正しいほめかたとイタリア人
実は、イタリア人になるつもりだ。だって楽しそうなんだもん。
日本や英米社会が高ストレス化していくばかりなのに対し、日がな一日イタリア人はマンジャーレ・カンターレ・アマーレ(食べ、歌い、愛す)だし、なにしろペペロンチーノでエスプレッソだ。とにかく人生を楽しんでいる感じが素晴らしく、前々から日本にはラテン成分が必要だと思っている。ペスカトーレ。
イタリア人のキメ台詞は「Goditi la vita」、あなたの人生を楽しみなさい、だという。ボンゴレ。(参考サイト 嘘と誓い )
ではどうしたらイタリア人になれるのか。やはりドルチェとか食べるのか。
文献によれば、イタリア人はとにかくおしゃべりらしい。
シモネッタことイタリア語通訳の田丸公実子氏は、ガセネッタこと米原万里氏との対談でこう述べた。
<田丸 イタリア人は口上手で話し言葉が豊富。プレゼントあげるとイタリア人は「マニフィコ!スプレンディド!ファヴォローゾ!エッチェレンテ!ペッリッシモ!」って、パーッと言う。でも日本語だと「すばらしい」しかないの。「最も美しい」なんて日本語じゃないし、「卓越した美しさ」だなんて、話し言葉じゃないし。日本語は、書き言葉と話し言葉の乖離が激しい。
米原 日本人は昔からそうなのよ。『枕草子』だって、「あはれ」と「をかし」ぐらいしか出てこないじゃない(笑)。>(『言葉を育てる 米原万里対談集』ちくま文庫 2008年 p.223)
そうか、足りないのは“ほめ”だ!イタリア人になるには“ほめ”に習熟せねばなるまい。
そう考えてぼくは、しばらくの間“ほめ”に励んだ。むろん、イタリア人になるためである。グラッツェ。
しかしその結果は散々なものだったことを告白せねばなるまい。
手当たり次第かたっぱしから周囲の人のことをほめてみたのだが、かえってくる言葉は
「どうも君の言うことはうさんくさいんだよね」
「心がこもってないよなあ」
「なにかたくらんでそう」
マンマ・ミーア、ローマは一日にしてならず。
誰かをほめるというのは案外難しいものだ。ほっておくと私たちの舌は、人の悪口を言うようにできている。
嘘だと思うなら試みに、他人をほめながら酒を飲んでみるとよい。誰かをほめながら飲み会をやっても5分で終了してしまうが、誰かの悪口を言いながら酒を飲めば一晩中だって飲み明かせるものだ。
古人曰く、<舌は火である。不義の世界である。(略)舌を制しうる人は、ひとりもいない。>(ヤコブの手紙 第三章)。
舌を制し、“ほめ”を極めるにはどうしたらよいか。
悩んだ末、専門家の力を借りることにした。すべてはイタリア人になるためである。
専門家によれば、正しい“ほめ”には6つの原則があるという。
すなわち、①事実を、細かく具体的にほめる、②相手にあわせてほめる、③タイミングよくほめる、④先手をとってほめる、⑤心を込めてほめる、⑥おだてず媚びずにほめる(本間正人・祐川京子『やる気を引き出す!ほめ言葉ハンドブック』2011年 PHP文庫 p.33)である。
特に⑥が難しい。
媚びへつらうつもりがなくても、まかり間違うとやはり“ほめ”ではなく“おだて”、“こび”に聞こえてしまうのが“ほめ”の難しいところだ。
上記の『ほめ言葉ハンドブック』には豊富な実例が載っていて参考になる。その中でも特に参考になるのが運と包丁である。
なにか仕事が想像以上にうまくいったとき、「運がいいね」と言われると腹が立つ。
しかし「運がつよいね」「強運の持ち主だね」と言われると、悪い気はしないものだ(参考箇所『ほめ言葉ハンドブック』p.63-64,p175-176)。
また同書は、寿司職人をほめるときには「見事な手さばきですね」とほめてはいけない。「素人にわかってたまるか」と無用の反感を買うからだ。
そうではなくて、「その包丁、よく切れますね」とほめるのがよいという(p.105-106)。
これはおそらくこういうことではないか。
ほめの対象となる人物そのものをほめようとすると失敗するが、ほめの対象人物に付随するものをほめればうまくいく。
ほめという言葉の矢を放つときに、的の中心を射抜くのは大変で、往々にして「的はずれなほめ」になる。「的はずれ」なほめは、単なるお追従である。
そうではなくて、的の周辺、ほめの対象人物に関するものごとや、ほめの対象人物が関心のあるものをほめなければならないのだ。
ベストセラーとなった『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健 2013年 ダイヤモンド社)にはこんな一節がある。
<アドラー心理学では、子育てをはじめとする他者とのコミュニケーション全般について「ほめてはいけない」という立場をとります>(kindle版 2482/3760 )。なぜなら<ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面がふくまれて>いるから(2482/3760)。
アドラーの見方では、<人は、ほめられることによって「自分には能力がない」という信念を形成していく>(2563/3760)という。だから人は、本能的にほめる人を警戒するのかもしれない。
アドラーの顔を立てつつ正しいほめかたを身につけるのはどうしたらよいか。その答えは『嫌われる勇気』の続きである『幸せになる勇気』にあった。
おだてずこびず、相手にイヤな感じを与えずにほめるにはどうしたらよいか。
『幸せになる勇気』が出した答えはずばり<「他者の関心事」に関心を寄せる>(『幸せになる勇気』609/3673。ただし同書自体には「ほめる」とは書いておらず他者に敬意を示す具体的な方法としている)である。
エウレーカ!これですべてがつながった。
相手そのものではなく相手に付随するものや相手が関心のあるものをほめよ、というのはそういうことだったのか。
寿司職人自身ではなく職人の持つ包丁をほめるというのは、職人の関心事に関心を寄せるということだし、<相手が尊敬する人物をほめる><経営者をほめる時は本棚に注目>(『ほめ言葉ハンドブック』p.100-103)というのも、まさに相手の関心事に関心を寄せることにほかならない。
ではどうしたら他人の関心事に関心を寄せる、言葉を変えれば相手への尊敬を具体的に示すことができるのか。
この答えもまたシンプルで、相手を虚心坦懐に見ることだ。
<尊敬(respect)の語源となるラテン語の「respicio」には、「見る」という意味があります。>(『幸せになる勇気』491/3673)
イタリア人になるために正しいほめかたを身に着けること。そのためには相手を尊敬し、見ることが重要ということなのだろう。
長くなった。
イタリア人になるための旅は、イタリア人の言葉で終えるのがふさわしい。
イタリア人といえば、パンツェッタ・ジローラモ。ジローラモ氏はこう語る。
<私は子供の頃から人間観察が好きだった。>
<今でも私は人を観察することが好き。日常の中で人を見ることが好きだけど、特に旅行で海外を訪れたときの醍醐味は、外国の異文化の中で、いろいろな人たちの表情や癖を発見すること。>
<(略)女性に対してのみならず人をよく観察して、その人に対してのさりげないフォローができるようになったら、オトコとしてだけでなく、ひとりの人として素晴らしいことだと思うし、それが日頃、私が心がけていることでもある。>(パンツェッタ・ジローラモ『ジローラモのイタリア式伊達男のなり方』2004年 河出書房新社)
さすがジローラモ氏、いいことを言う。さっそく『LEON』を定期購読することにする。嘘だけど。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2017年4月9日を加筆再掲)