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ジミーの流儀。

高橋宏和(H4卒)
date:2023/8/29

週刊プレイボーイで30数年前に読んだ話が、今も心に生きている。
 
映画の都ハリウッドに一人の男がいた。うろ覚えなので、仮にジミーとしよう。
ジミーはいわゆる業界人ではない。純粋な映画ファンだ。
面白い映画良い映画を観れば興奮して会う人ごとにその映画の話をする。
 ハズレの映画や出来の悪い映画を観たときにはただ黙って語らない。ハズレ映画や出来の悪い映画のことはただ自分の胸にしまっておく。
 
初老のジミーには家族もなくほかの趣味もない。街の外れのこじんまりとしたフラットに住んで、映画がかかると街に出かけてゆき、映画を楽しむ。
 
ジミーの楽しみの一つは、伝手をたどって試写会に出かけていき、これから世に出る新作を観ることだった。
アタリの映画の試写を観たときのジミーはそりゃあもう大興奮で、試写室を出た途端手当たり次第に「いい映画だった!君も観るべきだ!」と言って勧めまくる。
ハズレの映画の時は、黙して語らない。
 
いつしかハリウッドの業界人の間にこんなウワサが流れるようになった。
「ジミーという男が試写会に来た映画は、当たる」。
本当はジミーが試写会に来たからといって必ず当たるものでもないのだが、まあジンクスというのはそういうものだ。
 
そうして各社の試写会には、一つの席が設けられるようになった。
名付けて、「ジミーズ・シート」。

photoACより


 
無名のいち映画ファン、ジミーがこの世を去ったとき、世界は彼のことを知らないままだった。ただハリウッドの映画人たちだけが、彼の死を心から悼んだという。
 
ぼくが見習いたいと思い続けているのは、ジミーの「良いものは絶賛し、そうでないものは黙して語らない」というスタイルだ。放って置けば人の心は他者を妬み「たいしたことない」と言いたがり、あるいは人の粗探しをして貶したがる。
映画を愛し映画人に愛されたジミーのスタイルを真似るには、意志の力が要る。
 
30数年前に一度読んだきりのコラムだし、彼がジミーだったかどうかもわからない。時の流れとともに思い出補正もかかっているだろうし、話も膨らんでいるはずだ。だがアズ・タイムズ・ゴー・バイ、すべては時の過ぎゆくままに。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2023年5月21日を加筆再掲)

58個のささいなこと、些事をいくつか片付けたら無力感から解放された話。

高橋宏和(H4卒)
date:2023/7/20

実はここしばらく、人生迷子になってしまっておりました。

一言で言えば、「枯渇」。こうしたい!とかこうあるべきだ!みたいな湧き上がるものが無くなってしまったのです。

仕事とかはもちろんちゃんとやるけれど、何かそれに加えて、いや加えてというか生活や人生をドライブさせるような腹の底からの衝動みたいなものが枯れてしまっていた。ただ淡々と日々をこなす感じとでも言いましょうか。

まあ昔は人間五十年なんていっていたくらいだし、ほっとけば生のエネルギーなんてものは50年くらいで枯渇するものなのかもしれません。このまま凪のような心持ちで過ごしていくのかなあと思いつつ、少し足掻いてみました。

ぼくのネタ本の一つ、デビッド・アレンの『はじめてのGTD ストレスフリーの整理術』の教えに、「人間のアタマはタスクの重要性を区別しない。つまらないタスクやささいなタスクも人生の重大事も同じように扱う。つまらないタスクやささいなタスクをそのままにしておくと、アタマのキャパがそちらに取られるので、重大なタスクにアタマが回らない」というものがあります(「脳」というワードはぼくにとって正確に扱うべきテクニカルタームなので「アタマ」という日常生活用語を使っています)。

アレンのこの仮説はなかなかに示唆的です。

このアレンの仮説を思い出して、「生のエネルギーが枯渇してきたのは日常の些事にアタマのキャパを奪われているからではないか」と考えました。

アレンが勧めているのは「やらなきゃいけないこと、気になってることを紙に書き出せ。書き出したらそれを上から順にこなせ」という方法です。

で、やってみた。

日常生活上で気になっていること、やらなきゃいけないと思っていること、なんとなくやだなと感じていることを書き出してみました。

自分で驚いたんですが、なんとそうした些事や心わずらわされていることが合計58個ありました(本当)。

 

ぼくは自分自身を基本的に大雑把な性格と自認しているのですが、それでも58個も心わずらわされてることがあったのです。そりゃ心も動かんわ。

 

備忘録として、やり方はこう。

一日の流れを朝から思い浮かべます。

朝起きてヒゲを剃る。「シェービングクリームが切れてるんだよな。ここのところ毎朝『買わなきゃ』と思ってるよな」と思い至る。これで1個。

家を出るシーンを思い浮かべる。

「靴がくたびれてるんだよな。『そのうち買わなきゃ』って何ヶ月も前から思ってるよな」。これで2個。

朝から晩までの流れを回想して些事をピックアップしたら、今度は月曜から日曜までの流れを回想します。

すると「毎週◯曜日のあの検査の時、検査依頼書の文言書くのがちょっと手間なんだよな。いつも『簡略化できないか』と思うけどそのままなんだよな」と思い出す。

一週間の流れを振り返ったあとは一ヶ月の流れを反芻します。

今度は「月末の支払いの振り込み、毎月毎月ちょい面倒なんだよな」と思い至ります。

一ヶ月の流れを振り返ったら今度は一年。

そうやって、気になること、やらなきゃいけないと思ってること、心煩わされていることを全部書き出したら、58個ありました。むしろ少ない方かもしれません。

 

唐突ですが、四書五経の一つ易経には、陰と陽の考えかたがあります。

陽は発展とか成長とか拡散とかの力の方向性。植物でいえば、根から幹、幹から枝、枝から葉へと流れる、外へ外へと伸びてゆく力の流れです。

陰は集中とか成熟とか集約とかの方向性で、植物でいえば、葉を落とし枝を落として、幹へ根へとエネルギーを絞り込んでゆく力の流れですね。

超自然的な占いとかとは距離を置きますが、この易経の陰陽の考えかたは非常に興味深い。

 

我がことに当てはめると、外へ外へ、上へ上へという陽のエネルギーが枯渇した状態がここ最近だったといえます。

で、今回実感したのですが、陽のエネルギーが枯渇しているときには、陰の方向で対処すればよいようです。

心のエネルギーを知らず知らずに奪っている58個の些細なこと、気になっていること、心煩わされていることを書き出して、一個いっこ対処しました。

 

「対処するために必要な手間ひま」を横軸に、「対処した場合に気が楽になる程度や効果持続期間」を縦軸に4象限の図に落としこんで、「比較的あっさりできること」かつ「対処した場合に持続期間の長いこと」から優先的に手をつけてみました。

 

たとえば「家の鍵の変形」。

家の鍵の持ち手の部分が変形していて毎朝毎晩気になっていたのです。これも業者に依頼したらあっという間に解決しました。もっと早く頼めばよかった。

あるいは仕事場の家賃振り込み。月末振り込みの契約なんだけど、支払いタイミングをコントローラブルにしておきたいという心理からか、今まで毎月自分で振り込んでました。毎月月末になると「そろそろ家賃振り込まなきゃ」と気にしてたので、これも(ようやく)口座引き落としにしました。

 

面白いことに、リストアップした58個のうち5〜10個対処した時点でちょっと元気になりました。

おそらく、些細だけど気になること、心煩わされることを放置すると自己肯定感が下がるんじゃないかな。無意識のうちに「こんな些細なこともできないのか」と無力感が湧いてきちゃうのかもしれない。そこで瑣末なことでもいくつか対処するうちに自分のことを「やればできる子」と認識するのではないでしょうか。

ここまでのところをまとめると、生のエネルギーを芽生えさせ育てるために、心の表面に繁茂していた雑草のような瑣末な事柄を一つ一つ抜いてまず土地を作ったというところですね。

 

昨日も使わなくなって放置していたクレジットカードをようやく解約しました。

銀行の休眠口座も整理しなきゃ…。

それじゃまた。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2023年7月20日より抜粋)

バイアスから自由になることはとても難しいという話。

高橋宏和(H4卒)
date:2023/6/19

photoACより



「目の前の模擬患者さんが南極観測隊に行くとして、シミュレーション問診してください。では、はじめ!」

ずいぶん前に参加した、医者向けのとあるワークショップでの光景である。誰かを不用意に批判する意図は無いので、少し状況を変えて書く。

 

ワークショップは極地での医学に関心のある様々な科の医者向けのもので、参加した医者のバックグラウンドはさまざま。

耳鼻科医もいれば外科医もいるし、心臓専門の医者も、肺や呼吸が専門の医者もいた。

 

ある程度経験が長くなると、自分以外の医者の診察過程を直接見ることは少ない。ましてや自分と別の専門の科のドクターの診察プロセスを見る機会はほぼ皆無と言っていいだろう。

 

冒頭に戻る。

「目の前の患者さんが南極観測隊に行っていいか、医学的に可否を診断してください」

ファシリテーターの突然の言に、会場が静かにざわついた。事前に知らされていない、抜き打ちの模擬診察だったのだ。

「では、そちらのセンセイ、前へどうぞ」

司会に促され、呼吸器内科医が前に出る。

「じゃあやってみて。私が患者さん役やりますので、問診してみてください」

司会者が言う。

 

「…ええと…えー、ふだん咳とか出ませんか?持病に喘息は…?」

戸惑いながら、呼吸器内科のドクターがきく。

 

模擬診察がひとしきり続き、次の医者の番になる。

「もともと、鼻は悪いですか?」

耳鼻科医がきく。

「脈とか飛びませんか?ふだん血圧は高くない?」

次に呼ばれた循環器科医はそう切り出す。

「手とかしびれたことはない?力が入らなくなることは?頭痛や意識無くなったこととか?」

その次の脳外科医はまずそう聞いた。

 

ぼくはそれを見ながら、人間というのはこんなにも自分の専門分野に引きずられてモノを見るのかとある意味で感動した。

「目の前の患者さんが南極観測隊に参加して良いか医学的に判断を下す」というミッションは同じなのに、誰もがみな、知らず知らずのうちに自分の得意分野で勝負しようとする。バイアスのかかった目でモノを見て、バイアスのかかったアタマでジャッジしようとする。そして、夢中になればなるほど、自分にバイアスがかかっていることを忘れる。

 

職業、性別、年齢。生まれ育った環境に今おかれている状況。

ぼくらは本当に無数のバイアスにとらわれている。

そうしたバイアスから自由になってモノを見、モノを考え、ジャッジして、話したり書いたりするのはとてつもなく難しい。

完全にバイアスから自由になるのは正直言って人間にはムリだとすら思う。

せめて出来ることと言ったら、自分にどんなバイアスがかかっているか意識すること、どこまでそのバイアスが自分の言動に影響しているかときどき確認すること、それから誰かが何か言ったらそれを鵜呑みにせずに、そこになんらかのバイアスがかかっていないか健全に疑うことくらいだろうか。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2020年3月14日を加筆・修正)

若さの本質は「試行錯誤」と「時間の浪費」。

高橋宏和(H4卒)
date:2023/5/16

〈若い時に若かった人は仕合せである。よい時期に成熟した人は仕合せである。〉(プーシキン『オネーギン』岩波文庫 1962年 p.138)



「君ら、いくつや?

…そうかええなあ。10億円出しても代わりたいわ」

島田紳助氏が吉本総合芸能学院の若手に講義した時、そんなことを言っていた(『紳竜の研究』)。



『紳竜の研究』は、何かコトをやらかそうとする人にはぜひぜひ観ていただきたいDVDなのだが、それはともかく紳助氏の言葉がわかる年齢になってしまった。



つらつら考えるに、若さの本質とはなんだろうか。

紳助氏が講義した時点で、何をやろうとしても若手には負けなかったはずだ。

実際、講義の中で、「半年くれれば最近の“笑い”の流行の変遷を研究して、当ててみせる」と言っていて、たぶんそれは本当だろう。



年齢が上がってくると、様々な方法論と予測力みたいなものが蓄積されてくる。

「こういう成果を出したかったら、だいたいこうすれば良さそうだな」というのがわかってくる。



しかしそうなると、何というか面白みも減ってくるのだ。

頭の中でシミュレーションするだけで飽きて、

「どうなるからわからないけど遮二無二ガムシャラに手当たり次第やってみる」みたいなことが出来なくなる。



行き当たりばったり試行錯誤できる、というのが若さの本質なのかもしれない。



それからもう一つ、若さの本質は「時間の浪費」である。



歳を取るほどに時間の有限性が身に沁みる。時のはやさ、過ぎ去った時間の取り戻せなさを激痛を伴って実感する。SNSしてるとなおさらだ。



しかし若い時は時間が無限にあると錯覚する。

だから時間を浪費しても痛くも痒くもない。



深夜のファミレスで、友人達とダラダラと取り止めもなくしゃべり続けるみたいなことはたぶん若い時しかできない。

歳を取ると「睡眠こそ至高」みたいになっちゃうし。

しかしその「時間の浪費」こそ、大人たちが10億円出しても代わりたいという若さの本質なのだろう。



ビル・ゲイツでもバフェットも、なんでも持ってるしなんだって出来るだろうが、「ガムシャラ試行錯誤」と「時間の浪費」はもう出来ない。



バフェットが逆立ちしたって「深夜のサイゼリヤでバカ話」は絶対に出来ないのだ。

オマハにはサイゼリヤはまだ無いからな。



おまけ)そんなこと書いといてなんですが、歳を取ったら「昼下がりの蕎麦屋で馬鹿話」は出来ますな。 「深夜のファミレスで馬鹿話」も「昼下がりの蕎麦屋で馬鹿話」も、まわりのお客様のご迷惑にならない範囲でお願いしたいものである。

『カエル先生 高橋宏和ブログ』2023年4月18日より

“シャリっ”とするアイスとワクチン接種。

高橋宏和(H4卒)
date:2023/4/16

「アメリカのいろんな街に行くとさ、オレ必ずあのアイスクリーム食べるんだよ。ほら日本でも売ってる、あのドイツっぽい名前のアイス。

そうするとね、いつものあのアイスが出てくる場合と、“シャリっ”とするアイスの場合がある」

友人Aが言った。


photoACより



シャリっとするアイス?

「アメリカって広いじゃない?

だからさ工場で作ったあのアイスクリームも冷凍のまま適温で消費者まで届く街と、運んでる間に溶けちゃって店舗でそれをもう一回冷凍して売る地域があるわけ。 そうした再冷凍したものは氷の粒子が出来ちゃうから、シャリっとするわけ」

なるほど。

 

「この街の流通網はどっちかなってわかるから、あちこちの街であのアイスクリームを食べ比べるんだよね。

もちろん一回溶けちゃうような地域で売る製品はそれに合わせた製品づくりをしてるんだけど、それでも再冷凍の時の“シャリっ”は出ちゃう。」

へえ。

 

「でね、話は飛ぶんだけど、よく“日本の農産物は最高。これを輸出すれば大儲け”みたいな話あるじゃない?あれで見落としてるのはここ。流通。

日本の農家とかの野菜や果物、これは最高だとオレも思うよ。

でも、その“最高”を“最高”のまま消費者のもとに届けるのに日本の小売業者がどれだけの労力やコストをかけているか。そこが見えてないんだよな。

だからそういう流通網が無いところに“最高”の農産物を輸出したって期待通りにはいかないよ。

運んでる間に味が落ちるんだから」

なるほどねえ。

 

そういえば『サイゼリヤ』の会長も、野菜などの食材は保管時の温度と湿度、経過時間および輸送時の振動で味が落ちると書いている(①)。牛乳が振られ続けると水分と脂肪分に分離するように、ほかの食材も輸送時の振動などで味が変わるという。

あるいは日本人の起業家がニューヨーク近郊のイチゴの野菜工場建てたニュースを読んだけど、あれも日本からイチゴを輸出した場合は流通上の課題が起こるのだろう 。

 

“最高”のものを“最高”のまま消費者に届けるため、日本の卸や小売業の人たちは常に努力している。

だから小売業の人たちは、誇りを持って「小売・“流通”業」と名乗るのだろう。

 

翻って、我々医療者は行政の強力なイニシアチブのもと、相当なスピード感で全国でコロナワクチン接種を行った。

これは誇るべき成果だけれど、もちろん医療者だけの力ではない。

マイナス80℃で保管されるべきワクチンをマイナス80℃のまま全国津々浦々まで届けてられる国は少ない。日本は数少ないそうした国の一つだ。

都市伝説のたぐいかもしれないが、日本では全国津々浦々に回転ずしチェーンにマイナス80℃のものを安定して流通させていたため、それがワクチン配送の基盤となったとのうわさもある(ただしこの部分は要検証)。

 

今日この時間も、どこかでトラックは走り続けている。

心からの感謝を。

 

①『サイゼリヤ おいしいから売れるのではない 売れているのがおいしい』正垣泰彦(日経ビジネス人文庫 2016年)


『カエル先生・高橋宏和ブログ 2023年3月21日を加筆修正)

人の顔が覚えられない新社会人に贈る名刺活用術。

高橋宏和(H4卒)
date:2023/3/18

出会った人の顔と名前を覚えるのがとても得意な人がいる。

名前を覚えるための記憶力のことをドイツ語でnamengedächtnisというのだが、もちろん読めない。この単語のことは米原万里氏のエッセイで知った。このnamengedächtnis(読めない)の優れた人というのは、一度会った人のことをとてもよく覚えていて、どこかで再会してもすぐに「○○さん!」と思い出したりする。



友人T氏もまたこのnamengedächtnis(読めない)の優れた人なのだが、一度その秘訣を聞いたことがある。

「毎日いろんな人と会うじゃない?その日の終わりにさ、その日あった人のことを思い出すようにしてるんだ」

素晴らしい秘訣だ、マネしようと思って早幾年月が経つ。

 

僕自身が一時期やっていたのは、誰かとお会いしたときにデジカメとかで記念撮影して、それをプリントして一枚はお礼状とともに相手に送る、もう一枚は自分の記憶強化用にストックして時々名刺とともに眺める、という手だ。



さてこのnamengedächtnis、そろそろしつこいから「人の顔と名前を覚える能力」とするが、たくさんの人と出会う人気稼業では必須だ。

たとえば毎日たくさんの有権者と出会う政治家の方々にとって、「人の顔と名前を覚える能力」が優れているとそれだけで強力な武器となる。芸能人や水商売の人なんかも同様だ。



人気稼業の取引相手である有権者とかファンとかは、政治家や芸能人に名前を憶えてもらっていると正直うれしい。「××さん、久しぶりですね」なんて覚えてもらっていれば感激するのがほんとのところ。有権者やファンは、自分のことを覚えてもらっているとますます応援しようと思うわけで、だから人気稼業の人にとっては「人の顔と名前を覚える能力」は武器なのだ。



実際、生き残っている人気稼業の人の多くは記憶力や「人の顔と名前を覚える能力」に長けている。鈴木宗男氏も、秘書時代には200件くらいの電話番号を頭に叩きこんでいたという(佐藤優『野蛮人のテーブルマナー』講談社 2007年 p.89)。



だが、人気稼業の人すべてが「人の顔と名前を覚える能力」に長けているわけではない。そうした場合どうするか。名刺交換の場を利用する。


(photoACより)




まず、偉いポジションになると秘書がつく。この秘書には、元気がいい若い者を任用しておくとよい。

で、どこかで誰かと出会って、「△△さん、どうもご無沙汰です!」と向こうから先に挨拶されたとする。誰だっけと思い出せなくても、すかさずこの若くて元気のいい秘書に「どーもどーも、秘書の××です!うちのセンセイがお世話になってます!」と名刺を出して挨拶するように言っておく。

そうすると自動的に秘書とどこかの誰かが名刺交換をする流れになるから、そしたら秘書に「あー□□社の◎◎さんですか!」と相手の名刺を元気よく読み上げさせるのだ。

そこからはスムーズに「◎◎さん、最近いかがですか」と呼びかけられるというわけだ。



「人の顔と名前を覚える能力」がイマイチだけれど、秘書がいない場合どうするか。やはり名刺を利用する。

どこかで一度会っているのだが、正直どこの誰か思い出せない場合、もう一度名刺交換するか微妙な空気になる。

だから定期的に、自分の名刺のデザインを変える習慣をつけておく。

そうすると「どーもどーも!名刺のデザイン切り替えまして、これが新しい名刺です」といって自分の名刺を差し出して、相手の名刺をゲットして名前を確認できるのだ。

もし相手がまるっきりの初対面でも、新しい名刺を差し出して「これ新しい名刺です。名刺のデザインを切り替えまして」と言えば、多少奇妙な感じにはなるが話題づくりのためかと解釈してもらえる(と思う)。



そんなに頻繁にデザインを変えられないよ、という方にはこんな手がある。

名刺の裏や二つ折りの名刺の一面に、3か月分ほどのカレンダーを入れておくのだ。

これだと四半期に一度、カレンダー部分だけを差し替えるだけで「名刺新しくしまして」と言える。「ぼくの名刺カレンダー付きなんですよ、以前にお会いしたのは確か…」と相手から前回あったときの情報をスムーズに引き出せるわけである。



こんなふうに「人の顔と名前を覚える能力」がイマイチであっても多少の工夫はできるわけであるが、やはり本来、お会いする方の顔と名前はしっかりと心に刻むべきだろう。上に述べたのはあくまで姑息な策で、厳しいようだが、お会いする方の顔と名前を逐一憶えていないようでは社会人としていかがなものか、と言わざるを得ない。

そもそも社会人というのは……、失礼、宅急便が来たのでこの話はまた。新しいデザインの名刺が届いたから受け取ってくる。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2018年10月23日を加筆修正)

非メモの魔力。

高橋宏和(H4卒)
date:2023/2/16

「若い時に工場の管理を任された。定期的に工員の面談をするんだ、一人一人。全員やると半年くらいかかる」
「はあ」
「“何か問題はないか”、“困ってることはないか”、1対1で面談する。それを全員やる。そうすると、工場全体の問題が浮かび上がってくる」
「なるほど」
「ここで重要なのが、“メモを取らない”ことだ」
 「メモを取らない?メモを取るんじゃなくて?」
「メモを取ってはいけない。少なくとも、面談しながらメモを取ってはいけないんだ。どうしてもメモを取りたければ、面談が終わってから、一人でこっそりメモを取るんだ」
日本を代表する企業の元トップ、Sさんから昔聞いた話である。
 
もちろん、メモには魔力がある。
前田裕二氏によれば、メモを取ることには
①アイディアを生み出せるようになる(知的生産性の向上)
②情報を「素通り」しなくなる(情報獲得の伝導率向上)
③相手の「より深い話」を聞き出せる(傾聴能力の向上)
④話の骨組みがわかるようになる(構造化能力の向上)
⑤曖昧な感覚や概念を言葉にできるようになる(言語化能力の向上)
という利点がある(前田裕二『メモの魔力』2018年 p.27-38。ものすごい良書。特に前半部分は、将来教科書に載ってもおかしくない内容)。
「メモの魔力」を十分認めた上で、「メモしないことの魔力」の話をしたい。
 
冒頭の、工場の個別面談の話に戻る。
人間社会では、問題の多くは人間関係だ。
Sさんは、個別面談のときになぜ“メモを取ってはいけない”と思ったかは語らなかったが、おそらくこういうことではないか。
工員A氏が「最近同僚Bが怠けていて」みたいなことを言ったとする。
真偽は不明だが、その話をもとにB氏の面談になると、管理者としてはこう聞かざるを得ない。「最近サボってるらしいじゃないか」。
B氏としては当然こう聞き返すだろう、「誰が言ったんですか?」。
 
話がこじれそうになった場合、メモを取っていなければ、「誰が言ってたのか忘れちゃったな」とか「すまんすまん、聞き違いや記憶違いだったみたいだ」。
メモを取らないことで、お互いに退路を保つことが出来る。
良し悪しの意見は分かれるだろうが、メモを取らないことで、面談を受ける側の心理的安全性を高め、あえてなあなあで収める道が残されるのだ。
 
メモには魔力があるが、メモを取らないこと、すなわち「非メモ」にも魔力がある。そんな「非メモの魔力」について話している。
ちなみにこの話には、おそらく今まで誰も思いついたことのないオチを用意している。早くそのオチを書いてしまいたいが、我慢して論を進めたい。
メモを取ることの利点は無数にあるが、世の中にはメモを取らないほうがよい場合もある。
 
外交官として活躍し、文化庁長官として富士山の世界遺産登録に尽力された近藤誠一氏の著書にこんな一節がある。
 〈手元に「文化庁日誌」のコピーがある。長官になったその日から、欠かさず書いてきたものだ、外務省時代は、外交官は日記をつけてはいけないという先輩からの教えを守った。私的なものを書いていた時期はあったが、すべて廃棄した。〉(『FUJISAN 世界遺産への道』毎日新聞社 2014年 p.12-13)
国家に関わることの記録は可能な限り残し後世に役立ててもらいたいとぼく自身は思うが、記録を残さない、メモすら残さないことで生まれる相手国との信頼関係もあるのかもしれない。
「外交官は日記をつけてはいけない」という教えが今も引き継がれているのか、外務省の中の人、機会があればこっそり教えてください。
 
メモや記録を残さないほうがよいのは、主に相手のある場合だ。
注意が必要なのは、感情、特にネガティブな感情のやり取りだ。
ネガティブな感情のやり取りを含むメールやLINEは、原則としてしないほうがよい。
こうしたものが記録やメモとして流出すると、取り返しのつかないほど禍根を残すことがある。
ある年代以上の人は、あまりに無頓着にこのネガティブな感情のやり取りをメールやLINEで行うので困惑することがある。
 
話がそれた。
他にもメモを取らないことの魔力はあって、メモを取らないことで話に集中できる、メモしていなくても記憶に残ることだけを覚えておくことになるので重要度の高いことだけを覚えておけるなどだ。
 
つらつらとメモを取らないことの魔力、「非メモの魔力」を述べた。
いよいよ前代未聞のオチに取り掛かりたい。
このオチを読んだら誰もが抱腹絶倒間違いなしだ。抱腹絶倒間違いなしなのだが、えーとあれですよ、オチはあんな感じのやつです。ほらあれ、あれです。ダメだどうしても思い出せない。
なんということだ。自信作のこの話のオチ、非常に残念ながらキレイさっぱり忘れてしまった。
 
こんなことならメモしときゃよかった。

『カエル先生 髙橋宏和ブログ』2022年12月30日を加筆修正)

日面仏、月面仏ー「明日死ぬリスク」と「長生きリスク」のはざまで。

高橋宏和(H4卒)
date:2023/1/16

photoACより



「明日死ぬかもしれないから、後悔しないよう好きに生きる!」。

医者稼業をやっていると時々そんな人に出会う。

その都度、そうですねと言いながら曖昧な笑みを浮かべる。

だが人生100年時代、明日死ぬリスクとともに、これから数十年「生きてしまうリスク」というのもある。

「明日死ぬかも」と言って大酒を喰らいタバコを吸いまくったりして不摂生をし、それも影響して病気となり闘病生活を送る場合だってある。

「明日死ぬリスク」と「長生きリスク」の間を、ぼくらは生きているのだ。

 

禅の高僧が体調を崩し、死に瀕していた。

「お加減はいかがですか?」と尋ねられたその高僧はこう答えた。

「日面仏、月面仏(にちめんぶつ、がちめんぶつ)」

(末木文美士『『碧巌録』を読む』岩波現代文庫 2018年 p.155-170)

 

上掲書によれば、日面仏とは1800歳の長寿の仏、月面仏というのは一日一夜の短命の仏だという。

高僧がどういう思いで臨死の場で「日面仏、月面仏」と言ったかは不明だが、「明日死ぬリスク」と「長生きリスク」を同時に背負う我々もまた、日面仏であり月面仏であるのかもしれない。

 

中国古典『荘子』逍遥遊編では朝菌(ちょうきん)や蟪蛄(けいこ)、冥霊(めいれい)や大椿(だいちん)の話が出てくる。

朝菌は朝の間に死んでしまうきのこ、蟪蛄は蝉でともに短命。冥霊は500年を春とし500年を秋とする大木であり、大椿は8000年を春とし8000年を秋とする大木である。

(森三樹三郎訳『荘子Ⅰ』中公クラシックス 2001年 p.7)

古代人から見れば現代日本人は永遠に生きるといってもいいほど長寿だ。

しかしまた、新型感染症や事故などであっという間に世を去るかもしれない運命でもある。

我々はまた、朝菌であり蟪蛄であり、そして同時に冥霊であり大椿であると言えよう。

 

新しい年が始まった。

2023年もまた、「明日死ぬリスク」と「長生きリスク」のはざまで、あいかわらずよくわからぬまま歩んでいくことになるのだろう。

今年もよろしくお願いします。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2023年1月1日を加筆修正)