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マツゲン先生旅日記「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」2017その3

麻布流儀編集部
麻布流儀編集部
date:2017/11/24

マツゲン先生旅日記「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」2017その3です。ポルトガル→フランスへ戻る旅日記です。これで最終回です。

「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」2017その1はこちら

「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」2017その2はこちら





ポルトガルの首都リスボア

リスボンの街と大西洋 

スペインとポルトガルの時差は一時間、腕時計を1時間遅らす。リスボンはポルトガル語でLisboaリスボア(リシュボア)である。この街の名はフェニキア語に由来しており、「安全な港」の意らしい。確かに、治安が良い、と聞く。ここから大西洋は目前、街の中心へ行くには海辺を背にして急坂を登る。この坂は息切れがするほどなのだ。ぼくらのホテルは丘の頂上近く、中心街にあるのだが探すのにまた苦労した。Mさんはよく立ち止まって地図を見る、ぼくは相手かまわず尋ねるのだが、見知らぬ土地ではピンポイントが難しいのだ。

リスボンは、評判通り、ヨーロッパ中から人が来ている、賑やかな観光都市だ。通りも店も人々もいかにも華やかな雰囲気で、歩いているとこちらも心が弾んでくる。実は、こんな楽しい街で3日目にスリにやられた。市電28号線のなかで、集団で狙われた。ホテルのフロント係の話しによると、28号線でよくあると言う。まあ、ぼくには長年旅をしていて初めてのことだった。

リスボンで一番印象深いのは、古い町並み、狭い急な坂道を市電がのろのろ走る光景である。次に、夜更け人々が路地という路地で、酔いしれている景が目に浮かぶ。その次はといえば、どこに行っても、観光客であふれていたことである。ジェロニモス修道院といえば、大航海時代の先陣を切ったエンリケ王子とインドへの航路を開いたヴァスコ・ダ・ガマを讃えてつくった見事な建物だが、暑さに耐えながら長い列に加わり入場を待つ辛さを思い出す。

 

大西洋岸を辿る

モンテ・シナイポルト 宿

列車に乗って海岸伝いに北へ向かい、ポルトへ行く。リスボンのサンタ・アポローニス駅の窓口で65歳から列車はシニア料金、半額と教えてくれて、驚いた。昨日は盗難、今日はポルトガル共和国の恵みか。海が見えると想像していたがついに見えず、ずっと平原が続く。空は曇天、気温も落ちてきた。サン・ベント駅に着いたのが午後2時半、3時間かかった。そこで翌日のサンティアゴ・デ・コンポステーラ行き列車の切符を購入しようと窓口に行ったところ、明日はストライキで運行しないとのつれない返事だ。それじゃ、バスだ。あちらこちらのバスターミナルへ行き、やっと予約できた。地下鉄も利用して探し回ったが、ポルトガルの地下鉄は券一枚で一時間使えるのだ。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ

先を急ごう。ポルトから国境を越えてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラまでおよそ4時間、北へ向かうと天気は曇り、雨も多い。大陸の乾いた大地から西の海岸地帯は森や平原の緑が目立ってくる。腕時計を一時間進めて、スペイン時間にする。この町はエルサレム、ローマに次ぐキリスト教3大聖地の一つである。聖ヤコブ、このガリシア地方の言葉ではサンティアゴ、イエス・キリストの12使徒の一人であり、9世紀にその墓が見つかったということから巡礼が盛んに行われるようになった。コンポは野原、ステラは星、つまり、この地は「星の野原の聖ヤコブ」となる。ここで、日本人女性に声をかけられた。彼女はビニール袋を両手に下げて、その中に食パンなどの食料をたくさん詰め込んでいる。いかにも逞しく、日焼けした顔から巡礼の道を歩いてきたと察しがつく。ピレネー山脈からおよそ一か月かけてこの最終地まで歩く。横浜に住んでいるというこの女性、途中、零下の高地を半そで姿で耐え、10日間は野宿をしたというから恐れ入る。女性はすごい。

スペインの愉快な仲間たち

カテドラルのある旧市街地は訪問者が多く、楽しい観光地でもある。この聖地で心苦しいのだが、ぼくらはパエリアを腹いっぱい食べ、ワインを一本空けた。とくにパエリアはうまかった。さて店を出たところで、陽気なスペイン人が、高らかに笑い、歌を歌っている。女3人と男1人、かしましい。なぜか意気投合してしまい、肩を組んで写真を撮ったり、「明日もここにいるから、来て」と誘われたり、とにかく愉快な連中だった。

サンティアゴ・デ・コンポステーラから列車でア・コルーニャに行き、乗り継ぎで駅前食堂に入り2時間半待って再び列車に乗り込みフェロールに着く。ここで一泊、だが目指す宿が見つからず、うろついていると男が大声で呼びかけながら付きまとい閉口したが、最後は親切な女性に巡り合い、宿へスマホで電話をかけて案内までしてもらった。彼女に出会わなければ、裏通りにある宿にはたどり着けなかったのではなかろうか。フェロールは意外に大きな港町、今日も雨、ここのところ雨続きだ。

ポルトガル フェロール

 

各駅停車、極上の旅路

オビエド行き単線列車の駅

朝早く、フェロール駅から2両編成の電車に乗り、オビエドまで行く。乗客は6人、電車は単線、およそ1分ごとに駅に着く。ときどき線路に木々が迫り、車体に枝が当たる。と思えば、今度は狭い窪地の中を走り、その両側には土壁が迫り、大雨でも降れば一気に土砂崩れが起きそうだ。トンネルを何度もくぐる。進行方向に向かって左には大西洋が見え隠れし、岩場に囲まれた小さな海水浴場に人がいる。右側は、トウモロコシ畑、牧場に牛と馬、遠くに低い山々が見える。途中、サイクリストが自転車をかかえて乗ってきた。こちらではいつでもどこでも列車に自転車を積み込めるのがいい。リバデーオ駅でフェロール行きの電車が待っていた。フェロールを出たのは午前8時20分、オビエド着が3時30分、長時間のだらーんとした行程、何があるというわけではない、いい旅だ。予約したホテルは駅の目の前、初めて探す苦労がなかった。この街は1937年にフランコ軍に破壊されたという。ここも見物するものはない。暇にあかせて、絵を数枚描いた。

次の地ビルバオへ行くには、海岸沿いに鉄道路線がある。ところが、列車は運行していないという。しかたなく、バスに切り替える。このバス、ビスケー湾沿いの高速道路を走っている途次、事故渋滞に出くわしノロノロ、ついには止まってしまった。結局3時間遅れでビルバオに着いたのだが、車内にいる乗車客が誰一人文句を言わなかったのは意外だった。ビルバオは確かに鉄鋼、造船で栄えた都市、古い建物群を目にすればなるほどを思うが、今はひっそりしている。ビルバオ行きの列車がなくなったのも、この惨状を見て分かった。あちらこちらのビルが閉鎖され、活気がない。ふと、日本の地方のシャッター通りが頭をよぎる。夜通りは人気がなく、物騒な感じだ。ただ、夜の暗闇の中で偶然見つけた中華料理店の夕食だけは満足した。

 

ヴァカンス

スペイン ビルバオ

朝、ビルバオのバスターミナルでフランス国境の町アンダイエ行きのバスを待つが、いつまで経っても来ない。今日中にアンダイエから特急でパリに戻る予定である。すでにホテルもスマホで予約している。業を煮やして、バスの案内所に足を運んでみるが、2度とも「タルデ(遅れている)」との返事だけで、事情が分からない。他のバスは次々に到着し、出発している。隣に立っている人に尋ねるが、首をひねるだけでいら立った風はない。何のアナウンスもなく、遅れること1時間半、ようやく目当てのバスが来た。「日本ではこんな対応はしないのにな」、と思いながら、その丁寧さがあまりにも特異なものに思えてきた。

ビルバオから国境までは2時間、アンダイエに着くと、駅の窓口に突進した。ところが、今日の列車は満員、明日ならばあるという。「まいったな。とにかくパリに向けて行けるところまで歩を進めてみよう。後は野となれ山となれだ。」窓口で他の列車がないか尋ねると、運よくボルドーまでのチケットがあった。「今日は8月1日、ヴァカンスが始まると状況が一変する」、とフランス体験3度目のMさんは言う。確かに、7月段階では交通機関はいくらでも選択肢があった。ヴァカンスが始まると、鉄道も道路事情もこんなにも変わるものか。車窓から外を見ると、キャンピングカーの多いこと、道路もかなり混んでいるのだろう。ボルドー駅に降りると、やはり人であふれかえっていた。7月中旬のボルドー駅とは全く違う。背丈が2メートルはあろうかと見えるロボットのような兵士2人と女性兵士一人が小型機関銃を持って立っている。「これじゃもうパリ行きはダメだな」と思いつつも、駅のチケットセンターへ急いだ。ところが、パリ行きチケットがあったのだ。「おおっ、天は自ら助くるものを助く、だ」。夜遅く、パリに着いた。地下鉄の客はもうまばらであった。

 

再びパリ、そして帰国

サン・ジェルマン・デプレ

8月1日にパリへ戻り、6日午後2時35分にシャルル・ド・ゴール空港から日本へ発った。その間ホテルはパリの中心から外れた下町、ホテルは星二つか三つ、エレベーターは古く、狭い。偶然フロントで日本人の女子大学生二人組に出会い、こんなところに宿泊するとはちょっと驚いたが、やはり若者にはこんな安宿が似合う。彼女らはスペインにも行ってスペイン語が分からず困った話をするし、これからスイスにも行くという。今どきの若者も捨てたものじゃないな。

 

 

ゴッホ ローヌ川の星月夜

パリでの話はすでにこの旅日記の冒頭にいくらか書いた。さらにちょっと話すなら、ロダン美術館のことだ。その美術館はパリの中心地にあり、ロダンの元邸宅である。彼が生きていたのは百年以上前とはいえ、こんな一等地に大きな館を建てた。その庭園に銅の彫刻がぽつんぽつんと置いてあり、館内には大理石の彫刻がところ狭しと置いてある。彼の彫刻は、男と女のすべてを激しく、悩ましい表現で創っているが、一つ一つの顔を覗き込むと複雑な表情の中に苦しみが感じられる。その印象は強烈なもので、ロダンの人生を垣間見たように思えた。

 

パリ バスチーユ街

パリでの残りわずかな時間を、ぼくはほっつき歩いた。Mさんに連れられて、サルトルやボーヴォワールなどが集ったというカフェにも行った。やはり、パリには自由が根付いている。人々の言葉、態度、振る舞い、顔つき、衣服等など、どれを見ても自信と自己主張が現れている。フランス革命以来、命を懸けて闘いとってきた個人の自由と尊厳、それはすでに彼ら一人一人の骨肉になっていることがみてとれる。さて、帰国して、新聞を読んだり、まわりの人々を見たりしていると、フランスとは全く違うな、とつくづく思う。日本は近代社会なのかな、と疑りたくなってくる。今回の旅で、パリの印象が一番強烈だった。ぜひまたパリに行きたいと思う。

 

 

接吻 ロダン

モナリザ レオナルドダヴィンチ

 

 

以上で、松元先生の旅日記2017は終了です。



また松元先生から続編が届きましたらご紹介いたします。