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「ありのまま」対「このままではいけない」。

高橋宏和(H4卒)
date:2026/5/16

FIND/47より



人間というものは、そのままの存在で素晴らしい。だから無理して変わろうとしなくてよい。

これは真か偽か。いわゆる「ありのまま問題」。

「ありのまま問題」への反論としては以下のようなものがある。

・ありのままでよいのであれば進歩や進化はない。現在の自分を否定し、理想の自分を目指して努力してこそ人間である。人間は、あるべき自分を目指すべき。

「ありのままの自分」と「あるべき自分」はどちらが正しいのだろうか。この問題を長年追求してきた。

先日、ようやく解に近づいたのでご報告する。

わかってみると拍子抜けなのだが、おそらく解は、両方正しい、あるいは両方必要、というものだった。

ある本に、こんなことが書いてあった。


〈私といっしょに暮らしている、魅力ある高齢のシスターの話です。

彼女は聡明で成績もよく、学校の先生になりたいと思っていました。でも、出征した父親が戦死し、中学を卒業すると働きに出ることになりました。貧しい家を支えるため、師範学校に行くことをあきらめなければならなかったのです。

彼女が働きに出る前の晩、祖母は彼女にこう言って聞かせました。

「人さまの持っているものを見て、うらやましがったり欲しがったりしてはいけないよ」

すると、聞いていた祖父がぽつりとつぶやきました。

「こんな若い子にうらやましがるな、だなんて酷だ。そういう気持ちにならないわけがない。うらやましがって当たり前だよ」

2人は少し間を置いて、もう一度同じことを繰り返します。祖母は「うらやましがってはいけない」、祖父は「うらやましがって当たり前」と。

彼女は2人のこの言葉が、人生を生きる上でたいへん役に立ったと言います。

「おばあさんの言葉だけだったら、私は自分を『うらやましがるべきではない』と厳しく律し、つらい思いをしながら生活することになったでしょう。おじいさんの言葉だけだったら、自分を甘やかし気ままな人間になっていたでしょう。

自分の中に、相反する2つの声が聞こえていたからこそ、私は何が本当に必要かを考え、物事の中庸を取ることができたのです」〉

(鈴木秀子『世界でたったひとりの自分を大切にする』文響社2018年p.4-5)

禅僧もこう言う。

「禅の教えの歴史では『ありのままでいい』(馬祖禅師など)という教えと『このままではいけない』という教えが交互に出てくる。そうした2つの教えの相克こそが禅である」と述べておられる(横田南嶺『臨済録に学ぶ』(致知出版社 令和五年p.83-86)。

「ありのままでよい」と「このままではいけない。あるべき姿を目指さなければならない」という心のありようは、両方あってよい。むしろ両方あるからこそ中庸に至れるし、両方の相克があるからこそ、生き方も人間性も深まるのではないか。

横田南嶺氏のこの言葉こそが「ありのまま問題」の解なのだろう。

あれだけ「ありのまま」を高らかに歌い上げた世界的大ヒット曲『レット・イット・ゴー〜ありのままで』の歌詞の中にすら、「このままじゃ ダメなんだと」という歌詞がある。

「ありのまま」でよいのか「このままじゃダメ」なのかずっと悩んでいたが、常に両方の視点がぶつかり合うのが人間というものなのだろう。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2026年5月13日を修正・加筆)

人生が迷いの連続ならば、大切なのは”良い迷い方”。

高橋宏和(H4卒)
date:2026/4/18

photoACより



ある夜、友人Cが言った。

「どうせ人生は死ぬまで悩んで迷うんだ。だからさ、どうせだったら“良い迷い方”をしたいよな」

“良い迷い方”か。それはいいな。

ぼくは胡椒の効いた、外国のクラフトビールを頼んだ。

バーのカウンターにはウフマヨとポテトフライが並ぶ。

後からトンカツも来るはずだ。

昔読んだ本にこんなことが書いてあった。

フランスでは、ビネガーとワインを一緒に摂ることはない。

なぜなら両方ともブドウから出来ているものだから。彼らには、同じ材料から出来ているものを同時に摂ってはいけない、という感覚がある。

あれはほんとなんだろうか。

じゃあウフマヨはウフとマヨが共存してるけどフランス人的にはあれはokなのだろうか。

そもそもそんなこと言ったら、グラコロバーガーは全部小麦でできてるけども。

それはさておき。

人生は選択の連続だ。

選択肢を前に、人は悩んで迷う。

そして選択をし、選択肢を背後に歩み始めた時も、やはり時々後ろを振り返って「これでよかったのか」と悩んで迷うのだ。

ならばやはり人生は死ぬまで悩んで迷うことになる。たいへんだ。

ではどうしたら“良い迷い方”ができるのだろう?

その答えはたぶんシンプルで、真摯に悩む、選んだらしっかりやる、ダメなら戻る、の3つだろう。

特に、選んだらしっかりやる、というのは大事だ。

〈選べなかったほうの人生を夢見ることはできない。でも、選べなかった人生が私に微笑みかけてくれるとき、いつでもその人生に恥じないようにあることはできるかもしれない。〉(吉本ばなな『下北沢について』幻冬舎文庫 平成30年 kindle版102/140)

“良い迷い方”、“良い悩み方”があるとすれば、“良い狂い方”もあるのかもしれない。

ずいぶん前から、SNS,特に日本のXでは「人間は、40歳頃になると狂う」という言説が議論の的になっている。

ほんとかどうかは知らないが、もし本当だったら、そこにも“良い狂い方”というのがあるかもしれない。

“良い狂い方”があるならばそこに至る道もあるはずだ。

“良い迷い方”について考えているなかで、今度は“良い狂い方”というテーマが出てきた。

“良い狂い方”について考えを進めていくかどうか、いまは迷いと悩みの中にいる。

人生とは、選択の連続だ。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2026年4月10日を修正・加筆)

死生観と現世。

高橋宏和(H4卒)
date:2026/3/16

FIND/47より茨城県 高戸小浜海岸



生活が思考を作り、思考が生活を作る。

たとえば死生観。

伊佐敷隆弘氏によれば、「人間は死んだらどうなるか」について、人類が出した答えは6つしかない。

すなわち、

〈1 他の人間や動物に生まれ変わる

2 別の世界で永遠に生き続ける

3 すぐそばで子孫を見守る

4 子孫の命の中に生き続ける

5 自然の中に還る

6 完全に消滅する〉

(伊佐敷隆弘『死んだらどうなるのか?死生観をめぐる6つの哲学』亜紀書房2019年 p.013)

死に対する態度という意味では、これに孔子や(おそらく)本居宣長の「わからないからそのままにしておく」という態度を付け加えたい。

人類が生み出した上記6つ+1の死生観は、1人の人の中で混在している(という)。

日本人の多くの人の心の中は1の、輪廻転生的な感覚をうっすら持ちつつ3とか6とかが共存しているのではないか。「前世」とか「生まれ変わったら」みたいな話は冗談半分の雑談としてするし、一方で「ご先祖さまに申し訳ない」みたいな感覚も生きている。

さて、こうしたうっすらとした死生観は、意外にも普段の生き方につながっているのではないか、というのが今日の仮説である。

梅原猛氏はこんなことを書いている。

〈(略)しかし、生まれ変わりの信仰をもつとしたら、今後、また自分がこの世に生きてくるときのことを考えないわけにはいかない。今度生まれてきた時に地球が人間の住めないところとなっていては困る。それゆえ、今度生まれてきた日のために、できるだけクリーンな地球を残さねばならない。(略)〉(増谷文雄・梅原猛『絶望と歓喜〈親鸞〉』角川ソフィア文庫 平成8年 p.12)

あるいは2、別の世界に生まれ変わるという死生観を持つ宗教としてはユダヤ教、キリスト教、イスラム教があるが、そうした宗教の一部の人には「早いところ〈終末〉を到来させて別の世界を実現しよう」と本当に思っている人もいるようだ。

そうした人々の死生観がベースにあるから、おそらく加速主義、特にe/accのような過激思想、〈終末〉が来たあとのことは一切知らない、みたいなスタンスが欧米から出てくるのではないか。d/accのほうはもう少しおだやかな気がする(この部分の参考文献は樋口恭介『21世紀を動かす思想』集英社新書二〇二六年。加速主義についてこの本に書かれている以上の知識を持たないことを明示しておく)。

輪廻転生の感覚は、欧米からみた「アジアの停滞」や「アジアの悠久不変」の土壌になっている(のではないか)。生まれ変わったときに世の中があまりに変わってると困るから。

こうした死生観に正解はないが、他者の行動の根底にその人がどこような死生観を持つかに思いを至らせてみるのも一興であろう。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2026年3月14日を加筆・修正)

アニメとRAPの素敵な関係。

高橋宏和(H4卒)
date:2026/2/16

J-POPやJ-RAPとアニメとの幸せな関係について考えている。

90年代を駆け抜けた昭和48年生まれなので、CDが大量に売れた時代に何が起こったかは知っている。

あの時代、大ヒットの多くはドラマやCMのタイアップ曲で、手っ取り早く効果的に曲を売るためにはタイアップが必要だったようだ。その裏で「あの曲が売れたのはタイアップのおかげだよね」とコソコソと言われ、特にハーコー、アンダーグラウンドなアーティストとかには「アイツもセルアウトしやがって」とこき下ろされたりした(と思う)。

時は流れ、特にアニメのOP、EDとかはJ-POPやJ-RAPの独壇場となった。そしてそれを悪く言う者はいない。

これはなぜか。

もちろんアニメとのコラボが、特に世界進出への勝利のフォーマットであるのは言うまでもない。

だがもう一点、アーティスト側にメリットがあるのではないかと気がついた。

モチーフ、世界観の提供である。

〈ラップの詞のむずかしさって、一回作った内容については二度とできないっていうことだよね。ラブソングだったら、ラブソングっていう大前提のなかで、手を替え、品を替え、同じ内容のことをいい回しだけで、作れるんだけど……。

ラップって、次の回には、ちがうタイトルで、ちがう内容じゃないと、自分でやっててつまんないわけですよ。

技術以前の問題として、〈なにを今回テーマにするか〉っていう、テーマの見つけ方に一番苦労した。しかも、最初のうちに大きなテーマを歌っちゃったりすると、総論みたいなものを歌っちゃってるから、各論みたいな部分についてはもう歌えなくなっちゃう。〉(後藤明夫・編『Jラップ以前』TOKYO FM出版1997年  p.88)と近田春夫氏が語っている。

実際、近田氏がビブラストーンを辞めたのはそういった歌うべきことは全て歌ってしまったことも一因だという(近田春夫(『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』リトルモア2021年kindle版214/365)。

聞き手側は気づかないけれど、この「歌うべきモチーフ、テーマの喪失」というのは作り手、歌い手にとって、かなり根源的な問題なのではないか。

売れっ子アーティストほど、ライブやツアーとスタジオ作業の繰り返しとなる。新しいテーマに出会う機会は減る。

一方で、売れっ子アーティストほど技術の向上には熱心だから、スキルは上がっていく。

スキルは上がっていく。歌うべきテーマは枯渇する。

〈言葉のジグゾーパズルのためだったら 辞書だって引くぞ〉なラッパーも、歌うべきテーマを求めて〈朝から瓦版に目を通す山田マン〉となる。

かつてある書き手が、〈表現したいことは山ほどある。言いたいことは別に無い〉と書いていた。

表現者としてのスキルはぐんぐん上がるのに、歌うべきテーマは喪失してしまう。

そんなアーティストにとって、アニメとのコラボは渡りに船なのではないか。

「この世界を曲で表現してください」という依頼が来たら、「よしきた任せとけ!」みたいな感じで曲作りに没頭する。

コラボのアニメの世界観をガツガツと咀嚼し、有り余るスキルでアニメのテーマや世界を描き尽くす。

アニメの世界観と、アーティストのスキルが完全にマッチングして素敵な関係が生まれる。

そんなことが起こっているのではないだろうか。

『カエル先生 高橋宏和ブログ』2025年7月7日を加筆修正)

身にはならないがネタにはなる、という視点。

高橋宏和(H4卒)
date:2026/1/19

「身にはならないがネタにはなる」。

友人の口から、名言が飛び出した。


加齢とともに感性は磨滅する。

日に日に興味関心が無くなり、無への一直線をひた走る。

芸能人の誰がどうしようと興味は無いし、流行り廃りも関心が湧かない。

今年個人的に興味関心が無くなったのは小説家のエッセイだ。

幸い小説家の小説はまだ楽しめるし、ノンフィクションやルポはまだまだ関心がある。

ただ、「当たり前の日常をさらりとした筆致でつづる」みたいなのにはまったく心が動かなくなった。加齢のせいだと思う。

例外だったのは村上春樹『遠い太鼓』で、大きい事件も起こらないのにただただ文体に酔いしれた。途中で、「やれやれやれ」が出てきた時は思わず「よっ、名人芸!」と叫んでしまった。心の中でだけど。

感性磨耗の原因は加齢だが、中でも「いまさら何を読んでも身になるわけじゃないし」という諦観は大きい。

これはまずいと内心焦っているところもある。

そんな矢先、友人が言ったのが冒頭の言葉だ。

「身にはならないがネタにはなる」。

身になるようなことを探すから「ああこの話、以前に見たことがあるな」と興味関心が薄れるのだ。

「ネタになる」というスタンスで見れば、世の中まだまだネタになることで溢れている。

そんなわけで、これからもネタを探して生きていきたいと思う。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年12月24日を加筆修正)

2ステップの関係性。

高橋宏和(H4卒)
date:2025/12/17

イラストACより



ここ10年くらい意識してやめたことがある。「2ステップの関係性」の人と何かしようとすること、「2ステップの関係性」の人とために何かしようとすることをやめた。

「2ステップの関係性」はぼくの造語だ。

友人知人、家族に知り合い。

直接自分が関わりのある人を「1ステップの関係性」とする。

そして、友人知人のそのまた友人知人、みたいな人を「2ステップの関係性」とする。

たとえば友人知人から「知り合いがこれこれこういう症状なんだけど、どこか病院紹介して」と頼まれたとする。

そうした場合、かつては必死になってツテをたどってそこの医者に連絡をとって、受診できるようにした。

でも、今はそういうのはやめた。

あるいは何か勉強会や研究会みたいなものの講師をお願いするのに、かつてなら友人知人や知り合いに声をかけまくって、「誰か講師にいい人いない?」と探したりした。

でも、今はそういうのはやめた。

前者の行動、友人知人のそのまた友人知人を助けようとする行動は、良い人でいたい、正確には、友人知人に良い人と思われたいという気持ちに基づく。

でも、今はそういうのはやめた。

「2ステップの関係性」からの卒業の理由はいくつもある。

成長の段階で、「1ステップの関係性」の友人知人に十分恵まれた、というのが大きいと思う。

その上で、「2ステップの関係性」は不確定要素が多く、コントローラブルな要素が少ないのも理由だ。

たとえば一例目の、「友人知人のそのまた友人知人のために病院を探す」みたいなのも、「紹介してもらった病院、結局行かなかったみたい。なんかYahoo!口コミの良い民間治療のセンセイにかかったって」みたいなことが多すぎる。

あるいは二例目の「友人知人のそのまた友人知人に勉強会の講師を頼む」みたいなのも、「なんかよくわからないけど、あの人お前の勉強会の講師やったあとすごく怒ってたぞ」みたいなことがある。

いずれも「1ステップの関係性」なら直接「なんだよーせっかく紹介したのに病院行かなかったのかよ。今度、一杯おごれよ」とか「ごめんねーなんか不手際あったみたいで。今度、一杯おごるよ」で済む話だが、「2ステップの関係性」だとそうもいかずモヤモヤしたまま終わる。

待てよ、一例目の友人知人におごってもらうかわりに一例目の友人知人に二例目の友人知人におごらせればぼくは何もしないで済むな。

まあ地球上の人は最大6ステップの関係性を経ればみんなつながるという「スモール・ワールド仮説」もあるし、その仮説に基づく『私に近い6人の他人/Six degrees of separation』という舞台や映画もあるから、そう深く考えずにこれからもステップとか地団駄とかいろんなものを踏みながら生きていきたいと思う。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年10月4日を加筆修正)

好きを主軸に。

高橋宏和(H4卒)
date:2025/11/17

FIND/47 より 熊本県 水田



最近歳下の医学生と話す機会を得た。

彼らが口々に言うのは、「将来なに科医になるのがいいか迷ってて。AIとかもあるし、逆に手技のある外科とかのほうが生き残りやすいのかなって」だ。

医学生というのは、6、7年の大学時代に全ての科を学ぶ。医学生時代には専攻みたいなのはない。

今は大学卒業後2年間の研修期間があるが、昔は大学卒業の時に専攻する科を決めて教授のところに弟子入りのお願いをしに行った。医局に入る、いわゆる入局というやつだ。

将来なに科になるか悩む期間も増えたし、医療以外の分野で活躍する医師免許持ちもいるから選択肢も増えた。

選択肢が増えると、人間というのは逆に決められないものだ。

ましてやわが国の保険診療分野は先行き不透明。

僭越ながらアドバイスするとすれば、究極的には「好きなことをやれば」になる。

理由はいくつかある。

まず第一に、未来は完全には予測できない。

AIが進歩して内科医の代わりを務める日も来るだろうが、それがいつかはわからない。

世の中の風向きが変わって、AIは電気を喰うからやめようとなるかもしれない。

AIは個人情報をデジタルデータ化してグローバルに処理するわけで、その気になれば世界中のどこからでも誰かの個人情報(や会社の情報とか)をぶっこ抜ける状態だからやめようとなるかもしれない。

要は、外部要因というのは完全には予測不可能であり、しかも複数因子、マルチファクターが複雑怪奇に絡まり合うならなおさらである。

だが、「好き」という内部要因はそうそう変わらない。

だから予測不可能で可変な外部要因に基づいて未来を決めるのではなく、予測可能で可変性の低い「好き」という内部要因に基づいて未来を決めるのがよいのではないか。

〈最善の未来予測は、それを発明することだ〉(アラン・ケイ)

いくつか思うのは先人たちのことだ。

たとえばiPS細胞研究の山中先生は、当初整形外科医としてキャリアをスタートさせた。

残念ながら整形外科医は向いていなかったようで、基礎医学に転向し偉業を成し遂げたわけだが、重要なのはノーベル賞受賞者ですらキャリアスタート時には自分に何が向いてるかはわからないということだ。

あるいはスタジオジブリ宮崎駿監督。

今でこそ「世界のミヤザキ」として尊敬されているわけだが、あの人も外部要因が別であればまた評価も変わっていたかもしれない。

宮崎駿監督のキャリアの中で、アニメというものに対する世間的評価が逆風だった時代もある。

「アニメが犯罪を誘発する」みたいな世論があと一歩強く、アニメが強力に規制されていたら、宮崎駿監督は悪の親玉みたいな扱いだったかもしれない。

重要なのは、もしそんな状況でも、宮崎駿監督は地下にもぐって少女を主人公としたアニメを作り続けただろうということだ。

「好き」という内部要因は、強い。

わが国の保険診療分野は先行き不透明で、若き医学生が悩むのも無理はない。

だがその中でも「好き」を原動力に、未来を切り開いていってもらいたいと思う。

〈先が見えないからといって途方に暮れることはありません。どんなに自信を失っているときでも、その中でも自分にできることが必ず何かあるはず。〉(ショーン・ケイ)

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年11月10日を加筆・修正)

因果と縁。

高橋宏和(H4卒)
date:2025/10/17

「原因と結果。因と果で因果。

仏教では、因と果のほかに“縁”というのもありましてね。

因と果の間に“縁”があると考えます」

とある僧侶から聞いた。

その話を聞いたときは、「縁とか言い出したらなんでもありやんけ」と思った。仏罰が当たるといけないから黙っていたけど。

だが不思議なもので、月日が経つにつれて、なるほど“縁”というのはあるのかもしれないなと思うようになった。

“縁”とはなんだろうか。

オカルト的なもの、スーパーナチュラルなものをできるだけ排して考える。

つらつら考えるに、“縁”とはランダム性かもしれない。

生命を細菌やウイルスから守る免疫機構の一部である抗体は多種多様で、その数はどう考えても遺伝子の組み合わせより多いという。

なぜ有限な遺伝子の組み合わせの数を超えて、無限に近い抗体が作り出されるかは長年に渡り医学のナゾの一つだった。

それに対しアンサーを出したのが利根川進氏で、遺伝子と抗体は一対一対応ではなく、遺伝子がある程度ランダムに組み合わさって抗体の設計図となることで、多くの組み合わせが生まれるのだという。

医学生時代に授業で聞きかじった話で、なにしろ劣等生だったから記憶もあいまいだ。

将来この麻布流儀のネタになるってわかっていればもっとしっかり授業を聞いていたのだが仕方がない。なにしろその頃はまだ麻布流儀は無かったからな。

遺伝子の組み合わせという“因”が、抗体という“果”を生み出すまでに関与するランダム性。これが“縁”ということではないか。

名作映画『おくりびと』の原案である青木新門氏の小説『納棺夫日記』。

映画『おくりびと』を因果の“果”とすると、『納棺夫日記』は間違いなく原因である“因”である。

『納棺夫日記』が無ければ、『おくりびと』は生まれなかった。

だが、『納棺夫日記』という“因”があれば、必然的、自動的に『おくりびと』は生まれただろうか。

『納棺夫日記』はお読みいただければわかるとおり、非常に地味で内省的、後半は物語の形から離れ、いわば哲学的モノローグとなっている。

当初、『納棺夫日記』は自費出版に近い形で世に出され、初版は500部から2500部程度であったという。

そんな形で世に出た、いわば地味な一冊の本がまわりまわって1人の読者の手に届く。本木雅弘氏である。

インドへの旅の中で生と死を見つめた若き本木雅弘氏は、友人から勧められてこの本を手に取り、その一節に心をつかまれた。

<蛆を掃き集めているうちに1匹1匹の蛆が鮮明に見え始めた。畳を必死で逃げている蛆もいる。柱をよじ登っているやつまでいる。蛆も命なんだ。そう思うと蛆たちが光って見えた>

本木雅弘氏は、その後何年もかけて周囲を説得し、『おくりびと』を映画化した。

500〜2500部という限られた本が世に出、それが一人の読者に届くというのは“縁”であろう。

もしあの時、この本でなくほかの本を本木雅弘氏が手に取っていたら、と思うと、“縁”というものの一部はやはりランダム性な気がする。

そしてまた、“縁”というのはランダム性だけではない。

『納棺夫日記』を映画化したい、という本木雅弘氏の強い意志が無ければ、やはり『納棺夫日記』という“因”は『おくりびと』という“果”は生まれなかっただろう。

というわけで、因果を結ぶ“縁”。

縁というのは、ランダム性と人間の意志ではないかと思った次第である。

それではまた。良い1日を。

縁があったらお会いしましょう。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年10月17日を加筆・修正)