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ふるさと納税は自己肯定感の夢を見るか。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/3/17

大都市と地方の格差是正のためとして「ふるさと納税」が導入されたのが2008年。かれこれ16年になる。

この政策の良しあしを専門家がどう評価するかはわからぬ。万物と同じく功罪両方あるだろうが、プラスの面、特に心理的なプラスの面についてかんがえた。

山口県柳井市の元市長の河内山哲朗氏がこんなことを述べている。
〈日本の地方行政は(場合によっては国政もそうですが)、施策のスタートは課題、欠点、短所になってしまうのです。日本のメディアも含めて、いかにある部分が弱いか、ある部分がダメか、ある部分が欠点であるかということを前提に施策を考える。これは予算を取るための手法としては間違いではない。(略)笑い話で、例えば市長が東京に行って予算の陳情をやります。それは結局「私のところはいかにダメか」を言うわけです。そうすると予算がつくのです。人間というのは、そんなことを繰り返し言っていますと、いつの間にか自分の頭の中に「自分たちはダメだ」ということを刷り込んでしまうのです。これが、地方をダメにしている原因でもあるのです。〉
(小宮一夫/新嶋聡 編 河内山哲朗著『自律と自立のまちづくり』吉田書店2024年 p.135)
 
通常の陳情というのは我が市我が町のここがダメだから税金回してくれということで、これを繰り返していると自分で自分に「ダメだ」という自己暗示をかけてしまうということだろう。地域の自己肯定感が下がってしまうのだ。
 
これに対し、ふるさと納税、そしてインバウンド政策は真逆のベクトルを与える。
我が市我が町のこれが良いここが良いからふるさと納税してくれとか観光に来てくれとやるわけで、これは逆に地域の自己肯定感を上げることになる(かもしれない)。
もちろん税の公平性とかそもそもの税の意義とか効率性の問題点がふるさと納税制度にはあるし、オーバーツーリズムなどなどの問題がインバウンド政策にはある。
 
さはさりながら、今まで「我が市我が町のここがダメだから予算つけてほしい」という地域の自己肯定感を下げる陳情が首長の仕事であったのが、それに加えて「我が市我が町のここが良いから予算つけてほしい」という地域の自己肯定感を上げるふるさと納税などのシティセールス、シティアイデンティティの仕事が新たに加わったというのは非常に面白いことだと思う。

いいことだけしか書かないのは知的にフェアではないので引っかかる点も書く。

実は、「ふるさと納税」制度には引っかかる点は3つある。

「ふるさと納税」制度では、本来居住地に納税されるはずのお金がほかの自治体に行ってしまうことで居住地の税収が減り、そのぶん住民サービスが低下するor「ふるさと納税」してない住民がその分を補てんすることになること。「ふるさと納税」していない納税者が割を喰うわけだ。これはよく言われている

 

また、「ふるさと納税」の「お礼」が高額になることで、実質税金逃れ的にも運用できてしまうことなどの問題点は以前より指摘されている。

たとえば仮に、「お礼」を商品券にして、ふるさと納税」の95パーセントの「お礼」を返すような制度にすると合法的な節税ががっつりできちゃいますね。ここらへんは導入当初と比べ返礼品の率を下げることである程度対応されている。


地味だけど大事なのは、「ふるさと納税」と間接民主主義の相性がいいのかどうかというところ。

どういうことかというと、

 ①間接民主主義では、有権者は納税額に関わらず一人一票の発言権を持ち、その発言権を代表(代議士とか)に預ける。リタイアして所得税払ってなくても一人一票、経営者で高額納税していても一人一票。

 ②預かった発言権を根拠に、代議士などはみんなで税金の使い道(=予算)を相談し決める。実質的には予算案は大筋で役所が作ったものではあるが、しくみ上は代表が話し合って「こういうふうに予算を使おう」「この分野は手厚く予算配分しよう」と決めることになっている。

 ③ふるさと納税はそのプロセスをすっとばし、税金の使い道を納税者が直接決める。

 ④しかもその裁量は納税額が大きいほど大きい。出所は自分の税金ではあるが、たくさん「ふるさと納税」する人は、自治体・国の予算の一部をどこに割り振るか決める権限が多いことになる。

 ⑤民主主義では発言権・裁量は出したお金の額と比例しない。出したお金の額が多いほど発言権・裁量が大きいのは一人一票の民主主義・選挙じゃなくて一株一票の株主総会。

 ⑥だから本当は「AKB総選挙」じゃなくて「AKB株主総会」が正しい。

最後のほうはふるさと納税の話でなくなっているが、税制の研究者などからみればふるさと納税はキメラのごとき制度なのであろう。

さはさりながら(業界用語)しかし実際には、大義名分と実利、さらに「自分が関与することで状況が変わる感」がセットになったこの制度は、まだまだ広がっていくのだろう。外資系企業が仲介事業に参入するとのことで、徴税業務の手数料が外資に流れてよいのかという問題提起もされているし。一方で納税者が直接税金の使い道を決める云々については、もともと寄付金控除という制度もあるしなあ。

 

そういうわけで、「ふるさと納税」は民主主義を考える上でも非常に興味深い。

アメリカなんかでは議員に有権者が意見するときには「As a tax payer、納税者として」なんて前置きをして話すそうでけれど、国民と有権者と納税者はイコールではないんですね。国民は未成年も含むし、有権者は納税していない人も含むわけで。

いずれにせよ、もし自分が新しくなにか制度を作るときには、大義名分と実利、さらに「自分が関与することで状況が変わる感」を意識して制度設計するといいようですね。

それにしても、和牛とお米、どっちがいいかなあ。

(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2016年12月5日2024年3月14日を編集・加筆)

 

みんなもっと「無責任なアドバイス」をしあったほうがよいという話。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/2/17

(photoACより)



先日手にとった本にこんなことが書いてあった。曰く、

〈無責任なアドバイスこそ聞くに値する〉

(by 東京都・自営業 61才男性。『他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え』鉄人文庫 p40)

 

最近の人はみんないい人だから(大雑把)、無責任なアドバイスというのはしない傾向にある(当社調べ)。

相手のことをおもんばかって、こんなことを言ったらどう思われるかを瞬時に計算し、前後の話と矛盾がないか論理的一貫性はどうか実現可能性はあるか維持可能性はどうかなどなどを必死で計算して繰り上がり繰り下がり切り捨て切り上げ四捨五入してアドバイスするから、結果として小ぶりでしごく当たり前のアドバイスしかできない。

 

しかしながら背中を押されたりああそうなのかと天啓のごときひらめきを聞いた者に与えるのはいつだって「無責任なアドバイス」だ。

そうした「無責任なアドバイス」が与えられるのは多くの場合酔いどれ達がたむろしはじめる夕暮れの酒場だったりするけれど、コロナが流行ってからこっちなかなかそういう酒場も行きづらかったり羽目を外しにくかったりして、「無責任なアドバイス」も触れにくくなってしまった。

 

酒場の「無責任なアドバイス」業界のトップクラスの1人はマンガ『たそがれたかこ』の美馬さん。この人は〈蜘蛛は網張る 私は私を肯定する〉(山頭火)みたいな人で、こういう言った本人もすぐ忘れちゃうくらいのいい加減な人の言葉のパンチラインの中に現実を解決するライムが潜んでたりする。

たぶんみんな、もっと「無責任なアドバイス」を生み出したり聞き流したりしたほうがよいのだ。まあその結果どうなろうと責任は持てないが。

 

愚にもつかないアドバイスのことを「クソなアドバイス=クソバイス」というそうだが、「無責任なアドバイス」と「クソバイス」は似て非なるものだ。 どう違うかというと、強制性の有無にある。

「無責任なアドバイス」は言ったほうもすぐ忘れる。なにしろ無責任だから。 しかし「クソバイス」のほうは、クソバイスしたほうはしつこく覚えていやがる。「俺がこの間アドバイスしたあの件どうなった?」とか。うるせえ。

要は、「クソバイス」がクソなのはアドバイスの内容ではなく押し付けがましさゆえなのだろう。

 

まあそんなわけでみんなもっと「無責任なアドバイス」をしたほうがよい。そのかわり瞬時にアドバイスしたことを忘れるべきだ。

言われたほうも「無責任なアドバイス」を真に受けず、心に刺さったもの以外はぜんぶ「無責任やな笑」と受け流す。

それでこそ「無責任なアドバイス」が光り輝くのだ。

 

ちなみにぼくが受けた「無責任なアドバイス」ナンバーワンは、国境問題でひところ話題になった島の話を雑談でしてるときにH先生に言われた、

「あなた医者だろ?だったらあの島に診療所建てて住め。他国があの島に攻めてきてあなたがやられたら、邦人保護ってことで自衛隊も動けるから」

です。やだよおっかない。

『カエル先生 高橋宏和ブログ』2024年1月19日を加筆修正)

なぜTwitterでのやりとりではイラっとすることがあるのか考ー議論と会話、7並べとUNO

高橋宏和(H4卒)
date:2024/1/17

ネットでのコミュニケーションをこよなく愛する令和男子だが、ごくたまに、1ppmくらいの確率でイラっとすることがある。あまりにも文意からズレたコメントをもらった時だ。ちなみにppmはparts per millionの略で、「100万分の1」のことである。おととい水道橋のエジプト料理屋の帰りに教えてもらった。
 
たとえば「猫も可愛いけど、犬も可愛いですよね。この間、見た犬は」みたいなことをネットで発言したとする。
多くの人は「犬可愛いですよね。私も」みたいな反応を返してくれるが、「猫可愛いですよね!私も猫大好きです!私の飼ってる猫は」みたいなコメントをがんがんくれたりする。
それが甚だしいと、「猫の話は前フリで、こっちのしたいのは犬の話なんだよなあ。猫可愛がりもほどほどに」とかぶってる猫をかなぐり捨てて猫又になりたくなる。猫可愛いですよね(ここまでが前フリ)。
 
こうした発話者と反応者のすれ違いがなぜ起こるか考えた。
思うにこれはネットでのコミュニケーションを「7並べ」と捉えるか「UNO」として捉えるかの違いかもしれない。あるいは「議論」と「会話」の違いというか。
 
スタンダードな「7並べ」では、場にスペードの7があれば次に出せるのはスペードの6かスペードの8だ。
「ネットでの議論」でいえば、発話者は問題提起や話題提供というスペードの7を出したつもりでいる。
発話者の心づもりとしては問題提起、前提、前フリ→経験→考察や検討→結論、と話を進めたいと思ってカードを切る。だが議論の中で、経験の中で「そもそも前提がおかしい」というふうに、スペードの7から6に遡っても構わない。
 
だが「7並べ」のつもりでカードを切ったのに、「“スペードの7”が場に出てるなら7つながりでオレは“ハートの7”出すね!」「じゃあオレは“ダイヤの7”!」「オレは“ダイヤの6”」「じゃあ私は”クローバーの6”!」みたいに「UNO」のようなことをされると話がズレてゆく。
 
そういう時に発話者は「その話は主題じゃないのに」とイラっとするのではないだろうか。
ネット賢人の名言に「日常会話はUNOの如し」というものがあるが、「7並べ」をやるつもりが「UNO」にされてしまったらイラっとしてもやむを得ないのではなかろうか。
そうそう、「7並べ」といえばいろいろローカルルールがあって今まで一番面白かったのは(略)

photoACより


おごりおごられ割り割られー「割り勘」考。

高橋宏和(H4卒)
date:2023/12/17

日本の習慣の一つに「割り勘」がある。
みなで会食をして会計を単純に人数で割るという方法で、日本で「割り勘」をしたことがない人はいないと思う。
たくさん飲み食いした人もそうでない人もいるので「払い損」の人が必ず出てくるので、昨今ではお酒飲まない人は少なく払うなどの傾斜配分も行われている。この「割り勘」はまあまあの納得感をもって日本社会に受け入れられていると思う。

(photoACより)


で、ここからが本題。この「割り勘」というやり方を日本以外の文化圏の人にうまく伝えられますでしょうか。さらには相手に納得して受け入れてもらったご経験がありますでしょうか。
 
若かりしころ、なんちゃってバックパッカーとしてロンドンからイスタンブールまで旅行した時とかに非日本文化圏の人とご飯食べに行ったりしたが、その時は全て個別会計、自分が食べた料理のぶんを自分で払ったおぼえがある。
「割り勘」を「ダッチ・スタイル」というのだと読んだが、実際にそんな言い方するのでしょうか。
 
世界を見渡すと、会食の際の支払いについていくつかありそうだ。
①割り勘
②個別会計
③おごりおごられ
 
①について、日本以外で行われている国はあるのでありましょうか。
“会費制”とか“メンバーシップフィー”みたいなやりかたは感覚的に割り勘に近いのだろうか。 
①のやり方は、大皿料理や鍋みたいに参加者で料理をシェアする食文化には向いていそうだ。誰が何をどれくらい消費したかわからないので個別精算は向かないからだ。まあコロナ禍でそうした食文化は廃れそうではある。
 
②については欧米文化圏な気がする(欧米といっても千差万別だろうけど)。②が主流の文化圏だと、明朗会計なやりかたとして“キャッシュオンデリバリー”とかが発達しそう。
この②のやり方は明朗性があり、都度精算なので会食メンバーの流動性を高めやすい。
ゲスト的な人を招きやすいのが利点だ。

 
③について、イメージ的には中華圏、いわゆる儒教圏で行われていそうだ。ここは私がおごるから、次回はあなたが、みたいな会計方法。
試みにここ数年、固定メンバーでこの「おごりおごられ」スタイルで会食をしてみているのだが、このやり方だとメンバーの親密性が上がるのと、返報性の原理でそのメンバーでの会食習慣の維持可能性が上がることを発見した。おごりおごられが続くグループにポンと新参者は入りにくいし参加者も抜けにくいから、親密なグループを作るのに向いている会計方法だ。
世界を見渡すと会食の精算方法にもいろいろあるなあと感心するが、皆様のご経験をお教えください。



そんな話をいろんな人に聞いてみたら、いろいろ体験談が集まった。
たとえばイギリスのパブだと「ROUND」といって、1回ずつ交互にみんなの分をまとめて払うみたいなやりかたをするそうだ(友人Tさん談)。

まずは1杯目のビールを人数分、Aさんがまとめて払う。

次に2杯目のビールは人数分、今度はBさんがまとめて払う。

3杯目のビールは人数分、Cさんがまとめて払う。

こうしたやりかたを、イギリスでは「ROUND」というそうだ。

 

友人Iさんから教えてもらったのだが、中華圏でも最近は「割り勘」も使われるようになっているとのこと。

「AA制」(「Acting Appointment」または「All Apart」の頭文字らしい)と呼ばれているそうである。。

「おごりおごられ」スタイルだとインナーサークルを作りやすい(メンバーを固定してそのなかで関係性を高めやすい)という利点があるなと最近気づきました。一方でステークホルダーがくるくる入れ替わる時代だとその場精算の「AA制」のメリットもありそうだ。



友人Nさんの話では、20年ほど前の香港では、中国人同士だと「一番のお金持ちが全員分をおごる」という風潮だったそうだ。ポトラッチ的な感じですね。面白い。
 
割り勘体験談、ぜひぜひお教えください。

社会や組織に変わり者が必要なわけ~ゾウリムシの繊毛の話

高橋宏和(H4卒)
date:2023/11/16


(イラストはシルエットACより)

ここ30年ばかり、心の片隅にゾウリムシがいる。

出典を確認すべく最近やっと取り寄せた上前淳一郎著『読むクスリ 15』(1991年 文藝春秋)にはこんなことが書いてある。

ゾウリムシは草履に似た微生物で、そのまわりには小さく細い毛、繊毛がびっしり生えていて、それがボートのオールのようにおんなじ方向に動いている。そのためにゾウリムシはすいすいと前へと進んでいくが、数百本の繊毛の中に数本だけ、全然別の動きをしている奴がいるというのだ。

なんでそんな非効率的な動きをしている奴がいるのか、数百本が全く同じように動いていたほうが無駄がないじゃないかと思って観察してみると、なんと勝手な動きをしている奴が大活躍する瞬間がある。ゾウリムシが、方向転換するときだ。

つまり、まっすぐ進んでいたゾウリムシが大きく方向を変えるとき、今まで少数派だった勝手な繊毛の動きに、ほかの数百本が動きを合わせることによって、ゾウリムシはスムーズに方向転換をするのだという。

そしてコラムはこう続く。

実は会社や組織というのもこれと同じで、5%程度の異端や異分子がいてこそなにかあったときにスムーズに方向転換できるのではないか、と(上掲書 p.132)。

それで思い出すのは東大理学部数学科出身の元大蔵官僚、髙橋洋一氏だ。

髙橋氏の著書にはこんな一節がある。

『大蔵省は話題づくりのために二年に一人くらいの割合で、変わった経歴の人間を採る。私はその「変人枠」で採用されたようだった。』(髙橋洋一「さらば財務省! 官僚すべてを敵にした男の告白」 講談社 2008年 p.40)

髙橋氏自身はここで「変人枠」を「話題づくり」と片付けているが、そこには旧大蔵省の組織保全というか環境変化への適応力の保険というか、そうした経験に基づいた組織の知恵というものがあるのではないかと思う。

5%の異端や異分子、異物を内部にビルトインすることで組織の健全化を図る知恵みたいなものが旧大蔵省の「変人枠」だったのではないだろうか。

10年くらい前にも、「役所のなかの役所」と呼ばれる中央官庁に「日本で一番難しい理系学部」卒業生が入省したという噂を聞いた。今はどうしているのか興味津々である。

こうした組織内の異端や異分子、異物を人為的につくりだそうとした試みが「ぶらぶら社員制度」であろう。

永谷園では1979年に、通常業務は一切せず、2年間の間、食べたいものを食べ、行きたいところに行き、新しい商品のアイディアを考えるだけの「ぶらぶら社員」という制度ができた。永谷園の「麻婆春雨」というヒット商品はこうして生まれたそうである。

 (永谷園HP:マンガ「麻婆春雨」開発秘話 )

こうした「ぶらぶら社員」制度は、検索するとセブン&アイ・ホールディングスやキングレコードといった会社にもあり、面白いとは思うが、それほど多くの企業や組織で取り入れられていないのは何らかの無理があるのだろう。生真面目な本業の中に遊び心を入れることが「ぶらぶら社員」の本質なのに、社命とあらば生真面目に「ぶらぶら」してしまうお国柄のせいだろうか。

組織全体の中に異端の「繊毛」をつくるよりもむしろ、一人の個人の活動の中に異分子、異端を取り込むほうが現実的かもしれない。

不惑を前に思わず手に取った本、「40代を後悔しない50のリスト」(大塚寿著 ダイヤモンド社 2011年)には「8割は守りでいいから2割は攻めろ」と書いてあったし(p.49)、グーグル社の社員は勤務時間の20%は自分の好きにやってよい、という「20% ルール」があるという(http://googlejapan.blogspot.jp/2007/07/20.html)。

そんなわけで、「方向転換の時に役立つ5%の繊毛」に心惹かれながらここまで来たわけであるが、ここにきてふつふつと疑問が湧いてきた。心の拠り所にしてきたその繊毛の話が、そもそもウソだったらどうしよう、というものである。

というわけで、ゾウリムシの繊毛および「役所のなかの役所」の人事に詳しい方がいらしたら、ぜひぜひご一報ください。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2016年4月13日を加筆修正)

病院受診の質を上げるたった3つのこと。

高橋宏和(H4卒)
date:2023/10/18

3つのことをはっきりさせるだけで、病院受診の質を上げることができる。

非常に簡単かもしれないが、簡単ではないかもしれない。

完璧な受診なんてない。完璧な絶望がないようにね。

 

さてと。

病院受診の質を上げるため、あるいは受診の際の不完全燃焼感を下げるためには以下の3つのことをはっきりさせるとよい。

すなわち

 

①目的

②主語

③語尾 である。

 

まず大前提として、名医には巡り会えない。

1万人に1人の名医を求めてもそれは叶わない。 日本には33万9623人の医者がいるが(令和2年12月31日現在)、1万人に1人の名医を求めるならば、日本には名医は33人しかいないことになる。

「黙って座ればピタリと当たる」ような名医には巡り会えないと思うところから話は始まる。

 

病院を受診した際、あなたの目の前の医者は「黙って座ればピタリと当たる」名医ではないので、あなたが何を求めて病院に来たのかは明確にしたほうがよい。

「病気だから病院に来たに決まっているだろう」とお思いかもしれないが、人は様々な理由で病院を訪れる。

 

・具合が悪いので原因はどうでもいいからとにかくなんとかして欲しい

・具合が悪いので薬とかはいらないからとにかく原因が知りたい

・なんだかよくわからないけれどまわりの人やほかの医者から病院に行けと言われた

・症状は落ち着いているからいつもの薬だけだして欲しい

・役所や会社に出す書類を書いて欲しい。薬とかはいらない

 

それぞれの場合、医者の対応も変わってくる。

診察し仮診断を下しそれに基づいて必要なら検査などをして診断の正確性を上げ状況に応じて治療を行うという王道は変わらないが、時間の使い方や濃淡は変わってくる。

この「Youは何しに病院へ」を明確にすれば、病気の原因を知りたいだけだったのによくわからないまま山ほどの薬だけ出されて不完全燃焼のまま帰宅するという事態は減らせる。

まずは「目的」をはっきりさせ、きちんと医者に伝えることが病院受診の質を上げることにつながる。
 
「主語」「語尾」を明確にするとは何か。
 
病院受診とは情報戦である。
適切な情報を提供し、医者から適切な診断や治療を引き出す。
そのための病院受診なのに、貴重なその機会が十全に活かされていない。
 
診察室での光景を再現してみる。
「最近、いまひとつで…」
「ほうほう」
「なんだか調子が悪いみたいで」
「なるほど」
「朝からすっきりしないんですよね」
「はあ」
「そのせいか睡眠もちょっと…」
「それで…」
「だから困ってるみたいなんですよね」
「あぁ…」
「旦那が」
「旦那さんの話ですか!!!!!!!」
「あ、わたしは元気です。いつもの薬ください」
日本全国で毎日繰り返されている光景だ。
 
「主語」と「語尾」を明確にして話しをするというのは非常に簡単に見えて簡単ではない。
日本語のコミュニケーションでは、「主語」と「語尾」をあいまいにしても成立するし、むしろ「主語」と「語尾」をあいまいにしておいたほうがあたりさわりなく日々が流れたりする。
しかしながら「主語」と「語尾」をあえて明確にして病院受診をしていただくと情報戦としての病院受診の質はぐんと上がるので、こちらもぜひお試しください。

なぜ世の中の友達というものは病気の人にテキトーなアドバイスをするのだろうか。

高橋宏和(H4卒)
date:2023/9/21

「右から左へ受け流してください。全力で」

たまりかねてぼくはそう言った。ある日の診察室での出来事。

 

「血圧の薬は飲み始めると一生やめられないから飲まないほうがいいって友達に言われた」

「クレストールは飲むと死ぬって友達に言われた」

「糖尿病になったらずっと大変って友達に言われた」

「認知症になったらそのうち徘徊しちゃうわよって友達に言われた」

「認知症かもしれないからMRI撮ってもらいなさいって友達に言われた」

「病院変えたほうがいいんじゃないって友達に言われた」

患者さんがまわりの友達から言われたという言葉の数々である。どうしてこう世の中の友達というのは病気の人にテキトーなアドバイスをするのか。善意を疑うわけではないが、言ってしまえばまあ余計なお世話である。



念のため言っておくと、上記の「友達のアドバイス」はいずれも間違いである。

降圧剤を飲み始めても、減塩や禁煙、減量などの生活改善・体質改善に成功して血圧が十分下がれば降圧剤はやめられる(ことも時にはある)。

 

コレステロールを下げる薬クレストールにも重大な副作用はあるが、飲んだ人が全員死ぬわけではない(“長期的にみれば我々は皆死んでしまう”わけではあるが)。

糖尿病になったら大変かもしれないが、食事指導や薬の治療でがんばってらっしゃるかたが大半だ。

認知症になってもおだやかに経過する人も多く、徘徊が見られるのは半分くらいの割合なはず。

認知症の診断は総合的なもので、臨床症状もないのにMRIだけで認知症と診断されることはない(医学が進歩すればまた違うかもしれないが)。

病院変えた方がいいというアドバイスは……そういうこともありますね。

 

こういうテキトーなアドバイスをする人というのは昔っからいる。

ナイチンゲールの『看護覚え書き』にもこんな一節がある。



<この世で、病人に浴びせかけられる忠告ほど、虚ろで空しいものはほかにない。それに答えて病人が何を言っても無駄なのである。というのは、これら忠告者たちの望むところは、病人の状態について本当のところを知りたいと言うのではなくて、病人が言うことを何でも自分の理屈に都合のよいように捻じ曲げることーこれは繰り返して言っておかなくてはならないーつまり、病人の現実の状態について何も尋ねもしないで、ともかくも自分の考えを押しつけたいということなのである。>(フロレンス・ナイチンゲール『看護覚え書き 改訂第7版』 現代社 2014年 p.172)


ナイチンゲール先生、なかなかに憤ってらっしゃる。白衣の天使は辛辣なのだ。

 

日々患者さんと接していると、冒頭のような「友達がこう言った」「友達がああ言った」と、友達のテキトーなアドバイスに振り回されている方によくお会いする。

そのたびに脳裡をよぎるのは「友とするのに悪きもの、病いなく身強き人」という言葉であったり、「友とするのに悪きもの、虚言(そらごと=うそ)する人」という言葉だったり。あまりにいい加減なアドバイスをされた人に会うと「友達というよりはフレネミー(frenemy=friend+enemy、友達と見せかけて実は敵、みたいな人)というべきじゃないの」と言いそうになる。

そうは言っても患者さんの友達の悪口を言うべきでもなく、脳裡をよぎるいくつかの言葉はぐっと飲み込んでおくしかない。

いろいろな思いを飲み込みつつ、自分の中でかろうじて言ってもいいかなという言葉が冒頭のアレ、「右から左へ受け流してください」というわけなのだ。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2016年12月15日を加筆・修正)

ジミーの流儀。

高橋宏和(H4卒)
date:2023/8/29

週刊プレイボーイで30数年前に読んだ話が、今も心に生きている。
 
映画の都ハリウッドに一人の男がいた。うろ覚えなので、仮にジミーとしよう。
ジミーはいわゆる業界人ではない。純粋な映画ファンだ。
面白い映画良い映画を観れば興奮して会う人ごとにその映画の話をする。
 ハズレの映画や出来の悪い映画を観たときにはただ黙って語らない。ハズレ映画や出来の悪い映画のことはただ自分の胸にしまっておく。
 
初老のジミーには家族もなくほかの趣味もない。街の外れのこじんまりとしたフラットに住んで、映画がかかると街に出かけてゆき、映画を楽しむ。
 
ジミーの楽しみの一つは、伝手をたどって試写会に出かけていき、これから世に出る新作を観ることだった。
アタリの映画の試写を観たときのジミーはそりゃあもう大興奮で、試写室を出た途端手当たり次第に「いい映画だった!君も観るべきだ!」と言って勧めまくる。
ハズレの映画の時は、黙して語らない。
 
いつしかハリウッドの業界人の間にこんなウワサが流れるようになった。
「ジミーという男が試写会に来た映画は、当たる」。
本当はジミーが試写会に来たからといって必ず当たるものでもないのだが、まあジンクスというのはそういうものだ。
 
そうして各社の試写会には、一つの席が設けられるようになった。
名付けて、「ジミーズ・シート」。

photoACより


 
無名のいち映画ファン、ジミーがこの世を去ったとき、世界は彼のことを知らないままだった。ただハリウッドの映画人たちだけが、彼の死を心から悼んだという。
 
ぼくが見習いたいと思い続けているのは、ジミーの「良いものは絶賛し、そうでないものは黙して語らない」というスタイルだ。放って置けば人の心は他者を妬み「たいしたことない」と言いたがり、あるいは人の粗探しをして貶したがる。
映画を愛し映画人に愛されたジミーのスタイルを真似るには、意志の力が要る。
 
30数年前に一度読んだきりのコラムだし、彼がジミーだったかどうかもわからない。時の流れとともに思い出補正もかかっているだろうし、話も膨らんでいるはずだ。だがアズ・タイムズ・ゴー・バイ、すべては時の過ぎゆくままに。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2023年5月21日を加筆再掲)