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楽観主義と悲観主義

高橋宏和(H4卒)
date:2019/4/15

楽観主義者は悲観的であり、悲観主義者は楽観的である。前々から論じたいと思っていたテーマであり、十全に書き尽くせるかはわからないがやってみたい。

 

まず、自分の立ち位置を明確にしておく。僕自身は自分を楽観主義者として位置付ける。そのうえで、上記の楽観主義者は悲観的であり、悲観主義者は楽観的であるという命題を論じてみる。



楽観主義者と悲観主義者とは何か。

バーナード・ショーの定義によれば、『楽観主義者は半分だけ水が入ったコップを見て、「半分も入っている」と言う。悲観主義者は同じコップを見て、「半分しか入っていない」と述べる』。

楽観主義者の端くれとして言わせてもらえば、楽観主義の前提には諦めがある。

確かに楽観主義者は半分だけ水が入ったコップを見て「半分も入っている。ラッキー」と言う。しかしそれは楽観主義者が能天気だからではない。楽観主義者は、世の中が自分に対してなみなみと水がつがれたコップなど用意してくれるわけがない、とハナから諦めているのだ。

楽観主義者というものは、大前提として、何もしないで自分にコップいっぱいの水が与えられるなど期待していない。自分に与えられるのは空っぽのコップだと思っているからこそ、半分だけ水の入ったコップを見て「半分も入っている。ラッキー」と思うのだ。

 

それに対し悲観主義者はどうか。

悲観主義者は、世の中というものは自分にコップいっぱいの水を与えてくれて当たり前だと思っている。自分には無条件であふれんばかりの水が与えられると決め込んで待っている。

悲観主義者が持つ前提というのは、楽観主義者から見ればずいぶんと虫のいいものに見える。自分には無条件でコップいっぱいの水が与えられて当然と期待しているからこそ、「半分しか入っていない」と憤るのだ。

 

明石家さんまの座右の銘は「生きてるだけでまるもうけ」だと言う。

悲観主義者はそれを聞いていい気なもんだと笑い、気楽でいいやとあきれるだろう。しかし楽観主義者はそれを聞いて戦慄する。「生きてるだけでまるもうけ」ということは、「生きていられない」という状況が常に視野の中にあるということだ。

「生きていられない」こともありうると想定しているとは、この人はどれだけ地獄を見てきたのだ、もしかしてこの人は、むかし黒い悪魔だったのではないか、と。


悲観主義者は言う、「もうダメだ!」と。

楽観主義者は答える、「まあなんとかなるんじゃない?」と。


悲観主義者がそう簡単に絶望するのを見て、楽観主義者は驚く。絶望だって?絶望なんかしたら、一巻の終わりなのに。

野良犬は絶望しない。絶望した途端、すべては終わってしまう。

 

楽観主義者はピンチで笑う。泣くのがヤだから笑っちゃおう。笑ってなければ、前には進めないのだ。

<絶望するのは甘いからだ。絶望は、良家の子女の特権である>。

井上ひさしの『吉里吉里人』の中で、スピノザの言葉として引用されるセリフだ(中公クラシック版『エチカ』では、ドンピシャの箇所は見つけられなかった。詳しい方、教えてください)。

 

そんなわけで、常々ぼくは「楽観主義者は悲観的で、悲観主義者は楽観的だ」と思っているのだが、うまく書ききれたかどうかはやや不安である。

 

いつぞやそんな話をしたら、友人Aは言った。

「楽観と悲観は、相反するものではないかもしれないね」と。


玖保キリコのマンガに出てくる白熊の「オプチ」と黒熊の「ペシミ」のように、楽観と悲観はいつも二人三脚でやってくる。悲観主義の黒熊「ペシミ」が「もうダメだ」と言えば、楽観主義のシロクマ「オプチ」が「だいじょうぶさ」となぐさめる。

楽観主義者がそばで守ってくれるからこそ悲観主義者は悲観に酔いしれることができるし、悲観主義者がいるからこそ楽観主義者はより強くその楽観主義を表に押し出すことになる。



悲観と楽観が背中あわせのものであるにせよ、じゃあどちらの立場を取るのかと問われたらぼくは楽観主義を取ることにしよう。


古代ローマ人は言う。「Dum spiro spero.息しているなら希望を持とう」。

アラブ人は言う。「死んでいないやつには、まだチャンスがある」。

二太の姉、かのこは言う。「泣いたら世間がやさしゅうしてくれるかあっ。泣いてるヒマがあったら、笑ええっ!!」。

泣くのが嫌だから笑っている楽観主義者というのもいるのだ。


楽観主義者とは誰か。

戦いに敗れすべてが灰に帰しても、それでもなお「なんとかなるさ」と立ち上がった者だ。

楽観主義者とは誰か。

災害ですべてが瓦礫となっても、それでもなお「なんとかしよう」と自ら重機を動かし瓦礫を片づけ始める者のことだ。

楽観主義者とは誰か。

預言者と間違えられてゴルゴダの丘に張り付けになっても、それでもなお「Always Look on the Bright Side of Life.いつでも人生の明るい面だけ見よう」と口笛を吹ける者のことである。

 

まわりの人は言うだろう。「こんなにひどい状況なのに笑っているなんて、彼はなんて楽観的なんだろう。どうせダメだよ」と。



楽観主義者は知っている。

泣いても何も解決しないことを。

楽観主義者は知っている。

絶望したままの自分を生かしておいてくれるほど世界は優しくないということを。

楽観主義者は知っている。

苦しい時こそ無理して笑い、自らの足で一歩踏み出してこそ、はるかに遠い未来に一歩だけ近づくことができるのだということを。



未来は誰のものか。

何もしない完璧主義者、冷笑と批判をたくみにあやつる悲観主義者のものではない。

未来は誰のものか。

自ら立ち上がり、苦境と逆境の中、へたくそなジョークを飛ばして二ヤッと笑い、カラ元気と虚勢に裏打ちされたやけっぱちの精神で、「なんとかなるさ」と強がりつつ自ら動く楽観主義者のものだ。



楽観主義者たちよ立ち上がれ。

今こそともに宣言しよう、声高く。

「まあでも、なんとかなるんじゃない?」と。



なんてね。

(『カエル先生・高橋宏和ブログ』http://www.hirokatz.jp2015年10月20日より加筆・転載)