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時刻表旅行は日本の特権か

福岡健一
date:2019/7/16

 時刻表で旅行をする。列車その他交通機関の時刻を調べて、旅程を立て、そのとおり行って帰ってくる。時刻表の本来の、正しい使い方である。

 時刻表で立てた旅程を、実行しないことがある。所用その他の理由で行けなくなった、行かなくなった。ここまでは本来の使い方だろう。

 旅程を立てたのに実行しない。そもそも行く気が無いのに旅程を立てる。時刻表をそんな用途で使う人は、少ないわけではない。かつて交通機関の運賃が非常に高かった時代、海外旅行を「洋行」と表現してうらやむ時代、時刻表に掲載される遠い国や都市の地名を活字で眺め、そこへ至る列車などの時刻や運賃を見て、まだ見ぬ地に思いを馳せた。

 もっとひどくなると、時刻を調べず旅程を立てず、時刻表そのものを読みふける人もいる。昭和時代かそれ以前から「時刻表を読む」という表現さえもある。数字の羅列や駅名の順列を見て何が楽しいのか。時刻表を面白いと考える人が、そうでない人にこれを理解いただくことは難しそうなので、何らかの空想旅行をしている、と表現するにとどめる。

 

 中華人民共和国には「全国鉄路旅客列車時刻表」という時刻表があった。おおむね年刊でA5判約300ページ、中国全土の旅客列車の時刻を掲載した。

 大陸の鉄道はスケールが大きい。長江河口の上海から西北部の烏魯木斉(ウルムチ)まで約4000kmを3泊4日で駆ける中国最長距離列車の時刻を追い、実際に乗車した作家の旅行記なども読んで、空想旅行を楽しめた。

 今は中国を時刻表で旅行することはできない。新幹線の時代になり、所要時間が短縮され、便利だけれどもつまらなくなった、という話ではない。時刻表が発行されなくなってしまったのである。2016年6月号を最後に、全国鉄路旅客列車時刻表の新刊は出ていない。

 韓国でバスや航空の時刻も掲載した時刻表「月刊観光交通時刻表」も2012年6月号で廃刊となった。世界最古の時刻表である1839年創刊のブラッドショーは1961年5月と早くに消えたが、以後も長らく全欧と世界の時刻表を刊行したトーマス・クック社は2013年8月に時刻表の発行をとりやめた。ドイツの時刻表「Kursbuch Gesamtausgabe」は、分厚くなりすぎたため分冊化して箱詰めするほど巨大なものであったが、2008年12月限りで廃刊となった。日本と戦争をしている頃には同じくらい分厚かったアメリカの時刻表も、今は売られていない。

 時刻表はネットで十分。あるいは、アルファベットを使う国々ではたいてい、主な駅やバスターミナルで無料配布されている、会社別、地域別、系統別のチラシやパンフレットで十分ということなのだろう。

 ただ、冊子の時刻表が世界各地で発行されていた当時も、大型旅客機の就航などで海外旅行が大衆化し始めた頃までには、時刻表は主に鉄道会社や旅行会社で内部的に使われる業務用資料であり、一般の旅行者が自ら利用するものではなかったようだ。

 推理小説でシャーロック・ホームズはブラッドショーを助手のワトソンに使わせた。イギリスの書店でトーマスクックの時刻表が買えず、ユーレイルパスの日本人客は自国の書店で日本語版を買い、この時刻表は日本で最も売れていたと聞く。1990年代に欧州を巡ると、駅に備えたり売店で売る時刻表を客が使うのはドイツとイタリアだけに見えた気がする。第二次大戦時の枢軸国は時刻表で繋がっていたのかと、妙に感心した記憶がある。

 個人で時刻表を買って、読んで、楽しんで、保管できる国、日本。実はけっこうありがたい、あるいは、変わった国なのである。

 

福岡健一(ふくおか・けんいち)

1973年生まれ。2007年に日本の鉄道全線を完乗したほか、海外20か国以上の鉄道にも乗る。また、2001年から日本全国と海外の駅弁約6600個を食べた。日本全国と海外の駅弁を紹介するウェブサイト「駅弁資料館」館長を務めておりメディア出演多数。

駅弁資料館 http://kfm.sakura.ne.jp/ekiben/