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耳鳴りと難聴と夢想家の話。

高橋宏和(H4卒)
date:2025/6/15

photoACより



「耳鳴りというのは」

耳鼻科医が言った。

「難聴の裏返しなんですな。

聴力検査のグラフです。

ほら、左耳の、特に高い音が聴こえにくくなってる。キーンという高い金属音みたいな耳鳴りがするんですよね?そのぶん、高い音が聴こえなくなっているんです」

ふんふんとうなづきながら、僕はさっき受けた聴力検査を思い出した。

小さな部屋。完全防音。ヘッドホンから様々な高さと大きさの音。音が聴こえたらボタンを押す。音を聴くことに全力。耳鳴り。

ライカ。

ライカはどんな気持ちだったのだろう?

スプートニク2号に乗せられて、身動き取れないまま宇宙へ飛ばされたソ連の犬。

もし今、聴力検査室が宇宙に飛ばされたら、ライカの気持ちがわかるだろうか?

音ガ聴コエタラ手元ノぼたんヲ押シナサイ。押シナサイ。

ぼくは耳を傾ける。一生懸命に。宇宙空間で。

「というわけで、耳鳴りと難聴は裏表なんです。よろしいでしょうか?」

耳鼻科医が言い、ぼくは宇宙から帰ってくる。

ライカも帰って来られればよかったのに。

「ええと。非常に面白いと思います。なんというか」

説明の間に宇宙に行っていたことに気づかれないよう、ぼくは言った。

「ええと。なんというか。

ええと。先生、一つ聞いてよろしいでしょうか?」

「なんです?」

耳鼻科医の目からすっと光が消えた。

「難聴がするから耳鳴りがするんでしょうか。耳鳴りがするから難聴がするんでしょうか」

「どういうことです?」

「つまり、なんというか、現実の音が聞こえなくなったから、埋め合わせをすることように幻の音、つまりは耳鳴りのことです、が聞こえるようになるのか。

それとも幻の音、耳鳴りが聞こえるから現実の音が聴こえなくなるんでしょうか?」

「面白いですね」

面白くなさそうに耳鼻科医は言った。お腹でも痛いのだろうか?

「個人的には興味深いと思います。

だがきちんのお答えできるほどの時間は無いかな。次の患者さんもいるし」

興味も無さそうに、耳鼻科医は言った。

その表情を見て、やっとぼくは悟った。やっぱりこの人はお腹が痛いんだな。

「それにどのみち」

耳鼻科医は小さな小さなため息をついた。見えないくらいの。

「耳鳴りは手強いのです」

「ありがとう先生」

ぼくは席を立った。

誰にでもお腹の痛い時はある。早くこの人を解放してあげなければ。

「よい一日を」

「お大事に。次の方どうぞ」

待合室に座って考えた。

耳鳴りと難聴、どっちが先なんだろう?

夢想家、という種族がいる。

ああでもないこうでもないと夢想しながら人生を過ごす。

そしてこの世を去るときに、「人生は夢まぼろしのごときなり」って言う。

無理もない。夢を見ながら人生を過ごしたんだから。

夢想家には2種類いる。

夢想するから現実が見えない者と、現実が見たくないから夢想する者と。

まあいいや。

どのみち、夢想だって手強いのだから。やれやれやれやれ。

「お会計できました、タカハシさん」

夢想と耳鳴りと処方箋。忘れずに、薬局に行かなきゃ。

『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年5月27日を加筆修正)