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『病院が地域をデザインする』出版記念 梶原崇弘氏 紙上インタビュー

高橋宏和(H4卒)
date:2024/10/24

2024年6月に『「究極の地域医療」を目指す中小病院の挑戦 病院が地域をデザインする』が出版されました。

著者の医療法人弘仁会理事長の梶原崇弘さん(麻布H4年卒)にインタビューしてきました。

編集部:『病院が地域をデザインする』、ご出版おめでとうございます!読者のかたに向けて、自己紹介をお願いします。

梶原(敬称略)

H4年卒の梶原です。自由には責任がともなうものですが、高校在学中はまだまだ未熟で、麻布の自由の部分だけを満喫してしまいました。今も折に触れ助けてくれる多くの友人に恵まれたことが一番の財産だと思います。

 

編集部:今回出版された『病院が地域をデザインする』に込めた思いとは。

梶原:超高齢化社会・少産多死社会を迎えるなかで、「その人がその人らしくその人の希望する場所で最期を過ごす」ためには「地域包括ケア」の視点で医療・介護・福祉が連携した社会の構築が求められます。しかし、都市部と過疎部など地域ごと異なった背景のもとに画一的な制度を当てはめようとしてもうまくいきません。我々の取り組みは多くの取材をいただきますが、背景や思いを知っていただき活動のヒントになればという思いで今回の出版に至りました。

 

編集部:ご著書の中で、「地域に屋根のない総合病院をつくる」とお書きになっています。「屋根のない総合病院」とは、どういったものでしょうか。

梶原:医療の高度専門化・細分化に伴い、一つの病院ですべての地域ニーズに応えるのには限界があります。地域の開業医の先生方と「顔が見える」を超えた、「人柄や能力のわかる」関係を構築することで地域の名医とともに総体として住民を守る総合病院のような役割を担うことを目指しています。

 

編集部:ご著書では、ご自身の病院のシステムエンジニアを地域のクリニックへ派遣しているエピソードが書かれています。どのような理由でシステムエンジニアの派遣を始められたのでしょうか。

梶原:今回インタビューいただいている、同級生の高橋先生と外来で話をしているときに、「クリニックのシステム修理を毎月頼んでいるけど、お金はかかるけど一向に希望にあった改善が進まない。」という相談をうけました。医療分野のICTコストは費用全体の5%くらいを占めるにもかかわらず、医療の特殊性を理解したSEとマッチングすることは難しく、かつ継ぎ足しで構築されたクリニックなどは秘伝のたれのようなシステムになっていて再構築が困難であるという実態を知りました。治らない修理を繰り返してカモにされているクリニックも多そうだと思ったので、当法人に所属する医療の特殊性を理解しているSEを派遣して、安心できるシステム作りに役立てていただこうと思ってこの企画を始めました。

 

編集部:『病院が地域をデザインする』の中では、板倉病院を「都市型地域密着病院」と位置付けておられます。都市型地域密着病院をマネージメントするお立場から、日本の医療の未来をどうみていらっしゃいますか。

梶原:先述したように、超高齢化社会を迎え医療・介護ニーズはますます高まります。いわゆる団塊の世代がどのように穏やかに終焉を迎えるかが当面の課題になるわけです。

しかし、公定価格で診療を行う医療業界では給与の引き上げも簡単にはできないため、他業種との人材の取り合いで不利になります。そのため、看護・介護人材だけでなく、事務職の人材確保なども非常に困難な状況です。タスクシフト・タスクシェアをしたくてもシフトする人材がいないという未来が現実化しています。ICT活用によるDX推進により業務効率や生産性をあげて地域全体で臨む医療機関だけが生き残れる厳しい環境といえます。

我々は地域の医療機関の役割分担を明確にして、住民の交通整理を行うことで医療アクセスの適正化をはかり、質を担保しつつ安心な医療提供が維持できると思っています。

 

編集部:ご著書では「地域が病院をつくり、病院が地域をつくる」と、地域も一つの大きなテーマになっています。梶原さんは、日本の地域の未来をどうみていらっしゃいますか。

梶原:都市部においては、いわゆる地域コミュニティは希薄化しており、コミュニティによる高齢者の見守りや気付きを得ることは難しくなっています。しかし、民度の低下は否めないものの、当院で行っている「こども食堂」には多くのボランティアが参加してくれているように、個人の単位では思いのある方がまだいると思います。場がなくて行動できていない人も多い印象なので、病院を一つのハブとして地域コミュニティを盛り上げ、人と人とのつながりをサポートしていけば、地域の未来は充実したものになるのではないかと思っています。

 

編集部:最後に『麻布流儀』の読者へのメッセージをお願いします。

梶原:病院という既存の概念を超えて、地域医療をデザインするという取り組みを始められた一因に、麻布中高の自分で考え、判断する習慣があったかもしれません。もしご興味がありましたら、一緒に地域医療を盛り上げていきましょう。いつでも遊びにきてください。

 

編集部:ありがとうございました!









梶原崇弘氏プロフィール(写真左)

1973年千葉県船橋市に生まれる。麻布高等学校卒業後、日本大学医学部医学科入学。 医学部卒業後は肝胆膵・消化器外科医として、高次医療機関にてがん領域を専門に研鑽を行っていた。がん研究センター中央病院肝胆膵外科、日本大学附属板橋病院消化器外科副 医局長を経て、2011年、実家である板倉病院院長就任をきっかけに、地域密着中小病院の 在り方や実現可能な地域包括ケアシステムの構築に軸を移し、安心して過ごせる地域医療を目指している。

 

聞き手:高橋宏和(写真右)

1973年千葉県生まれ。麻布高等学校卒業後、千葉大学医学部入学。脳神経内科として千葉県内外で勤務。2017年千葉県船橋市にある中條医院を継承し理事長就任。

2024年11月5日はスーパーチューズデー-なぜアメリカでは火曜日に大統領選挙をやるのか

高橋宏和(H4卒)
date:2024/10/15

photoACより



2024年11月5日、アメリカで大統領選挙が行われる。

細かく言うと、行われるのは大統領を選ぶ人、選挙人を選ぶ選挙だ。

全米で538人の選挙人を選び、選ばれた選挙人たちが大統領を選ぶ。それぞれの州の選挙人数は、各州の上院と下院の議員数の合計と等しい。

選挙人を選ぶ選挙は、11月第1月曜日の翌日、火曜日と決まっている。

(参考サイト NHK『アメリカの大統領選はどう進むの?』)

https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/us-election/flow/

 

このように、アメリカでは大きな選挙は火曜日にやることが多い。

その理由をご存じだろうか。

 

答えは、「国土が広く、移動に時間がかかるから」。

その昔、馬や幌馬車でアメリカ人が移動していたころ、広大なアメリカ全土から投票所に行くのには大変時間がかかった。

ワイオミングの山奥やノースダコタの大農場から出発したら、下手したら投票所につくまで丸1日かかる。週のはじめの月曜日に家を出ても投票所に着くのは翌日の火曜日だ。

だから、アメリカでは大きな選挙は火曜日にやる。

日曜日に家を出ればいい?バカなことを言ってはいけない、日曜日は神のおつくりになった安息日ではないか。余計なことをせず、家でじっとしていなければいけない。

 

この話をはじめて知ったのは、東大からプロ野球に入った小林至の本『アメリカ人はバカなのか』(幻冬舎文庫 平成15年 p.96-97)だった。

俗説かと思って調べたら、アメリカには『Why Tuesday?』というNPOまであって、選挙日を火曜日から週末に変えましょうという啓発活動をしている。


(参考サイト『Why Tuesday?』FAQ)

https://whytuesday.org/faq

 

TEDでやった代表のプレゼンはわかりやすく、一見の価値がある。その中で上記NPOはギングリッチやジョン・ケリーといったいろんな政治家に「どうして選挙を火曜日にやるんですか?」とインタビューしているが、誰も答えられない(答えられない政治家ばかり出している可能性はある)。

NPO団体、Why Tuesdayによれば、火曜日に選挙をやるなんてことは独立宣言にも合衆国憲法にも書かれていない。1845年の「バカげた法律」に書かれている。

彼らはこれを変えて、選挙は火曜日ではなくて週末にやるように訴えている。

 

何故か?

前掲書の中で小林至はこう書いている。

<(略)今でも火曜に固執している理由は、伝統に名を借りて庶民を排除しているだけだ(略)>(p.96)

多くの勤め人たちの会社は火曜日は休みではない。仕事中に抜け出して投票に行けるほど暇な職場は少ない。そうなると、火曜日に投票に行けるのは大農場主や自営業者、熱心な政治支援者や宗教右派、リタイアした人や学生、失業者が中心になる。

「フツーの勤め人」は現実問題として投票に行けない/行かない。だから政治家の政策も投票に来てくれる人が喜ぶもの中心になりがちで、「フツーの勤め人」は後回しになるのではないかという指摘だ。

 2012年の「Why Tuesday?」のインタビューでも、代表のJacob Soboroffは「15の州(*インタビュー当時)では事前投票ができず、火曜日しか投票できない。シングル・マザーやシングル・ファーザー、2つ3つ仕事を掛け持ちしている人はどうなる?」と問題提起している。

https://www.youtube.com/user/WhyTuesday

 

フツーの勤め人が火曜日に、どれくらい大統領選挙に行くものなのかアメリカに住んだことがないのでリアルな感触はわからない。「フツーの勤め人」がどれくらい投票に行くものなのか、身近にアメリカ人がいるかたは聞いてみて教えてください。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2016年11月7日を加筆修正)

人生は、前半と後半でルールががらっと変わるという話。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/9/17

人生ゲームは過酷だ。

多くの人の人生ゲームは、前半と後半でガラッとルールが変わる。予告されることもなく。

 

人生の前半と後半は、ルールが全く違う。アメフトと編み物くらい違う。

ある種の人々は、人生の前半では「特別」であることを求め、あるいは求められる。

他人よりあしが速いこと、他人より面白いこと、他人より賢いこと、他人より美しいこと。何らかの形で他人より「特別」であることを自ら求め、あるいは「特別」であることを環境から求められる。

 

「特別」であることをがむしゃらに追い求め、気づけば人生後半戦に入る。ふとヤツらが現れる。虚無とタナトスだ。

虚無とタナトスはどこからか忍び寄り、足元に、あるいは背後に佇む。

あいつら、虚無とタナトスは、1匹いたら30匹はいると思え。

 

思えば虚無とタナトスがルール変更の合図なのだろう。

虚無とタナトスをしばしば見かけるようになったら、人生ゲームのルールが変わりつつあると思わなければならない。

 

人生ゲームの前半が「特別」を目指すゲームなら、後半戦は「幸せ」であること、「幸せ」になること、「幸せ」を維持することが人生ゲームの目的となる。

おそらく「特別」は、「幸せ」の必要条件であって十分条件ではないのだ。

 

いろんな「特別」があって、ほかの誰かではなくあなたやぼくに仕事が与えられる、あるいはほかの誰かではなくあなたが誰かの友人に選ばれるということもまた、「特別」の一つである。

だからなんらかの形で「特別」は追い求めなければならない。

 

ただ、人生ゲーム前半は「特別」を手に入れるために全エネルギーを投入してもよいけれど、後半は「幸せ」になること「幸せ」でいること「幸せ」を維持することにもエネルギーを振り分けなければならない。

そうでないと他人の人生を生きることになる。

 

洗脳なのか自己欺瞞なのかわからないけれど、ある種の人々は、「特別」になるためには「幸せ」になってはいけないという暗示にかかっている。 あるいは「特別」を手に入れれば「幸せ」もくっついてくると思い思わされている。

だが、「特別」になること「特別」であることの戦略と、「幸せ」になること「幸せ」であること「幸せ」を維持することの戦略はまた、まったく異なるのだ。

たぶん「幸せ」になる戦略はびっくりするほど簡単で、ポン酢しょうゆすら要らないくらいだけれど、気づけない人は気づけないままだ。

そして気づけない人は、気づけないまま「特別」であることを求めて求めてもちろんかなりの程度「特別」を手に入れて、そして最期に死の床で思うのだ。 「果たして俺の人生は幸せだったのか」、と。

 

人生後半戦に入ったら、真正面から「幸せ」であることを追求しても良いのだと思うよ。

*参考文献  アーサー・C・ブルックス『人生後半の戦略書』SBクリエイティブ


FIND/47 岐阜県 市之倉さかづき美術館




『カエル先生・高橋宏和ブログ』2024年9月7日を加筆修正)

仕事や勉強のコツは”キリの悪いとこ”でやめる。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/8/15

仕事や勉強で一番めんどくさいのはいつか。間違いなく取りかかる時、そして再開する時である。
 
「君らね、勉強するとき“キリのいいとこ”までやるでしょ。あれ間違いなんだ。
勉強してたら、わざと“キリの悪いとこ ”でやめるの。
“キリのいいとこ”まで勉強して中断するとね、再開するのがすごく億劫になる。 “キリのいいとこ”までやってあるからまだいいか、って気になるのね。
 
“キリの悪いとこ”で勉強を中断すると、なんだか気持ち悪いんだな。 なんだか中途半端だから最後までやっちゃいたい、って気になって、もう一回勉強を再開するのが楽になる」
 
そんなことを教えてくれたのは中学校の英語教師、M先生だっだ。
中学校で教わったことはほぼ全て忘れたが、この“仕事や勉強はあえてキリの悪いとこで中断せよ”という教えは覚えている数少ない教えの一つだ。
 
最近読み返した本の中にこんな一節があった。
本多正識氏の『1秒で答えをつくる力』の中で、本多氏が仕事のこなし方をこう書いている。
新作コントの台本を書く仕事をもらったとする。仕事のこなし方は5つのステップに分かれるという。
 
〈ステップ1 依頼があった日に隙間を見つけて15分考える 達成目標20%〉(上掲書 kindle版55/301)
 
「いつかまとまった時間つくって仕事しよう」ではなく、「仕事もらった日に、とにかく着手しよう」なのである。
「めんどくさいな」という気持ちが湧く前に、とにかく取りかかってしまう。そしてあえて“キリの悪いとこ”でやめておく。
 
実際、仕事や勉強は放置すればするほど、「めんどくさいな」という気持ちが湧いてくるものだ。メールの返信とかもしかり。
 
だから「えいや」と始めて、そうはいっても一気に終わるわけないから“キリの悪いとこ”で止めておく。
そうすると頭の片隅でずっとそのことを考えていることになるし(それはそれでしんどいけど)、何より“中途半端なところまでしか終わってなくて気持ち悪いから早く片付けちゃおう”となって、再度取りかかるまでのハードルが下がる。
 
まあ一方で、「仕事は集中して一気に片付けたい」タイプもいるので、“キリの悪いとこ”で終わらせるやりかたが万人に向くかはわからない。
 
ぼく自身は、このあえて“キリの悪いとこ”で仕事を終わらせて再開のハードルを下げるやりかたが向いている。
だから今もこの“キリの悪いとこ”でいったん終わらせるやりかたを常に実践していて、その結果なんと驚くことに
 

田中角栄のもとにはなぜ多くの政治家が集ったかー「カバン持ち」と知恵・情報。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/7/17

今になってやっておけばよかったと後悔しているものの一つに「カバン持ち」がある。
この人に教えを乞いたいと思う人に頼み込んで、文字通りカバンを持たせてもらう。朝も昼も夜もその人にくっついて行って、カバンを持ちドアを開け許されれば会合や会食のときも部屋の隅っこに居させてもらう。
一日中行動をともにすることで、その人の言葉のはしばしや立居振る舞いに滲み出るエッセンスを吸収させてもらうのだ。
 
生業を持った今となってはそれは叶わない話となった。だが「カバン持ち」を許されるなら、あの人やあの人の「カバン持ち」となっていろんな教えを乞い、知恵を吸収したいものだ。
(今知ったけど、そのものズバリの『カバン持ちさせて下さい!』というTV番組があるんですね。ご覧になったかたは感想をお聞きかせ下さい)

photoACより



リソースには情報的リソース、社会的リソース、個人的リソースがあるという(クリスティーン・ポラス『シンク・シビリティ』p.160)。
ここのところ考えているのは、情報的リソースの貴重さである。
ある人が持つ専門的技能、ノウハウなどをぎゅっと詰め込んだのが情報的リソースだ。
検索エンジンのおかげで「情報」という言葉が随分薄っぺらくなってしまった。だが、情報は本来、非常に貴重なものだった。「情報?必要ならググれば出てくるじゃん」というものが欲しいのではなく、今だと「知恵」という言葉のほうが近いかもしれない。
 
田中角栄のもとになぜあれだけ多くの政治家が集まったのかという命題がある。カネを配ったから?いやそうではない。そんなことはどの派閥のボスだってやっていた、と秘書の早坂茂三氏は書いている。
 
〈それではなぜ、オヤジの周りに多数の政治家が集まったのか。オヤジのところへ行けば、けもの道を教えてくれる。どこの山道をつたっていけば、人よりも早く平場に安全に出ることができるか。どこへ行けば、涸れることのない、うまい岩清水があるか。田中はそれを教えてくれる。どこへ行けば、うまい魚がたくさん獲れるか、追っ手がやってこないか、夜はぐっすり眠れるかーその場所をオヤジは教えてくれるんです。〉(早坂茂三『田中角栄』PHP文庫 2016年 p.259)
 
早坂氏の比喩に何をどう読み取るかは読者の自由だが、ぼくは情報や知恵を出し惜しみなく与えたことが田中角栄氏の力の源泉だと読んだ。
田中氏は、自分の内なる経験や体験などの非言語情報を相手に伝わる言葉に変換し、相手の求めるものを言葉にして提供する能力が飛び抜けていた、ということだろう。
他の派閥のボスに教えを乞う場合には何年もの間「カバン持ち」や「雑巾がけ」をしないと得られない知恵や情報が、田中氏のもとに行けばすぐ得られるとなれば人も集まるというものだ。
 
前掲書『シンク・シビリティ』でも触れられていたが、情報的リソースの面白いところは目減りしないところである。自分の持つ知恵や情報をどんどん分け与えたところで知恵は減らない。むしろ増えていく。人間の持つ互酬性(もらったらあげないと収まりが悪い気がするというやつ)により、知恵や情報をもらった者はかわりに別の知恵や情報をくれるからだ。情報を持つ者には情報が集まるようにできている。
 
ぼくもこれから積極的に知恵や情報の提供をしていきたいと思う。
    *
    *
    *
    *
    *
人はこうして「教え魔」という老害になるのであるなあ。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2021年4月8日を加筆修正)

 

手土産は老舗で。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/6/18

「雑誌の取材で地方に行くときにはね、手土産は東京の老舗のものがいい」

その昔、今はなき週刊HのカメラマンのTさんが教えてくれた。

「“お宝発見”みたいな企画で、地方の名家とか名士さんとかのところに行って、蔵の奥に眠ってる“お宝”を撮影させてもらったりするんだよ。

そういうときは、うまいこと機嫌取って写真撮らせてもらわなきゃなんない。

そういう地方の名家とかってさ、女主人とか奥さんとかは若い時に東京の大学とかに出してもらって、卒業したら呼び戻されたり、名家に嫁いだりしてるわけ。

で、そういう女主人とかお嫁さんとかに『これよろしかったら…』って東京の老舗の手土産を渡すと、『懐かしい!東京にいる時によく食べたワ』なんていって喜んでくれて、取材許可が出るわけ」



インターネット前夜のことで、それこそAmazonも楽天もない時代のことだから、今では手土産事情もだいぶ変わっていることだろう。

だがなぜだかこの話はずっと覚えている。


photoACより



今、人生の後半戦にこの話を思い出すと味わいが格段に深まっている。

あの頃は手土産を渡すTさんの側に近い年代だったが、今では地方の名家の女主人や「お嫁さん」側の年代に近い。

今では通販やデパートで、地方にいても東京の老舗のお菓子も手に入るだろう。

だがやはり、この話で手土産にするのは東京の老舗がふさわしい。最新流行のお店の品では下手すれば逆効果なのだ。

これは想像だし人によるけれど、大学時代だけ東京で遊学させてもらって実家に呼び戻されたりした女主人の中には、複雑な思いを抱えている人もいるだろう。

「ほんとは私ももっと東京にいたかったのに、実家の都合で呼び戻された!」とか。


そういう気持ちは揺れ動くものだから、「今さら仕方ない、まあいいか」みたいな境地の人もいるだろう。

しかしもし女主人が「もっと東京にいたかったのに!」みたいな気持ちのフェイズだったら、流行りものはヤバい。

「チャラチャラしたマスコミの若いヤツが、東京の流行りものを見せつけてきた!」みたいに変な地雷を踏んでしまうかもしれないのだ。

そんな見えないリスクを負うよりは、東京の老舗のお菓子のほうがリスクが少ない。

冒頭のように女主人のノスタルジーを呼び起こせるかもしれないし、相手の心に刺さらなくても「何がお好きかわからなかったので…」と言っとけば済む。

だから老舗は強い。


先日ネットをウロウロしてたら、「老舗の羊羹食べたらあまりのうまさにびっくりした」という話にぶち当たったのでそんな話を書いてみた。たしかに老舗の羊羹もうまいけど、手頃な値段の羊羹も、あれはあれでうまいすよね。安いやつは安いやつで、寒天感がいいんだよな。

ビールに例えると老舗の羊羹がギネスビール、手頃な羊羹はアサヒスーパードライやオリオンビールみたいな感じで(個人の感想です)、こってりゆったり味わいたい時もあれば日本の蒸しあっつい夏にサラサラヒヤヒヤっといきたいときもある。あっつい夏の日に、たとえば缶の羊羹をパキャッて開けて、上の部分の透明な薄い寒天の層を食べつつ、「もっと大きいサイズがあればいいのに」と思ったりして楽しむ羊羹の良さもあるよなあ。

手土産は老舗で、夏は水羊羹ってお話でした。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2024年5月24日を加筆修正)

究極の有限資源は、時間と意志力。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/5/15

photoACより



時間と意志力を死守せよ。なぜならそれらは究極の有限資源だから。

現代人が一歩外に出れば、無数の人やモノやコトがあなたの時間と意志力を奪いにくる。家庭を持つ者であれば、家の中でも同様だ。古人曰く、〈三十歳を過ぎれば、君の生活は妻子のものになる。〉(キングレイ・ウォード『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』新潮文庫 平成六年 p.34)

もしあなたがやりたいまたはやるべきと思えば、喜んで自分自身の時間と意志力を人・モノ・コトに差し出すがいい。

他者からみてそれが無価値であっても構わない。自分が選んだ人・モノ・コトに、存分に時間と意志力を捧げよ。

だが、究極の有限資源である時間と意志力を捧げたくない人・モノ・コトであれば、回避せよ。それが無理なら最小化を試みよ。

一番いけないのは無自覚なまま自分の時間と意志力を垂れ流し一生を終えることである。

意に反して自分の時間と意志力を奪う人・モノ・コトを回避するにはどうするか。もっとも身近な例で言えば、気が進まない飲み会。答えは、その場で断る。

我が人生の師の一人、Fさんは見事である。

Fさんは、気が進まない飲み会や会合に誘われたその時点で即座に断るのである。断り方も完成されていて、必ず「私はちょっと…」とおっしゃる。

小心者のぼくなどは気が進まない飲み会に誘われたときには、「断ったら悪いかな」などと思い参加の意思表示を保留にしてしまいがちだ。その場合、日を追うごとに気が重くなるし、ますます断りづらくなる。その間、心を煩わして無駄に意志力を浪費してしまう。

それに比べFさんの場合、断る瞬間の意志力は要るものの、断ったあとはずっと心は晴れやかである。

立場を替えて、自分が誘う側になったことを想像してみる。一番困るのは飲み会当日まで来るか来ないかわからない人だ。誘った瞬間に「私はちょっと…」と断られた場合には、あっさりと「また誘えばいいか」とスルーされるものなのだ。「私はちょっと…」の「ちょっと」とは何だろう、と思うかもしれないが。

究極の有限資源、時間と意志力を死守せよ。

一番大事なものに時間と意志力を思う存分、ふんだんに投入し、それ以外は極力時間と意志力をsaveせよ。

一番大事なものが他者にとって無価値であっても構わない。

一番大事なもの以外は大事ではない。

繰り返す。

一番大事なもの以外は、大事ではない。 ちょっと言い過ぎた。ごめんね。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』 2024年5月15日より)

SNSは承認欲求を肥大させ、そして同時に承認欲求をやせ細らせるという話。

高橋宏和(H4卒)
date:2024/4/17

(photoACより)



SNSは承認欲求を肥大させ、そして同時に承認欲求をやせ細らせる。

 

SNSが承認欲求を肥大化させる問題は、しばしば指摘されてきた。 SNSでの承認が欲しいばかりに人はバイト先でアイスケースに横たわって写真をアップしたり飲食店での問題行動を動画に上げたりして失敗する。

しかしもう一方の、SNSが承認欲求をやせ細らせる問題はあまり指摘されていない。

 

前提として、適度な欲求や欲望は行動のエンジンであり、適度であるかぎり欲求や欲望は好ましいものと考える。

食欲があるからこそそれを満たすために我らは働き社会参加する。

もし人間が葉緑素を持っていたら、人間はわざわざ汗水垂らして働かず日がな一日ひなたぼっこして暮らすだろう。いいなそれ。

 

食欲などなどの欲望があるからこそそれを充足させようと我らはあがく。

承認欲求もしかりで、承認欲求を満たすために「も」我らは社会的活動をする。

 

さてここで問題が一つ。

承認欲求を満たす、他者からの承認にも「量」と「質」がある。

そして、ダニエル・カーネマンがいうところのシステム1は、他者からの承認の「量」は認識できても「質」は認識できないっぽいのだ。

 

滋養あふるる料理ではなくジャンク・フードでも手軽に空腹は満たされるように、承認欲求もまたインスタントな他者からの承認でも満たされてしまう。

承認欲求を満たすために「も」、学者は論文を書きビジネスマンは売り上げを上げ、それぞれの職業仲間から承認を得る。そうやって良質な承認を得ようとして前に進んでいく。

しかしSNSで指一本で承認がお手軽に大量に得られる時代になると、わざわざウイルスの研究に打ち込んでうんうんうなりながら論文書いて世に問うよりも、エキセントリックな言説でSNSの人気者になったほうが早い。

 

SNSによる承認欲求のインスタントな充足という問題は、目に見えにくい。

SNSのやりすぎによってインスタントに承認欲求を満たしてしまうのは考えようによっては怖

いことだ。

何かを成し遂げたいとか何者にかなりたいという人は、SNSとのつきあい方は慎重にしたほうがよいかもしれない。

『カエル先生・髙橋宏和ブログ』2024年4月10日を加筆修正)