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あらかじめ失われたふるさと~団塊ジュニアの老後問題。

高橋宏和(H4卒)
date:2022/5/20

<人は、中年になり急に演歌を聴くわけでもなく、老年になり急に文部省唱歌を聴くわけでもない。青春時代の愛聴曲を生涯愛するのだ。

だから、団塊Jrの老年期、老人ホームでは消灯時間にGet Wildが爆音でかかるようになる。老年の我らはGet Wildを聴きながら自室に帰るのだ。解けない愛のパズルを抱いて>

@hirokatz 2022年4月22日

1973年生まれの団塊ジュニアとして、自分たちの行く先というのをつらつら考えている。果たしてぼくらの老後ってどうなるんだろう?

冒頭に書いたのはいわば戯れ言だが、そもそも団塊ジュニアが老人ホームに入れるかもわからない。正直、厳しい。

この世代の課題としてあまり指摘されていないのは、「ふるさとモデル」が無効になることではないかと思う。

 
現在、日本の人口の半分は東京・名古屋・関西の三大都市圏に集中している。これは戦後、高度経済成長にともない地方から人が大都市圏に集まってきたことが大きな要因の一つだ。団塊ジュニア世代は、こうした人口移動で大都市圏に移ってきた人たちの第2世代や第3世代にあたる。
 
地方から大都市圏に移ってきた第1世代には「ふるさと」があった。
そこには父母や兄弟、親族に同級生がいて、盆暮れに帰れば旧交を温めて、いつの日か錦を飾る「ふるさと」。大都市での生活がうまくいかなければ、あるいは大都市での仮の生活が終われば、いつの日か「ふるさと」が温かく迎えてくれる、そんな「ふるさとモデル」が、第1世代では機能した。
ここで大事なのは、実際に「ふるさと」に帰らない者たちにも、心の安定装置として「ふるさと」が機能したということである。実際、「いつかはふるさとに帰る」と思い続け言い続けながらも結局は大都市圏で生涯を過ごす、あるいは過ごした第1世代のほうが多いと思う。
 
この話、ぼく自身は自分を第2世代と位置づけている。
ぼく自身だけなのかあるいは他の方々と共有できるのかはぜひ聞いてみたいが、第2世代や第3世代になると、この「ふるさとモデル」が機能していないのではないか。
「ふるさと」から大都市圏に出てきた第1世代は、高度経済成長と相まって、出世魚のように転居を繰り返した。社会全体の富も増えて、次から次へと大都市圏へ流入する人口も豊富だったから、住宅と住宅地のグレードアップも今よりは容易で、借り換え、買い替えによる転居が当たり前だった。
上記の第1世代にとって、大都市圏での生活は「仮の宿」だったので、結果的に大都市圏の特定の場所に「根を張る」意識は少なかった。
その結果、第1世代の子や孫である我らが団塊ジュニアは、「ふるさと」を持つことなく、老後を迎えることになる。
 
「ふるさとなんかいらない」という意見もあるだろう。
だがら団塊ジュニアの老後に問題となるかもしれないのが、退職などに伴う帰属先・帰属意識の消失と、日本的な低負担中福祉の社会保障モデルの機能不全である。
仮説だが、後者は「ふるさとモデル」が持つ弱い紐帯の存在を前提とし、公的社会保障を「ふるさと」による絆で補完・補強することであやうく成り立っている、または成り立っていたのではないか。
「ふるさとモデル」が機能しないとすると、団塊ジュニアの老後には、さまざまなことが今とは変わってくる。

最低限言えることは、過去の先に未来があると思ってはならないということだ。社会の人口構成の激変により、2030年や2040年には今とはまったく異なる光景が展開される。

 

河合雅司氏と牧野知弘氏の『2030年の東京』(祥伝社)によれば、〈(略)戦後、地方から絶えず人を入れ込んできた東京も、住民は今や第3世代(略)〉(p.73)。祖父祖母の代に地方から出てきて、父母の代には祖父母のふるさとと人的・心情的につながりがあったが、自分たち第2~3世代の代にはつながりはかなりの部分ヴァーチャルなものとなっている。
 
彼らは(というより僕らは)、代々東京生まれ東京育ちの人たちのように東京を「ふるさと」と思うことも少ない。ルーツの地と東京の価値観の二つを自己の内部で葛藤させつつ共存させた東京移住第1世代のようにコスモポリタンでもない。東京圏のマンションで生まれ育ち、人生のステージのそれぞれであちこちに転居した東京第3世代は悪くいえば根無し草であり、よくいえば〈「アドレスフリー」〉であり〈「ノマド」〉である(〈〉内は前掲書p.74)。
 
もちろん団塊ジュニア世代には生粋の東京人もたくさんいるが、東京圏(東京+その近郊のベッドタウン育ち)移住第2,3世代も一定数いる。繰り返しになるが、その第2,3世代は、「あらかじめふるさとを失った世代」である。
「地方から東京などの大都市圏に進学、就職で出てきて、盆暮正月には里帰りし、郷里に残った親族や同級生と旧交を温める。故郷に錦を飾る気で頑張り、退職後は郷里に帰って畑仕事しながら余生を過ごす」という「ふるさとモデル」は成り立たない、あるいは成り立たなくなりつつある、というのが『2030年の東京』の裏テーマかもしれない。
 
本題からそれるが、第4世代以降はいわゆる社会の階層固定化や産業構造の変化により物理的に人を集める必要性が減ることなどと相まって、近年50年に比べ転居は減り、東京圏や名古屋圏・関西圏各地に根を張り、大都市を「ふるさと」と認識していくのだろう。
 
老人ホームにも入れない、「ふるさと」もない団塊ジュニアはどうしたらよいのか。
「ふるさとモデル」では弱い紐帯として地縁や血縁が機能すると想定された(実際は人による。中島みゆき『ファイト!』みたいな地縁もあるだろう)。
だが、「ふるさとモデル」が喪失された「2030年の東京」の世界では、セイフティネットとしての地縁、血縁の機能は相当に失われている。
 
だからこそ何らかの方法で弱い紐帯を作る必要がある。そのための仕組みとしてフランスの「隣人祭り」みたいなことが広く行われていくのか、あるいは浅田次郎『母の待つ里』みたいなことが起こるのか(ネタばれを避けるため、これ以上は書けない。マエストロの作品構成力、人物造形、物語の運びが冴える逸品であり、45歳以上の都市生活者および都市近郊生活者なら刺さると思うのでぜひ)。
 
あらかじめふるさとが失われた世代は、どのようにしてインフォーマルなセーフティネットを作っていけばよいのか。
『2030年の東京』にはこんな一節がある。
〈高齢社会への道を進む日本において、決定的に欠けているのは大人の社交場なんです。〉
〈(2030年には)オタク文化の最初の世代が高齢者になるのですから、消費活動もその延長線上にあるはずです。〉(河合雅司・牧野知弘『2030年の東京』祥伝社新書2022年 p.127,129)
こうした大人の社交場を作ることが、もしかしたら「ふるさと」作りにつながるかもしれない。
インターネット上の仮想空間に「ふるさと」を作るという方向性もあるが、ここではリアルにこだわりたい。
 
リアルに大人の社交場を作り、それを「ふるさと」の代わりにする場合、意識しなければならにのは移動の制限だ。
高齢者は脚が悪くなるなどして、若者より移動できなくなる。また勤労人口の減少により、公共交通機関も間引き運転となる。2030~40年には、今よりもはるかに人々は移動しなくなる(かもしれない)。
だから、大人の社交場を作るとすれば、住宅地の近くになる。
2030年~2040年には人々は今より移動しなくなるとすると、自ずと商圏はせまくなるし、いわゆるオタク趣味というのは微に入り細に入る傾向にあるから、たとえば大規模テーマパークなどと真逆、少ないコアをターゲットにすることになる。
 
少ないコアなマーケットでは毎日十分な利益は出ないから期間限定のものとなろう。もちろん初期投資は抑えるべきだから既存の施設や店舗を利用するほうがよい。
というわけで、現存の店舗を利用し、「ドラゴンボールを語り尽くすday」とか「Get Wild全バージョンを聴き倒すday」とかの日替わりイベント(高齢者は夜早く寝るので、「~聞き倒すNight」ではなく「day」)を開催して、「大人のオタク社交場」を提供する。こうした事業とかはマジでそこそこニーズがあると思う。ダメならやめればよいだけの話だ。
たぶんキモはオーガナイザーが真のオタク/ファンであることと、参加者同士の双方向の交流の仕組みづくりだろう。
 
高齢社会は今より移動が困難になるので、住宅近接でのマイクロイベントを想定している。「ブックカフェ」の俗っぽい版みたいなものは結構ニーズがあると思う。



オタク趣味、懐古趣味をメインコンテンツにすえたのは理由がある。
認知症の治療の一つで「回想法」というものがある。これは患者さんが昔使っていたものなどを用い、過去を掘り起こしてもらうことで症状の安定を図るという手法だ。
 
回想法では、たとえば元大工の人であれば、大工道具を渡してどのように使うのか話してもらう。職業以外にも、あるいは子どものころや働き盛りのときに過ごしていた場所に一緒に行ったりその場所の写真を見てもらったりして思い出を語ってもらう。
 
実際に回想法(的なこと)をやってみると、皆ものすごく生き生きとする。「過去」と「推し」は「いま」を輝かせるのだ。
 
高齢社会において必要な「大人の社交場」だが、何も趣味系のイベントに限定することはない。
「北海道day」とか「沖縄day」とか、県人会のカフェ版みたいなことをやって各都道府県の出身者やその土地土地に暮らしたことがある人、旅したことがある人、さらにはいつかその土地に行ってみたい人を集めて語らってもらうというのがあってもよい。
あるいは「教育者day」とか「デザイン系day」とか、それぞれの仕事にゆかりのある人を集めて雑談してもらうスタイルとか。
 
大事なのは、「メンバーを固定化させない」ことと「テーマを固定化させない」こと、一言でいうとフレキシビリティーだろう。
こうした集まりはだんだん「ボス」を生み出し序列化する傾向にあるから、毎回テーマを変えるとよいだろう。各テーマごとに「ボス」が生まれてしまうのはやむを得ないが、たとえば「北海道day」ではボスになる人も「ビートルズday」では聞き役にまわることもあるはずだ。
 
だからいろんなテーマで「大人の社交場」を演出するのがよろしいと思う。
メンバーが各テーマごとに入れ替わることで、地域に「弱い紐帯」を何本も作れるはずだ。
 
「物理的な場所を」「新たに」つくるという方向性ではなく、「今ある場所を活用し」「人を活用する」という方向で持っていくべきだろう。
行政の予算は目に見えるところにつきやすいのと、日本は人に投資しない傾向にあるので、「町カフェ」みたいに箱物つくる方向に行かないように要注意だ。
オーガナイザーとかMC的に「場所を回す」人に予算をつけて、いまある場所を活用していくのが重要だと思う。
公民館でも既存のカフェでもいいので「場を回す」人があちこち出張していって、日替わりで「ドラゴンボールを語りつくすDay」とかやっていくイメージである。
10~30名規模のイベントなので、その「場を回す人」の日当をねん出するために行政が予算つけてくれるとリーズナブルなものになるのではないか。もちろん基本は独立採算だが。
 
あらかじめふるさとを失った団塊ジュニアの一員として、近い将来、こうしたイベントをやってみたいと思う。
とりあえず今やってみたいのはワールドカフェスタイルの「北斗の拳と美味しんぼとシティーハンターを語り倒す会」である。

もちろん閉店のBGMは『Get Wild』で。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2022年5月2日、5月6日な
どを加筆修正)