マツゲン先生旅日記「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」2017その2
バスク地方の町 サン・セバスティアン
いよいよスペインに入った。今回の旅で、ぼくの一番の目当てはスペイン。その理由はといえば、ゴヤの絵である。駅を出ると、あいにく小雨模様、安ホテル街まで歩き、探してみたがホテルらしきものがない。街はブロックごとに建物群が固まっていて、入り口はどこも分厚い鉄扉で閉鎖され、その脇にインターフォンがあるだけだ。やっとブロックの一角にペンションの表示を見つけ、インターフォンを押してみた。耳を近づけてみると、中から「コンプレト」という返事、満室だ。その後も碁盤の目状の街を彷徨し、街の脇を流れるウルメア川も渡ってさらに遠くまで足を伸ばすが、ホテルは見つからない。ともあれ、ホテルにありついたのは2時間後であった。何てことはない、街の案内所を探せばよかった。まずは安堵、疲れはあるが早くも街の様子はかぎ取れた。街の散策は徒歩で充分だ。コンチャ湾にはヨットが何艘も浮かんでいる。今日は風が強く、寒い日だが、男性が泳いでいる。やはり、夏だ。
Barのピンチョス
サン・セバスティアンはバスク地方にある。バスクはピレネー山脈を挟んでフランスとスペインにまたがる地域である。バスクと聞くと、興味がわく。イベリア半島で最古の民族らしい。バスク語はスペイン語やフランス語とはまったく違う、世界で最も難しい言語とも言われている。バスク独立運動あり、ピカソが描いたあの有名な絵「ゲルニカ」はスペイン内戦でフランシスコ・フランコとドイツ空軍に攻撃された町の悲惨さや怒りを描いたものであり、その町ゲルニカもバスクに属する。果たして、ここはどんなところだろうか。とりあえず、夜旧市街に出向き、あちこちにあるバール(Bar)でバスク名物ピンチョスを食した。それは薄く切ったフランスパンにさまざまな具がのせてある、言わば洋風握りずしだ。
一路マドリードへ
バスでマドリードまでは、長旅である。バスターミナルで昼食用サンドイッチを販売機で購入、サン・セバスティアンを10時に出発、海沿いから低い山々を縫って走り、そこを過ぎるとなだらかな平地、ひまわり畑とブドウ畑がどこまでも広がっていた。たまに赤茶けた瓦屋根が集まっている村が見える。ブルゴスを過ぎて昼食休憩、一軒の店以外何もないところに降りる。天気はがらりと変わって、暑い。あとは一路スペインの中央部、首都マドリードへ、午後4時頃アベニーダ・デ・アメリカ・バスターミナルに到着、6時間かかった。ターミナルで親切なスペイン人が地下鉄の乗り方を教えてくれ、地下鉄に乗りこんだが電車は目的地と反対車線、2度乗り換えて目指すペンションの最寄り駅アトーチャに着いた。
そこは前日スマホで予約した。以前の旅行ではホテル探しにウロウロして時間がかかったことを思うと、便利な世の中だ。旅の苦労は減った。とはいえ、面白味も減ったように感じるのだが。このペンションは星二つ、プラド美術館に近く、2泊で一人55€、一泊およそ3500円だから安い。玄関のインターフォーンを押すと扉の鍵が自動で開いた。重い扉を押して中に入ると真っ暗、手探りで狭い階段を上っていくと、3階に宿主がいた。
マドリードは9時半頃やっと宵の口である。旧市街の中心プエルタ・デル・ソルへ地下鉄で行ってみた。夕食時人出も増え、レストランは賑っている。スペイン料理といえばまずパエリヤ、とくに食い物にはこだわりのないぼくだが、これだけは本場の味を試してみた。夜の11時、まだまだ人は多い。子どもたちもいる。マヨール広場ではあちらこちらに人々が群がっていた。覗いてみると、ローラースケートによる演技、ポルトガル人女性たちの演奏と歌、アフリカ系の青年たちの踊り、といった大道芸をやっていた。帰宿が12時、宿近くの路上テラスでまだ人々がくっちゃべっていた。スペインの夜は長い。
プラド美術館
プラド美術館 ゴヤ「着衣のマハ」「裸のマハ」
マドリード美術館で午前10時半、受付前に並んでいる人は数十人、スムーズに入館できたのは意外だった。だが、館内に入ると来観者の多いこと。広い空間、所狭しと並べたてられた絵画の数々、どれだけの展示室があるのか、どこから見始めるか、迷路に入り込むことは間違いない。それでも、同行のMさんは以前ここを訪れており、誘導してくれて助かった。スペイン、イタリア、ドイツ、フランス、フランドル、イギリスの絵画、それに彫刻、・・・、気が付けば昼食抜き、館を出たのはもう夕方の5時だった。山とある有名な絵の中をまさにのり越えのり超えて、ゴヤに辿り着いた。「裸のマハ」、「着衣のマハ」、「マドリード、1808年5月3日」・・・、若くして聴力を失っても描き続けたゴヤ、波乱万丈の生涯、絵の多彩さ、変貌のすごさ。ゴヤという名前も変わっている。バスク地方のものらしい。いやはや、有り余るほどの絵があり、何はともあれ、見た、見たというより、絵の中で溺れていたというべきか。フラフラになった。ゴヤ、ヴェラスケス、ルーベンス、エル・グレコ、ブリューゲル、ティツィアーノ、レンブラント、ドューラー、ブリューゲル・・・画家の名は枚挙にいとまがない。どれもこれもその溌剌さ、ド迫力にはまいった。一日の最後は、宿の近くにあったアラブ系レストラン”JALO”で、街路テラスの涼風にあたりながらビール大瓶とケバブで閉めた。
翌日の午後12時にメリダへ出発予定、AVANZA社バスで、ポルトガル方面へ向かうことになる。それまでに、もう一つ、ティッセン・ボルネミッサ美術館へ駆け足で行った。なるほど、個人のコレクションにしてはすごい美術館だ。クールベ、モネ、ルノアール、ゴーギャン、ピカソ、ロダン・・・また駆け足で1時間見た。
メリダ、ローマ時代を見る
メリダ ローマ遺跡
イベリア半島の歴史は激しく移り変わっている。スペインが成立したのは15世紀の終わりである。紀元前にローマ帝国に支配され、次にアフリカから来たイスラム帝国が一気に占領し、その次はレコンキスタ(再征服運動)でイスラム勢力は一掃され、スペイン王国が生まれた。キリスト教からイスラム教、そしてまたキリスト教勢力が支配するという恐ろしく激しい宗教の移り変わりである。メリダという町にはローマ軍団が入り、都市をつくった。なので、メリダにはローマ時代の遺跡が数多く残っている。そこへ行ってみた。
マドリードを出ると、乾いた大地が続く。見かける生き物は、馬と牛だけ。4時間ほど経ち、平原にポツンと現れたのが町がメリダであった。バスターミナルで、翌日のリスボン行きチケットを購入しようにも窓口は閉まっていた。ターミナルは閑散としている。午後はもう客は来ないのだろう。その脇に案内所があったので尋ねてみると、インターネットでチケット予約をするか、翌日窓口で購入か、どちらかだということだ。
メリダローマ橋
バスターミナルからルシタニア橋を渡り、強烈な日差しを受けながら坂道を登ると町の中心に出る。どこにも観光客を見かけない、というよりほとんど人がいない。実に静かだ。ここにローマ遺跡がある。石づくりの円形劇場に行ってみた。剣闘士が闘い、戦車競技が行われたところだ。隣にはローマ劇場があった。舞台には何本もの大理石の円柱、どんな劇が演じられたのか。劇場の石段に腰を下ろして、しばらく舞台を眺めた。それにしても、熱がからみつくほど暑い。ところが、夜暑さが静まると、やはり町に人々が繰り出してきた。
バスの予約については、いろいろ手を尽くしたができなかった。成り行きにまかせか。翌朝、バスターミナルへ行った。「おおー、窓口が開いているじゃんか。」目を疑ったが、案内所のおばさんが言う通りだった。リスボン行きのチケットも手に入り、一息つけた。バスが来るまで1時間半、ぼくはグアディアナ川の畔でローマ橋をスケッチした。
今回はここまで!
マツゲン先生旅日記「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」2017その3は「ポルトガル編」もどうぞ。