氷上前校長による、92卒同期会「授業」
2017年9月23日、銀座クラシックホールにて行われた92卒の卒業25周年の同期会。その同期会には平秀明校長はじめ、たくさんの先生方にご参加いただきました。
卒業25周年ということで、何か少し特別なことを仕込もう、という幹事たちの計画で、2003年から2013年まで校長を務められた氷上信廣先生に一授業という形でお話しいただこうということになりました。麻布OBの多くがご存じの通り、氷上前校長は1963年卒の麻布OBであり、1974年から麻布学園社会科教師になられ、「公民」「倫理」などの教科を担当されていました。
で、なぜ今、氷上さんの授業なのか?
在学時代、みんなほとんど氷上先生の授業を理解できていなかったという意見が幹事の中で沸き起こり(?)、それなら、俺らも25年経って大人になったし、そろそろわかるんじゃないの?(笑)との意見が上がり、登壇いただくことになりました。
乾杯を平秀明校長に
麻布高校卒業25周年同期会は本当にたくさんの先生方にお越しいただきました。
平校長の乾杯で盛り上がり、校長として麻布OBの同期会にかなりの頻度で参加していて、僕らよりもかなり上の代のOBも皆元気であることを教えていただきました。
氷上先生の講義中は皆、静かに聞き入っていて、みんなこんなに真面目に聞いてたっけ?(笑)という感じでしたが、お話しいただいた内容を後日、氷上先生から寄稿いただきましたので、麻布流儀にて公開いたします。
「感性・感受性について」
92卒同期会「授業」氷上信廣 2017.9.23
皆さんこんにちは、お久しぶりです。
幹事の方から、何かためになること、たとえば、むかし高校生の時に聞いた「授業」のようなものを15分ばかりやれと言われました。みなさまの「ためになる」かどうか、15分で「授業」ができるかどうか、はなはだ心もとなく思いますが、まあやってみましょう。
さて、みなさまは麻布学園を卒業されて、今、社会にあり、現役バリバリの活躍をされているわけです。ところで、どうでしょう、何か麻布を卒業されてしみじみよかった、と思うことはおありでしょうか。私は、麻布を卒業して麻布の教師をして、最後は校長までして、麻布と共にあること実に45年間、しみじみよかった、と思っています。そして、感謝の思いでいっぱいになることがあります。
40年も前のことですが、当時の麻布生つまり18歳の少年が味わい深いコトバを残して卒業して行きました。それは、「灰色の花束を両腕いっぱいに抱えて、いまぼくは麻布を卒業していきます」。というものでした。「灰色の花束をいっぱい抱えて」とは――なんという冷静な感性でしょう。自らを祝福する花束を素直に喜ぶ気持ちと同時に、一方その花は灰色だと、後悔とも負い目ともとれる「灰色」というコトバ。そこには皮肉でも、捨て台詞でもない、冷静に自分を見つめる感性のコトバがあります。私はいまだにこのコトバを忘れません。というか麻布で教壇に立っている間、胸に響いていました。この少年に出会ったのは、私が麻布に赴任して間もないころのことでした。自分はこれから麻布で、このような感性・感受性を持つ少年を相手にしていくのだと、心地よい緊張を覚えたのを思い出します。侮るなかれ麻布、侮るなかれ少年、ということでしょうか。このコトバは、新米教師にある誇りと、励ましを与えてくれました。そして、なによりなことに、麻布が前にもまして好きになりました。
ちなみにこの卒業生は昭和51年卒の渥美哲さんと言って、あなた方が高三だった時に八王子セミナーハウスに来て話をしてくれたあの方です。八王子の当時は新進気鋭のNHKの放送記者でした。その後、論説委員や鹿児島支局長を経て、今では中央にあって、さらにエライひとになっているようです。最近便りはありませんが、昔と変わらず、若い人と一緒に、誠実にいいお仕事をしているに違いないと思っています。
さて、私が、倫理の教師として、生徒に読ませる本が、ソクラテスやマルクスと並んで、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』だったり、ルソーの『エミール』だったり、倫理とは三角関係の問題だとの自説をおもちの国語科の先生をお呼びして、夏目漱石の話をしてもらったりしたのには、いささか根拠があります。倫理とか、道徳は、感性・感受性の問題です。社会的な規範や、人としてどう生きるかを考えさせる教育が、中高等学校にあっては、哲学や思想ではなく、まず文学や芸術にある、というのが私の確信なのです。
麻布という学校は、先刻ご承知の通り、相当でたらめな学校です。生徒の勝手な言動を放置しておくだけではなく、世間では進学校として評価されていながら、進路指導ということには興味がないかのような無指導ぶりです。私は校長を10年務めましたが、生徒の無軌道ぶりにはずいぶん悩まされました。しかし、これが麻布だ、無軌道には無指導をもって立ち向かう、これこそ麻布流の道徳教育だと、毎日、兜の緒というか頭の「ヒモ」を締めなおして、ひそかに覚悟を固めていたものです。無軌道的な事件は毎日のようにおきましたから、それはストレスがたまります。校長は病気にもなります。
しかし、いくら無指導といっても、野放しというわけではない、人様に迷惑をかけてはいけない、まして心身を問わず、他人に傷を負わせるようなことは許さない、そのぐらいの指導はありました。この辺が自由と自主自立を旗印にしている麻布としてはいちばん難しく、悩ましいところです。しかし、悩ましくない教育など、クソ喰らえです。
さて、私が倫理の授業のなかで、みなさんに、とりわけ身を入れて語った哲学・思想が、思いかえせば二つあります。サルトルと、シュヴァイツァーのそれです。この二人は、くしも遠い親戚関係にあるそうですが、その思想と哲学はほとんど対極にあります。余談ですが、サルトルはノーベル文学賞の受賞を拒否しましたが、シュヴァイツァーは、ノーベル平和賞をふつうに受賞しました。
まず、「実存は本質に先立つ」と説くサルトルのいわゆる実存哲学です。彼の説くところによれば、人間はほんらい「無」的な存在なのだそうです。彼は、人はそもそもなにもせずにうずくまっている石やカリフラワーのようなものだというのです。この、人は「無」的存在であるという認識、これが肝要、とサルトルは『嘔吐』という小説で、世に問いました。私はこの退屈極まりない思想小説が好きで、若いころ何回も読み、生徒にも勧めましたが、読んだという生徒はついに現われませんでした。
サルトルの、人は「無」的存在だ、に続く主張はこうです。人が、人間であろうとすれば、世界のなかにあって、あくまでも主体的に、あくまでも自らの意思で、自由に決断し、行動しなければならない。社会的慣習や、歴史的束縛にとらわれずに、主体的に決断し行動すること、言ってみれば、高い崖の縁から、大海に向かって身を投げること、このことによって人ははじめて石やカリフラワー的存在を脱して、「人間」になることができるのだ、と言うのです。
主体性こそ真理だ、と言ったのは19世紀の宗教思想家キルケゴールでしたが、サルトルはまさにその主体性の自由な発揮のなかに人間性を見るのです。実存主義こそ真の人間主義(ヒューマニズム)だというわけです。
全体として、サルトルの実存哲学は、自我のアイデンティティに悩む年頃の高校生たちには力強い示唆を与える哲学。また自由の旗印のもとにできるだけ人間らしくあろうとする、わが麻布学園の教育方針を裏づけ、励ます哲学――などと、教師になりたての、若く血気盛んな私には、いたく胸に響くものがあったのです。これだ、という思いがあって、授業には熱が入りました。しかし、しばらくして、問題も感じるようになりました。
サルトルは、「人は自由の刑に処せられている」と言いました。また、「人は逃げ口上もなく孤独である」とも言いました。けだしどちらも名言と言わねばなりません。そして、論理的必然としてサルトルは、自由な主体性の発揮によってひき起こる結果の責任は、他のだれかに帰することはできない、自ら負うものだ、と言っています。思いがけない不幸な結果も、孤独の内に、主体的に決断した本人自身が引き受けなければならない、ということです。
私がやがて感じた、サルトルの実存哲学の問題とは、極端な主体性の強調にあるというより、その論理的合理性にあります。サルトルは、近代を基礎づけたといわれるデカルト以来の合理主義哲学の流れの中にあって、「コギト」(考える私・唯一絶対的自我)から出発し、コギトに帰っていきます。サルトルの「私」は、論理的かつ合理的に考える、他から孤絶した「私」です。ある意味いさぎよい哲学です。特に、因習や、世間や、常識に懐疑的な青年にとって、あるいは周囲に流されずに、真面目に自己を確立しようと懊悩する青年にとって、これほど魅力的な哲学はありません。しかし――何か変だ。
もうお分かりかと思いますが、人間は、合理や理性だけで生きているわけではない。とりわけ、現実の世界や社会のなかにあって、人はどう生きるべきか、人は何を為すべきか、を考える「倫理」の世界は、人間を根源的に突き動かす「何か」に訴え、その素朴な「何か」に拠られなければ力を持たない。根拠は、「コギト」(私は考える)ではなく、子どもでもわかる(子どもだからこそわかると言ってもいいかもしれません)「何か」でなければならない。しかしその「何か」とは何か。
私の、サルトル哲学に対する疑問は、どんどん膨れあがり、やがて漠としたものではありますが、一つの結論に達しました。それは、倫理の拠って立つ根拠「何か」とは、近代があれほど排除し、警戒し、封じ込めてきた、かの神秘主義=感性・感受性の世界のなかにあるのではないのか、という思いでした。
そういうなかで、私が行き会ったのが、アルベルト・シュヴァイツアーという人の、「生への畏敬」の哲学だったのです。
この人の話をすると長くなります。(もう残り時間がわずかしかありません)。で、手短にいえばシュヴァイツァーの「生への畏敬」の哲学は、彼自身が言うように、神秘主義の哲学です。私のコトバに直せば、感性・感受性の哲学です。
われわれ人間は、「生きようとする生命に取り囲まれた、生きようとする生命である」、とシュヴァイツァーは言います。
この人間存在の認識は、サルトルの、人は「無」的な存在だ、というのと違って、素朴な事実として、素朴にうなづけます。そして、「生への畏敬」の哲学はつづけます。
「わたしの生きようとする意志のなかには、生き続けようとするあこがれがあって快楽と呼ばれ、生きようとする意志の破壊と損傷に対する恐怖があって苦痛と呼ばれる」と。
これもうなづけます。自分というものを虚心に顧みれば、「生き続けたい」という思いと、「傷つくのは嫌だ(死ぬのは嫌だ)」という思いは、だれの胸中にも素朴にあるからです。
そしてここからです。彼の哲学が倫理哲学として自他ともに認める神秘主義だ、というのは。
「わたしを取り巻く、生きようとする意志のなかにも、(この苦痛と快楽は)存在する」と。
微妙ですが、私たちの、感性・感受性はうなづきます。微妙といのは、ゴキブリが何を考えているか、いかなる意志を持っているか、私たちには厳密には分からないからです。しかし、人間という生命の直感=感性・感受性は、ゴキブリが餌を求めてうろつき、危険を察知して逃げ回っているのを見れば、何とか生き続けたい、叩きつぶされるのは嫌だ、という意志のようなものは感受できる。頭ではなく、私たちのなかの感性・感受性がうなづきます。シュヴァイツァーは、(シュヴァイツァーが別にゴキブリを例に挙げているわけではありませんが)、忌み嫌われるゴキブリのなかにも「生きようとする意志」が見て取れる、さらに広げて考えれば、動物、植物の区別なく、言葉を発しようが発しまいが、およそ生き物と呼ばれるものには、「生きようとする意志」があるだろうというのです。そう感得するのは、コギト(考える私)ではありません。私たちのなかの、神秘主義=感性・感受性です。
「やれ打つな 蠅が手をする足をする」(一茶)という句を思い出します。
なぜこの句が,名句として広く世間に知れ渡っているのでしょうか。言うまでもありません。それは、この句が、人の感性・感受性に訴える句、つまり子どもでもわかる「何か」に訴えている句だからです。
シュヴァイツァーの「生への畏敬」の倫理のミソは、生きようとする生命体の、「意志」の感得にあります。そうして生きようとする意志を持つ生きとし生けるものへの畏敬にもとづいた人間の行動、(ここはサルトルと同じく)行動=行為が大事です。
シュヴァイツァーは、生きようとする「本能」とか、「機能」とか言わずに、生きようとする「意志」と言います。なぜでしょう。それは、倫理とは、人間の行為であり、行為は意志にもとづくものだからです。人間の生きようとする意志が、生命体の生きようとする意志を感得し、共鳴した時に、倫理的な行為が生まれます。シュヴァイツアーの結論はこうです。
「倫理は、わたしが、自己の生に対すると同様な生への畏敬をすべての生きようとする意志にささげたいという要求を体験することある。」
「これによって道徳の根本原理はあたえられたのである。すなわち生を保持し、生を促進するのは善であり、生を破壊、生を阻害するのは悪である。」と。
麻布で授業をしたおかげで、私は、古今東西の倫理思想に出会うことができました。いわば、世界の歴史的英知に触れることができました。そして、さいわいなことに、シュヴァイツァーの分かりやすい、善と悪の基準に出会うことができました。さらに、倫理とは感性=感受性にもとづく行為であり、実践であるという教えに接することができました。
シュヴァイツァーの「生への畏敬」の哲学には、様々な批判があります。弱肉強食の世界をどう見るか。人間は動植物という生命を糧として生きているではないか。シュヴァイツァーは、治療を旨とする医者ですから、日々細菌という生き物と闘い、これを殺傷している、また、実験のため、小動物を死にいたらしめている、この矛盾をどう説明するのか。さまざまな疑問はすぐ湧きあがってきます。シュヴァイツァーの「生の畏敬」の哲学に対するこれらの疑問を解く鍵は、つまるところ――世界観と、人生観を一致させようとするところに誤りがある。倫理とは、むしろ両者が対立するところから始まる――との主張にあります。しかしこれを話しはじめると長くなるので端折ります。ここでは、シュヴァイツァー哲学における神秘主義をお伝えすることでよしとしましょう。彼は、論理=ロゴスを否定するわけではありません。思索=論理というものはギリギリ突き詰めていくと、最後は神秘的な体験の世界に入るのだ、と言っているのです。
シュヴァイツァーは、倫理的確信や道徳の原理こそこの混迷した世界を救う鍵だと言います。彼は1965年にその生涯を閉じました。しかし、彼の倫理思想は、ますます混迷を深める今日の世界にあって、希望の哲学として、なおその光芒を失っていないと私は思っています。
みなさんは、それぞれの職業を持って、社会の最前線で頑張っていらっしゃる。あるいは子育てに忙しくしていらっしゃる。そうしたなかで、麻布学園時代を思い出すことがあるかもしれない。私が言いたかったことは、今はなくなったかも知れない感性、今はかさぶたに覆われてしまったかもしれない感受性。一言でいえば、「灰色の花束」の感性・感受性。そうしたもののなかにこそ実はこれからの人生を導くものがある、仕事をつづけていく原動力がある、後世に伝えていく宝があるということです。私たち個別の人生だけではない、世界や人類を導くものがあると、たとえば私の出会ったシュヴァイツァーの哲学は教えてくれています。「感傷的と言われることを恐れない」――「生への畏敬」の哲学を述べた文章の中になにげなくおかれた、このコトバは今日でも私の耳朶に強くのこっています。
論理も大事です。科学ももちろん大事です。しかし、みなさまに、声を大にして言いたいことは、サルトルではありませんが、常識を疑い、世間を疑い、自己のアイデンティティを求めて懊悩したあの若き時代の感性・感受性を忘れないでください、そう、「よみがえれ、麻布時代の感性・感受性!」です。
私はみなさんに会えてよかった。あえて言えば、「少年時代」のみなさんに会えてよかった。感性・感受性がキラキラまぶしいように輝いていたみなさんを知ることができてよかった。しみじみ思います。
以上、まことにつたない「授業」を終わります。ご静聴ありがとうございました。
(以上、授業部分は氷上先生からいただきました文章のままです)
氷上前校長、ありがとうございました。
氷上先生の授業を卒業25年経った今、果たしてみんなどれくらい理解できたかはわかりませんが(笑)、ぜひとも何度も読み返してみたいものです。平秀明校長並びに列席の先生方、まことにありがとうございました。
氷上先生の講義の後、麻布流儀についてもこの同期会の場で説明を行いました。先生方と、麻布OBの健康を祈願し同期会はお開きとなりました。
#1 麻布流儀インタビュー平校長に聞く「麻布」
麻布流儀、記念すべき第1回のインタビューとして、2013年から校長を務められていて、また麻布のOBでもある平秀明校長が登場。平校長は様々なメディアで取材を受けられているので、既出の話ばかり聞いても仕方がないと取材陣も考えまして、今回はまとめたインタビュー記事という感じではなく、あえて取材陣も一麻布OBとして対談のように質問していく形式で行いました。
*上記のサインは平校長の直筆です。
2018年6月オセロ部OB会開催
過去世界王者に3回なっているオセロで有名な村上先生。
そのブログよりご紹介です。
<冒頭抜粋>
来年は麻布学園オセロ部ができて30周年にあたります。それを記念してオセロ部では創部30年記念パーティーを計画しています。来年6月9日(土曜日)の午後4時ぐらいから麻布学園地下食堂で、対象はオセロ部のOBと現役部員です。
詳しくは村上先生のブログをご覧ください。
村上健のオセロ日記
1988年に麻布に就職して最初の副担任になった時の生徒と作ったクラブだったそうです!
ぜひ関係者の皆さんは要チェックです!
パスワードの変更方法、パスワードを忘れてしまったら
ログインにはIDとパスワードが必要です。
IDはお名前をローマ字にして、名(半角スペース)姓であり、姓名それぞれの頭を大文字、その他は小文字です。
もしくは、登録時のメールアドレスもIDとなります。
またパスワードはご自身で変更されていない場合は、初期値となりますので、麻布流儀から送られています「麻布流儀登録完了のお知らせ」をご覧いただけたらと存じます。
それではまずはパスワードの変更方法から説明させていただきます。
◯パスワードの変更方法
ヘッダーのログイン入力欄にユーザー名(ユーザーIDもしくはメールアドレス)/パスワードを入力しログインしましたら
表示されたご自身のお名前をクリック。
「記事の投稿」「アクティビティ」「プロフィール」「通知」「メッセージ」「友達」「グループ」「フォーラム」「イベント」「設定」などの項目が並んでおりますが、その中の「設定」をクリック
するとメールアドレスが表示されていますので、その上の「メールアドレスの更新やパスワード変更の際に必須 <現在のパスワード>」には現在のパスワードを入力。
メールアドレスの下の欄の「変更しないなら空白のまま <パスワード変更>」と「新しいパスワードを再入力」というところに同じパスワードを入力して(必ず、新しいパスワードは何かにメモを取りましょう)、
「変更を保存」を押すと変更できます。変更できた場合はプロフィール写真の下に「設定を保存しました。」と表記されます。
この段階でメールで通知させていただいたパスワードは無効となっていますので、必ず、忘れないように何かに控えましょう。
続きまして、パスワードを忘れてしまった場合の流れをご紹介します。
◯もしパスワードを忘れてしまったら
ヘッダーのログイン入力欄にユーザー名(ユーザーIDもしくはメールアドレス)/パスワードを入力しログインしてもログインできない時、画面上に「エラー: メールアドレス ●●●●@●●●●● に対して入力したパスワードが間違っています。 パスワードをお忘れですか ?」と出ていますのでそこの「パスワードをお忘れですか ?」をクリックします。
するとメールアドレスを再度促されるので、メールアドレスを入れるかユーザー名を入力し、「新しいパスワードを取得」を押します。するとメールアドレス宛に「件名/[麻布流儀] パスワードのリセット」というメールがきますのでその中のURLをクリックすると新たにパスワードが設定できますので、設定しご利用ください。*関係ないところの入力を変更するのはやめましょう。
その他お困りの方は下記のお問い合わせよりご連絡ください。
マツゲン先生旅日記「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」2017その3
マツゲン先生旅日記「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」2017その3です。ポルトガル→フランスへ戻る旅日記です。これで最終回です。
ポルトガルの首都リスボア
リスボンの街と大西洋
スペインとポルトガルの時差は一時間、腕時計を1時間遅らす。リスボンはポルトガル語でLisboaリスボア(リシュボア)である。この街の名はフェニキア語に由来しており、「安全な港」の意らしい。確かに、治安が良い、と聞く。ここから大西洋は目前、街の中心へ行くには海辺を背にして急坂を登る。この坂は息切れがするほどなのだ。ぼくらのホテルは丘の頂上近く、中心街にあるのだが探すのにまた苦労した。Mさんはよく立ち止まって地図を見る、ぼくは相手かまわず尋ねるのだが、見知らぬ土地ではピンポイントが難しいのだ。
リスボンは、評判通り、ヨーロッパ中から人が来ている、賑やかな観光都市だ。通りも店も人々もいかにも華やかな雰囲気で、歩いているとこちらも心が弾んでくる。実は、こんな楽しい街で3日目にスリにやられた。市電28号線のなかで、集団で狙われた。ホテルのフロント係の話しによると、28号線でよくあると言う。まあ、ぼくには長年旅をしていて初めてのことだった。
リスボンで一番印象深いのは、古い町並み、狭い急な坂道を市電がのろのろ走る光景である。次に、夜更け人々が路地という路地で、酔いしれている景が目に浮かぶ。その次はといえば、どこに行っても、観光客であふれていたことである。ジェロニモス修道院といえば、大航海時代の先陣を切ったエンリケ王子とインドへの航路を開いたヴァスコ・ダ・ガマを讃えてつくった見事な建物だが、暑さに耐えながら長い列に加わり入場を待つ辛さを思い出す。
大西洋岸を辿る
モンテ・シナイポルト 宿
列車に乗って海岸伝いに北へ向かい、ポルトへ行く。リスボンのサンタ・アポローニス駅の窓口で65歳から列車はシニア料金、半額と教えてくれて、驚いた。昨日は盗難、今日はポルトガル共和国の恵みか。海が見えると想像していたがついに見えず、ずっと平原が続く。空は曇天、気温も落ちてきた。サン・ベント駅に着いたのが午後2時半、3時間かかった。そこで翌日のサンティアゴ・デ・コンポステーラ行き列車の切符を購入しようと窓口に行ったところ、明日はストライキで運行しないとのつれない返事だ。それじゃ、バスだ。あちらこちらのバスターミナルへ行き、やっと予約できた。地下鉄も利用して探し回ったが、ポルトガルの地下鉄は券一枚で一時間使えるのだ。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ
先を急ごう。ポルトから国境を越えてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラまでおよそ4時間、北へ向かうと天気は曇り、雨も多い。大陸の乾いた大地から西の海岸地帯は森や平原の緑が目立ってくる。腕時計を一時間進めて、スペイン時間にする。この町はエルサレム、ローマに次ぐキリスト教3大聖地の一つである。聖ヤコブ、このガリシア地方の言葉ではサンティアゴ、イエス・キリストの12使徒の一人であり、9世紀にその墓が見つかったということから巡礼が盛んに行われるようになった。コンポは野原、ステラは星、つまり、この地は「星の野原の聖ヤコブ」となる。ここで、日本人女性に声をかけられた。彼女はビニール袋を両手に下げて、その中に食パンなどの食料をたくさん詰め込んでいる。いかにも逞しく、日焼けした顔から巡礼の道を歩いてきたと察しがつく。ピレネー山脈からおよそ一か月かけてこの最終地まで歩く。横浜に住んでいるというこの女性、途中、零下の高地を半そで姿で耐え、10日間は野宿をしたというから恐れ入る。女性はすごい。
スペインの愉快な仲間たち
カテドラルのある旧市街地は訪問者が多く、楽しい観光地でもある。この聖地で心苦しいのだが、ぼくらはパエリアを腹いっぱい食べ、ワインを一本空けた。とくにパエリアはうまかった。さて店を出たところで、陽気なスペイン人が、高らかに笑い、歌を歌っている。女3人と男1人、かしましい。なぜか意気投合してしまい、肩を組んで写真を撮ったり、「明日もここにいるから、来て」と誘われたり、とにかく愉快な連中だった。
サンティアゴ・デ・コンポステーラから列車でア・コルーニャに行き、乗り継ぎで駅前食堂に入り2時間半待って再び列車に乗り込みフェロールに着く。ここで一泊、だが目指す宿が見つからず、うろついていると男が大声で呼びかけながら付きまとい閉口したが、最後は親切な女性に巡り合い、宿へスマホで電話をかけて案内までしてもらった。彼女に出会わなければ、裏通りにある宿にはたどり着けなかったのではなかろうか。フェロールは意外に大きな港町、今日も雨、ここのところ雨続きだ。
ポルトガル フェロール
各駅停車、極上の旅路
オビエド行き単線列車の駅
朝早く、フェロール駅から2両編成の電車に乗り、オビエドまで行く。乗客は6人、電車は単線、およそ1分ごとに駅に着く。ときどき線路に木々が迫り、車体に枝が当たる。と思えば、今度は狭い窪地の中を走り、その両側には土壁が迫り、大雨でも降れば一気に土砂崩れが起きそうだ。トンネルを何度もくぐる。進行方向に向かって左には大西洋が見え隠れし、岩場に囲まれた小さな海水浴場に人がいる。右側は、トウモロコシ畑、牧場に牛と馬、遠くに低い山々が見える。途中、サイクリストが自転車をかかえて乗ってきた。こちらではいつでもどこでも列車に自転車を積み込めるのがいい。リバデーオ駅でフェロール行きの電車が待っていた。フェロールを出たのは午前8時20分、オビエド着が3時30分、長時間のだらーんとした行程、何があるというわけではない、いい旅だ。予約したホテルは駅の目の前、初めて探す苦労がなかった。この街は1937年にフランコ軍に破壊されたという。ここも見物するものはない。暇にあかせて、絵を数枚描いた。
次の地ビルバオへ行くには、海岸沿いに鉄道路線がある。ところが、列車は運行していないという。しかたなく、バスに切り替える。このバス、ビスケー湾沿いの高速道路を走っている途次、事故渋滞に出くわしノロノロ、ついには止まってしまった。結局3時間遅れでビルバオに着いたのだが、車内にいる乗車客が誰一人文句を言わなかったのは意外だった。ビルバオは確かに鉄鋼、造船で栄えた都市、古い建物群を目にすればなるほどを思うが、今はひっそりしている。ビルバオ行きの列車がなくなったのも、この惨状を見て分かった。あちらこちらのビルが閉鎖され、活気がない。ふと、日本の地方のシャッター通りが頭をよぎる。夜通りは人気がなく、物騒な感じだ。ただ、夜の暗闇の中で偶然見つけた中華料理店の夕食だけは満足した。
ヴァカンス
スペイン ビルバオ
朝、ビルバオのバスターミナルでフランス国境の町アンダイエ行きのバスを待つが、いつまで経っても来ない。今日中にアンダイエから特急でパリに戻る予定である。すでにホテルもスマホで予約している。業を煮やして、バスの案内所に足を運んでみるが、2度とも「タルデ(遅れている)」との返事だけで、事情が分からない。他のバスは次々に到着し、出発している。隣に立っている人に尋ねるが、首をひねるだけでいら立った風はない。何のアナウンスもなく、遅れること1時間半、ようやく目当てのバスが来た。「日本ではこんな対応はしないのにな」、と思いながら、その丁寧さがあまりにも特異なものに思えてきた。
ビルバオから国境までは2時間、アンダイエに着くと、駅の窓口に突進した。ところが、今日の列車は満員、明日ならばあるという。「まいったな。とにかくパリに向けて行けるところまで歩を進めてみよう。後は野となれ山となれだ。」窓口で他の列車がないか尋ねると、運よくボルドーまでのチケットがあった。「今日は8月1日、ヴァカンスが始まると状況が一変する」、とフランス体験3度目のMさんは言う。確かに、7月段階では交通機関はいくらでも選択肢があった。ヴァカンスが始まると、鉄道も道路事情もこんなにも変わるものか。車窓から外を見ると、キャンピングカーの多いこと、道路もかなり混んでいるのだろう。ボルドー駅に降りると、やはり人であふれかえっていた。7月中旬のボルドー駅とは全く違う。背丈が2メートルはあろうかと見えるロボットのような兵士2人と女性兵士一人が小型機関銃を持って立っている。「これじゃもうパリ行きはダメだな」と思いつつも、駅のチケットセンターへ急いだ。ところが、パリ行きチケットがあったのだ。「おおっ、天は自ら助くるものを助く、だ」。夜遅く、パリに着いた。地下鉄の客はもうまばらであった。
再びパリ、そして帰国
サン・ジェルマン・デプレ
8月1日にパリへ戻り、6日午後2時35分にシャルル・ド・ゴール空港から日本へ発った。その間ホテルはパリの中心から外れた下町、ホテルは星二つか三つ、エレベーターは古く、狭い。偶然フロントで日本人の女子大学生二人組に出会い、こんなところに宿泊するとはちょっと驚いたが、やはり若者にはこんな安宿が似合う。彼女らはスペインにも行ってスペイン語が分からず困った話をするし、これからスイスにも行くという。今どきの若者も捨てたものじゃないな。
ゴッホ ローヌ川の星月夜
パリでの話はすでにこの旅日記の冒頭にいくらか書いた。さらにちょっと話すなら、ロダン美術館のことだ。その美術館はパリの中心地にあり、ロダンの元邸宅である。彼が生きていたのは百年以上前とはいえ、こんな一等地に大きな館を建てた。その庭園に銅の彫刻がぽつんぽつんと置いてあり、館内には大理石の彫刻がところ狭しと置いてある。彼の彫刻は、男と女のすべてを激しく、悩ましい表現で創っているが、一つ一つの顔を覗き込むと複雑な表情の中に苦しみが感じられる。その印象は強烈なもので、ロダンの人生を垣間見たように思えた。
パリ バスチーユ街
パリでの残りわずかな時間を、ぼくはほっつき歩いた。Mさんに連れられて、サルトルやボーヴォワールなどが集ったというカフェにも行った。やはり、パリには自由が根付いている。人々の言葉、態度、振る舞い、顔つき、衣服等など、どれを見ても自信と自己主張が現れている。フランス革命以来、命を懸けて闘いとってきた個人の自由と尊厳、それはすでに彼ら一人一人の骨肉になっていることがみてとれる。さて、帰国して、新聞を読んだり、まわりの人々を見たりしていると、フランスとは全く違うな、とつくづく思う。日本は近代社会なのかな、と疑りたくなってくる。今回の旅で、パリの印象が一番強烈だった。ぜひまたパリに行きたいと思う。
接吻 ロダン
モナリザ レオナルドダヴィンチ
以上で、松元先生の旅日記2017は終了です。
また松元先生から続編が届きましたらご紹介いたします。
マツゲン先生旅日記「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」2017その2
バスク地方の町 サン・セバスティアン
いよいよスペインに入った。今回の旅で、ぼくの一番の目当てはスペイン。その理由はといえば、ゴヤの絵である。駅を出ると、あいにく小雨模様、安ホテル街まで歩き、探してみたがホテルらしきものがない。街はブロックごとに建物群が固まっていて、入り口はどこも分厚い鉄扉で閉鎖され、その脇にインターフォンがあるだけだ。やっとブロックの一角にペンションの表示を見つけ、インターフォンを押してみた。耳を近づけてみると、中から「コンプレト」という返事、満室だ。その後も碁盤の目状の街を彷徨し、街の脇を流れるウルメア川も渡ってさらに遠くまで足を伸ばすが、ホテルは見つからない。ともあれ、ホテルにありついたのは2時間後であった。何てことはない、街の案内所を探せばよかった。まずは安堵、疲れはあるが早くも街の様子はかぎ取れた。街の散策は徒歩で充分だ。コンチャ湾にはヨットが何艘も浮かんでいる。今日は風が強く、寒い日だが、男性が泳いでいる。やはり、夏だ。
Barのピンチョス
サン・セバスティアンはバスク地方にある。バスクはピレネー山脈を挟んでフランスとスペインにまたがる地域である。バスクと聞くと、興味がわく。イベリア半島で最古の民族らしい。バスク語はスペイン語やフランス語とはまったく違う、世界で最も難しい言語とも言われている。バスク独立運動あり、ピカソが描いたあの有名な絵「ゲルニカ」はスペイン内戦でフランシスコ・フランコとドイツ空軍に攻撃された町の悲惨さや怒りを描いたものであり、その町ゲルニカもバスクに属する。果たして、ここはどんなところだろうか。とりあえず、夜旧市街に出向き、あちこちにあるバール(Bar)でバスク名物ピンチョスを食した。それは薄く切ったフランスパンにさまざまな具がのせてある、言わば洋風握りずしだ。
一路マドリードへ
バスでマドリードまでは、長旅である。バスターミナルで昼食用サンドイッチを販売機で購入、サン・セバスティアンを10時に出発、海沿いから低い山々を縫って走り、そこを過ぎるとなだらかな平地、ひまわり畑とブドウ畑がどこまでも広がっていた。たまに赤茶けた瓦屋根が集まっている村が見える。ブルゴスを過ぎて昼食休憩、一軒の店以外何もないところに降りる。天気はがらりと変わって、暑い。あとは一路スペインの中央部、首都マドリードへ、午後4時頃アベニーダ・デ・アメリカ・バスターミナルに到着、6時間かかった。ターミナルで親切なスペイン人が地下鉄の乗り方を教えてくれ、地下鉄に乗りこんだが電車は目的地と反対車線、2度乗り換えて目指すペンションの最寄り駅アトーチャに着いた。
そこは前日スマホで予約した。以前の旅行ではホテル探しにウロウロして時間がかかったことを思うと、便利な世の中だ。旅の苦労は減った。とはいえ、面白味も減ったように感じるのだが。このペンションは星二つ、プラド美術館に近く、2泊で一人55€、一泊およそ3500円だから安い。玄関のインターフォーンを押すと扉の鍵が自動で開いた。重い扉を押して中に入ると真っ暗、手探りで狭い階段を上っていくと、3階に宿主がいた。
マドリードは9時半頃やっと宵の口である。旧市街の中心プエルタ・デル・ソルへ地下鉄で行ってみた。夕食時人出も増え、レストランは賑っている。スペイン料理といえばまずパエリヤ、とくに食い物にはこだわりのないぼくだが、これだけは本場の味を試してみた。夜の11時、まだまだ人は多い。子どもたちもいる。マヨール広場ではあちらこちらに人々が群がっていた。覗いてみると、ローラースケートによる演技、ポルトガル人女性たちの演奏と歌、アフリカ系の青年たちの踊り、といった大道芸をやっていた。帰宿が12時、宿近くの路上テラスでまだ人々がくっちゃべっていた。スペインの夜は長い。
プラド美術館
プラド美術館 ゴヤ「着衣のマハ」「裸のマハ」
マドリード美術館で午前10時半、受付前に並んでいる人は数十人、スムーズに入館できたのは意外だった。だが、館内に入ると来観者の多いこと。広い空間、所狭しと並べたてられた絵画の数々、どれだけの展示室があるのか、どこから見始めるか、迷路に入り込むことは間違いない。それでも、同行のMさんは以前ここを訪れており、誘導してくれて助かった。スペイン、イタリア、ドイツ、フランス、フランドル、イギリスの絵画、それに彫刻、・・・、気が付けば昼食抜き、館を出たのはもう夕方の5時だった。山とある有名な絵の中をまさにのり越えのり超えて、ゴヤに辿り着いた。「裸のマハ」、「着衣のマハ」、「マドリード、1808年5月3日」・・・、若くして聴力を失っても描き続けたゴヤ、波乱万丈の生涯、絵の多彩さ、変貌のすごさ。ゴヤという名前も変わっている。バスク地方のものらしい。いやはや、有り余るほどの絵があり、何はともあれ、見た、見たというより、絵の中で溺れていたというべきか。フラフラになった。ゴヤ、ヴェラスケス、ルーベンス、エル・グレコ、ブリューゲル、ティツィアーノ、レンブラント、ドューラー、ブリューゲル・・・画家の名は枚挙にいとまがない。どれもこれもその溌剌さ、ド迫力にはまいった。一日の最後は、宿の近くにあったアラブ系レストラン”JALO”で、街路テラスの涼風にあたりながらビール大瓶とケバブで閉めた。
翌日の午後12時にメリダへ出発予定、AVANZA社バスで、ポルトガル方面へ向かうことになる。それまでに、もう一つ、ティッセン・ボルネミッサ美術館へ駆け足で行った。なるほど、個人のコレクションにしてはすごい美術館だ。クールベ、モネ、ルノアール、ゴーギャン、ピカソ、ロダン・・・また駆け足で1時間見た。
メリダ、ローマ時代を見る
メリダ ローマ遺跡
イベリア半島の歴史は激しく移り変わっている。スペインが成立したのは15世紀の終わりである。紀元前にローマ帝国に支配され、次にアフリカから来たイスラム帝国が一気に占領し、その次はレコンキスタ(再征服運動)でイスラム勢力は一掃され、スペイン王国が生まれた。キリスト教からイスラム教、そしてまたキリスト教勢力が支配するという恐ろしく激しい宗教の移り変わりである。メリダという町にはローマ軍団が入り、都市をつくった。なので、メリダにはローマ時代の遺跡が数多く残っている。そこへ行ってみた。
マドリードを出ると、乾いた大地が続く。見かける生き物は、馬と牛だけ。4時間ほど経ち、平原にポツンと現れたのが町がメリダであった。バスターミナルで、翌日のリスボン行きチケットを購入しようにも窓口は閉まっていた。ターミナルは閑散としている。午後はもう客は来ないのだろう。その脇に案内所があったので尋ねてみると、インターネットでチケット予約をするか、翌日窓口で購入か、どちらかだということだ。
メリダローマ橋
バスターミナルからルシタニア橋を渡り、強烈な日差しを受けながら坂道を登ると町の中心に出る。どこにも観光客を見かけない、というよりほとんど人がいない。実に静かだ。ここにローマ遺跡がある。石づくりの円形劇場に行ってみた。剣闘士が闘い、戦車競技が行われたところだ。隣にはローマ劇場があった。舞台には何本もの大理石の円柱、どんな劇が演じられたのか。劇場の石段に腰を下ろして、しばらく舞台を眺めた。それにしても、熱がからみつくほど暑い。ところが、夜暑さが静まると、やはり町に人々が繰り出してきた。
バスの予約については、いろいろ手を尽くしたができなかった。成り行きにまかせか。翌朝、バスターミナルへ行った。「おおー、窓口が開いているじゃんか。」目を疑ったが、案内所のおばさんが言う通りだった。リスボン行きのチケットも手に入り、一息つけた。バスが来るまで1時間半、ぼくはグアディアナ川の畔でローマ橋をスケッチした。
今回はここまで!
マツゲン先生旅日記「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」2017その3は「ポルトガル編」もどうぞ。
<how to>記事投稿の基本
麻布流儀は会員のみなさんも記事投稿をすることが可能です。
WordPressなのでインターネットなどで検索いただければ記事の投稿の仕方などでてまいりますので参考にしてください。
外部の参考サイトです。WordPressはバージョンなどですこし異なってるかもしれませんが記事投稿のご参考にしてください。
https://www.adminweb.jp/wordpress/editor/index3.html
投稿の際、忘れてはいけないのが、右のカテゴリーの選択!(関係ありそうなものを選んでください。あまりにも違うカテゴリーへの投稿の場合はこちらのサイト管理者の方で修正させていただくこともあります)
そして、最終的に「公開」を押すことです。
また、会員のみへの投稿としたいときは右上の投稿制限の「投稿をブロック」にチェックをいれてください。
ほんとうに説明不足ですみません。
麻布流儀のシステムはWordPressというオープンソースを使用しているため、完全オリジナルではありませんので、逆をいえば、ネットで検索いただけるといろいろ書き方のコツみたいなものをご覧いただけると存じます。
これも正直、馴れてくると思いますので、ぜひ、どしどし投稿してみてください。m(_ _)m
マツゲン先生旅日記「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」2017その1
麻布流儀編集部です。
2017年9月23日1992年卒の同期会にお招きした恩師の1人、「マツゲン」こと松元宏先生から、当日旅日記なるものをいただきました。タイトルは「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」というものです。ちょっと長いので3回かに分けてお伝えしようと思います。今回その1となります。2015年のバルカン半島の旅編をまだお読みでない方は先にそちらをどうぞ。
(2015年の旅日記のところにも書きましたが)僕ら1992年卒にとってマツゲンは、なんと中2から高3まで全て1組の担任をしていただいた先生で、2013年に麻布を退職されるまでなんと40年間麻布にいらしたので、他の代の皆さんもご存じな方が多いのではないでしょうか!
この旅日記は退職されたマツゲンこと松元宏先生と、同じく退職された森野満之先生が一緒に旅をし、絵を描かれているようで絵日記でもあります。松元先生が書かれた文章原文です。ぜひご覧ください!*一部キャプションなど入れると見えにくいなどあり、カットさせて掲載させていただいております。
「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」
2年前のバルカン半島がぼくにとって初めてのヨーロッパ大陸の旅、そのヨーロッパ大陸を再び訪れた。前回は、トルコのイスタンブールから始まり、ギリシャ、アルバニア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、セルビア、マケドニア、そしてブルガリアと足を伸ばしたが、なにしろ小さな国々、3週間でどうにかイスタンブールまで戻れた。今回は、フランスのパリからスペイン、ポルトガル、そしてまたスペインを通り抜け、パリへ戻る。前回に比べるとほんの3か国だが、走行距離はおよそ1.5倍、3600キロを優に超える。因みに、札幌から鹿児島までが約2300キロである。さてそこを3週間かけて、列車とバスでまわることになる。例によって、宿や交通機関はその場で決める。パリに着いて最初の安宿レオナルド・ダ・ヴィンチ・ホテルだけは、日本から予約した。今度も森野さんとの二人旅、彼がガイドブック「地球の歩き方」と列車の時刻表を持っているので先導役を期待し、ぼくはスケッチ道具をリュックに入れて旅立った。
先の話になるが、帰国して10日後、スペインのバルセロナでテロ事件が発生した。実はこの旅でバルセロナを訪れる予定にしていたが、事前に自宅に郵送されてきたヨーロッパ鉄道ユーロパスにミスがあり、スペインで鉄道を利用できなくなった。出発直前に、そのパスに国名の記入間違いを発見して、バルセロナ訪問は諦めざるを得なかった。バルセロナへ行けば、あのテロ事件が起きたメインストリート、ランプラス通りにもちろん行っただろうし、アントニオ・ガウディによる世界遺産サグラダ・ファミリア教会も訪れただろう。世界的に有名なこの教会の爆破もテロリストは計画していたという。2年前の2015年夏にトルコからバルカン半島を旅したときも、成田空港を離陸して間もなくトルコで自爆テロが発生、さらに旅行後もテロが起きている。今回の旅の終盤、8月5日にパリのセーヌ河畔でスケッチをしていた時、遠くに見えるエッフェル塔でISを名乗る男が騒ぎを起こしていた。咋今、戦争が続いている中東やアフリカだけでなく、どこでテロが起きてもおかしくない。旅を楽しむなら日本でよかろうに。それでも、世界を見てまわるのはなぜか、そんなことを考えるようになった。
さあ、出発
成田空港を7月17日(月)午前11時過ぎにエール・フランス航空機は離陸、シャルル・ド・ゴール空港に現地時間で午後4時25分に到着、およそ11時間半かかった。日本時間で夜中の11時に近い。フランスはサマータイム、時差は7時間である。パリの気温は27度、晴れ。まったく足を踏み入れたことのない地に降り立つと、やはり胸が高鳴る。広い空港を通ってTGV空港駅に辿り着き、地下鉄メトロに乗りこみ、2回乗り換えて目的の駅パルマンティエで下車、その間およそ一時間、それからどうにかダ・ヴィンチ・ホテルを探し出した。5階の一室に荷を下ろす。部屋は狭いが、まあよし。あとは、ホテル近くのカフェにてビールで乾杯、眠気に襲われながら夕食をとったのは日本時間で早朝であった。
さて、これから旅の話をするにあたって、まず辿ったルートを記しておいたほうが良いだろう。その足跡は次のようである。パリ→ボルドー→アンダイエ(国境フランス側)→サン・セバスティアン(スペイン)→マドリード→メリダ→バダホス(国境スペイン側)→リスボン(ポルトガル)→ポルト→国境→サンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)→フェロール→オビエド→国境→アンダイエ→ボルドー→パリ。願わくば、観光客の少ないコースであるように、という思いもあった。
フランスの首都パリ
パリ。昔から作家、画家、思想家、学者、政治家・・・、が吸い込まれるように来たところだ。夏目漱石も、アーネスト・ヘミングウェイも、佐伯祐三も、ディエゴ・リベラも、・・・。パリは世界をリードした。そして、今も、人を魅了している。
パリの街は東京よりずっと小さい。その街の下に地下鉄が張り巡らされているのは、東京と変わりがない。迷路のような地下の連絡通路を歩いていると、突如音楽が流れてきて殺風景な構内が楽しい彩りになった。市内でストリートミュージシャンが駅、路上、橋上、河畔と所かまわず出現する。奏でる楽器もさまざま、大きなものはハープ、ピアノまで持ち出している。セーヌ川の畔には、ダンス、ジョガー、自転車、スケボー、セグウェイ、ナインボット・ワン等など、目まぐるしく変わる光景がある。子どもたちもボルダリング、ゲーム、・・・で楽しんでいる。川岸で恋人たちの熱い抱擁、だがもちろん主役は、やたら目につくテラス席のワインだ。この風景は、印象派の絵画といえようか。楽しんでいる、自由を楽しんでいる。
パリでは、何はともあれ芸術
パリに着くと、とりあえず美術館へ行った。到着した翌日の火曜日、朝食も取らずルーブル美術館へ足を運ぶ。ところが、なんと、休館。パリの美術館の休館日は火曜日なのだ。運よく、オルセー美術館だけは開館していた。幸先は悪くないな。そして、この旅の終盤、ルーブル美術館、ポンピドゥーセンター(国立近代美術館)、ロダン美術館、そしてマルモッタン・モネ美術館を訪れた。それでもギュスターヴ・モロー美術館やピカソ美術館等など、まだ見たいものはあった。パリといえば芸術、ルーブル美術館だけでも年間860万人の入館者があるという。美術館は宝の山だ。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ボッティチェルリ、ミケランジェロ、レンブラント、ドラクロワ、クールベ、モネ、マネ、セザンヌ、ルノワール、ピカソ、ゴッホ、ゴーギャン、ミレー、ムンク、モディリアーニ、ポロック、・・・。
(写真/ルーブル美術館 ミロのヴィーナス)
朝の10時、オルセー美術館前はすでに長蛇の列。バゲットサンドをかじりながら一時間ほど待ったか。入館料は12ユーロ、成田空港で3万円換金したときのレートは1ユーロ(€)=133円、従って1600円である。入館してまず、日本の美術館とは雰囲気が大分違うなあ、と思う。横たわる裸身の女、逞しい裸体の男の彫像に迎えられる。美術館とはギリシャ語でムーセイオン、学芸の女神だ。大理石の彫刻像を女性が模写していた。印象派の絵が並ぶ部屋に入ると、人々が作品を写真に撮っていた。当時の革新的な絵画、世界を絵で変えようとした画家たち、激しい息遣いが伝わってくる。妥協を許さず、さらに変革を求めた。壁面にずらっと並んだ絵画は、ギュスターヴ・クールベ「世界の起源」・・・から始まり、・・・エドゥアール・マネ「草上の昼食」・・・ポール・セザンヌ「カード遊びをする人々」・・・ゴッホ「自画像」・・・ゴーギャン「タヒチの女たち」・・・ルドン「目を閉じて」・・・あるわ、あるわ。一方、館の一画にあるカウンターでワインを飲み、食事をする人たちもいる。絵から絵へと歩を進めていると、時はまたたく間に過ぎていった。午後4時、後ろ髪を引かれる思いで美術館を出た。その後、モンパルナス駅で翌日のボルドー行きTGV列車のチケットを購入(料金99€)、セーヌ川中州のシテ島へ行きノートルダム寺院のステンドグラスを見て、次に凱旋門、さらにシャンゼリゼ通り、カフェでビール一杯、地下鉄に乗車、ホテル近くで夕食、宿に着いたのが10時半であった。パリの夜は遅い。レストランやカフェは10時ごろからどっと賑わってくる。これがパリ到着2日目の行程であった。(写真/オルセー美術館 エミール・ゾラの肖像)
パリを歩く
(写真/パリ デプレ地区)
セーヌ川はパリ市内をゆったりと流れ、街を北(右岸)と南(左岸)に二分している。凱旋門広場や革命広場など拠点となる広場がいくつもあり、そこから放射線状に広い道路が何本も伸びている。道には、その角の建物に通りの名称が記してある。宿を朝出て、ぼくらは地図を片手に、夜まで歩いた。昼間の日差しは思いのほか強い。
通りは縦列駐車でぎっしり、サイクリストは専用レーンを走り、スケボーやローラースケートで若者が通行人を縫うように走っている。歩道にはテーブルとイスを並べ、コーヒーやビールを飲んで語らっている風景があちらこちらにある。歩き疲れると、地下鉄に乗った。ところが、降りようとしてドアが開かない。咄嗟に、後ろにいたフランス人がドアの取っ手を引き上げて開けてくれた。ドアは手動なのだ。パリの街は超高層ビルが林立する現代の都会とは趣がかなり違う。街全体が、まさに昔のままである。
通り、広場、電車、店にいろいろな人種を見かけ、それがフランスなのだと思う。ぼくたちはバングラデシュ人経営のインド料理店や中華料理店にも入った。なるほど、フランスという共和国は昔から移民を受け入れてきたのだ。パリの女性が颯爽と歩いている姿は、美術館の絵画から飛び出してきたかのような錯覚を覚える。バランスのよい身体、肉体美を確かに誇っている。羨ましいほどだ。ギリシャ時代から肉体を賛美し、女神ヴィーナスの裸体に美の極致を求めてきたヨーロッパの伝統が今もある。
それにしても今、中国人観光客が多い。中国一色ではなかろうか、と目を疑るほどだ。日本人の旅行者は寂しいくらいいない。ルーブル美術館を訪れる人の半分くらいは中国人ではなかろうか。通りでSushi屋だけは目についた。
パリからボルドー、そしてスペインへ
パリに2泊し、とりあえずそこを離れて南下する。モンパルナス駅を朝10時50分に立つと間もなく田畑がどこまでも続く田園風景になる。ボルドー駅に午後1時頃到着した。ここから大西洋は近い。まずは駅で、翌日国境へ向かう列車の予約とホテル探しに構内をうろうろしていると、フランス人男性に声をかけられ、案内所まで連れて行ってくれた。さて、紹介してもらった駅前の安ホテルに一宿することになり、早速ボルドーを散策した。トラムカー(路面電車)で町に出ると、観光客の多いこと、ヴァカンスなのか。やはり、ボルドーはワイン貿易で栄えた地だ。夜、レストランのテラスはどこもほぼ満員、客でかしましい中どうにか空席を見つけた。フランス人は食べることより、話すことに夢中である。彼らに真似て、もちろんワイン、Bordeux Superieurを一本注文し、コース料理を食し、長居した。それにしても、ここでも日本人を一人も見ない。
翌朝ボルドーを出発、国境の町アンダイエに昼過ぎ到着、国境越えの電車に20分ほど乗ってスペインのサン・セバスティアンに着いた。国境はどこだったのだろうか。
今回はここまで!
続けてマツゲン先生旅日記「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」2017その2は「スペイン編」
その2からメンバー登録が必要となります。麻布OBでまだメンバー登録されていない方はぜひこの機会に「メンバー資格」「メンバーになるには」より会員登録をどうぞ!