世間は同情はしてくれても助けてはくれない、という話。
「タカハシくんね、世間というものは、同情はしてくれても、助けてはくれないものなんだよ」Y先生が言った。
そのころぼくは大学院生で、免疫学の勉強のためにY先生の教室に通っていた。冒頭の言葉を聞いたのは、ぼくが車上荒らしにあった話をした時だ。
Y先生の研究室では、毎週何曜日かの朝に大学院生が持ち回りで英語論文を読んで内容を報告しディスカッションしあう抄読会があった。その抄読会の席では、論文ディスカッションとともに、身の回りのことを簡単に報告しあう習慣があった。
その席で、ぼくは最近車上荒らしにあった話をしたのだ。
Y先生のもとでやろうとした樹状細胞の培養実験はモノにならずに途方に暮れる日々だったが、この「世間とは、同情はしてくれるが助けてはくれない」という言葉を聞けたことは生きる上で非常に参考になっている。
例えば、車上荒らしにあえば、まわりの人は「ひどい目にあったね」と同情はしてくれる。だが、当然ながら誰か車の修理費用を出してくれるわけではない。
仮に誰か「修理費用出してあげるよ」と助けてくれたとしたら、それは稀有な例で例外的なものとしなければならない。
なお、困っている人を助けなくてよいという文脈でこの話をしているわけではないことを強調しておきたい。
ただ、自分が困ったときに、「世間が助けてくれて当然」と思っても報われないだろう。世間というものは、同情はしてくれても助けてはくれないものだからだ。
世間というものは同情はしてくれても、助けてはくれない、ことが多い。
だから人間は、ムラとかクニとかの相互扶助の仕組みを人工的に作り上げなければならなかった。
you know,『もし我々が天使ならば、政府なんて要らない』。
繰り返しになるが、ミクロ事象としての個人の生き方として、助けあわなくてよいといっているわけではない。
ただ、心のどこかで「世間というものは同情してはくれても、助けてはくれない」というある種の諦観を持って生きると、また肚のくくり方も変わってくるし、もし誰かに助けてもらえたら感謝の仕方も変わってくるだろうなくらいの話である。
ここまで書いてきてふと思い当たったことがある。
そうは言っても、今までぼく自身、たくさんの人に助けてもらったじゃないか、と。助けてくれた人の顔が浮かぶ。
たくさんの人に助けてもらった事実と、「世間は同情はするが助けてはくれない」という言葉と、どう整合性を取るのか、という疑問が浮かんだ。
その答えは、イナヅマのように降ってきた。
ああそうか、今まで助けてくれたのは、「世間」じゃなかったのだ。
今まで助けてくれたのは、顔の見えない、得体の知れない「世間」じゃなかった。今まで助けてくれたのは、友人であり、家族であり、同僚であり、上司や先輩や後輩だったのだ。
そう思うと、ぼくの心の中に、助けてくれた人たちへの深い感謝の念が生まれた。
助けてくれた恩返しをするために、春が来たら「桜を見る会」でも開催しなけりゃならんな。
(カエル先生・高橋宏和ブログ2020年1月31日を加筆修正)