーティストのスキルが完全にマッチングして素敵な関係が生まれる。

そんなことが起こっているのではないだろうか。

『カエル先生 高橋宏和ブログ』2025年7月7日を加筆修正)

身にはならないがネタにはなる、という視点。

高橋宏和(H4卒)
date:2026/1/19

「身にはならないがネタにはなる」。

友人の口から、名言が飛び出した。


加齢とともに感性は磨滅する。

日に日に興味関心が無くなり、無への一直線をひた走る。

芸能人の誰がどうしようと興味は無いし、流行り廃りも関心が湧かない。

今年個人的に興味関心が無くなったのは小説家のエッセイだ。

幸い小説家の小説はまだ楽しめるし、ノンフィクションやルポはまだまだ関心がある。

ただ、「当たり前の日常をさらりとした筆致でつづる」みたいなのにはまったく心が動かなくなった。加齢のせいだと思う。

例外だったのは村上春樹『遠い太鼓』で、大きい事件も起こらないのにただただ文体に酔いしれた。途中で、「やれやれやれ」が出てきた時は思わず「よっ、名人芸!」と叫んでしまった。心の中でだけど。

感性磨耗の原因は加齢だが、中でも「いまさら何を読んでも身になるわけじゃないし」という諦観は大きい。

これはまずいと内心焦っているところもある。

そんな矢先、友人が言ったのが冒頭の言葉だ。

「身にはならないがネタにはなる」。

身になるようなことを探すから「ああこの話、以前に見たことがあるな」と興味関心が薄れるのだ。

「ネタになる」というスタンスで見れば、世の中まだまだネタになることで溢れている。

そんなわけで、これからもネタを探して生きていきたいと思う。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年12月24日を加筆修正)

2ステップの関係性。

高橋宏和(H4卒)
date:2025/12/17

イラストACより



ここ10年くらい意識してやめたことがある。「2ステップの関係性」の人と何かしようとすること、「2ステップの関係性」の人とために何かしようとすることをやめた。

「2ステップの関係性」はぼくの造語だ。

友人知人、家族に知り合い。

直接自分が関わりのある人を「1ステップの関係性」とする。

そして、友人知人のそのまた友人知人、みたいな人を「2ステップの関係性」とする。

たとえば友人知人から「知り合いがこれこれこういう症状なんだけど、どこか病院紹介して」と頼まれたとする。

そうした場合、かつては必死になってツテをたどってそこの医者に連絡をとって、受診できるようにした。

でも、今はそういうのはやめた。

あるいは何か勉強会や研究会みたいなものの講師をお願いするのに、かつてなら友人知人や知り合いに声をかけまくって、「誰か講師にいい人いない?」と探したりした。

でも、今はそういうのはやめた。

前者の行動、友人知人のそのまた友人知人を助けようとする行動は、良い人でいたい、正確には、友人知人に良い人と思われたいという気持ちに基づく。

でも、今はそういうのはやめた。

「2ステップの関係性」からの卒業の理由はいくつもある。

成長の段階で、「1ステップの関係性」の友人知人に十分恵まれた、というのが大きいと思う。

その上で、「2ステップの関係性」は不確定要素が多く、コントローラブルな要素が少ないのも理由だ。

たとえば一例目の、「友人知人のそのまた友人知人のために病院を探す」みたいなのも、「紹介してもらった病院、結局行かなかったみたい。なんかYahoo!口コミの良い民間治療のセンセイにかかったって」みたいなことが多すぎる。

あるいは二例目の「友人知人のそのまた友人知人に勉強会の講師を頼む」みたいなのも、「なんかよくわからないけど、あの人お前の勉強会の講師やったあとすごく怒ってたぞ」みたいなことがある。

いずれも「1ステップの関係性」なら直接「なんだよーせっかく紹介したのに病院行かなかったのかよ。今度、一杯おごれよ」とか「ごめんねーなんか不手際あったみたいで。今度、一杯おごるよ」で済む話だが、「2ステップの関係性」だとそうもいかずモヤモヤしたまま終わる。

待てよ、一例目の友人知人におごってもらうかわりに一例目の友人知人に二例目の友人知人におごらせればぼくは何もしないで済むな。

まあ地球上の人は最大6ステップの関係性を経ればみんなつながるという「スモール・ワールド仮説」もあるし、その仮説に基づく『私に近い6人の他人/Six degrees of separation』という舞台や映画もあるから、そう深く考えずにこれからもステップとか地団駄とかいろんなものを踏みながら生きていきたいと思う。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年10月4日を加筆修正)

好きを主軸に。

高橋宏和(H4卒)
date:2025/11/17

FIND/47 より 熊本県 水田



最近歳下の医学生と話す機会を得た。

彼らが口々に言うのは、「将来なに科医になるのがいいか迷ってて。AIとかもあるし、逆に手技のある外科とかのほうが生き残りやすいのかなって」だ。

医学生というのは、6、7年の大学時代に全ての科を学ぶ。医学生時代には専攻みたいなのはない。

今は大学卒業後2年間の研修期間があるが、昔は大学卒業の時に専攻する科を決めて教授のところに弟子入りのお願いをしに行った。医局に入る、いわゆる入局というやつだ。

将来なに科になるか悩む期間も増えたし、医療以外の分野で活躍する医師免許持ちもいるから選択肢も増えた。

選択肢が増えると、人間というのは逆に決められないものだ。

ましてやわが国の保険診療分野は先行き不透明。

僭越ながらアドバイスするとすれば、究極的には「好きなことをやれば」になる。

理由はいくつかある。

まず第一に、未来は完全には予測できない。

AIが進歩して内科医の代わりを務める日も来るだろうが、それがいつかはわからない。

世の中の風向きが変わって、AIは電気を喰うからやめようとなるかもしれない。

AIは個人情報をデジタルデータ化してグローバルに処理するわけで、その気になれば世界中のどこからでも誰かの個人情報(や会社の情報とか)をぶっこ抜ける状態だからやめようとなるかもしれない。

要は、外部要因というのは完全には予測不可能であり、しかも複数因子、マルチファクターが複雑怪奇に絡まり合うならなおさらである。

だが、「好き」という内部要因はそうそう変わらない。

だから予測不可能で可変な外部要因に基づいて未来を決めるのではなく、予測可能で可変性の低い「好き」という内部要因に基づいて未来を決めるのがよいのではないか。

〈最善の未来予測は、それを発明することだ〉(アラン・ケイ)

いくつか思うのは先人たちのことだ。

たとえばiPS細胞研究の山中先生は、当初整形外科医としてキャリアをスタートさせた。

残念ながら整形外科医は向いていなかったようで、基礎医学に転向し偉業を成し遂げたわけだが、重要なのはノーベル賞受賞者ですらキャリアスタート時には自分に何が向いてるかはわからないということだ。

あるいはスタジオジブリ宮崎駿監督。

今でこそ「世界のミヤザキ」として尊敬されているわけだが、あの人も外部要因が別であればまた評価も変わっていたかもしれない。

宮崎駿監督のキャリアの中で、アニメというものに対する世間的評価が逆風だった時代もある。

「アニメが犯罪を誘発する」みたいな世論があと一歩強く、アニメが強力に規制されていたら、宮崎駿監督は悪の親玉みたいな扱いだったかもしれない。

重要なのは、もしそんな状況でも、宮崎駿監督は地下にもぐって少女を主人公としたアニメを作り続けただろうということだ。

「好き」という内部要因は、強い。

わが国の保険診療分野は先行き不透明で、若き医学生が悩むのも無理はない。

だがその中でも「好き」を原動力に、未来を切り開いていってもらいたいと思う。

〈先が見えないからといって途方に暮れることはありません。どんなに自信を失っているときでも、その中でも自分にできることが必ず何かあるはず。〉(ショーン・ケイ)

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年11月10日を加筆・修正)

因果と縁。

高橋宏和(H4卒)
date:2025/10/17

「原因と結果。因と果で因果。

仏教では、因と果のほかに“縁”というのもありましてね。

因と果の間に“縁”があると考えます」

とある僧侶から聞いた。

その話を聞いたときは、「縁とか言い出したらなんでもありやんけ」と思った。仏罰が当たるといけないから黙っていたけど。

だが不思議なもので、月日が経つにつれて、なるほど“縁”というのはあるのかもしれないなと思うようになった。

“縁”とはなんだろうか。

オカルト的なもの、スーパーナチュラルなものをできるだけ排して考える。

つらつら考えるに、“縁”とはランダム性かもしれない。

生命を細菌やウイルスから守る免疫機構の一部である抗体は多種多様で、その数はどう考えても遺伝子の組み合わせより多いという。

なぜ有限な遺伝子の組み合わせの数を超えて、無限に近い抗体が作り出されるかは長年に渡り医学のナゾの一つだった。

それに対しアンサーを出したのが利根川進氏で、遺伝子と抗体は一対一対応ではなく、遺伝子がある程度ランダムに組み合わさって抗体の設計図となることで、多くの組み合わせが生まれるのだという。

医学生時代に授業で聞きかじった話で、なにしろ劣等生だったから記憶もあいまいだ。

将来この麻布流儀のネタになるってわかっていればもっとしっかり授業を聞いていたのだが仕方がない。なにしろその頃はまだ麻布流儀は無かったからな。

遺伝子の組み合わせという“因”が、抗体という“果”を生み出すまでに関与するランダム性。これが“縁”ということではないか。

名作映画『おくりびと』の原案である青木新門氏の小説『納棺夫日記』。

映画『おくりびと』を因果の“果”とすると、『納棺夫日記』は間違いなく原因である“因”である。

『納棺夫日記』が無ければ、『おくりびと』は生まれなかった。

だが、『納棺夫日記』という“因”があれば、必然的、自動的に『おくりびと』は生まれただろうか。

『納棺夫日記』はお読みいただければわかるとおり、非常に地味で内省的、後半は物語の形から離れ、いわば哲学的モノローグとなっている。

当初、『納棺夫日記』は自費出版に近い形で世に出され、初版は500部から2500部程度であったという。

そんな形で世に出た、いわば地味な一冊の本がまわりまわって1人の読者の手に届く。本木雅弘氏である。

インドへの旅の中で生と死を見つめた若き本木雅弘氏は、友人から勧められてこの本を手に取り、その一節に心をつかまれた。

<蛆を掃き集めているうちに1匹1匹の蛆が鮮明に見え始めた。畳を必死で逃げている蛆もいる。柱をよじ登っているやつまでいる。蛆も命なんだ。そう思うと蛆たちが光って見えた>

本木雅弘氏は、その後何年もかけて周囲を説得し、『おくりびと』を映画化した。

500〜2500部という限られた本が世に出、それが一人の読者に届くというのは“縁”であろう。

もしあの時、この本でなくほかの本を本木雅弘氏が手に取っていたら、と思うと、“縁”というものの一部はやはりランダム性な気がする。

そしてまた、“縁”というのはランダム性だけではない。

『納棺夫日記』を映画化したい、という本木雅弘氏の強い意志が無ければ、やはり『納棺夫日記』という“因”は『おくりびと』という“果”は生まれなかっただろう。

というわけで、因果を結ぶ“縁”。

縁というのは、ランダム性と人間の意志ではないかと思った次第である。

それではまた。良い1日を。

縁があったらお会いしましょう。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年10月17日を加筆・修正)

「ねたみ」考。

高橋宏和(H4卒)
date:2025/9/20

およそ世の中のモノには良い面悪い面両面あって、一見悪いことのように見えても別の面から見るとポジティブな働きをしていることもある。

「怒り」などはその代表で、怒ってる人を見るとまわりはおっかないけれど、悪や不正に対する「怒り」もある。そうした義憤や公憤が社会悪を克服する原動力となることもあるので、「怒り」の感情は実は大切である。

 

だがしかし、一個だけ悪い面しかない感情がある。

それはねたみの感情、「怨望」である。そんなことを福澤諭吉が書いている(福澤諭吉・著、齋藤孝・訳『現代語訳 学問のすすめ』ちくま新書二〇〇九年 p.163-175)。


photoACより



 

ねたみの感情は、ただひたすらにネガティブだ。

〈怨望は、働き方が陰険で、進んで何かをなすこともない。他人のようすをみて自分に不平をいだき、自分のことを反省もせずに他人に多くを求める。そして、その不平を解消して満足する方法は、自分に得になることではなく、他人に害を与えることにある。〉(上掲書 p.165)

 

個人的には、空を飛ぶ鳥を眺めて暮らす日々でこのねたみの感情というのはどこかへ行ってしまった。「鳥のヤツらは飛べていいなあ」とねたんでも仕方のないことで、ただ捕まえて羽根をむしって喰うだけである。

 

このねたみの感情がなぜ生まれるか。福澤諭吉はこう分析する。

〈(略)怨望は貧乏や地位の低さから生まれたものではない。ただ、人間本来の自然な働きを邪魔して、いいことも悪いこともすべて運任せの世の中になると、これが非常に流行する。〉(p.168)

 

「親ガチャ」などという言葉が日常的に使われ、ねたみがあふれるSNS時代にこの言葉を思うと味わい深い。

いつの世も生まれついての不公平はゼロにはならないが、それでもなお自助努力で多少はなんとかなる仕組みにしておかないと社会にねたみが蔓延するのだろう。

 

ねたみの生まれにくい社会にするというのは為政者に任せるとして、個人としてはどうするべきか。

まず第一に、「ねたまないようにする」というのは机上の空論である。そんなのムリっす。

 

ねたみという感情の悪いところは、不平を言うばかりで行動に移さないことである。だから行動に移す。

もちろん「無敵の人」路線はいけない。

だがねたみの対象となる人をよく観察し、そのねたみの源、専門用語でいうところのネタミゲンを研究する。

そうしてネタミゲンの良いところをマネしたり、悪いところをマネしないようにする。

万物すべてを我が師と考えるのだ。我が師にも教師と反面教師がいるので、どうぞお好きなほうをお取りください。

自分の人生は自分のものなので、より良い人生を送れるようねたみすらなんらかの原動力にしてしまうしかないだろう。

 

合言葉は、「こ・の・ね・た・み・は・ら・さ・で・お・く・べ・き・か」である。メラメラメラ。

『カエル先生 高橋宏和ブログ』2025年1月20日を加筆・修正)

「終活」があれば「中活」もある。

高橋宏和(H4卒)
date:2025/8/17

photoACより



「終活」というものがあるならば、「中活」というものもあるのではないか。そんなことを考えた。

wikipediaによると、自分の人生の終末に向けていろいろと整理をする「終活」という言葉が考えられたのは2009年だという。その年の週刊朝日で終活の特集記事が数ヶ月に渡って組まれた。


ありのままを書くと、いわゆるミドルエイジ・クライシスとどう付き合うかがこの数年のテーマだ。

自分はこれからどう生きていったものか。そんなことを考えるなかで、齋藤孝氏のこんな言葉に出会った。

〈(略)私は50歳になって、本を捨てられるようになりました。これまで相当な量ーおそらく何千冊という単位ーを手放してきました。〉(齋藤孝『50歳からの孤独入門』朝日新書 平成30年 kindle版80/138)。

齋藤孝氏ほどの多読多作の方でも、50歳の若さで蔵書を整理し始めるのかというのが驚きであった。


これを読んで積極的に身の回りの細々としたものを整理し始めたのが数ヶ月前。実に多くの発見があった。

やや偏執狂的に、毎日毎日少しでもいいからものを捨てる。本一冊CD一枚、はるか昔いただいた名刺一枚チラシ一枚でもいいから毎日捨てる。

そんな日々を送っていると、たしかにココロの健康によいのである。


スピリチュアルなことを抜きにして考える。


昔、滋賀県の工場で暑さのなかロクセラム・アムマットの粉塵に悩まされながらジンキーを塗っている頃、工場のラインが故障で止まるたびに身の回りの掃除を命じられた。

「整理・整頓・清掃・清潔・しつけ」の5S活動というヤツで、当時はラインが止まったら休ませてくれよと思ったがあれはあれで意味がすごくある。

今パーソナル5S活動をしてみると、隙間時間に整理整頓をし続けると、忙しい時の探し物が減る。

なにしろ物が減ってるから、大事なものがすぐ見つかる。

また、5S活動のウラの目的は、ヒマな時間を無くすと余計なことを考えたりしなくなるというのもあるのであろう。

思えば自衛隊の富士学校に体験入隊した時も、スキマ時間があれば常にブーツを磨くよう指導されたものだ。

人間、ヒマな時間が出来ると余計なことを考えて悩んだりする。


また、モノを整理して捨てていくと、不必要なものに時間と気力を取られなくなるとともに、整理の過程で取っておくべき「自分が本当に大切にしたいもの」を再発見する。

認知症のケアの中で「回想法」というのがあって、これは認知症患者さんの過去を積極的に振り返ることでアイデンティティを確認してココロの安定を図るというものだが、ものを整理する過程で「自分が本当に大切にしたいもの」を再発見することで同じような効果があるのだろう。

終末期にはまだ早い中年期に、さまざまなものを整理整頓して人生後半戦に備える、中年期活動、略して「中活」というのもあるのではないか。


そんなわけで、これからミドルエイジ・クライシスを迎えられる皆様におかれましては、「中活」というのをしてみてもよいかもしれません。

〈どのように靈魂がその肉體に住んでいるか見たくおもうひとは、どのようにその肉體がその日常の住居を使用しているか觀察するがよい。つまり、住居に秩序がなく亂雑である場合には、その靈魂の支配する肉體も無秩序で亂雑であるだろう。〉(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』岩波文庫p.58)

住居を整え肉体を整えることで、ココロを整えるやり方もあるのだろう。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年8月1日を加筆修正)