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「運がいい人」とはどういう人か

高橋宏和(H4卒)
date:2019/7/15

(写真:photoACより)

 

世の中には、運がいい人、というのがいる。

普通なら思いもつかないような出会いに恵まれたり、懸賞や宝くじにもバンバン当たる。歩いていればお金も拾うし、たまたまカフェで隣りあった人から大きな仕事の話をもらったりもする。

生まれついてのラッキー・マンやラッキー・ウーマンである彼らは口を揃えてこういう。「いやー運が良かっただけだよ」。

 

運がいい人っているよな、ああうらやましい妬ましい、生まれ変わったら自分もそんな星のもとに、なんてグチるんじゃなく、「運がいい人」をしっかり研究した人がいる。イギリスの心理学者、リチャード・ワイズマン博士である。

この人はもともとマジシャンで、マジックの裏に潜む人間心理の面白さに目覚めてロンドン大学とエジンバラ大学で心理学の研究をし博士号をとった。

ワイズマン博士を一躍有名にしたのが、「運のいい人」の研究である。以下、博士の著書『運のいい人の法則』(角川文庫 H23年)をもとに述べる。



「運のいい人」には何か法則があるのではないか、と博士は考えた。

「運のいい人」の法則を調べるには、「運のいい人」をたくさん集めてきて共通点を探ったり、「運のいい人」グループと「運の悪い人」グループの差を集めたりすればよい。

 

だがしかし、そもそも「運のいい人」「運の悪い人」なんて非科学的な存在をどう扱えばいいのか。普通はそこで途方に暮れてしまうのだが、博士のやりかたはシンプルだった。単純に、「あなたは自分が幸運な人間と思うか不運な人間と思うか」でカテゴリー分けしたのである(詳しくは上掲書 p.45-46)。

だから厳密には、ワイズマン博士のいう「運のいい人」は「自分が幸運だと思う人」であり、「運が悪い人」は「自分が不運だと思う人」である。

研究にはとっかかりが必要だから、定義づけさえはっきりしておけばひとまずはそれでいいのだ。

 

次に博士は「運がいい人」は「運が悪い人」よりも予知能力みたいなものがあるのではないかと仮説を立て実証した。

イギリス全土の「運がいい人」と「運が悪い人」に、宝くじの当たり数字を予想してもらったのだ。実験に用いられた宝くじは1から49までの数字を6つ選んで当てるタイプのもので、もし「運がいい人」=予知能力がある人であるならば、全英「運のいい人」グループが選んだ数字は当たりやすいはずだ。結果は見事に大外れ。「運のいい人」グループが選んだ数字も、「運が悪い人」グループが選んだ数字も、当選率は大差なかった。

「運がいい」とは予知能力ではなさそうだ。そう簡単にスーパーナチュラルなことは起こらない。

 

ワイズマン博士はいろんな実験をしている。

興味深い実験の一つが喫茶店で行われたものだ。

喫茶店の入り口の路上に5ポンド札を置き、店内のテーブルにはビジネスに成功した実業家役の人を仕込んでおく。隠しカメラも忍ばせて、「運がいい人」と「運が悪い人」をその喫茶店に呼んで、二人の行動を観察するのだ。

「運がいい人」代表のマーティンはその喫茶店に近づくなり入口に落ちている5ポンド札に気づいた。「ラッキー」とでも言わんばかりに5ポンド札を拾って店に入る。

マーティンはコーヒーを頼んで席につくと、何分もしないうちに隣の席の実業家(役の人)に話しかけて簡単な自己紹介をして、コーヒーをおごるよと申し出たのだ。二人はしばし会話を楽しんだ。



「運が悪い人」代表のブレンダの行動はまったく違った。

ブレンダはうつろな目をして喫茶店に入ってきた。路上に置かれた5ポンド札には気づかないままだった。コーヒーを頼んで席についたブレンダは、誰とも話そうとはせずじっとワイズマン博士が来るのを待っているだけだった。

 

同じ数十分の間に、マーティンは5ポンドを拾い、成功した実業家と会話を楽しんだ。もしこれが実験ではなく実生活ならその実業家から大きな仕事のオファーが得られるかもしれない。

一方、ブレンダには何も起こらなかった。二人の差は何だろう?

「運のいい人」は目の前の5ポンド札に気づくが、「運の悪い人」は気づかない。

「運のいい人」は周囲にオープンだが、「運の悪い人」は自分の中に閉じこもる。

注意力と開放性は、「運のいい人」の特徴なのだ。

例えば「運がいい人」の民話『わらしべ長者』でも、主人公は注意力があるからこそ道に落ちているわらしべを拾うことができた。外向的で開放的だからわらしべを次々に良いものに変えられて、最後は屋敷を手に入れたわけである。

 

実際、「開放性」は大きなキーワードだ。

心理的傾向を調べると、「運のいい人」は外交的で、リラックスしており、オープンな傾向にあるという(p.59-109)。

 

考えてみると、「運がいい人」が外に対して開いているというのは論理的である。

「運」というのは自分の外からやってくる。自分の内側にあるものは実力だったり体力だったり、とにかく「運」ではない。自分以外の外部要素で何かことが成し遂げられたとき、人はそれを「運」と呼ぶ。

だから外に対して開いている人には「運」が舞い込むし、閉じている人には「運」はやってこない。

ワイズマン博士の研究でも、「運がいい人」(厳密には自分が幸運の持ち主と思っている人、だが)は友人・知人のネットワークが広いという。友人・知人のネットワークが広ければ、それだけ「いい話」が転がりこむ可能性が高いわけだ。

 

少しだけ脱線すると、この話は人間性についてちょっとした希望を抱かせる。

もし人間が邪悪な存在ならば、他者とつながっていればいるほどマイナスな出来事が転がりこむだろう。しかし他者とのつながりが多い人ほど「運がいい」となると、他者がもたらすものはマイナスよりプラスが多いということになるはずだ。

つまり、総じて人間というものはよいものだ、ということにならないだろうか。

まあマイナスばかりもたらす人もいますけどね。



ワイズマン博士は最終的に、「運のいい人の法則」として下記の4つを挙げた。

 法則1.チャンスを最大限に広げる

 法則2.虫の知らせを聞き逃さない

 法則3.幸運を期待する

 法則4.不運を幸運に変える

 

法則1は初めのほうに述べたように、外からやってくる「運」に対しオープンであるということや、目の前にあるチャンスを見逃さない、試行錯誤する、などのことだ。

調査の中で出会った「宝くじや懸賞に何度も当たっている」人は、単に他人の何十倍も懸賞に応募しているだけのことだったという。試行回数の問題なのだ。

 

法則2は、勘や虫の知らせというのは成功パターン・失敗パターンを意識下で認識(語義矛盾だが)している表れだから無視するな、みたいな話である。

この「虫の知らせ」というものは、おそらくリスボン生まれの心理学者アントニオ・R・ダマシオのいう「ソマティック・マーカー仮説」(『デカルトの誤り』ちくま学芸文庫 2010年 p.259-311など)で説明(というかこじつけ)できると思う。ソマティック・マーカー仮説とは、人間はなにか選択をするときに、悪いチョイスをしようとすると不快な身体感覚を感じるようにできていて、その結果、無数の選択肢を絞り込むことができる、というような仮説だ。ワイズマン博士の「虫の知らせ」と近藤真理恵氏の「ときめき」を「ソマティック・マーカー仮説」にこじつけた文章をそのうち書いてみたいと思っているが、それはまた別の機会に。

 

法則3は、「運のいい人」ほど粘り強く物事に取り組むということで、自分は幸運だからきっとうまく行く、という信念がその源泉だという。

「運のいい人」、エリックはこんなことをワイズマン博士に語っている。

<自分の運は、心がまえで決まる。家にこもって何もしなければ、何も起こらない。でも、外に出て自分がやりたいことのために頑張れば、運のほうが僕を見つけてくれる。僕は、自分は運がいいと本気で信じている。少し不安になるときもあるけれど、すべてうまくいくとわかっている。どんな問題が起こっても後退するのではなく、何か方法があるはずだと考えれば、ささやかな幸運が背中を押してくれる。>(上掲書 p.179)

 

法則4は、悪い出来事からも何か教訓を得ようという姿勢が大事みたいな話。

「運のいい人」の一人であり、若いころに悪事を働いたが更生した社会人大学生ジョセフはこんなふうに博士に言った。

<二〇代のころは二人の仲間とつるんで、窃盗などを繰り返していた。ある夜、僕らはオフィスビルに忍び込んだ。僕はビルの屋上に行ったが、どういうわけか、急に高いところが怖くなった。警報ベルが鳴ってほかの二人は逃げたけれど、僕は足がすくんで動けなかった。気がつくと、警官が来て逮捕されていた。裁判では四カ月の懲役を言い渡された。僕が刑務所にいるあいだに仲間の二人は別の犯罪を企てたが、銃を持って逃げていた指名手配犯と間違えられて、現場に駆けつけた警官に撃たれてしまった。一人は重傷を負って生涯、車椅子の生活らしい。もう一人は死んだ。僕が刑務所にいたことは、人生でいちばん運がいい出来事だったのだろう。>(上掲書 p.218-219。下線は筆者)

 

こんなふうに、ワイズマン博士の「運のいい人の法則」では一切超自然的な話は出てこない。非常に合理的かつ論理的で、そういうのが好きな人にはお勧めです。

(『カエル先生・高橋宏和ブログ』http://www.hirokatz.jp  2017年3月23日より加筆・転載。)