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フランス人D君の教えてくれた日本人、ヨーロッパ人、アメリカ人の違い-HowとWhyとHow much仮説(前編)

高橋宏和(H4卒)
date:2019/5/15

なにか仕事をやるときによく思い出すのが昔聞いた、フランス出身のD君の言葉だ。D君はフランス生まれで、日本と日本語に精通している大変に優秀な人物である。

 

D君いわく、

「なにかをやるとき、ヨーロッパ人がこだわるのはwhyだが、日本人はhowにこだわる。そしてアメリカ人が最もこだわるのはhow muchだ」。

アメリカ人のこだわるhow muchが、単に「どれくらい」という量的な意味なのか、それとも「いくら」という金銭的な意味なのかは確認し損ねたが、D君の指摘には非常に考えさせられた。

 

仕事にとりかかるとき、日本人はHow=「どのようにやればよいか」ということは割合うるさく確認するが、「なぜその仕事をやるか、やらなければならないか」というところは結構あっさりしている。

日本人にとって「ひとはどのように生きるべきか」という問いかけはとても琴線に触れるが、「ひとはなぜ生きるか」と問われてもピンとこない。茶道や華道など、いわゆる「道」はいってみればhow、どのようにの結晶だし、出版不況のなかでもhow toものはよく売れるそうだ。

 

それに対しヨーロッパでは「ひとはなぜ生きるのか」「なぜその仕事をしなければいけないか」流のwhyの問いかけが古来より盛んである。たとえば大正末に来日し弓道を学んだドイツ人オイゲン・ヘリゲルの「日本の弓術」(岩波新書)という本も、why、why、whyのオンパレードだ。

そしていうまでもなく、アメリカではどれだけ稼いでいるか、winnerかloserかがなににもまして最も大事とされているように見える。

 

仮にそれぞれの文化のこだわりポイントがその通りだとして、これらはどれも一長一短で、なにが偉いというわけではない。

日本人はhow、どのようにやるかについてのこだわりが強すぎて、袋小路に入り込んでブレークスルーできないし、whyについてはあっさりしているので白洲次郎に「プリンシパルがない」と怒られる始末だ。

ヨーロッパ人はwhy、なぜの答えが出るまで動けないので、アクティブで気の短い連中は新大陸に飛び出していった。

そんな気の短い連中の作ったアメリカでは、how much、いくらもうかるのか、何万ドル稼げるかの追求に走りすぎた結果、1%と99%の対立を生んでしまった。ドナルド・トランプ大統領も、自分の支持率がどのくらいかのhow muchにはご執心だが、大統領としてどうふるまうかhowやなぜ自分が大統領であるべきかのwhyには無頓着だ。

 

HowとWhyとHow muchそれぞれへのこだわりに優劣はないとぼくは思うが、自分が所属している文化がどのような思考と志向と嗜好を持っているかを自覚するのは大事なことである。

この仮説の実証は難しいが、仮にこの仮説が正しいとするといろいろ納得のできることがある。

ヨーロッパがwhy=「なぜ」、アメリカがhow much=「なんぼ」、日本がhow=「どのように」にこだわるというのは、それぞれオリジン重視、アウトプット重視、プロセス重視と言い換えられる。

 

外から見ると、たしかにアメリカという国はアウトプットや結果がすべて、経過はともかく成果を上げなければ意味がない、という風潮があるように思える。

身近な例でいえば、「Hack」という考え方。

山形浩生によれば、Hackとはもともと斧やナタ、まさかりなんかでばさばさ切る、というイメージの言葉だそうだ。「雑な仕事」という意味もあるし、おおざっぱにぱっとやったものでもきっちり役に立つ仕事、という意味もあるという。

手間ひまかけた綿密な仕事ではなく、アイディア勝負でラフにぱぱっとやってもしっかり結果がでればOK、というノリが「Hack」という言葉にはある。

こうした結果オーライの「hack」は、実はアメリカの開拓者精神につながるものだという。

 

なにもない新世界で、開拓者が手持ちの道具でささっと必要なものをラフにつくって役立てる、という感覚で、「たぶん、ヨーロッパでは支持されにく考え方じゃないかな」と山形はいう。(『Hackについて―およびそこにあらわれた、哀れなAsshole野郎山形浩生の各種無知と愚かな物言い』より。原文は http://cruel.org/freeware/hack.html )

 

それに対し日本は「どのように」にこだわる国で、成果はともかくプロセスを重視する。

例を挙げればきりがなく、「手作りの味」(プロセスは手作りだが、うまいかまずいかは不明)、「心をこめたおもてなし」(心はこもっているが結果は不問)、「まじめにやれ!」(まじめにやれば成果は問わない)などなど、プロセス重視の物言いはぼくらの身の回りにあふれている。

どっちがいいかはケースバイケースで好きずきだが、思考のクセは無自覚のままだと弱点にもなる。行き過ぎた成果主義は不正も生むし、プロセスに拘泥すれば結果がおろそかになる。

 

「どのように」が「なんぼ」に負けた例として、日本の喫茶店がある。昔読んだ話だ。

 

その昔、ある外資系大手カフェチェーンが日本で事業展開を計画した。

事前調査で、日本にはすでに独自の喫茶店文化があり、全国津々浦々の喫茶店はどこもしっかりと顧客をつかんでいることがわかった。今更そんな国でコーヒーショップをチェーン展開しても成功はないんじゃないか、そう悲観的になったが、さらに調べると十分に勝算がありそうである。


実際に店を訪れると、日本の喫茶店のマスターはどこでもコーヒーにこだわりを持ち、豆のひき方、お湯の注ぎ方、など「どのように」コーヒーを入れるかは徹底的に研究していたが、どうも思ったほど美味くない。なぜならコーヒーの味は9割がた豆の鮮度で決まるのにも関わらず、何か月も船の倉庫の中で室温のまま置かれて輸入された豆をなんの疑問もなく仕入れ、残りの1割の「どのように」入れるかというところだけに血道をあげていたからだという。

かくして「なんぼ」の国のカフェチェーンは「どのように」への国の進出を決め、鮮度のよいコーヒー豆を厳密な品質管理で輸入し供給することで、市場を席巻していった。

個人の喫茶店主には限界があり、輸入時のコーヒー豆の保管状況が可変なものとは夢にも思わなかったという同情すべき点はあるが、「入れ方はどうあれ、コーヒーはうまくてなんぼ」という視点は乏しかったのかもしれない。

 

駆逐された喫茶店文化の轍を踏まないようにするには、こうした思考のクセを自覚し、「どのように」の泥沼から脱却することが肝要だ。そのためには時折、「なぜ」や「なんぼ」の視点を意識的に取り入れていくのがよいだろう。

 

会議などで「どのように」プロジェクトを進めるかで何時間も議論が錯綜し、みなの意識がもうろうとした時には、「そもそも『なぜ』このプロジェクトが始まったんでしたっけ」とか、「結局このプロジェクトは『なんぼ』の成果を上げればいいのだろう」などと疑問を投げかけることで、煮詰まった局面が打開されるかもしれない。

 

ここまで書いてきて、我ながら非常に強引で生煮えな話だなと思う。

しかしそれよりなにより最も深刻な問題は、オチが準備できていないことである。

こんなとき、どのようにオチにたどり着くか考えてしまうぼくはとても日本人的で、

もしこれがアメリカ人なら、そのオチでいったい何万ドル稼げるかが大事になるだろう。

そしてまた、もしぼくがヨーロッパ人であれば、そもそもなぜオチなんてものがこの世に必要なのかを徹底的に考え抜くことになるのかもしれない。



HowとWhyとHow much仮説、ぜひ皆様のご意見をお聞かせいただきたい。

(『カエル先生・高橋宏和ブログ』http://www.hirokatz.jp  2016年5月8,9日より加筆・転載。後半へ続く)