因果と縁。
「原因と結果。因と果で因果。
仏教では、因と果のほかに“縁”というのもありましてね。
因と果の間に“縁”があると考えます」
とある僧侶から聞いた。
その話を聞いたときは、「縁とか言い出したらなんでもありやんけ」と思った。仏罰が当たるといけないから黙っていたけど。
だが不思議なもので、月日が経つにつれて、なるほど“縁”というのはあるのかもしれないなと思うようになった。
“縁”とはなんだろうか。
オカルト的なもの、スーパーナチュラルなものをできるだけ排して考える。
つらつら考えるに、“縁”とはランダム性かもしれない。
生命を細菌やウイルスから守る免疫機構の一部である抗体は多種多様で、その数はどう考えても遺伝子の組み合わせより多いという。
なぜ有限な遺伝子の組み合わせの数を超えて、無限に近い抗体が作り出されるかは長年に渡り医学のナゾの一つだった。
それに対しアンサーを出したのが利根川進氏で、遺伝子と抗体は一対一対応ではなく、遺伝子がある程度ランダムに組み合わさって抗体の設計図となることで、多くの組み合わせが生まれるのだという。
医学生時代に授業で聞きかじった話で、なにしろ劣等生だったから記憶もあいまいだ。
将来この麻布流儀のネタになるってわかっていればもっとしっかり授業を聞いていたのだが仕方がない。なにしろその頃はまだ麻布流儀は無かったからな。
遺伝子の組み合わせという“因”が、抗体という“果”を生み出すまでに関与するランダム性。これが“縁”ということではないか。
名作映画『おくりびと』の原案である青木新門氏の小説『納棺夫日記』。
映画『おくりびと』を因果の“果”とすると、『納棺夫日記』は間違いなく原因である“因”である。
『納棺夫日記』が無ければ、『おくりびと』は生まれなかった。
だが、『納棺夫日記』という“因”があれば、必然的、自動的に『おくりびと』は生まれただろうか。
『納棺夫日記』はお読みいただければわかるとおり、非常に地味で内省的、後半は物語の形から離れ、いわば哲学的モノローグとなっている。
当初、『納棺夫日記』は自費出版に近い形で世に出され、初版は500部から2500部程度であったという。
そんな形で世に出た、いわば地味な一冊の本がまわりまわって1人の読者の手に届く。本木雅弘氏である。
インドへの旅の中で生と死を見つめた若き本木雅弘氏は、友人から勧められてこの本を手に取り、その一節に心をつかまれた。
<蛆を掃き集めているうちに1匹1匹の蛆が鮮明に見え始めた。畳を必死で逃げている蛆もいる。柱をよじ登っているやつまでいる。蛆も命なんだ。そう思うと蛆たちが光って見えた>
本木雅弘氏は、その後何年もかけて周囲を説得し、『おくりびと』を映画化した。
500〜2500部という限られた本が世に出、それが一人の読者に届くというのは“縁”であろう。
もしあの時、この本でなくほかの本を本木雅弘氏が手に取っていたら、と思うと、“縁”というものの一部はやはりランダム性な気がする。
そしてまた、“縁”というのはランダム性だけではない。
『納棺夫日記』を映画化したい、という本木雅弘氏の強い意志が無ければ、やはり『納棺夫日記』という“因”は『おくりびと』という“果”は生まれなかっただろう。
というわけで、因果を結ぶ“縁”。
縁というのは、ランダム性と人間の意志ではないかと思った次第である。
それではまた。良い1日を。
縁があったらお会いしましょう。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年10月17日を加筆・修正)
「ねたみ」考。
およそ世の中のモノには良い面悪い面両面あって、一見悪いことのように見えても別の面から見るとポジティブな働きをしていることもある。
「怒り」などはその代表で、怒ってる人を見るとまわりはおっかないけれど、悪や不正に対する「怒り」もある。そうした義憤や公憤が社会悪を克服する原動力となることもあるので、「怒り」の感情は実は大切である。
だがしかし、一個だけ悪い面しかない感情がある。
それはねたみの感情、「怨望」である。そんなことを福澤諭吉が書いている(福澤諭吉・著、齋藤孝・訳『現代語訳 学問のすすめ』ちくま新書二〇〇九年 p.163-175)。

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ねたみの感情は、ただひたすらにネガティブだ。
〈怨望は、働き方が陰険で、進んで何かをなすこともない。他人のようすをみて自分に不平をいだき、自分のことを反省もせずに他人に多くを求める。そして、その不平を解消して満足する方法は、自分に得になることではなく、他人に害を与えることにある。〉(上掲書 p.165)
個人的には、空を飛ぶ鳥を眺めて暮らす日々でこのねたみの感情というのはどこかへ行ってしまった。「鳥のヤツらは飛べていいなあ」とねたんでも仕方のないことで、ただ捕まえて羽根をむしって喰うだけである。
このねたみの感情がなぜ生まれるか。福澤諭吉はこう分析する。
〈(略)怨望は貧乏や地位の低さから生まれたものではない。ただ、人間本来の自然な働きを邪魔して、いいことも悪いこともすべて運任せの世の中になると、これが非常に流行する。〉(p.168)
「親ガチャ」などという言葉が日常的に使われ、ねたみがあふれるSNS時代にこの言葉を思うと味わい深い。
いつの世も生まれついての不公平はゼロにはならないが、それでもなお自助努力で多少はなんとかなる仕組みにしておかないと社会にねたみが蔓延するのだろう。
ねたみの生まれにくい社会にするというのは為政者に任せるとして、個人としてはどうするべきか。
まず第一に、「ねたまないようにする」というのは机上の空論である。そんなのムリっす。
ねたみという感情の悪いところは、不平を言うばかりで行動に移さないことである。だから行動に移す。
もちろん「無敵の人」路線はいけない。
だがねたみの対象となる人をよく観察し、そのねたみの源、専門用語でいうところのネタミゲンを研究する。
そうしてネタミゲンの良いところをマネしたり、悪いところをマネしないようにする。
万物すべてを我が師と考えるのだ。我が師にも教師と反面教師がいるので、どうぞお好きなほうをお取りください。
自分の人生は自分のものなので、より良い人生を送れるようねたみすらなんらかの原動力にしてしまうしかないだろう。
合言葉は、「こ・の・ね・た・み・は・ら・さ・で・お・く・べ・き・か」である。メラメラメラ。
(『カエル先生 高橋宏和ブログ』2025年1月20日を加筆・修正)
「終活」があれば「中活」もある。

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「終活」というものがあるならば、「中活」というものもあるのではないか。そんなことを考えた。
wikipediaによると、自分の人生の終末に向けていろいろと整理をする「終活」という言葉が考えられたのは2009年だという。その年の週刊朝日で終活の特集記事が数ヶ月に渡って組まれた。
ありのままを書くと、いわゆるミドルエイジ・クライシスとどう付き合うかがこの数年のテーマだ。
自分はこれからどう生きていったものか。そんなことを考えるなかで、齋藤孝氏のこんな言葉に出会った。
〈(略)私は50歳になって、本を捨てられるようになりました。これまで相当な量ーおそらく何千冊という単位ーを手放してきました。〉(齋藤孝『50歳からの孤独入門』朝日新書 平成30年 kindle版80/138)。
齋藤孝氏ほどの多読多作の方でも、50歳の若さで蔵書を整理し始めるのかというのが驚きであった。
これを読んで積極的に身の回りの細々としたものを整理し始めたのが数ヶ月前。実に多くの発見があった。
やや偏執狂的に、毎日毎日少しでもいいからものを捨てる。本一冊CD一枚、はるか昔いただいた名刺一枚チラシ一枚でもいいから毎日捨てる。
そんな日々を送っていると、たしかにココロの健康によいのである。
スピリチュアルなことを抜きにして考える。
昔、滋賀県の工場で暑さのなかロクセラム・アムマットの粉塵に悩まされながらジンキーを塗っている頃、工場のラインが故障で止まるたびに身の回りの掃除を命じられた。
「整理・整頓・清掃・清潔・しつけ」の5S活動というヤツで、当時はラインが止まったら休ませてくれよと思ったがあれはあれで意味がすごくある。
今パーソナル5S活動をしてみると、隙間時間に整理整頓をし続けると、忙しい時の探し物が減る。
なにしろ物が減ってるから、大事なものがすぐ見つかる。
また、5S活動のウラの目的は、ヒマな時間を無くすと余計なことを考えたりしなくなるというのもあるのであろう。
思えば自衛隊の富士学校に体験入隊した時も、スキマ時間があれば常にブーツを磨くよう指導されたものだ。
人間、ヒマな時間が出来ると余計なことを考えて悩んだりする。
また、モノを整理して捨てていくと、不必要なものに時間と気力を取られなくなるとともに、整理の過程で取っておくべき「自分が本当に大切にしたいもの」を再発見する。
認知症のケアの中で「回想法」というのがあって、これは認知症患者さんの過去を積極的に振り返ることでアイデンティティを確認してココロの安定を図るというものだが、ものを整理する過程で「自分が本当に大切にしたいもの」を再発見することで同じような効果があるのだろう。
終末期にはまだ早い中年期に、さまざまなものを整理整頓して人生後半戦に備える、中年期活動、略して「中活」というのもあるのではないか。
そんなわけで、これからミドルエイジ・クライシスを迎えられる皆様におかれましては、「中活」というのをしてみてもよいかもしれません。
〈どのように靈魂がその肉體に住んでいるか見たくおもうひとは、どのようにその肉體がその日常の住居を使用しているか觀察するがよい。つまり、住居に秩序がなく亂雑である場合には、その靈魂の支配する肉體も無秩序で亂雑であるだろう。〉(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』岩波文庫p.58)
住居を整え肉体を整えることで、ココロを整えるやり方もあるのだろう。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年8月1日を加筆修正)
音楽の好みは13~14歳に決まるという話。
「音楽の好みは14歳の時に聴いていた曲に左右される」という説がある。
ネタ元を掘っていくと、2018年2月10日配信のThe New York Timesの記事が元らしい。
Spotifyのデータを解析すると、男性は13歳から16歳の間、女性は11歳から14歳の間に聞いていた曲が音楽の好みに影響するという。
脳の可塑性などなどの理由もあるのだろうが、非常にわかる気がする。
音楽と青春期について酒井順子氏がこんなことを書いている。
〈音楽等によって刺激される懐かしさは、「その曲がヒットしていた頃の自分」が喚起されるからこその感情であるわけですが、その頃の自分が「未完成」であればあるほど、懐かしさは強まるようです。〉(酒井順子『ガラスの50代』講談社 二〇二二年 kindle版40-41/205)
13歳14歳の頃が懐かしいからその頃の曲を聴き続けるわけでもなかろうが、「未完成」の頃の曲ほど懐かしい、という指摘は美しい。
大人になるだけで人間として完成するわけでもないし完全体になるわけでもない。
しかし大人になればそれなりに、仕事だのなんだので空白は埋まってゆく。
10代の、不完全で未完成で空白だらけでそのくせ溢れんばかりの承認欲求と万能感と劣等感と無力感とその他もろもろがごった煮になったあの時期。何者かになりたい何者にもなれないという思い。真夜中の煩悶。
「自分」というパズルは足りないパーツばかりで、どこかにあるかもしれない足りないパーツを求めて音楽や小説や映画や深夜のラジオやテレビや今だと動画を漁りまくる。漁っても漁っても決して癒えない心の渇き。
そんな時期に貪るように聞いた曲が、生涯に渡る音楽の好みに影響を与えるのは当然かもしれない。
この夏、空白を埋めるべく、足りないパーツを求めて音楽に漫画にアニメに小説に動画に溺れる全ての13歳14歳に祝福を。
どうか良き旅を。
素晴らしい出会いがあることを祈ります。

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耳鳴りと難聴と夢想家の話。

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「耳鳴りというのは」
耳鼻科医が言った。
「難聴の裏返しなんですな。
聴力検査のグラフです。
ほら、左耳の、特に高い音が聴こえにくくなってる。キーンという高い金属音みたいな耳鳴りがするんですよね?そのぶん、高い音が聴こえなくなっているんです」
ふんふんとうなづきながら、僕はさっき受けた聴力検査を思い出した。
小さな部屋。完全防音。ヘッドホンから様々な高さと大きさの音。音が聴こえたらボタンを押す。音を聴くことに全力。耳鳴り。
ライカ。
ライカはどんな気持ちだったのだろう?
スプートニク2号に乗せられて、身動き取れないまま宇宙へ飛ばされたソ連の犬。
もし今、聴力検査室が宇宙に飛ばされたら、ライカの気持ちがわかるだろうか?
音ガ聴コエタラ手元ノぼたんヲ押シナサイ。押シナサイ。
ぼくは耳を傾ける。一生懸命に。宇宙空間で。
「というわけで、耳鳴りと難聴は裏表なんです。よろしいでしょうか?」
耳鼻科医が言い、ぼくは宇宙から帰ってくる。
ライカも帰って来られればよかったのに。
「ええと。非常に面白いと思います。なんというか」
説明の間に宇宙に行っていたことに気づかれないよう、ぼくは言った。
「ええと。なんというか。
ええと。先生、一つ聞いてよろしいでしょうか?」
「なんです?」
耳鼻科医の目からすっと光が消えた。
「難聴がするから耳鳴りがするんでしょうか。耳鳴りがするから難聴がするんでしょうか」
「どういうことです?」
「つまり、なんというか、現実の音が聞こえなくなったから、埋め合わせをすることように幻の音、つまりは耳鳴りのことです、が聞こえるようになるのか。
それとも幻の音、耳鳴りが聞こえるから現実の音が聴こえなくなるんでしょうか?」
「面白いですね」
面白くなさそうに耳鼻科医は言った。お腹でも痛いのだろうか?
「個人的には興味深いと思います。
だがきちんのお答えできるほどの時間は無いかな。次の患者さんもいるし」
興味も無さそうに、耳鼻科医は言った。
その表情を見て、やっとぼくは悟った。やっぱりこの人はお腹が痛いんだな。
「それにどのみち」
耳鼻科医は小さな小さなため息をついた。見えないくらいの。
「耳鳴りは手強いのです」
「ありがとう先生」
ぼくは席を立った。
誰にでもお腹の痛い時はある。早くこの人を解放してあげなければ。
「よい一日を」
「お大事に。次の方どうぞ」
待合室に座って考えた。
耳鳴りと難聴、どっちが先なんだろう?
夢想家、という種族がいる。
ああでもないこうでもないと夢想しながら人生を過ごす。
そしてこの世を去るときに、「人生は夢まぼろしのごときなり」って言う。
無理もない。夢を見ながら人生を過ごしたんだから。
夢想家には2種類いる。
夢想するから現実が見えない者と、現実が見たくないから夢想する者と。
まあいいや。
どのみち、夢想だって手強いのだから。やれやれやれやれ。
「お会計できました、タカハシさん」
夢想と耳鳴りと処方箋。忘れずに、薬局に行かなきゃ。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年5月27日を加筆修正)
いわゆる”脳科学”を批判する。2
いわゆる“脳科学”、「最新の脳科学によれば人間とはこうだ」みたいなエセ科学のブームについて嫌悪感と警戒感を抱いている。嫌悪感と警戒感の理由については前述の通り。
さて、いわゆる“脳科学”の多くは、ごく限られた条件下の限定的な科学的発見を、恣意的につまみ食いし自分の思いつきや経験論に宣言なく無理やり当てはめ、仮説ではなく「ご宣託」として押し付けてくるものである。

イラストACより
では、そんな胡散臭いものがこれだけ長きに渡ってブームになっているのはなぜか。言葉を変えれば、人々はなぜいわゆる“脳科学”に心惹かれるのか。
複雑怪奇、不可解で理不尽な人間という存在や、社会というものを単純明快な「最新の脳科学」とやらでわかったものにしたいという欲求はあるだろう。わからないものをわからないまま付き合っていくのは知的スタミナを要する。それよりは「最新の脳科学」によればこうだよね、としたり顔できたほうが楽だ。
精神科医の斎藤環氏は別の見方を提示している。
“脳科学”が多くの日本人に受けるのは、〈脳が様々な問題を外在化する装置になっている〉からではないかという仮説だ。
斎藤氏は佐藤優氏との対談でこう述べる。
〈斎藤 自らにとって不都合な事象を認識した時に、それを心で受け止めようとすると、自分の内なる問題、自己責任になってしまうこともあるでしょう。しかし、脳のせいにすれば、それはまあ生まれつきなのだから自分の問題ではないんだ、ということにできる。そういう不思議な思考回路ができている感じがするのです。
佐藤 自分がこんな人間なのは、自分をコントロールする脳内分泌物のせいだ。もっと言えば、そういう脳のつくりを遺伝させた親のせいだ。だから自分に責任はない、恨むべきなのは親なのだー。〉
(〈〉内は佐藤優・斎藤環『なぜ人に会うのはつらいのか』中公新書ラクレ2022年 p.78-79)
なんでもかんでも自己責任を押し付けられる現代社会において、“脳科学”は「あなたのせいじゃないよ、ぜんぶ“脳”のせいだよ」と甘く囁く。
“脳科学”は「問題の外在化」をすることにより現代人を自己責任から解き放つ。だから“脳科学”はブームになるのではないか、というのが上掲書・上掲箇所における斎藤環氏の考えである。
“脳科学”の本質が「問題の外在化」であるとすれば、全く別の側面がある。
斎藤環仮説が正しいとすると、知的良心を捨てることができれば『人のせいにする脳』という本を書いたり、あるいは「問題の外在化」にあらがうような『NOと言える脳』という本を書いたりできるかもしれない。
”脳科学”ブームがいつはじまったのか。ふりかえってみると、総胆管末端筋の研究で学位を取ったという春山茂雄氏の『脳内革命』(1995年)あたりだろうか。以来ずっと”脳科学”ブームである。
なぜ“脳科学”がそれほどまでにウケるのか。
斎藤環氏は、“脳科学”は問題を「外在化」し、自己責任論から読者を解放してくれるからウケるのではないかと指摘した(前述)。
あなたが抱えている問題はあなたのせいじゃない、脳のせいだ。脳のホルモンが前頭葉がシナプスがこれこれこうだから問題は起こるのだ。あなたのせいじゃないあなたのせいじゃない脳のせいだ脳のせいだあなたは悪くないよと“脳科学”は甘く囁く。だから“脳科学”は人々の心をとらえるのだというのが斎藤環仮説だと思う。
この仮説を考えていて面白いことを発見した。
“脳科学”が問題を「外在化」し、問題は自分の「外部」にあると示すというのがここでの斎藤環仮説の本丸だと思う。
だが面白いことに、多くの読者が「外在化」された問題を「仕方ない」と思うのと対照的に、一部の読者は問題が「外」にあるからこそコントロール可能と思うのではないか。
たとえばイーロン・マスクのような人物は、問題が「外」にあればあるほどコントロール可能と考える(のではないか)。
彼のような人物は、我がことよりも「外部の問題」こそコントロール可能、解決・克服可能と考えて燃える。
そんな人たちにとっても、“脳科学”が問題を「外在化」させることで「“脳”をハックしてうまいことやろう」と意欲をかきたてられる。
すなわち、“脳科学”が問題を「外在化」させることで、「外部」の問題はコントロール不可能と思う多くの人たちも、「外部」の問題こそコントロール可能と思う少数の人たちも真逆のアプローチで“脳科学”を受け入れる。そんな構造があるのではないか。
“脳科学”は、前者には癒しと慰めを、後者には励ましとやる気を与えてくれるのだろう。
まあここらへんになってくると「理屈とポストイットはどこへでもくっつく」というヤツで、どうとでも言えるのだが、「“脳”をハックしてやろう」という見方で“脳科学”をとらえる一群がいるというのは悪くない見方だと思う。
いずれにせよ、誰かが言っていることを無批判に受け入れ信じ込むというのは科学ではない。
眼の前の事象や誰かが唱えている仮説を懐疑的・批判的に検証して、検証に耐えるものだけを「ひとまずの真実」として受け入れるのが科学なので、”脳科学”とは科学的につきあっていくべきだろう。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年3月11日、3月12日を修正加筆)
いわゆる”脳科学”を批判する(その1)

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いわゆる“脳科学”、「最新の脳科学によれば人間とはこうだ」みたいなエセ科学のブームについて、嫌悪感と強い危惧を抱いている。
嫌悪感の理由を述べる。
科学とは健全な懐疑主義に基づき、観察と記録により仮説を打ち立てそれをほかの研究者とともに検証を重ねて少しずつ真実として認められていく、あるいは検証により仮説が否定されたら棄却し次へ進むものだと考えている。この際、仮説は反証可能な形で提示されなければならない。
これに対し一部の“脳科学”では、自分の思いつきや経験談を、科学研究の知見を恣意的につまみぐいし拡大解釈に拡大解釈を重ねて「最新の脳科学ではこうだ」と反証不可能な形で「ご宣託」として押し付ける。
それは科学者として不誠実であろう、というのが“脳科学”に対する嫌悪感の理由だ。
こうした「最新の研究では人間というものはこうだ」という論が、たとえば脳科学評論家とか科学ジャーナリストという肩書きでなされるなら個人的には受け入れる。
“脳科学”ではないが、そうしたスタイルで成功した物書きにマルコム・グラッドウェルがいるが、マルコム・グラッドウェルはあくまで「ジャーナリスト」の肩書きで売っているので「おもしろ科学読み物」として読者はとらえるだろう。
グラッドウェルのスタイルを模倣する物書きはグラッドウェリアンと呼ばれるが、もしグラッドウェリアンが「科学者」の肩書きを印籠にして自分の思いつきレベルのものを「最新の脳科学では人間とはこうだ」みたいに押し付けてきたら、警戒が必要だ。
危惧の理由は、こうしたエセ科学が悪きオカルトの「ゲートウェイドラッグ」の役割を果たすのではないかということだ。
「軽い」違法薬物に手を出すと、一部の人はより「強い」薬物へと進んでしまう。
こうした「強い」薬物への入り口となるドラッグを「ゲートウェイドラッグ」と呼ぶという。
エセ科学を盲信した人の一部が、悪きオカルトやエセ・スピリチュアルに進んでしまうのではないかというのが危惧の理由である。日本ではオウム真理教の例がある。
オカルトもスピリチュアルも、節度を持って楽しむぶんには害が少ないし、時に人生や社会のいろどりにはなると思う。
だが、オカルトやスピリチュアルにどっぷりハマると、抜け出せなくなる。
そうなってからでは遅いので、「ゲートウェイドラッグ」である“脳科学”の段階で警鐘を鳴らしておくべきだと思うのだ。
エセ科学、“脳科学”、オカルトにスピリチュアルは用法容量を守って健全に楽しまないといけない。
付記)
きちんとしたニューロサイエンティストの集まりである日本神経科学学会の指針を下に示す。2の「非侵襲的研究の目的と科学的・社会的意義」を読むと、いわゆる“脳科学”ブームに対して正統な研究者が苦々しく思っていることがわかる。
[神経科学の発展のために] 「ヒト脳機能の非侵襲的研究」の倫理問題等に関する指針(2022版)
https://www.jnss.org/human_ethic?u=27085f6771fe6499dabcee2cc32940df#link_b
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年3月10日を加筆・修正)
幸せには外部要因と内部要因がある。
あまり意識されていないことだけど、幸せには外部要因と内部要因がある。
外部要因には富や名誉や地位なんかがあって、それらを子供たちが獲得できるように親たちはしゃかりきになるけれど、もしかしたらそれ以上に大事なのが内部要因だ。

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内部要因は言い換えれば「心のあり方」。
「心のあり方」がうまく育っていないと、外部要因がどれだけそろっても幸せになることは難しい。
「心のあり方」は、言ってみれば幸せを感じる能力なのである。
幸せになるための「心のあり方」とはどんなものであろうか。
昔読んだ交流分析(Trasactional Analysis; TA)の本がヒントとなった。
今から20年も前に読んだ本で、現在の精神医学/心理学からはオールド・ファッションかもしれない。
少々うろ覚えだけど、こんな考え方だった。
すなわち、最も安定した心のあり方は、
I’m OK, You’re OK.
自分もOKな存在で、他人もOKな存在である、という認識。
自分はOK、他人はNGだと傲慢になる。
自分はNG、他人はOKだと卑屈になる。
自分もNG、他人もNGだと――たぶん、生き地獄だろう。
自分もOK、他人もOKな心のあり方を育んでいくにはどうしたらよいか。
おそらく、そこで重要になってくるのが、「無条件の愛情」だ。
「勉強ができるから」、「外見がかわいいから」、「歌がうまいから」-なにかができるから、自分は愛される、という「条件付きの愛情」ではなく、自分自身は存在するだけで無条件に愛される、という体験を十二分にして初めて、子供は自分自身がこの世に存在していいのだと思えるのだろう。
「条件付きの愛情」の中で育ってしまうと、自分自身の存在が許されるのは、「勉強ができる」、「外見がかわいい」、「歌がうまい」といった条件が満たされるときだけになる。
そういった心のあり方を獲得してしまうと、まさに底無し沼だ。
どれだけ富を獲得しても満ち足りず、どれだけ出世しても飽き足らず、どれだけ異性から愛されても無限に愛を求め続けてしまう。
ほんとうに必要なのは、ただ一つ、自分の存在を無条件に肯定してくれる「yes」という言葉だけなのに。
だから人は、白い脚立にのぼり、ぶら下がった虫めがねを手に天井にyesの文字を探す。
名曲とダンスで世界を魅了しながらも何十回も自分の外見を変え続け、何十万の歓声を浴びながらも健やかな眠りを得られなかったマイケルが求めたものも、きっと自分自身を全肯定してくれる、yesの一言だったのだろう。
その無条件の愛情、無条件のyesを与えてあげられるのは、子供たちの親をはじめとする周囲の大人たちだ。
人生早期のそのyesさえあれば、たぶんそこから何十年か子供たちはやっていけるのだと、ぼくは強く信じる。
「それでも人生にイエスと言う」ためには、はじめにまわりの大人たちが教えてやらなければならないのだ。
ことほど左様にぼくはyesと言うことに重きを置いている。
そんなわけで、もし将来、博多でクリニックを開くことがあったら、キャッチフレーズは
Yes!中州クリニック
にしようと思う。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年2月3日を加筆修正)











