若さの本質は「試行錯誤」と「時間の浪費」。
〈若い時に若かった人は仕合せである。よい時期に成熟した人は仕合せである。〉(プーシキン『オネーギン』岩波文庫 1962年 p.138)
「君ら、いくつや?
…そうかええなあ。10億円出しても代わりたいわ」
島田紳助氏が吉本総合芸能学院の若手に講義した時、そんなことを言っていた(『紳竜の研究』)。
『紳竜の研究』は、何かコトをやらかそうとする人にはぜひぜひ観ていただきたいDVDなのだが、それはともかく紳助氏の言葉がわかる年齢になってしまった。
つらつら考えるに、若さの本質とはなんだろうか。
紳助氏が講義した時点で、何をやろうとしても若手には負けなかったはずだ。
実際、講義の中で、「半年くれれば最近の“笑い”の流行の変遷を研究して、当ててみせる」と言っていて、たぶんそれは本当だろう。
年齢が上がってくると、様々な方法論と予測力みたいなものが蓄積されてくる。
「こういう成果を出したかったら、だいたいこうすれば良さそうだな」というのがわかってくる。
しかしそうなると、何というか面白みも減ってくるのだ。
頭の中でシミュレーションするだけで飽きて、
「どうなるからわからないけど遮二無二ガムシャラに手当たり次第やってみる」みたいなことが出来なくなる。
行き当たりばったり試行錯誤できる、というのが若さの本質なのかもしれない。
それからもう一つ、若さの本質は「時間の浪費」である。
歳を取るほどに時間の有限性が身に沁みる。時のはやさ、過ぎ去った時間の取り戻せなさを激痛を伴って実感する。SNSしてるとなおさらだ。
しかし若い時は時間が無限にあると錯覚する。
だから時間を浪費しても痛くも痒くもない。
深夜のファミレスで、友人達とダラダラと取り止めもなくしゃべり続けるみたいなことはたぶん若い時しかできない。
歳を取ると「睡眠こそ至高」みたいになっちゃうし。
しかしその「時間の浪費」こそ、大人たちが10億円出しても代わりたいという若さの本質なのだろう。
ビル・ゲイツでもバフェットも、なんでも持ってるしなんだって出来るだろうが、「ガムシャラ試行錯誤」と「時間の浪費」はもう出来ない。
バフェットが逆立ちしたって「深夜のサイゼリヤでバカ話」は絶対に出来ないのだ。
オマハにはサイゼリヤはまだ無いからな。
おまけ)そんなこと書いといてなんですが、歳を取ったら「昼下がりの蕎麦屋で馬鹿話」は出来ますな。 「深夜のファミレスで馬鹿話」も「昼下がりの蕎麦屋で馬鹿話」も、まわりのお客様のご迷惑にならない範囲でお願いしたいものである。
(『カエル先生 高橋宏和ブログ』2023年4月18日より)

“シャリっ”とするアイスとワクチン接種。
「アメリカのいろんな街に行くとさ、オレ必ずあのアイスクリーム食べるんだよ。ほら日本でも売ってる、あのドイツっぽい名前のアイス。
そうするとね、いつものあのアイスが出てくる場合と、“シャリっ”とするアイスの場合がある」
友人Aが言った。

photoACより
シャリっとするアイス?
「アメリカって広いじゃない?
だからさ工場で作ったあのアイスクリームも冷凍のまま適温で消費者まで届く街と、運んでる間に溶けちゃって店舗でそれをもう一回冷凍して売る地域があるわけ。 そうした再冷凍したものは氷の粒子が出来ちゃうから、シャリっとするわけ」
なるほど。
「この街の流通網はどっちかなってわかるから、あちこちの街であのアイスクリームを食べ比べるんだよね。
もちろん一回溶けちゃうような地域で売る製品はそれに合わせた製品づくりをしてるんだけど、それでも再冷凍の時の“シャリっ”は出ちゃう。」
へえ。
「でね、話は飛ぶんだけど、よく“日本の農産物は最高。これを輸出すれば大儲け”みたいな話あるじゃない?あれで見落としてるのはここ。流通。
日本の農家とかの野菜や果物、これは最高だとオレも思うよ。
でも、その“最高”を“最高”のまま消費者のもとに届けるのに日本の小売業者がどれだけの労力やコストをかけているか。そこが見えてないんだよな。
だからそういう流通網が無いところに“最高”の農産物を輸出したって期待通りにはいかないよ。
運んでる間に味が落ちるんだから」
なるほどねえ。
そういえば『サイゼリヤ』の会長も、野菜などの食材は保管時の温度と湿度、経過時間および輸送時の振動で味が落ちると書いている(①)。牛乳が振られ続けると水分と脂肪分に分離するように、ほかの食材も輸送時の振動などで味が変わるという。
あるいは日本人の起業家がニューヨーク近郊のイチゴの野菜工場建てたニュースを読んだけど、あれも日本からイチゴを輸出した場合は流通上の課題が起こるのだろう 。
“最高”のものを“最高”のまま消費者に届けるため、日本の卸や小売業の人たちは常に努力している。
だから小売業の人たちは、誇りを持って「小売・“流通”業」と名乗るのだろう。
翻って、我々医療者は行政の強力なイニシアチブのもと、相当なスピード感で全国でコロナワクチン接種を行った。
これは誇るべき成果だけれど、もちろん医療者だけの力ではない。
マイナス80℃で保管されるべきワクチンをマイナス80℃のまま全国津々浦々まで届けてられる国は少ない。日本は数少ないそうした国の一つだ。
都市伝説のたぐいかもしれないが、日本では全国津々浦々に回転ずしチェーンにマイナス80℃のものを安定して流通させていたため、それがワクチン配送の基盤となったとのうわさもある(ただしこの部分は要検証)。
今日この時間も、どこかでトラックは走り続けている。
心からの感謝を。
①『サイゼリヤ おいしいから売れるのではない 売れているのがおいしい』正垣泰彦(日経ビジネス人文庫 2016年)
(『カエル先生・高橋宏和ブログ 2023年3月21日を加筆修正)
人の顔が覚えられない新社会人に贈る名刺活用術。
出会った人の顔と名前を覚えるのがとても得意な人がいる。
名前を覚えるための記憶力のことをドイツ語でnamengedächtnisというのだが、もちろん読めない。この単語のことは米原万里氏のエッセイで知った。このnamengedächtnis(読めない)の優れた人というのは、一度会った人のことをとてもよく覚えていて、どこかで再会してもすぐに「○○さん!」と思い出したりする。
友人T氏もまたこのnamengedächtnis(読めない)の優れた人なのだが、一度その秘訣を聞いたことがある。
「毎日いろんな人と会うじゃない?その日の終わりにさ、その日あった人のことを思い出すようにしてるんだ」
素晴らしい秘訣だ、マネしようと思って早幾年月が経つ。
僕自身が一時期やっていたのは、誰かとお会いしたときにデジカメとかで記念撮影して、それをプリントして一枚はお礼状とともに相手に送る、もう一枚は自分の記憶強化用にストックして時々名刺とともに眺める、という手だ。
さてこのnamengedächtnis、そろそろしつこいから「人の顔と名前を覚える能力」とするが、たくさんの人と出会う人気稼業では必須だ。
たとえば毎日たくさんの有権者と出会う政治家の方々にとって、「人の顔と名前を覚える能力」が優れているとそれだけで強力な武器となる。芸能人や水商売の人なんかも同様だ。
人気稼業の取引相手である有権者とかファンとかは、政治家や芸能人に名前を憶えてもらっていると正直うれしい。「××さん、久しぶりですね」なんて覚えてもらっていれば感激するのがほんとのところ。有権者やファンは、自分のことを覚えてもらっているとますます応援しようと思うわけで、だから人気稼業の人にとっては「人の顔と名前を覚える能力」は武器なのだ。
実際、生き残っている人気稼業の人の多くは記憶力や「人の顔と名前を覚える能力」に長けている。鈴木宗男氏も、秘書時代には200件くらいの電話番号を頭に叩きこんでいたという(佐藤優『野蛮人のテーブルマナー』講談社 2007年 p.89)。
だが、人気稼業の人すべてが「人の顔と名前を覚える能力」に長けているわけではない。そうした場合どうするか。名刺交換の場を利用する。

(photoACより)
まず、偉いポジションになると秘書がつく。この秘書には、元気がいい若い者を任用しておくとよい。
で、どこかで誰かと出会って、「△△さん、どうもご無沙汰です!」と向こうから先に挨拶されたとする。誰だっけと思い出せなくても、すかさずこの若くて元気のいい秘書に「どーもどーも、秘書の××です!うちのセンセイがお世話になってます!」と名刺を出して挨拶するように言っておく。
そうすると自動的に秘書とどこかの誰かが名刺交換をする流れになるから、そしたら秘書に「あー□□社の◎◎さんですか!」と相手の名刺を元気よく読み上げさせるのだ。
そこからはスムーズに「◎◎さん、最近いかがですか」と呼びかけられるというわけだ。
「人の顔と名前を覚える能力」がイマイチだけれど、秘書がいない場合どうするか。やはり名刺を利用する。
どこかで一度会っているのだが、正直どこの誰か思い出せない場合、もう一度名刺交換するか微妙な空気になる。
だから定期的に、自分の名刺のデザインを変える習慣をつけておく。
そうすると「どーもどーも!名刺のデザイン切り替えまして、これが新しい名刺です」といって自分の名刺を差し出して、相手の名刺をゲットして名前を確認できるのだ。
もし相手がまるっきりの初対面でも、新しい名刺を差し出して「これ新しい名刺です。名刺のデザインを切り替えまして」と言えば、多少奇妙な感じにはなるが話題づくりのためかと解釈してもらえる(と思う)。
そんなに頻繁にデザインを変えられないよ、という方にはこんな手がある。
名刺の裏や二つ折りの名刺の一面に、3か月分ほどのカレンダーを入れておくのだ。
これだと四半期に一度、カレンダー部分だけを差し替えるだけで「名刺新しくしまして」と言える。「ぼくの名刺カレンダー付きなんですよ、以前にお会いしたのは確か…」と相手から前回あったときの情報をスムーズに引き出せるわけである。
こんなふうに「人の顔と名前を覚える能力」がイマイチであっても多少の工夫はできるわけであるが、やはり本来、お会いする方の顔と名前はしっかりと心に刻むべきだろう。上に述べたのはあくまで姑息な策で、厳しいようだが、お会いする方の顔と名前を逐一憶えていないようでは社会人としていかがなものか、と言わざるを得ない。
そもそも社会人というのは……、失礼、宅急便が来たのでこの話はまた。新しいデザインの名刺が届いたから受け取ってくる。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2018年10月23日を加筆修正)
非メモの魔力。

日面仏、月面仏ー「明日死ぬリスク」と「長生きリスク」のはざまで。

photoACより
「明日死ぬかもしれないから、後悔しないよう好きに生きる!」。
医者稼業をやっていると時々そんな人に出会う。
その都度、そうですねと言いながら曖昧な笑みを浮かべる。
だが人生100年時代、明日死ぬリスクとともに、これから数十年「生きてしまうリスク」というのもある。
「明日死ぬかも」と言って大酒を喰らいタバコを吸いまくったりして不摂生をし、それも影響して病気となり闘病生活を送る場合だってある。
「明日死ぬリスク」と「長生きリスク」の間を、ぼくらは生きているのだ。
禅の高僧が体調を崩し、死に瀕していた。
「お加減はいかがですか?」と尋ねられたその高僧はこう答えた。
「日面仏、月面仏(にちめんぶつ、がちめんぶつ)」
(末木文美士『『碧巌録』を読む』岩波現代文庫 2018年 p.155-170)
上掲書によれば、日面仏とは1800歳の長寿の仏、月面仏というのは一日一夜の短命の仏だという。
高僧がどういう思いで臨死の場で「日面仏、月面仏」と言ったかは不明だが、「明日死ぬリスク」と「長生きリスク」を同時に背負う我々もまた、日面仏であり月面仏であるのかもしれない。
中国古典『荘子』逍遥遊編では朝菌(ちょうきん)や蟪蛄(けいこ)、冥霊(めいれい)や大椿(だいちん)の話が出てくる。
朝菌は朝の間に死んでしまうきのこ、蟪蛄は蝉でともに短命。冥霊は500年を春とし500年を秋とする大木であり、大椿は8000年を春とし8000年を秋とする大木である。
(森三樹三郎訳『荘子Ⅰ』中公クラシックス 2001年 p.7)
古代人から見れば現代日本人は永遠に生きるといってもいいほど長寿だ。
しかしまた、新型感染症や事故などであっという間に世を去るかもしれない運命でもある。
我々はまた、朝菌であり蟪蛄であり、そして同時に冥霊であり大椿であると言えよう。
新しい年が始まった。
2023年もまた、「明日死ぬリスク」と「長生きリスク」のはざまで、あいかわらずよくわからぬまま歩んでいくことになるのだろう。
今年もよろしくお願いします。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2023年1月1日を加筆修正)
医者は患者のどこを見ているか。

(illustACより)
「患者さんが診察室に入ってきて椅子に座る。そのときの歩き方で、もう診断がつくようじゃないとね」
F先生が言った。
今から二十数年前、ぼくが研修医のころの話だ。
注意深い医者は、歩き方からも病気を推測する。
例えばパーキンソン病の患者さんでは、猫背気味で歩幅は小さく、腕の振りも目立たない。
あるいは脳梗塞の患者さんなら、片方の脚を引きずって入ってくる(ことがある)。
小脳の病気なら脚を左右に幅広に開いた歩き方だし、正常圧水頭症の患者さんならそれに加えて足をあまり持ち上げずまるで床に足が磁石でくっついたような歩き方になる(ことがある)。
診察室のドアを開けて椅子に座るまでの間の数秒間は、病気についての様々な情報を与えてくれる。
ぼくが生業としている神経内科という科では、診察室のドアを開けた瞬間から診察は始まっているのだ。
歩き方以外にも、医者は患者さんの外見から色々な情報を読み取る。
貧血の人はやはり顔色が白いし、肝臓がすごく悪ければ白目のところが黄色く染まる。
まぶたの内側、鼻よりのところにぷくっとした膨らみがあればコレステロールが高いのではないかと疑う。「眼瞼黄色腫」というやつで、モナ・リザの絵にはこれがあるからモナ・リザはコレステロールが高かったのではないかという説がある。
黒目をペンライトで照らせば、白内障の手術をした人は眼内レンズがキラッと光るし(本当)、さらによくみれば眼内レンズに印刷された「Nikon」の文字が見える(ウソ)。
目のまわりがやや黒ずんでいて、長いまつ毛がたくさん生えている人は、聞いてみると緑内障の点眼薬を使っていたりする(緑内障の点眼薬の一部でまつ毛が生える副作用がある。そのうち美容用に改良されて転用されるかもしれない)。
病気に直結しない場合もあるが、患者さんの服装も大事だ。その人の年齢や状況、季節などとかけはなれた服装の場合、精神的なアンバランスさを内包している場合がある。
また、服をよく観察すると、動物の毛がついていてペットの存在を教えてくれることがある。
手もまた雄弁だ。
何本かの指が欠損していれば、工場勤務で事故により指を失ってしまった過去があることがわかるし、場合によってはアウトローの世界の人のこともある。
左手の薬指に指輪があれば配偶者の存在を期待できるし(いわゆるキーパーソンがいるかいないかは、治療にあたって非常に大事だ)、指輪ではなく指輪の入れ墨が左手の薬指に入っている場合、「年少リング」といって、若いときに「ヤンチャ」過ぎた可能性がある(地域と時代による)。
歯もまた大事で、一時期流行ったいわゆるシンナー遊びの経験者では、歯が溶けていることがある。
シンナーを常習していた場合、空き缶に入れて吸っていた人は前歯中心に溶け、ビニール袋に入れて吸っていた人は全体的に溶けるという。
話し方もまた、多くの情報を与えてくれる。
症状を話すときに「発熱」ではなく「熱発(ねっぱつ)」という表現が飛び出せば医療関係者かと身構える。
患者さんが「仕事でレクが忙しくて」という言い方をしたときには官公庁の人かもしれない。レクはレクチャーのレクである。
「どこどこへ行って、“じご”、熱が出て」という話をした方は自衛隊出身者だった。“じご”は、そのあと、みたいな意味の自衛隊ワードで、漢字だと“事後”と書くのだろうか。
こんなふうに今日もまた五感を研ぎ澄ませて診察に当たるわけであるが、残念ながら味覚だけはまだ使う機会がない。
付記:味覚を診断に使った例として、その昔、アフリカから奴隷を連れてくるときに奴隷商人がアフリカ人の顔をなめて「味見」した話がある。汗をかきやすい奴隷は顔が塩辛く、塩辛い奴隷は長い航海で塩分と水分を失って脱水症になりやすく航海中に亡くなる可能性があるから、塩辛くない奴隷を選んで連れて帰った、という。その結果、現代アメリカのアフロ・アメリカンで奴隷にルーツを持つものは塩分感受性が高く、白人に比べ短命である、という仮説があるそうだ(スティーヴン・レヴィット他『0ベース思考』ダイヤモンド社 p.103-107)。
永井明先生の『ぼくが医者を辞めた理由』の中にも、生化学の教授が「医者は五感を使って注意深く患者を診なければならん」といってリンゴジュースで医学生をだます話が出てますね。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2019年11月16日を加筆修正)
「あたまの良さ」と「あたまの悪さ」の間で。

(photoACより)
まあなんだ、みんながみんなひろゆき氏みたいだったら世の中回りませんな。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年6月10日に一部加筆修正)
世間というものは、同情はしてくれても助けてはくれない、という話。
「タカハシくんね、世間というものは、同情はしてくれても、助けてはくれないものなんだよ」
Y先生が言った。
そのころぼくは大学院生で、免疫学の勉強のためにY先生の教室に通っていた。冒頭の言葉を聞いたのは、ぼくが車上荒らしにあった話をした時だ。

(illustACより)
Y先生の研究室では、毎週何曜日かの朝に大学院生が持ち回りで英語論文を読んで内容を報告しディスカッションしあう抄読会があった。その抄読会の席では、論文ディスカッションとともに、身の回りのことを簡単に報告しあう習慣があった。
その席で、ぼくは最近車上荒らしにあった話をしたのだ。
Y先生のもとでやろうとした樹状細胞の培養実験はモノにならずに途方に暮れる日々だったが、この「世間とは、同情はしてくれるが助けてはくれない」という言葉を聞けたことは生きる上で非常に参考になっている。
例えば、車上荒らしにあえば、まわりの人は「ひどい目にあったね」と同情はしてくれる。だが、当然ながら誰か車の修理費用を出してくれるわけではない。
仮に誰か「修理費用出してあげるよ」と助けてくれたとしたら、それは稀有な例で例外的なものとしなければならない。
なお、困っている人を助けなくてよいという文脈でこの話をしているわけではないことを強調しておきたい。
ただ、自分が困ったときに、「世間が助けてくれて当然」と思っても報われないだろう。世間というものは、同情はしてくれても助けてはくれないものだからだ。
世間というものは同情はしてくれても、助けてはくれない、ことが多い。
だから人間は、ムラとかクニとかの相互扶助の仕組みを人工的に作り上げなければならなかった。
you know,『もし我々が天使ならば、政府なんて要らない』。
繰り返しになるが、ミクロ事象としての個人の生き方として、助けあわなくてよいといっているわけではない。
ただ、心のどこかで「世間というものは同情してはくれても、助けてはくれない」というある種の諦観を持って生きると、また肚のくくり方も変わってくるし、もし誰かに助けてもらえたら感謝の仕方も変わってくるだろうなくらいの話である。
ここまで書いてきてふと思い当たったことがある。
そうは言っても、今までぼく自身、たくさんの人に助けてもらったじゃないか、と。助けてくれた人の顔が浮かぶ。
たくさんの人に助けてもらった事実と、「世間は同情はするが助けてはくれない」という言葉と、どう整合性を取るのか、という疑問が浮かんだ。
その答えは、イナヅマのように降ってきた。
ああそうか、今まで助けてくれたのは、「世間」じゃなかったのだ。
今まで助けてくれたのは、顔の見えない、得体の知れない「世間」じゃなかった。今まで助けてくれたのは、友人であり、家族であり、同僚であり、上司や先輩や後輩だったのだ。
そう思うと、ぼくの心の中に、助けてくれた人たちへの深い感謝の念が生まれた。
世間体という言葉があるように、ぼくらは「世間」というものを気にしながら生きている。
世間というものを気にしないで生きていくことは難しい。だが、同情はしてくれても助けてはくれない世間を気にしすぎるあまり、目の前の友人や家族や同僚や上司や先輩や後輩といった生身の人間との関係性をおろそかにしてしまうことはまた、愚かしいことである。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2020年1月31日を加筆修正。時が経ってあのオチがつかえなくなったので…)













