麻布OBメンバーの方はログインすることで限定記事の閲覧が可能となります。
麻布流儀参加者 現在 380

耳鳴りと難聴と夢想家の話。

高橋宏和(H4卒)
date:2025/6/15

photoACより



「耳鳴りというのは」

耳鼻科医が言った。

「難聴の裏返しなんですな。

聴力検査のグラフです。

ほら、左耳の、特に高い音が聴こえにくくなってる。キーンという高い金属音みたいな耳鳴りがするんですよね?そのぶん、高い音が聴こえなくなっているんです」

ふんふんとうなづきながら、僕はさっき受けた聴力検査を思い出した。

小さな部屋。完全防音。ヘッドホンから様々な高さと大きさの音。音が聴こえたらボタンを押す。音を聴くことに全力。耳鳴り。

ライカ。

ライカはどんな気持ちだったのだろう?

スプートニク2号に乗せられて、身動き取れないまま宇宙へ飛ばされたソ連の犬。

もし今、聴力検査室が宇宙に飛ばされたら、ライカの気持ちがわかるだろうか?

音ガ聴コエタラ手元ノぼたんヲ押シナサイ。押シナサイ。

ぼくは耳を傾ける。一生懸命に。宇宙空間で。

「というわけで、耳鳴りと難聴は裏表なんです。よろしいでしょうか?」

耳鼻科医が言い、ぼくは宇宙から帰ってくる。

ライカも帰って来られればよかったのに。

「ええと。非常に面白いと思います。なんというか」

説明の間に宇宙に行っていたことに気づかれないよう、ぼくは言った。

「ええと。なんというか。

ええと。先生、一つ聞いてよろしいでしょうか?」

「なんです?」

耳鼻科医の目からすっと光が消えた。

「難聴がするから耳鳴りがするんでしょうか。耳鳴りがするから難聴がするんでしょうか」

「どういうことです?」

「つまり、なんというか、現実の音が聞こえなくなったから、埋め合わせをすることように幻の音、つまりは耳鳴りのことです、が聞こえるようになるのか。

それとも幻の音、耳鳴りが聞こえるから現実の音が聴こえなくなるんでしょうか?」

「面白いですね」

面白くなさそうに耳鼻科医は言った。お腹でも痛いのだろうか?

「個人的には興味深いと思います。

だがきちんのお答えできるほどの時間は無いかな。次の患者さんもいるし」

興味も無さそうに、耳鼻科医は言った。

その表情を見て、やっとぼくは悟った。やっぱりこの人はお腹が痛いんだな。

「それにどのみち」

耳鼻科医は小さな小さなため息をついた。見えないくらいの。

「耳鳴りは手強いのです」

「ありがとう先生」

ぼくは席を立った。

誰にでもお腹の痛い時はある。早くこの人を解放してあげなければ。

「よい一日を」

「お大事に。次の方どうぞ」

待合室に座って考えた。

耳鳴りと難聴、どっちが先なんだろう?

夢想家、という種族がいる。

ああでもないこうでもないと夢想しながら人生を過ごす。

そしてこの世を去るときに、「人生は夢まぼろしのごときなり」って言う。

無理もない。夢を見ながら人生を過ごしたんだから。

夢想家には2種類いる。

夢想するから現実が見えない者と、現実が見たくないから夢想する者と。

まあいいや。

どのみち、夢想だって手強いのだから。やれやれやれやれ。

「お会計できました、タカハシさん」

夢想と耳鳴りと処方箋。忘れずに、薬局に行かなきゃ。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年5月27日を加筆修正)

いわゆる”脳科学”を批判する。2

高橋宏和(H4卒)
date:2025/5/17

いわゆる“脳科学”、「最新の脳科学によれば人間とはこうだ」みたいなエセ科学のブームについて嫌悪感と警戒感を抱いている。嫌悪感と警戒感の理由については前述の通り。


さて、いわゆる“脳科学”の多くは、ごく限られた条件下の限定的な科学的発見を、恣意的につまみ食いし自分の思いつきや経験論に宣言なく無理やり当てはめ、仮説ではなく「ご宣託」として押し付けてくるものである。


イラストACより



では、そんな胡散臭いものがこれだけ長きに渡ってブームになっているのはなぜか。言葉を変えれば、人々はなぜいわゆる“脳科学”に心惹かれるのか。

複雑怪奇、不可解で理不尽な人間という存在や、社会というものを単純明快な「最新の脳科学」とやらでわかったものにしたいという欲求はあるだろう。わからないものをわからないまま付き合っていくのは知的スタミナを要する。それよりは「最新の脳科学」によればこうだよね、としたり顔できたほうが楽だ。

精神科医の斎藤環氏は別の見方を提示している。

“脳科学”が多くの日本人に受けるのは、〈脳が様々な問題を外在化する装置になっている〉からではないかという仮説だ。

斎藤氏は佐藤優氏との対談でこう述べる。

〈斎藤 自らにとって不都合な事象を認識した時に、それを心で受け止めようとすると、自分の内なる問題、自己責任になってしまうこともあるでしょう。しかし、脳のせいにすれば、それはまあ生まれつきなのだから自分の問題ではないんだ、ということにできる。そういう不思議な思考回路ができている感じがするのです。

佐藤 自分がこんな人間なのは、自分をコントロールする脳内分泌物のせいだ。もっと言えば、そういう脳のつくりを遺伝させた親のせいだ。だから自分に責任はない、恨むべきなのは親なのだー。〉

(〈〉内は佐藤優・斎藤環『なぜ人に会うのはつらいのか』中公新書ラクレ2022年 p.78-79)

なんでもかんでも自己責任を押し付けられる現代社会において、“脳科学”は「あなたのせいじゃないよ、ぜんぶ“脳”のせいだよ」と甘く囁く。

“脳科学”は「問題の外在化」をすることにより現代人を自己責任から解き放つ。だから“脳科学”はブームになるのではないか、というのが上掲書・上掲箇所における斎藤環氏の考えである。

“脳科学”の本質が「問題の外在化」であるとすれば、全く別の側面がある。

斎藤環仮説が正しいとすると、知的良心を捨てることができれば『人のせいにする脳』という本を書いたり、あるいは「問題の外在化」にあらがうような『NOと言える脳』という本を書いたりできるかもしれない。

”脳科学”ブームがいつはじまったのか。ふりかえってみると、総胆管末端筋の研究で学位を取ったという春山茂雄氏の『脳内革命』(1995年)あたりだろうか。以来ずっと”脳科学”ブームである。

なぜ“脳科学”がそれほどまでにウケるのか。


斎藤環氏は、“脳科学”は問題を「外在化」し、自己責任論から読者を解放してくれるからウケるのではないかと指摘した(前述)。

あなたが抱えている問題はあなたのせいじゃない、脳のせいだ。脳のホルモンが前頭葉がシナプスがこれこれこうだから問題は起こるのだ。あなたのせいじゃないあなたのせいじゃない脳のせいだ脳のせいだあなたは悪くないよと“脳科学”は甘く囁く。だから“脳科学”は人々の心をとらえるのだというのが斎藤環仮説だと思う。


この仮説を考えていて面白いことを発見した。

“脳科学”が問題を「外在化」し、問題は自分の「外部」にあると示すというのがここでの斎藤環仮説の本丸だと思う。

だが面白いことに、多くの読者が「外在化」された問題を「仕方ない」と思うのと対照的に、一部の読者は問題が「外」にあるからこそコントロール可能と思うのではないか。


たとえばイーロン・マスクのような人物は、問題が「外」にあればあるほどコントロール可能と考える(のではないか)。

彼のような人物は、我がことよりも「外部の問題」こそコントロール可能、解決・克服可能と考えて燃える。


そんな人たちにとっても、“脳科学”が問題を「外在化」させることで「“脳”をハックしてうまいことやろう」と意欲をかきたてられる。

すなわち、“脳科学”が問題を「外在化」させることで、「外部」の問題はコントロール不可能と思う多くの人たちも、「外部」の問題こそコントロール可能と思う少数の人たちも真逆のアプローチで“脳科学”を受け入れる。そんな構造があるのではないか。

“脳科学”は、前者には癒しと慰めを、後者には励ましとやる気を与えてくれるのだろう。


まあここらへんになってくると「理屈とポストイットはどこへでもくっつく」というヤツで、どうとでも言えるのだが、「“脳”をハックしてやろう」という見方で“脳科学”をとらえる一群がいるというのは悪くない見方だと思う。

いずれにせよ、誰かが言っていることを無批判に受け入れ信じ込むというのは科学ではない。

眼の前の事象や誰かが唱えている仮説を懐疑的・批判的に検証して、検証に耐えるものだけを「ひとまずの真実」として受け入れるのが科学なので、”脳科学”とは科学的につきあっていくべきだろう。

(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年3月11日3月12日を修正加筆)

 

いわゆる”脳科学”を批判する(その1)

高橋宏和(H4卒)
date:2025/4/17

photoACより



いわゆる“脳科学”、「最新の脳科学によれば人間とはこうだ」みたいなエセ科学のブームについて、嫌悪感と強い危惧を抱いている。

嫌悪感の理由を述べる。

科学とは健全な懐疑主義に基づき、観察と記録により仮説を打ち立てそれをほかの研究者とともに検証を重ねて少しずつ真実として認められていく、あるいは検証により仮説が否定されたら棄却し次へ進むものだと考えている。この際、仮説は反証可能な形で提示されなければならない。

これに対し一部の“脳科学”では、自分の思いつきや経験談を、科学研究の知見を恣意的につまみぐいし拡大解釈に拡大解釈を重ねて「最新の脳科学ではこうだ」と反証不可能な形で「ご宣託」として押し付ける。

それは科学者として不誠実であろう、というのが“脳科学”に対する嫌悪感の理由だ。

こうした「最新の研究では人間というものはこうだ」という論が、たとえば脳科学評論家とか科学ジャーナリストという肩書きでなされるなら個人的には受け入れる。

“脳科学”ではないが、そうしたスタイルで成功した物書きにマルコム・グラッドウェルがいるが、マルコム・グラッドウェルはあくまで「ジャーナリスト」の肩書きで売っているので「おもしろ科学読み物」として読者はとらえるだろう。

グラッドウェルのスタイルを模倣する物書きはグラッドウェリアンと呼ばれるが、もしグラッドウェリアンが「科学者」の肩書きを印籠にして自分の思いつきレベルのものを「最新の脳科学では人間とはこうだ」みたいに押し付けてきたら、警戒が必要だ。

危惧の理由は、こうしたエセ科学が悪きオカルトの「ゲートウェイドラッグ」の役割を果たすのではないかということだ。

「軽い」違法薬物に手を出すと、一部の人はより「強い」薬物へと進んでしまう。

こうした「強い」薬物への入り口となるドラッグを「ゲートウェイドラッグ」と呼ぶという。

エセ科学を盲信した人の一部が、悪きオカルトやエセ・スピリチュアルに進んでしまうのではないかというのが危惧の理由である。日本ではオウム真理教の例がある。

オカルトもスピリチュアルも、節度を持って楽しむぶんには害が少ないし、時に人生や社会のいろどりにはなると思う。

だが、オカルトやスピリチュアルにどっぷりハマると、抜け出せなくなる。

そうなってからでは遅いので、「ゲートウェイドラッグ」である“脳科学”の段階で警鐘を鳴らしておくべきだと思うのだ。

エセ科学、“脳科学”、オカルトにスピリチュアルは用法容量を守って健全に楽しまないといけない。

付記)

きちんとしたニューロサイエンティストの集まりである日本神経科学学会の指針を下に示す。2の「非侵襲的研究の目的と科学的・社会的意義」を読むと、いわゆる“脳科学”ブームに対して正統な研究者が苦々しく思っていることがわかる。

[神経科学の発展のために] 「ヒト脳機能の非侵襲的研究」の倫理問題等に関する指針(2022版)

https://www.jnss.org/human_ethic?u=27085f6771fe6499dabcee2cc32940df#link_b

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年3月10日を加筆・修正)

幸せには外部要因と内部要因がある。

高橋宏和(H4卒)
date:2025/3/16

あまり意識されていないことだけど、幸せには外部要因と内部要因がある。

外部要因には富や名誉や地位なんかがあって、それらを子供たちが獲得できるように親たちはしゃかりきになるけれど、もしかしたらそれ以上に大事なのが内部要因だ。


photoACより



内部要因は言い換えれば「心のあり方」。

「心のあり方」がうまく育っていないと、外部要因がどれだけそろっても幸せになることは難しい。

「心のあり方」は、言ってみれば幸せを感じる能力なのである。

幸せになるための「心のあり方」とはどんなものであろうか。

昔読んだ交流分析(Trasactional Analysis; TA)の本がヒントとなった。

今から20年も前に読んだ本で、現在の精神医学/心理学からはオールド・ファッションかもしれない。

少々うろ覚えだけど、こんな考え方だった。

すなわち、最も安定した心のあり方は、

 I’m OK, You’re OK.

自分もOKな存在で、他人もOKな存在である、という認識。

 

自分はOK、他人はNGだと傲慢になる。

自分はNG、他人はOKだと卑屈になる。

自分もNG、他人もNGだと――たぶん、生き地獄だろう。

自分もOK、他人もOKな心のあり方を育んでいくにはどうしたらよいか。

おそらく、そこで重要になってくるのが、「無条件の愛情」だ。

 

「勉強ができるから」、「外見がかわいいから」、「歌がうまいから」-なにかができるから、自分は愛される、という「条件付きの愛情」ではなく、自分自身は存在するだけで無条件に愛される、という体験を十二分にして初めて、子供は自分自身がこの世に存在していいのだと思えるのだろう。

「条件付きの愛情」の中で育ってしまうと、自分自身の存在が許されるのは、「勉強ができる」、「外見がかわいい」、「歌がうまい」といった条件が満たされるときだけになる。

そういった心のあり方を獲得してしまうと、まさに底無し沼だ。

 

どれだけ富を獲得しても満ち足りず、どれだけ出世しても飽き足らず、どれだけ異性から愛されても無限に愛を求め続けてしまう。

ほんとうに必要なのは、ただ一つ、自分の存在を無条件に肯定してくれる「yes」という言葉だけなのに。

だから人は、白い脚立にのぼり、ぶら下がった虫めがねを手に天井にyesの文字を探す。

名曲とダンスで世界を魅了しながらも何十回も自分の外見を変え続け、何十万の歓声を浴びながらも健やかな眠りを得られなかったマイケルが求めたものも、きっと自分自身を全肯定してくれる、yesの一言だったのだろう。

その無条件の愛情、無条件のyesを与えてあげられるのは、子供たちの親をはじめとする周囲の大人たちだ。

人生早期のそのyesさえあれば、たぶんそこから何十年か子供たちはやっていけるのだと、ぼくは強く信じる。

「それでも人生にイエスと言う」ためには、はじめにまわりの大人たちが教えてやらなければならないのだ。

ことほど左様にぼくはyesと言うことに重きを置いている。

そんなわけで、もし将来、博多でクリニックを開くことがあったら、キャッチフレーズは

 Yes!中州クリニック

にしようと思う。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年2月3日を加筆修正)

不易と流行、古典と現代。

高橋宏和(H4卒)
date:2025/2/16

不易と流行の不易に触れたくて、細々と古典を読んでいる。

原著で読めるほどの力は無いから邦訳や解説書を読むのだが、多くの古典の名著の母国語訳が千円から数千円で手に入る出版大国・日本には心から感謝である。


photoACより




わからぬながらも古典を読んでいると、数千年前の人が考えた思想や言葉が、時を越えて胸に刺さるのを感じる。名著の名著たるゆえんだが、数千年前に吐かれた言葉の矢が現代人の心に刺さるなんてことが、なぜ起こるのだろうか。


古代の賢人たちの個々の素晴らしさはひとまず置いておくとして、まずはこうしたことが考えられる。

数千年から一万年近くの人類の歴史のなかで、ほんとうに無数の思想や言葉が生み出された。

その中で後世の多くの人に刺さる思想や言葉だけが生き残った。

刺さらぬ思想や言葉は忘れ去られたからら、残った思想や言葉は立派なものだけとなった。思想や言葉の生存バイアスである。

そしてまた、つらつら考えるに、生き残る思想や言葉というものは、人間の身体性に根ざすものが多い気がする。

どんなに社会体制が変わっても科学や技術が進歩しても、人間の身体性はあまり変わらない。

朝になれば目が覚めてなんだかんだと動き回る。動き回れば腹が減る。腹が減って飯を食えば美味かったりまずかったり。腹一杯になれば眠気にも襲われるだろう。

長い年月には恋をしたり学んだり学んでも忘れたり、そうこうしているうちに歳を取って老いて死んでゆく。

そんなのは何千年も変わらない。

人間の愚かさダメさ賢さ尊さの多くは、心も含めた身体から生まれいづる。

そんな変わらぬ身体に基づき出てくる様々な事象が絡まり合いそれぞれの時代は織りなされる。だから数千年前に吐かれた思想や言葉が身体性に根ざしたものであれば、現代人にも刺さる可能性が高まる。

もっとも、科学や技術により身体性も拡張するから少しずつ事情は変わってくる。

身近な例でいえば、数十年前なら「あの人はなんでも知っていて、まるで“歩く事典”だね」みたいな褒め言葉はまだ使われていたが、どこにいても一瞬であれこれ検索できるようになったネット時代はそうしたことは言われなくなった。記憶力や知識と言った脳の機能が、ネットにより拡張したおかげである。

これからも様々な身体機能があれこれ拡張し、それによって語り継がれる古来の思想や言葉も変わってくるだろう。

だがまあ変わらないのは、どんな状況になっても我らは生きていかねばならぬということだ。

you know,

dum vivimus vivamus、

生きている間は、生きようではないか。

(古代ローマのことわざ。

ヤマザキマリ・ラテン語さん『座右のラテン語』SB新書2025年 p.150。一部改変)

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年1月31日より加筆修正)

「年賀状じまい」と弱い紐帯。

高橋宏和(H4卒)
date:2025/1/15

FIND/47より鹿児島 霧島神宮



2024年末から2025年年始にかけて、「年賀状じまい」という言葉をずいぶん聞いた。

毎年年賀状を出していたが、今年を限りにおしまいとさせていただく、みたいな意味だと思う。


昔と比べて年末ぎりぎりまで仕事もあるし、メールやSNSでふだんからなんとなくつながりもあるし、郵便代も上がったし、という複合的な理由だろう。

非常によくわかる。

年末だけ郵便需要が爆増してバイトの配達員なども大量に差配しなければいけないし、郵便局側としても「年賀状じまい」は消極的に賛成なのだと思う。年賀ハガキ売っておしまいならいいんだろうけど、配達しないといけないからバイトや残業代とか考えると利益という面では限られているはずだ。

「年賀状じまい」したら年末ラクだろうなとは思う。だが当面、規模を縮小しながらも続けようと思っている。

なぜか。

儀礼とか伝統とかお気持ちとか、そうした不可算なものは除外し、あえて功利主義的に考える。

儀礼とか伝統とかお気持ちみたいなことを論じるとどうとでもいえるし、どこかで「失礼クリエイター」ことマナー講師に聞きつけられて寄ってこられてもいけない。

あえて功利主義的に考えたとき、年賀状は「弱い紐帯」を維持するのに非常に有効な手段である。

生きていくために大切なのは、誰か1人との深くて強い一本の絆(だけ)ではなく、多くの人との浅くて弱い無数の絆である、というのが「弱い紐帯」の考えかただ。

困ったときのちょっとした手助けが、ぼくらを破滅から救ってくれるのだ。

この「弱い紐帯」仮説は、アメリカの社会学者グラノヴェターの研究などにより示された(M.グラノヴェター『転職 ネットワークとキャリアの研究』ミネルヴァ書房 1998年)。

転職が盛んなアメリカで、人々はどのようにして新しい職を見つけているか、グラノヴェターは居住者9万8000人(当時)のマサチューセッツ州ニュートン市をサンプルとして調べたのだ。

人々は転職するときにどうやって新しい職を探しているのか。求職者に新しい職を紹介するのは誰かをグラノヴェターは調べた。

アメリカは転職大国とはいえ、転職は人生の一大事だ。

そんな一大事を左右するのだから、新しい職を紹介してくれるのは家族や親友など「濃い」関係の人ではないかと考えるのが普通だ。

だが意外にも、転職者に新しい職の情報をもたらしたのは仕事上の友人や知人、恩師などが多かったという(前掲書 2章)。

興味深いのは考察で、家族や親友などの「濃い」関係の人(「濃い」「薄い」について、グラノヴェターは週に何回会うかを指標にしている)は、求職者と行動範囲がかなり重複するため、求職者が知らない情報が入ってきにくいからではないかと述べられている。ここらへんはネット時代以前の調査であることに留意。

同じ「界隈」の人とは「濃い」関係性が築きやすいが、同じ「界隈」だとは入ってくる情報はカブる、ということだろう。

そういうわけで、グラノヴェターの調査においては、求職者は「薄い」関係性の知人友人から新しい職を紹介してもらう割合が多かった。

いろんな行動範囲の人と薄くつながっていると新しい情報が入ってきやすい、ということだろう。

このグラノヴェター『転職』が、「弱い紐帯」仮説の論拠の一つとなっている(はず。誤読してたら教えて下さいませ)。

「弱い紐帯」は、ときどき手入れをしてキープしないといけない。放置していれば切れてしまうのだ。

というわけで、「弱い紐帯」が僕らを破滅から救ってくれる蜘蛛の糸で、そうした「弱い紐帯」を年に一回のご挨拶である程度キープできるかもしれないから、当面年賀状は続けようかなと思う次第であります。

今年もよろしくお願いします。

『カエル先生・髙橋宏和ブログ』2025年1月15日を加筆・修正)

Pieces of a dream。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/12/19

「それって、夢は何かってことですよね?」

K先生が言った。

「…セスナの免許取るってどうですか?」

会話や対話は楽しい。自分では絶対に出てこない発想がポンポン飛び出してくる。

「予定外に急に、2、3時間ヒマな時間ができたら何してます?」

ここのところ会う人ごとに、そんな質問をしている。

実際に自分がそんな目、すなわち突然2、3時間ヒマになって「さてどうしたものか」と困った経験があるからだ。

ちなみに、酒を飲むのは無しとする。

以前なら2、3時間ヒマになっても、ふらりと本屋に行ったりCD屋に行ったりした。

本屋に行くのは今も楽しいが、一方で、「この本のネタもとはたぶん古典のアレだよな。新しい本買うのもいいけど、ネタもとの古典はまだ読まずに積んであるし、読むべき古典はいっぱいあるな」という時期に入ってしまっている。

CD屋も、そうとうの店舗が街から消えてしまった。

若い時は街をぶらぶらするだけで楽しかったが、今は感性が摩耗してしまった。

酒を飲まないという“縛り”が無ければまた話は変わってくるだろうが。

急に2、3時間ヒマになったら何をします?という質問に対する答えは人それぞれだった。

「ヒマになったらジムに行ってる」

「料理。それか本屋に行ってレシピ本探してる」

「ひたすら散歩」

「葉巻バーで葉巻吸う」

「調べて映画見に行く。学生時代、映研だった」

「時間が空いた時に行くと決めている喫茶店がある。とにかく時間が空いたらそこに行って本読んだり」

「ヨガかな」

面白かったのは、

「歌を習おうと思ってる。別に誰に聞かせるわけじゃなくて、自分が歌うまかったら楽しくない?」

なるほど。

「ドローンとかどう?楽しいよ」

と言ってくれた先輩もいた。

「空からの視点なんて普通ないじゃない?前にドローン買って飛ばしたら楽しかった」

そんな中で出てきたのが冒頭のK先生の話だった。

余暇や空き時間を、“夢”実現のひとかけらととらえる発想は自分には無かったので面白かった。

たしかに「空を飛んでみたい」というのは人類の夢だ。

自分の実生活で空を飛ぶなんて無いことだし、セスナの免許を取るプロセスや、その気になればセスナ飛ばせるという感覚そのもの楽しそうだ。

そんなことを想像するだけで楽しくなってきた。

善は急げで、まずはセスナ買ってくる。


photoACより



『カエル先生・髙橋宏和ブログ』2024年11月6日より加筆修正)

ポテトな驚天動地。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/11/17

「え“え“え“!」

度肝を抜かれる、天地がひっくりかえるというのはこういうことを言うのだろう。何歳になっても死ぬほど驚くことはある。いまだにショックから立ち直れない。

ウズベク料理をつつきながらTさんから教えていただいた秘密で、世界の見方が激変した。

「アメリカ行くとね、どでかいステーキの横に、山盛りのフライドポテト出てくるでしょう。

あれ見てボクらは“さすがアメリカ人はよく食べるなー”とか思うけど、なんとね、あのフライドポテト、食べなくてもいいみたいなんです。

もちろん食べる人もいるけど、ちょこっとだけの人も多いし、全然食べない人もいる。日本の、“サシミのツマ”みたいなもんですね。

食べてもいいし食べなくてもいいみたいです、アメリカのフライドポテト」

 

え“え“え“!

 

「食べないのになんであんなに山盛りかって?

理由はね、“山盛りのほうが嬉しいから”。

映画館のバケツみたいなポップコーンも一緒。全部食べない。

全部食べないのに山盛りの理由?それはね、“そのほうが嬉しいから”」

 

え“え“え“!

実はいまだにショックから立ち直れない。

アメリカも広いし州によって“別の国”くらい違うから、在米のかた、実際のところどうでしょうか?


おまけ)1か月間マクドナルドのメニューだけ食べ続ける映画『スーパーサイズミー』に、数十年ビッグマック(でしたっけ?)を食べ続けてる人が出てきて、でもその人は太ってなくてしゅっとしてるんですね。

その秘訣を聞いたら「ビッグマックは食べるがフライドポテトは食べない」って言ってた記憶。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2024年10月26日を加筆修正)