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#1 麻布流儀インタビュー平校長に聞く「麻布」

麻布流儀編集部
麻布流儀編集部
date:2017/11/30
#1 麻布流儀インタビュー平校長に聞く「麻布」

麻布流儀、記念すべき第1回のインタビューとして、2013年から校長を務められていてまた麻布のOBでもある平秀明校長が登場。平校長は様々なメディアで取材を受けられているので、既出の話ばかり聞いても仕方がないと取材陣も考えまして、今回はまとめたインタビュー記事という感じではなく、あえて取材陣も一麻布OBとして対談のように質問していく形式で行いました。

*上記のサインは平校長の直筆です。

平 秀明 校長
麻布中学校・麻布高等学校校長
昭和35年、東京都港区生まれ。麻布中学校・高等学校出身
昭和58年3月、東京大学工学部卒
昭和60年3月、東京大学教育学部卒
昭和60年4月、数学科教員として母校に勤務
平成25年4月、校長に就任
麻布の自由について語る

前田「平校長、お時間いただき、誠にありがとうございます。校長は今まで新聞や雑誌などから何度もインタビューをお受けになっていると思いますので、麻布の自由や、変わった学校ですね、などの質問に何度となく答えておられると思います。もちろん、過去の取材で話されたことでも構いませんが、インタビューの読者の中心が基本的に麻布のOBであるということを申し上げておきます」



平校長「OB向けということですね、わかりました」


前田「まずお話をお聞きしていく前に、あまり関係ないことなのですが、1992卒の私と会田(あいた)は1973年生まれ、ちょうど平校長が入学されたのが1973年の4月という偶然があります。ちょうど学園紛争の直後にあたります」


平校長「(君たちは)団塊ジュニアだね」


会田「そうなんです、一番子どもが多かった時代です」


平校長「僕も学園紛争を体験したわけではないのだけど、色々見たり聞いたりしているうちに何だか自分も体験した気になってしまった。学校にとっては一番大きな事件だったからね」


前田「麻布=自由というこのイメージも聞いた話では、この学園紛争を経て生まれたものだそうですね?ぜひ麻布の自由についてどうお考えなのかなど含めて麻布の自由を解説してください」


平校長「麻布の自由は入学すればすぐわかると思います。私服だったり、休み時間にコンビニに行ったり、髪の毛を色々な色に染めたり。授業中はダメだけどスマホなんかを持ってきてもOKだし。いわゆる校則がない自由がクローズアップされがちだけども、むしろ精神の自由だとか、内面の自由を大事にしている。学園紛争のあった1970年前後で、今までの制服が標準服になり私服もOKになったのだけど、ただそこで求めていたのはそういった外面的な部分ではなく、受験に役立つような授業だけではなく、本当の学問を教えて欲しいと求めた生徒もいたし、それまであった校則の意味を問うなど根源的な問いかけがあり、それが麻布の自由につながったと思います」


前田「僕らも入学してすぐ、校則がなく、なんでも自由だなと感じましたが、平校長が入学された時はこの自由についてどんなことを感じましたか?」



平校長「1973年4月、学園紛争が終わった直後だっただけど、僕は麻布が家から近いということだけで、正直学園紛争があったなんてことも知らずに入ってしまった。今のように学校説明会なんてものもなかった。中学に入学したら高校生は長髪でジーンズを履いているし、タバコの臭いもしたし、すごい大人に見えてましたね。高校生の廊下を通ると、気の弱い先生が教えている教室の後ろの方で麻雀している生徒がいたりして、正直ひどい学校に入っちゃったなぁという印象でした(笑)。自分たちの自治権を確立したり、学校の良くないところを潰したり、学園の財産を横領した山内一郎を追い出したというように、生徒たちが学園紛争に勝利したわけだけれども、その後ある意味向かうべき相手がいなくなってしまったというか、虚脱感があったというか、自由を持て余しているひどい状況があったのかもしれません。教員室のあるこの建物、1973年に竣工して、この講堂もそうだけど、まっさらで綺麗な廊下の壁が色々な政治的なスローガンだとか、ビラや張り紙であっという間に汚されていてなんか悲しい感じがしました。僕は直接学園紛争を経験したわけではないけど、高校生たちはそれぞれ理由があって自分たちの主張を出していたのだと思うけど、これはついていけないなぁと感じました。中1の入学祝いで貰っただろう時計だったり、遠くから通う子の定期券などが体育の時間に上級生たちが誰もいない教室に入ってきて、持っていってしまうなど、盗難の多い学校で、進学率の高い非常にいい学校だと聞いていたの正直ショックを受けましたね」


会田「非常にやばそうな学校ですね(笑)」

3つの立場での麻布との関わり

前田「ここまで聞いてるとやばそうに聞こえてしまったので、良い意味で変わった学校と言われていると思いますが、平校長は在学時代と、それから教員時代、そして校長になられてからと大きく分けて3つの立場で麻布と関わられてきたと思いますので、それぞれの時代の良い意味で変わった学校だなぁと思うエピソードなどを教えてください。まずは在学時代からお願いします」



平校長「自分が中1の時に思ったのは、頭のいい奴がすごく多いなぁって思いましたね。刺激的でした。口語文法の授業で、普通名詞、固有名詞、代名詞などを習うのだけど、先生が『世界』は何名詞ですか?と問いかけたのに対し、自分は普通名詞だと思ったんだけど、生徒の一人は固有名詞ですと答えたんだね。先生が何でだ?と聞くと、世界は1つしかないからです、とそう答える。なるほどなぁと思った。そうしたら先生は、男の世界、子供の世界という使い方をするから、世界は普通名詞なんだよ、と説明していた。先生の説明も納得したけど、僕は妙にその固有名詞ですと答えた子の考え方が新鮮な感じがしました。また、当時はベトナム戦争終わりかけてた頃だったんだけど、僕がいた化学部の夏合宿の時、顧問の島先生に、先輩の高校生たちが、ベトナム戦争のパリ和平協定をどう思いますか?なんていう質問を理科の先生にしていて、それにちゃんと先生も答えていて、なんか大人の話をしている、すげえなぁ、麻布生らしいなぁと感じましたね」


前田「それでは続けて教員時代のエピソードをお願いします」



平校長「教員になったのは1985年だけれども、だいぶ落ち着いた時代でした。もともと1973年の頃、正副担任ができたり、PTAができたのもこの年、校務分掌制が始まったのもこの年くらいからで生徒委員会担当、入試担当の先生などと担当が分けられたりと、とにかくこの1973年が麻布の近代化・現代化がスタートした年だったと思う。それは人的にもそうで、山内校長代行が来たとき政治的に先鋭な生徒たちが居たから、藤瀬校長は弱腰だと山内校長代行に同調するベテランの先生も多かったのだけれども、山内校長代行が追い出され、ましてや学園のお金を横領していたことがわかり、山内を支持していた先生方は居づらくなり大量に辞めていったんです。学校はもちろん授業をやらなくてはならない中で、73年前後に団塊世代の先生たちが大量に入ってきました。僕が中1の頃、担任はベテランの生物の江口先生でしたが、本田先生、原先生、新垣先生などみんな二十代の若い先生が大勢いらして、その先生たちも麻布の学園紛争の時代には大学で紛争を経験した全共闘世代でした(笑)。その頃の先生方が今の麻布の体制を作り、肉付けしていった感じだったので、僕が教員として入った頃はうまく回り始めていた感じでした。僕が驚いたのは就職した最初の職員会議で、新任の教員が、僕と、地理の鈴木先生と英語の増永先生の3人だったんだけど、3人が挨拶を終えると、すぐ議題に入って、それが大へん深刻な問題だったんです。悪いことをした生徒がいて、彼をどう処置するか、というような話でした。その生徒のを担任の先生がして先生方で共有して、いろいろな意見が出され、2時間、3時間と続く。自分が生徒のときは麻布の教員なんて楽な仕事なんじゃないか、って正直思ってたんですよ(笑)。こんなに麻布の先生方が一人の生徒に対して80人〜90人の先生たちが話し合っているというのはびっくりしました。この学校は信頼できるなぁと感じた瞬間でした。当時は先生もストライキをしたりして、どれだけ生徒のことを考えてるのかなぁなんて思ってたんだけれど、そういうのを目にして、信頼できる、いい学校だなぁと思いました」


前田「それでは校長になられた頃のお話もお願いします」


平校長「1973年から40年、2013年に校長に就任しました。ちょうど1973年に新任だった団塊の世代の先生方定年を迎える頃で、僕がお世話になった先生が6、7年の間に50人くらい辞めていかれて、それだけ辞めているということはそれだけ新任の先生を採らないといけない。今につながる麻布の近代化した第二世代というか第三世代というか、紛争も知らない、麻布がどう出来てきたか知らない先生も多い。僕としては従来のやり方でやったら若い先生はついてこないと思っている。でも麻布が大事にしてきた、先生は勉強だけ教えるのではなく生徒に接していくという良い部分を伝統として受け継いでいかなくてはと思っています」

麻布の教育について

前田「会田君、僕らが入学したのがいつだっけ?」


会田「1986年」


前田「平校長が新任で入られた翌年だったんですね、勝手ながら色々な時期が重なるので縁を感じます。それではここからちょっと話題を変えまして、麻布の今、麻布の教育の今を話していただきたいと思います」



平校長「君らの頃も、今の学生たちも、僕らの頃も生徒の本質は変わっていないと思っています。色々なことに興味があってみんなイキイキしている。ただ変わったのは親の出番が増えていることかなぁ(笑)。親の干渉がちょっと強くなっていると感じますね」


会田「昔も居ましたけどね。教育ママみたいに色々と口出しをしてくるような親も居ましたが、今の方がやはり干渉が強いのかもしれませんね」


平校長「君らの父親なんかは麻布に来たことありましたか?」


前田「1回も来たことないですね」


平校長「今ではみんな普通に来るよね。入学式とか、受験の時とか。受験なんて今では家がかかりでやってますから。子どもを大切に育てていて、教育に関心の高い親御さんが増えている」


前田「興味本位で聞いてすみません、一つ質問です。麻布の教育のスタイルに対して、駄目出しをしてくる親御さんとかいますか?」


平校長「昔は、こんな学校なはずはない、と言ってきた親御さんもいました。最近はネットとかSNSとか口コミの情報があるおかげで、麻布がどういう学校かということが分かっているので、麻布に入学してからのギャップというものが以前に比べてなくなってきていますね。だから麻布の教育を理解した上で、預けてくれる親御さんが増えていると思います。むしろ親も楽しんじゃおうという感じもあるかもしれません」


前田「それはネット時代のプラスですね」


平校長「先日学校説明会を終えたところなんだけど、君たち時代は1回くらいしかやってなかったのだけど、今は1回じゃ入りきれないので、3日に分けて3回も行っています。延べ4,500人に来ていただいています。もちろん、聞きに来ただけとか、6年生ばかりではなく4、5年生もいるけれど、非常に関心が高まっているように思います」


会田「そこでやはり問われるのは教育の方針とかなのですか?どんな教育か?という


平校長「君らの後から少子化が始まり、大学も教養教育を飛ばして専門学校化する中、また大学が増えすぎたこともありどう受験生を集めるかってことで、受験科目を少なくする傾向が出てきていて、麻布の生徒なんかも合理的に、自分と関係ない授業だと聞かない生徒が出てきたりして問題だと思っていました。麻布は予備校じゃないんだぞ!と思い、大学がやらないならもっと教養な授業をして、自分たちの勉強の導火線に火をつけるような授業をすべきだと議論が出てきていました。ちょうど2000年前後に指導要領が変わって、ゆとり教育という流れのなかで『総合的な学習の時間を小学校から高校までやらなくてはならいということになりました。根岸校長の最後から氷上校長の頃に土曜日は特別な授業をしようという旗を振っていただきました。それが2004年から特別授業ということで中3、高1、高2の学年の枠を越えて少人数形式のセミナーのような感じで新しい形式の授業が立ち上がりました。その3年後、『教養総合』と名前を変えて高1、高2でそれを続けています。年間40講座、語学、人文、科学、芸術、スポーツの5つの領域で行っています。学校の教員だけでなく、ドイツ語などは外から先生を呼んでいます。この5つの領域のほかに『リレー講座』というのもやっていて、毎回オムニバス方式で、一つのテーマについて講師をお呼びしています。例えば『現代医療を考える』、『憲法について考える』などその道の専門家やOBをお呼びして行うもので、キャリアガイダンスにもなっていて9割以上の生徒が満足しています。変わったものとしては『ボウリング』などもあります。もちろん学校にボウリング場はないので高田馬場まで体育科の教員が連れて行って、スリットの倒し方、スコアのつけ方などを教えます。芸術など色々な展覧会をやっている都内の美術館を巡ったりしています。そういう文字通りアクティブラーニングをしています



会田「ゆとり教育が終わってどうなってるのですか?」


平校長「ゆとり教育は、文部科学省が縮小してまた詰め込み教育へと向かっていて、教科書も分厚くなってきているのだけど、麻布では教養総合の授業は定着したので、教養総合委員会の教員たちも合宿しながら、あーでもないこーでもないと討議し、自分たちが作り上げてきた授業なのでこれからも続いています。」


前田「本当に僕らが知らなかっただけど、麻布の先生は伝統的に熱心なんですね」

麻布って単位制?

平校長生徒指導に関しては学園紛争前は生徒指導部といって生徒指導全般については体育科の先生が担っていたんですけれどね」


会田「お、恐ろしい気がします(笑)」



平校長そういう先生が校門に立っていて遅刻すると門を閉められちゃってたんだよ。もちろん授業始まったら外に出ちゃダメって感じで色々取り締まってて、逆を言えばそれ以外の先生は自分の授業さえやっていればいいという感じである意味、生活指導と教科の授業をする先生は別みたいな感じだった。紛争後は生徒指導部はなくなって6クラス正副担任の12名が主に学年の授業を受け持ちつつ、その学年会の先生が自分のクラスだけでなく週1回学年会全体で会合をもち、生徒についてのあれこれを共有し、授業を受け持つ先生が同時に生活指導をちゃんとしていくという体制が出来てきました。だから学年会は今では大へんよく機能していると思います」


 会田「平校長はわれわれの学年の担任にはなられてないんですよね」


平校長「そうだね君たちの代は受け持っていなかった


会田「数学を習いました!」



平校長「どうもすみません(笑)」


前田「先ほど、麻布は予備校じゃないんだぞ!って話がありましたが、ちょっとギクっときてまして、僕は大学受験に英語と国語しかいらないところしか受けなかったので。ただ、僕は高3の時、数学も取ってなかったのですが理系クラスだったので。あ、一つ聞いてみたかったのですが、麻布の高3って単位制でしたよね?」


平校長高校は学年ごとに単位を取得しなければならないので、そういう意味で単位制だよね」


前田「会田くん、ほら、やっぱり!単位制って話を誰もわかってくれなくて!僕は最初自分で取ろうと思ったら、単位が足りないって言われたんです、笑。当時地学の伊藤照雄先生がじゃあ理系の方を取りなよと、理系の方が同じ時間数だけど単位が多いから足りるよと教えてくれて(笑)」


平校長「それもいいかげんな部分だなぁ、笑。今では高校入ったら教務主任が全員集めて高校は単位制であることを教えていて、卒業までにはこういう単位があってちゃんと取らないと留年しちゃうんだよと指導しています」


前田「いやーすっきりしました。この単位の話をしても同期は誰もわかってくれなくて。理系クラスだったので、時間割の間に結構数学があったので、僕は取っていないのですが、居場所がなくて、数学の授業とかにも教室にいて、よく当てられて困りました(笑)」



平校長「ははははは。僕の頃も生徒同士で麻布が予備校化してるのでは?』と話題にしたことがあったなぁ」

ちょっと話題を変えて

前田「ちょっと話題が変わるというか戻りますが、先生に関するエピソードとして、僕らの同期にY君という当時問題児だった奴がいるのですが職員会議のテーマに上がったりしませんでしたか?」


平校長「んー、サッカー部だったっけ?」



前田「あ、ご存じですね、笑。僕ら同期の教育ジャーナリストの“おおたとしまさ”がこのY君のことを書いてるんです」


平校長「太田君もサッカー部だったね」


前田「そうなんです、その太田が何かで書いていたのですが、そのY君と2010年に亡くなられた金坂先生のエピソードがあるんです。普通だったら退学になるようなことをY君がしてしまい、両親も呼び出されての面談で、本人も退学を覚悟していたくらいなのですが、平謝りする両親に対し、金坂先生はある意味逆に説教をしたそうなんです。なぜY君がこんなことをしてしまったのかちゃんと考えているのか、こいつはいい奴でY君を責めるのはやめてください、私に任せてくださいと言ったそうです。そしてそのあと、週に1回体育教室に呼び出して、筋トレ指導みたいなのを繰り返し、Y君は立ち直っていったというようなエピソードでした。僕もバレーボール部だったので、体育の先生にはよく怒られて怖かったなぁと思ってたんですが、そんなエピソードにジーンとしました」


平校長「前田君が今言ったことは、麻布の本質的なところだと思います。麻布は何も最初から進学校だったわけではなく、江原素六さんがったんだけど、麻布も開成も私立学校は公立の後塵を拝してて、戦前は今の日比谷高校など旧制の1中〜6中など立のナンバースクールがエリートで、どこも東大100〜200人合格者を出していて、昭和40年代半ばまではそんな感じでした戦前は麻布なんかそういった旧制の中学に落ちて麻布しか入れなかったなんて感じだったそうです。2学期になったら編入試験で立の学校に行って生徒が減ったなんてこともあったようで、麻布も昔は生徒集めに苦労していた時代もあったのです


前田・会田「そうなんですね!」



平校長「蓬にすさぶ人の心を矯めむ麻の葉。ここで言う蓬はふつうの蓬とはちょっと違う植物らしいのだけれど、ひとところに居ないでコロコロしちゃうような植物なんだけど、でも、麻は繊維が真っ直ぐだからそこに入ると良い影響を受けて真っ直ぐ育つそんな意味がある。昔から公立にれなかった悪ガキを受け入れて、麻布でそういう子も周りがしっかりした生徒がいるので育てますよという精神が残っている。素行が悪いから退学なんていうことはないんだよね。さらに言うならば、麻布は自分の学校だけでなく他にも手を差し伸べる学校だと思う。1923年の関東大震災で、多くの学校が焼けてしまったんだけど、麻布は丘の上で焼けなかったので今の明大明治の生徒を1学期間受け入れたり、東京経済大学の前身の大商業を同じく受け入れたり。昭和の初め頃は麻布の夜間中学というのがあって昼間の学校に行けない子たちを受け入れたりもしていて、それは昭和30年頃に閉鎖してしまったようだけど。また昭和20年5月の空襲では芝と正則が丸焼けになっちゃって、3年くらい受け入れてたこともあったです。芝中高の校舎に入って横のプレートには、戦後麻布に受けた恩義忘れてはいけない、といったようなものが書かれている


 会田「それは知りませんでした!」


前田「バレーボール部でよく芝中の体育館で試合してましたが、知りませんでした!」


平校長書道の近藤祐康先生習ってたと思うけど、近藤先生は正則中学だったから戦後麻布の校舎で学んでたらしい。ちなみに僕の父親も旧制芝中にいたから麻布の校舎にお世話になったと言っていたよ」


前田「それはそれは!」


平校長「麻布が進学校化していったのは、学校群制度っていう制度ができて都立の学校が、今は単独選抜になってるけど、昔は第一学区は日比谷・九段・三田の11群で合格してもその3校のどこかに回されるということで、行きたい学校に行けないかも知れないと嫌われていって、生徒が私学に流れるようになって、さらには中学入学から私立を目指す流れもできて、進学実績では公立のポジションが下がっていった歴史がある。それで相対的に私学が上がっていったので、麻布が何か主体的に努力をしたということではない(笑)」


会田「なるほど。ちょっと話戻りますが、そういう問題児を先生方がどう立ち直らせるか先生方が考えているところがすごく麻布っぽいなぁと思いました。先日同期で集まった時に、何かしら他の学校では不適合な人たちが麻布に集まっているかもしれないねなんて話してたのですが、学校も生徒もお互い引き合うというか惹かれ合う感じなんですかね?」


平校長「そういうのはあるのかもしれないね。そんな子ばっかりきたら問題かもしれないけど(笑)」


会田「今でもそういう傾向があるんですか?」



平校長「中1で江原素六の生涯という本を読ませて、校長の宿題で感想文を書かせているんだけれど、麻布は自由な学校だというけれど江原素六先生がどんなことを考えてこの学校を作ったのかわかってきた気がしました、みたいなことを中1が書いてくる。最初は校則がないとか、自由な服装とかに惹かれるんだけれど、結局自分がしっかりしなければいけない、自分たち生徒がチャレンジするために自由にしてくれたんだみたいなことを書いてくる。生徒が色々思い当たることがあるみたいだね。考えれば、校則がある学校というのは基本的に校則というのは、何々をしちゃダメっていうことばかりでしょ。タバコを吸っちゃダメ、登校したら学校から出ちゃダメとか、先生と会ったら挨拶しなくちゃダメとか、とにかく禁止が多い。そういう子が社会に出た時、何々しちゃダメってのは当然法律で縛られるのだけれど、外から規制を受けないと自分で判断できないような子が育っちゃうと思う。麻布は校則がないから、自由だと言って、みんな最初失敗もするし、自分の自由を主張することで他人の権利を侵害してぶつかり合うこともある。色々ハンドリングは難しいのだけれど、6年間居れば段々わかってくるし、自分の中で校則に頼らない自立した気持ちというかそういうものが芽生えてくる。そういう生徒は大学に行ったり社会に出ても、こーしなさい、あーしなさいと言われなくても自分の判断でやっていけるのだと思いますね。だから麻布が何で悪いことをした者を追い出さないかというと、出しちゃったら終わり、教育にならないから。やっぱりそいつがダメだったところをちゃんと反省させて直して、正副担任だけじゃなくて担任以外の教員も話たりして、こいつは大丈夫だとなったら、卒業した後も繰り返さないと確信が得られるのだと思う。そういうところに勉強ができるというだけでなく、本当の教育的な営みがあると先生たちは考えているのが麻布だと思う。だから悪い奴ほどよく集まってくるよね(笑)」


 

社会不適合な人間がまともになっていく(笑)

会田「悪いけど頭良かったり、頭は良いのだけど社会不適合な人間がまともになっていく(笑)。平校長も麻布で学ばれ者として、何か自分の中でもそのような何かってありますか?」


平校長「麻布の先生は本気で怒ってくれたように思う。自由だからいろんなことするけど、これをしたら許さんぞっていう基準は先生にあって、大勢で弱いやつをいじめたり、身体的な特徴をあげつらうことに烈火のごとく怒る先生がいる。何々しちゃいけない、ではなく、そうやって怒ってくれることが心に沁みたと思うね。同じように先生たちはいろんなところで怒ってると思う。これだけ自由にやってるんだからね」


会田「そうですね」



平校長「麻布生もバカでね。近所のコンビニに裸同然の格好で行って、麻布の延長だと思って店員に馴れ馴れしい口をいてたら、通報されて警察に連れてかれちゃったことがあったね。だから麻布の中はAモード、一歩出たらコモンセンスのCモードっていうのを教えたらみんな納得したようで、外からの苦情も減った。言われなきゃわからないみたい(笑)」


会田「そうですね、言われなければ分からない人間だったと思います、自分も」


前田「話いきなり飛ぶんですけれど、もともとどうして教員になろうとしたのですか?麻布を出て東京大学工学部に入り、その後教員を目指したのは何がきっかけだったのですか?」


平校長「麻布にいた時は化学部にいて実験ばかりやっていたし、大学では工学部で応用化学だったから、そういう研究者になろうとしていたけれども。まあ、を相手にするのが嫌になったっていうか。小中学生の時はベトナム戦争もあったし、米ソの冷戦もあったし、四大公害とか公害問題が多く起こっていた。そんな中で、水俣病とか薬害とか、そういうものはみな化学メーカーとか薬品メーカーとか、自分が就職していたかもしれない会社で、ある意味利益追求のためにそういうことを起こしてしまった訳だから、そして患者さんにも会ったことがあったので・・・ 大学には優秀な人はもっといたしね、そういう観点から自分がメーカーとか研究者になるというのは、あまり人のためにならないこともあるんじゃないか、と思ったのが迷い始めだよね。ただ、理科とか数学は好きだったから、そういうのを活かせるんだったら教職もあるのかと思ったのがきっかけですね」


前田「何かの取材記事で、平校長はもともと都立高校の教職を目指していたが縁あって母校の教員になった、と読みましたが、どのような縁だったのですか?理由があったのではないですか?やっぱり麻布に行こうかなというような」


平校長「教員になろうと思ったのが遅かったので、結局合格していた東大の大学院を蹴っちゃって教育学部に入りなおして、ちゃんと取り始めたんだよ。で、都立高校の理科の教員になろうと。採用試験が夏休み明けくらいにあって、専門の試験と教職の試験と2つあって、両方とも合格点だったから、すぐ色々な話が来るはずだった。それが、公立の学校って辞める人が出ないと新しい人を取れないことになっていて。2月3月までは無いよと、ちょっと待ってくださいと言われ、なかなか決まらなかった。一方、東京の私立学校の適性検査も合格だったんだ。私立のほうから色々なお誘いがあって、東京の私立で受けたんだけど、県に名簿が流れていて、千葉県や神奈川県内の私立男子校や都内の女子校からも面接に来ないかと誘いを受けたのだけれど。女子校はちょっと無理だなって


会田「なんでですか?(笑)」



平校長「いやあ、それまでの経歴は男しかいない学校だったからね(笑)。女の子しかいない学校は、若いうちはいいかもしれないけど。そんなこんなで、どうしようかとしていたら、僕の麻布の同級生が『平、教員になるみたいだよ』って高2高3の時の担任だった新垣先生に言ったんだ、確か。そうしたら新垣先生から電話かかってきて、教員になるのってほんとかよ?って。ほんとですよ、都立の理科の教員になるんですって言ったら、そうか、今麻布で数学を募集してるけど数学は持ってないよな?と聞かれ、もう一つは数学で取れる予定ですけどって言ったら、じゃあもう2月の末で、すぐ欲しいので面接受けに来てくれないかって。それでなんか決まっちゃった」


 


会田「麻布がどういうところかっていうのは良くご存じだったわけですよね?」


平校長「まあ、生徒の目からはね」


会田「そういった意味で恐れというか、大変じゃないのかな?とは思いませんでしたか?」


平校長「(やや考えてから)あんまりなかったかな。自分を教えてくれた先生がいっぱいいるのは嫌だったかな(笑)。自分が中2の時に(校長が)大賀先生になって、まだその時も大賀先生で。大賀先生好きだったしね」


前田「大賀先生は僕らの時が最後だったんですけど、習ったことはないですね。大賀蛾を見つけたという話は聞いたことあります」


平校長「大賀先生はお子さんがいないので、麻布生を自分の子供みたいにかわいがって。もともと物理の先生だったんだ。物理の先生に留まらない始業式終業式、格調のたかい話をしてくれて。高3の時は校長物理っていって、大賀先生が教える物理があった」


前田会田「そうなんですか、へえ」



平校長「10人くらいしか聞いていなかった(笑)」


会田「化学ではなく、数学というところはひっかかっていたのですか?」


平校長「そうだねえ、専門の数学ではなかったからね。生徒には悪いことをした」


会田「いやいや、そんなことはないです。僕数学大好きで、大学に行ったら数学科に行こうかと思っていたくらいでした。永先生には中2の時の担任で、硬式テニス同好会の顧問もやっていただいて」


平校長「そうか、永先生の代か」


会田「はい、なので、永先生は若くして亡くなってしまったので、先生の話をすると悲しいのですが。でも麻布で習ったのが楽しかったのだと思います」


平校長「そうだね、楽しかったね。楽しさを伝えられたらという気持ちはあったかな。ただまあ、就職したら授業に割くエネルギーって意外と少ないなって。4割くらいかな。あとは会議とか。学校っていうのはほら、一人の先生が一人の生徒を育てるのではなく、結局みんなで分担しながら、いろいろ責任分かち合いながら、いろんな人の手で生徒を育てるっていう組織だからさ。教員もいろんな係があるわけ。生徒委員会だったら文化祭とか。生徒の自治活動全般に対して顧問のように面倒を見る。クラブも例えば、僕はバドミントン部を担当したけど、やっぱり日曜日とか試合に行かなければならない。あとはまあ、こういう季節になったら入試問題も作らなくちゃならないしね。授業の割合が思ったより少ないかな」


会田「生徒からすると授業の姿しか見てないのでそれが100%ですけどね」


平校長「たとえば学年行事に行くといっても、旅行業者と打ち合わせをしたりとか、下見に行ったりとか、生徒は自分たちでやっている部分はあるけれども、やっぱり教員がフルバックで見ているからね。最終的に教員が責任取らなければならない。生徒の目に見えないように出来ているのは麻布の良いところなんじゃないかな」


前田「予定の1時間を少しオーバーしてしまいました。実に色々なお話をお聞かせいただき誠にありがとうございました。麻布OBプロジェクト、麻布流儀。スタートしたばかりですがどうぞよろしくお願い致します」



平校長「君たちの代は世代的にちょうど麻布OBたちの中間に当たる。バーチャルOB会のようにこれを機会に麻布OBたちが交流を深めてくれたらいいね、応援しています」


前田「麻布流儀のWebサイトを1つの場として、きっかけとして、イベントなどを通じてリアルに交流が盛んになっていくことを目標に頑張ります。ありがとうございました」


 


インタビュアー 前田 慎一郎

1992年麻布高校卒業。 日本大学芸術学部映画学科脚本コース卒業。 麻布流儀アートディレクター。 デザイン事務所「ナルーデザイン」並びにワンダフルデイカフェを経営。


 


インタビュアー 会田 高茂

1992年麻布高校卒業。 東京大学工学部建築学科卒業。
麻布流儀ライター。 原宿の美容室du mielを経営。


 

ありがとうございました

平校長の麻布愛を感じながら楽しくインタビューさせていただきました。平校長、誠にありがとうございました。またご登場いただきたいと存じます。以上、#1麻布流儀インタビュー平校長に聞く「麻布の話」でした。麻布流儀では様々な著名OBをはじめ、こんなOBがいたのか!というような麻布OBをご紹介しインタビューしてまいります。次回もお楽しみに!


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最後におまけ動画です!