耳鳴りと難聴と夢想家の話。

photoACより
「耳鳴りというのは」
耳鼻科医が言った。
「難聴の裏返しなんですな。
聴力検査のグラフです。
ほら、左耳の、特に高い音が聴こえにくくなってる。キーンという高い金属音みたいな耳鳴りがするんですよね?そのぶん、高い音が聴こえなくなっているんです」
ふんふんとうなづきながら、僕はさっき受けた聴力検査を思い出した。
小さな部屋。完全防音。ヘッドホンから様々な高さと大きさの音。音が聴こえたらボタンを押す。音を聴くことに全力。耳鳴り。
ライカ。
ライカはどんな気持ちだったのだろう?
スプートニク2号に乗せられて、身動き取れないまま宇宙へ飛ばされたソ連の犬。
もし今、聴力検査室が宇宙に飛ばされたら、ライカの気持ちがわかるだろうか?
音ガ聴コエタラ手元ノぼたんヲ押シナサイ。押シナサイ。
ぼくは耳を傾ける。一生懸命に。宇宙空間で。
「というわけで、耳鳴りと難聴は裏表なんです。よろしいでしょうか?」
耳鼻科医が言い、ぼくは宇宙から帰ってくる。
ライカも帰って来られればよかったのに。
「ええと。非常に面白いと思います。なんというか」
説明の間に宇宙に行っていたことに気づかれないよう、ぼくは言った。
「ええと。なんというか。
ええと。先生、一つ聞いてよろしいでしょうか?」
「なんです?」
耳鼻科医の目からすっと光が消えた。
「難聴がするから耳鳴りがするんでしょうか。耳鳴りがするから難聴がするんでしょうか」
「どういうことです?」
「つまり、なんというか、現実の音が聞こえなくなったから、埋め合わせをすることように幻の音、つまりは耳鳴りのことです、が聞こえるようになるのか。
それとも幻の音、耳鳴りが聞こえるから現実の音が聴こえなくなるんでしょうか?」
「面白いですね」
面白くなさそうに耳鼻科医は言った。お腹でも痛いのだろうか?
「個人的には興味深いと思います。
だがきちんのお答えできるほどの時間は無いかな。次の患者さんもいるし」
興味も無さそうに、耳鼻科医は言った。
その表情を見て、やっとぼくは悟った。やっぱりこの人はお腹が痛いんだな。
「それにどのみち」
耳鼻科医は小さな小さなため息をついた。見えないくらいの。
「耳鳴りは手強いのです」
「ありがとう先生」
ぼくは席を立った。
誰にでもお腹の痛い時はある。早くこの人を解放してあげなければ。
「よい一日を」
「お大事に。次の方どうぞ」
待合室に座って考えた。
耳鳴りと難聴、どっちが先なんだろう?
夢想家、という種族がいる。
ああでもないこうでもないと夢想しながら人生を過ごす。
そしてこの世を去るときに、「人生は夢まぼろしのごときなり」って言う。
無理もない。夢を見ながら人生を過ごしたんだから。
夢想家には2種類いる。
夢想するから現実が見えない者と、現実が見たくないから夢想する者と。
まあいいや。
どのみち、夢想だって手強いのだから。やれやれやれやれ。
「お会計できました、タカハシさん」
夢想と耳鳴りと処方箋。忘れずに、薬局に行かなきゃ。
(『カエル先生・高橋宏和ブログ』2025年5月27日を加筆修正)