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<how to>記事投稿の基本

麻布流儀編集部
麻布流儀編集部
date:2017/11/20

麻布流儀は会員のみなさんも記事投稿をすることが可能です。

WordPressなのでインターネットなどで検索いただければ記事の投稿の仕方などでてまいりますので参考にしてください。

外部の参考サイトです。WordPressはバージョンなどですこし異なってるかもしれませんが記事投稿のご参考にしてください。

https://www.adminweb.jp/wordpress/editor/index3.html

投稿の際、忘れてはいけないのが、右のカテゴリーの選択!(関係ありそうなものを選んでください。あまりにも違うカテゴリーへの投稿の場合はこちらのサイト管理者の方で修正させていただくこともあります)



そして、最終的に「公開」を押すことです。

また、会員のみへの投稿としたいときは右上の投稿制限の「投稿をブロック」にチェックをいれてください。



ほんとうに説明不足ですみません。

麻布流儀のシステムはWordPressというオープンソースを使用しているため、完全オリジナルではありませんので、逆をいえば、ネットで検索いただけるといろいろ書き方のコツみたいなものをご覧いただけると存じます。

これも正直、馴れてくると思いますので、ぜひ、どしどし投稿してみてください。m(_ _)m

マツゲン先生旅日記「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」2017その1

麻布流儀編集部
麻布流儀編集部
date:2017/11/18



麻布流儀編集部です。

2017年9月23日1992年卒の同期会にお招きした恩師の1人、「マツゲン」こと松元宏先生から、当日旅日記なるものをいただきました。タイトルは「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」というものです。ちょっと長いので3回かに分けてお伝えしようと思います。今回その1となります。2015年のバルカン半島の旅編をまだお読みでない方は先にそちらをどうぞ。

マツゲン先生旅日記「バルカン半島の旅」2015その1はこちらをクリック!

(2015年の旅日記のところにも書きましたが)僕ら1992年卒にとってマツゲンは、なんと中2から高3まで全て1組の担任をしていただいた先生で、2013年に麻布を退職されるまでなんと40年間麻布にいらしたので、他の代の皆さんもご存じな方が多いのではないでしょうか!

この旅日記は退職されたマツゲンこと松元宏先生と、同じく退職された森野満之先生が一緒に旅をし、絵を描かれているようで絵日記でもあります。松元先生が書かれた文章原文です。ぜひご覧ください!*一部キャプションなど入れると見えにくいなどあり、カットさせて掲載させていただいております。

 

「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」

2年前のバルカン半島がぼくにとって初めてのヨーロッパ大陸の旅、そのヨーロッパ大陸を再び訪れた。前回は、トルコのイスタンブールから始まり、ギリシャ、アルバニア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、セルビア、マケドニア、そしてブルガリアと足を伸ばしたが、なにしろ小さな国々、3週間でどうにかイスタンブールまで戻れた。今回は、フランスのパリからスペイン、ポルトガル、そしてまたスペインを通り抜け、パリへ戻る。前回に比べるとほんの3か国だが、走行距離はおよそ1.5倍、3600キロを優に超える。因みに、札幌から鹿児島までが約2300キロである。さてそこを3週間かけて、列車とバスでまわることになる。例によって、宿や交通機関はその場で決める。パリに着いて最初の安宿レオナルド・ダ・ヴィンチ・ホテルだけは、日本から予約した。今度も森野さんとの二人旅、彼がガイドブック「地球の歩き方」と列車の時刻表を持っているので先導役を期待し、ぼくはスケッチ道具をリュックに入れて旅立った。

先の話になるが、帰国して10日後、スペインのバルセロナでテロ事件が発生した。実はこの旅でバルセロナを訪れる予定にしていたが、事前に自宅に郵送されてきたヨーロッパ鉄道ユーロパスにミスがあり、スペインで鉄道を利用できなくなった。出発直前に、そのパスに国名の記入間違いを発見して、バルセロナ訪問は諦めざるを得なかった。バルセロナへ行けば、あのテロ事件が起きたメインストリート、ランプラス通りにもちろん行っただろうし、アントニオ・ガウディによる世界遺産サグラダ・ファミリア教会も訪れただろう。世界的に有名なこの教会の爆破もテロリストは計画していたという。2年前の2015年夏にトルコからバルカン半島を旅したときも、成田空港を離陸して間もなくトルコで自爆テロが発生、さらに旅行後もテロが起きている。今回の旅の終盤、8月5日にパリのセーヌ河畔でスケッチをしていた時、遠くに見えるエッフェル塔でISを名乗る男が騒ぎを起こしていた。咋今、戦争が続いている中東やアフリカだけでなく、どこでテロが起きてもおかしくない。旅を楽しむなら日本でよかろうに。それでも、世界を見てまわるのはなぜか、そんなことを考えるようになった。

 

さあ、出発

成田空港を7月17日(月)午前11時過ぎにエール・フランス航空機は離陸、シャルル・ド・ゴール空港に現地時間で午後4時25分に到着、およそ11時間半かかった。日本時間で夜中の11時に近い。フランスはサマータイム、時差は7時間である。パリの気温は27度、晴れ。まったく足を踏み入れたことのない地に降り立つと、やはり胸が高鳴る。広い空港を通ってTGV空港駅に辿り着き、地下鉄メトロに乗りこみ、2回乗り換えて目的の駅パルマンティエで下車、その間およそ一時間、それからどうにかダ・ヴィンチ・ホテルを探し出した。5階の一室に荷を下ろす。部屋は狭いが、まあよし。あとは、ホテル近くのカフェにてビールで乾杯、眠気に襲われながら夕食をとったのは日本時間で早朝であった。

さて、これから旅の話をするにあたって、まず辿ったルートを記しておいたほうが良いだろう。その足跡は次のようである。パリ→ボルドー→アンダイエ(国境フランス側)→サン・セバスティアン(スペイン)→マドリード→メリダ→バダホス(国境スペイン側)→リスボン(ポルトガル)→ポルト→国境→サンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)→フェロール→オビエド→国境→アンダイエ→ボルドー→パリ。願わくば、観光客の少ないコースであるように、という思いもあった。

 

フランスの首都パリ

パリ。昔から作家、画家、思想家、学者、政治家・・・、が吸い込まれるように来たところだ。夏目漱石も、アーネスト・ヘミングウェイも、佐伯祐三も、ディエゴ・リベラも、・・・。パリは世界をリードした。そして、今も、人を魅了している。

パリの街は東京よりずっと小さい。その街の下に地下鉄が張り巡らされているのは、東京と変わりがない。迷路のような地下の連絡通路を歩いていると、突如音楽が流れてきて殺風景な構内が楽しい彩りになった。市内でストリートミュージシャンが駅、路上、橋上、河畔と所かまわず出現する。奏でる楽器もさまざま、大きなものはハープ、ピアノまで持ち出している。セーヌ川の畔には、ダンス、ジョガー、自転車、スケボー、セグウェイ、ナインボット・ワン等など、目まぐるしく変わる光景がある。子どもたちもボルダリング、ゲーム、・・・で楽しんでいる。川岸で恋人たちの熱い抱擁、だがもちろん主役は、やたら目につくテラス席のワインだ。この風景は、印象派の絵画といえようか。楽しんでいる、自由を楽しんでいる。

 

 

 

 

パリでは、何はともあれ芸術

パリに着くと、とりあえず美術館へ行った。到着した翌日の火曜日、朝食も取らずルーブル美術館へ足を運ぶ。ところが、なんと、休館。パリの美術館の休館日は火曜日なのだ。運よく、オルセー美術館だけは開館していた。幸先は悪くないな。そして、この旅の終盤、ルーブル美術館、ポンピドゥーセンター(国立近代美術館)、ロダン美術館、そしてマルモッタン・モネ美術館を訪れた。それでもギュスターヴ・モロー美術館やピカソ美術館等など、まだ見たいものはあった。パリといえば芸術、ルーブル美術館だけでも年間860万人の入館者があるという。美術館は宝の山だ。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ボッティチェルリ、ミケランジェロ、レンブラント、ドラクロワ、クールベ、モネ、マネ、セザンヌ、ルノワール、ピカソ、ゴッホ、ゴーギャン、ミレー、ムンク、モディリアーニ、ポロック、・・・。

(写真/ルーブル美術館 ミロのヴィーナス)

朝の10時、オルセー美術館前はすでに長蛇の列。バゲットサンドをかじりながら一時間ほど待ったか。入館料は12ユーロ、成田空港で3万円換金したときのレートは1ユーロ(€)=133円、従って1600円である。入館してまず、日本の美術館とは雰囲気が大分違うなあ、と思う。横たわる裸身の女、逞しい裸体の男の彫像に迎えられる。美術館とはギリシャ語でムーセイオン、学芸の女神だ。大理石の彫刻像を女性が模写していた。印象派の絵が並ぶ部屋に入ると、人々が作品を写真に撮っていた。当時の革新的な絵画、世界を絵で変えようとした画家たち、激しい息遣いが伝わってくる。妥協を許さず、さらに変革を求めた。壁面にずらっと並んだ絵画は、ギュスターヴ・クールベ「世界の起源」・・・から始まり、・・・エドゥアール・マネ「草上の昼食」・・・ポール・セザンヌ「カード遊びをする人々」・・・ゴッホ「自画像」・・・ゴーギャン「タヒチの女たち」・・・ルドン「目を閉じて」・・・あるわ、あるわ。一方、館の一画にあるカウンターでワインを飲み、食事をする人たちもいる。絵から絵へと歩を進めていると、時はまたたく間に過ぎていった。午後4時、後ろ髪を引かれる思いで美術館を出た。その後、モンパルナス駅で翌日のボルドー行きTGV列車のチケットを購入(料金99€)、セーヌ川中州のシテ島へ行きノートルダム寺院のステンドグラスを見て、次に凱旋門、さらにシャンゼリゼ通り、カフェでビール一杯、地下鉄に乗車、ホテル近くで夕食、宿に着いたのが10時半であった。パリの夜は遅い。レストランやカフェは10時ごろからどっと賑わってくる。これがパリ到着2日目の行程であった。(写真/オルセー美術館  エミール・ゾラの肖像

 

 

 

 

パリを歩く

(写真/パリ デプレ地区)

セーヌ川はパリ市内をゆったりと流れ、街を北(右岸)と南(左岸)に二分している。凱旋門広場や革命広場など拠点となる広場がいくつもあり、そこから放射線状に広い道路が何本も伸びている。道には、その角の建物に通りの名称が記してある。宿を朝出て、ぼくらは地図を片手に、夜まで歩いた。昼間の日差しは思いのほか強い。

通りは縦列駐車でぎっしり、サイクリストは専用レーンを走り、スケボーやローラースケートで若者が通行人を縫うように走っている。歩道にはテーブルとイスを並べ、コーヒーやビールを飲んで語らっている風景があちらこちらにある。歩き疲れると、地下鉄に乗った。ところが、降りようとしてドアが開かない。咄嗟に、後ろにいたフランス人がドアの取っ手を引き上げて開けてくれた。ドアは手動なのだ。パリの街は超高層ビルが林立する現代の都会とは趣がかなり違う。街全体が、まさに昔のままである。

 

 

通り、広場、電車、店にいろいろな人種を見かけ、それがフランスなのだと思う。ぼくたちはバングラデシュ人経営のインド料理店や中華料理店にも入った。なるほど、フランスという共和国は昔から移民を受け入れてきたのだ。パリの女性が颯爽と歩いている姿は、美術館の絵画から飛び出してきたかのような錯覚を覚える。バランスのよい身体、肉体美を確かに誇っている。羨ましいほどだ。ギリシャ時代から肉体を賛美し、女神ヴィーナスの裸体に美の極致を求めてきたヨーロッパの伝統が今もある。

それにしても今、中国人観光客が多い。中国一色ではなかろうか、と目を疑るほどだ。日本人の旅行者は寂しいくらいいない。ルーブル美術館を訪れる人の半分くらいは中国人ではなかろうか。通りでSushi屋だけは目についた。

 

 

パリからボルドー、そしてスペインへ

パリに2泊し、とりあえずそこを離れて南下する。モンパルナス駅を朝10時50分に立つと間もなく田畑がどこまでも続く田園風景になる。ボルドー駅に午後1時頃到着した。ここから大西洋は近い。まずは駅で、翌日国境へ向かう列車の予約とホテル探しに構内をうろうろしていると、フランス人男性に声をかけられ、案内所まで連れて行ってくれた。さて、紹介してもらった駅前の安ホテルに一宿することになり、早速ボルドーを散策した。トラムカー(路面電車)で町に出ると、観光客の多いこと、ヴァカンスなのか。やはり、ボルドーはワイン貿易で栄えた地だ。夜、レストランのテラスはどこもほぼ満員、客でかしましい中どうにか空席を見つけた。フランス人は食べることより、話すことに夢中である。彼らに真似て、もちろんワイン、Bordeux Superieurを一本注文し、コース料理を食し、長居した。それにしても、ここでも日本人を一人も見ない。

翌朝ボルドーを出発、国境の町アンダイエに昼過ぎ到着、国境越えの電車に20分ほど乗ってスペインのサン・セバスティアンに着いた。国境はどこだったのだろうか。

 

 

今回はここまで!

続けてマツゲン先生旅日記「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」2017その2は「スペイン編」

その2からメンバー登録が必要となります。麻布OBでまだメンバー登録されていない方はぜひこの機会に「メンバー資格」「メンバーになるには」より会員登録をどうぞ!

9/23開催の麻布卒業25周年同期会(1992卒)でバックに流していた動画を公開します!

麻布流儀編集部
麻布流儀編集部
date:2017/11/9

1992卒にとって2017年の同期会は卒業25周年の同期会となり、その同期会用に制作した記念冊子に新体育館の取材記事を掲載しました。そのついでだったのですが、当日プロジェクターにひっそり流していた動画を改めてここに公開しておきます。



こちら、特に肖像権など問題になるものはないのですが、一定期間は会員登録なしでもご覧いただけるように公開しておきますが、今後麻布OB向けということで会員のみ閲覧とさせていただく予定です。



映像の最後の方に、平校長にも登場いただき、なかなか同期会の会費を振り込まないみなさんに向け、コメントしていただきました、笑







麻布流儀への入会は麻布OBのみとなっております。無料です!



入会について



マツゲン先生旅日記「バルカン半島の旅」2015その3

麻布流儀編集部
麻布流儀編集部
date:2017/11/6

麻布流儀編集部です。「バルカン半島の旅」2015その3となります。

マツゲン先生旅日記「バルカン半島の旅」2015その1はこちらをクリック!

マツゲン先生旅日記「バルカン半島の旅」2015その2はこちらをクリック! 

これで最終回となります。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

海岸から内陸へ向かい、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルに着く。400万人に満たないこの小さな国は20年前の激しい内戦が続き、20万人の死者と200万人以上の難民を出したという。バスからは戦死者の広い墓地がところどころに見える。いまだに、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦とセルビア人共和国に分かれていて、国内は自由な通行が確保されていないという。モスタルの象徴、500年ほど前、オスマン朝時代に建てられたアーチの美しい石橋も爆撃された。10年前に復元されて、今また観光客を呼んでいる。夕方、橋の頂上から15メートルはあろう川面に青年がダイビングするのは見ものだった。

 

2000メートル級の山々が連なる地帯を北上、垂直に切り立つ岩場の間を進む。モスグリーン色の谷川が流れている。暗いトンネルがいくつも続く。サラエボのボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦側バスターミナルに到着して、今度はそこから13キロ離れたセルビア人共和国側バスターミナルへ移動する。クロアチア辺りから、20年前の紛争跡を辿っている思いがする。サラエボの建物には弾痕がまだある。1984年ここで冬季オリンピックが開催されて7年後に勃発した紛争は遠い過去ではない。ターミナルに着くと、ヴィシェグラード行きのバスが出るところだった。逃すと、次のバスはいつ出るのか分からない。1分でも遅れたらバスを逃していたので、運が良かった。国境近くの町ヴィシェグラードについたのが夕方の6時、人通りがほとんどなく、素朴で寂しい町に見える。とはいえ、ここにもオスマン朝時代の11のアーチからなる石橋がある。イヴォ・アンドリッチというノーベル賞作家がいたことも知った。ただ、町といえる賑わいはない。

 

 

 

 

 

 

 

セルビア

そこから国境を越え、セルビアのウジツェに行く。山の険しさが消えて、スイスのような田園風景が広がる。今日は頑張ってニシュという町まで行く予定だが、貨幣ディナールを手に入れていない。どうにか日本円の換金できる銀行を見つけたが、そこの銀行員は日本の貨幣を見たことがない。差し出した1万円札の鑑定するのに電話やらなんやらで確認に時間がかかること、それでも最後には2万円で1700ディナールいただいた。ニシュに着いたのは午後の8時半だった。この地は見るべきものはないが、中継地点として旅行客に利用される。

 

マケドニア

旅は急ぎ足になる。ニシュからコソヴォ共和国の横を通ってマケドニアへ向かう。コソヴォはセルビアの自治州であったが、今から7年前に独立を宣言した。だが、セルビアは承認していないという複雑な関係が続いている。マケドニアの首都スコピエまで5時間のバス旅、午後の3時に着く。強い日差しのなか、目指すホステルの方向を間違えてしばらく歩いたところで通りがかりの女性に道を聞き、英語の分かる人で助かった。夜は街を見てまわる。あちらこちらに銅像が立っていてその数の多さに驚いた。街の中心には、アレキサンダー大王のどでかい像がある。あたりはクラッシックが流れ、その音楽に合わせるかのように照明に照らされカラフルな噴水が踊っている。そこにいるだけで、じつに楽しい気分になった。帰りにまた道に迷った。何度も通行人に道を尋ねたが、指示された道を行くうちにまた迷ってしまう。ところが、方向が定まらずとにかく歩いていると、突如僕らが泊まっているホステルが現れた。なぜここに出たのか、不思議でならなかった。





ブルガリア

マケドニアからブルガリアの国境を渡る。山道から国境へでると、そこは閑散としている。乗用車2台、トラック1台、バイク1台を見ただけである。8時40分にスコピエを出て、ソフィアに着いたのが午後の2時であった。一つ目のホテルは満室、隣のホステルが空いていたのでそこへ投宿する。後でわかったのだが、ホステルの下にある路上喫茶店にいるとき、背が非常に高いアイルランドの少年たちが来たので声をかけたところ、今ヨーロッパ・バスケット大会が行われているとのこと。24か国から16歳の代表選手たちが集まり、試合は2週間続くという。

この地に2泊する間、山奥にあるリラの僧院にスケッチしに行った。そこで、一人旅の日本人女性に出会った。彼女は会社を辞め、ヨーロッパの旅を始めて1か月、来年の2月まで旅を続けるそうである。アフリカにも行くという。彼女は過去にインドやラオスも旅している。今回は日本人に出会うことがほとんどなかっただけに、そんな若者をみて頼もしく思った。彼女の話を聞いていると、旅行スタイルがぼくとはかなり違った。大事な持ち物はスマホと銀行カード5枚だけで旅行すべての用が足りていた。ぼくは重たいガイドブック3冊と文庫本、それに日本円の現金も身に着けている。ぼくの旅行装備は時代遅れだとつくづく思わされた。

さて、この旅の最後の訪問地はプロヴディフであった。ブルガリア第2の都市と言われているが、町はこじんまりしている。歴史的にはかなり古くから開けたところらしく、ローマの円形競技場跡が地下にある。翌日、一路イスタンブールへ向かうが、泊まったゲストハウスで食べた朝食が実にうまかった。今回の旅で、最高の食事ではなかったろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上、マツゲンこと松元先生の旅日記をお送りしました。

2017年の旅日記もまた近日公開いたします。松元先生、ありがとうございました。

*一部キャプションなど入れると見えにくいなどあり、カットさせて掲載させていただいております。

マツゲン先生旅日記「バルカン半島の旅」2015その2

麻布流儀編集部
麻布流儀編集部
date:2017/11/4

麻布流儀編集部です。「バルカン半島の旅」2015その2となります。

マツゲン先生旅日記「バルカン半島の旅」2015その1はこちらをクリック!

それでは続きです。*一部キャプションなど入れると見えにくいなどあり、カットさせて掲載させていただいております。

アルバニア

次に、ギリシャからマケドニアへ行くつもりが、当地のバス・ステーションにはアルバニア行きバスしかなく、とりあえずアルバニアの首都ティラナへ向かうことにした。車は山岳地帯に進路をとり、ギリシャとアルバニアの国境を渡り、マケドニア国境近くを走る。マケドニアとアルバニアにまたがる広々としたオフリド湖は良い眺めだ。水浴をしてみたいと思わせる湖である。バスの窓辺からよく見ると、湖水浴客があちらこちらにいた。朝の9時半に出発したバスが山間で昼食休憩したのが午後3時、このときを心待ちにしていた。早速、向かいのテーブルで客が食べていた大盛りのスパゲティとビーフが目に入り、同じものを注文して食べた。ところが、腰のある麺とは程遠く、日本でこんな代物をだすレストランはないだろうと思いながら、とにかく平らげた。山を下って、ティラナに到着したのが午後の8時、さすがに10時間を超えるバスの旅は疲れたが、下車してすぐに宿が見つかった。ギリシャとの時差は1時間、時計を1時間戻す。

夜遅く、人通りもまばらなティラナの街に出て、レストランを見つけ、そこで一杯、この地のラキという強い酒を飲んでみる。その場に日本人とおぼしき青年が一人、テーブルでパソコンに向かっていた。こんな辺国で日本人がいるという驚きから声をかけてみたところ、実は韓国人であった。彼は28歳、会社から一人派遣されて、この地に1か月滞在するという。仲間が誰もいないところで、アルバニア語も理解できないのに仕事をしている逞しさに感心した。

翌日、迷った挙句、アドリア海を見にドゥラスという海岸町で泊まることにした。まずは、50ユーロ(約6900円)をこの国の通貨レクに両替屋で換金すると、6959.99レクが返ってきた。これだけあれば、明日までやっていけるだろう。次に、旅行書にでていたバス停まで行くが、そこには停留所がない。売店で訊くと2キロ先にあるというので、また暑いさなか荷物を引きずりながらとぼとぼいくと、ミニバスを見つけた。ドゥラスに着くとさらに暑い。町を通り抜け、海岸沿いを歩き、1時間ほど歩いたところで「地球の歩き方」にあるホテル・クリスタルを発見した。ホテルの前は海岸、家族連れや子供らが夕涼みに繰り出す和やかな光景があった。

 

モンテネグロ

ドゥラスからシェコダルへは、朝7時発のバス一本しかない。シュコダル経由で、次の国モンテネグロへ進む。国境には車の長蛇の列、出国手続きで待つこと1時間、なぜか入ツィニィへ、そこで昼食、レストランはなく近くのスーパーでパン、ソーセージ、ジュース、水を買ってきた。そこからのバス道路は海岸沿いにへばりついている。左はアドリア海、右は切り立つ岩山が迫ってくる。モンテネグロという名称通り、緑の少ない「黒い山」がバルカン半島の内陸部まで覆っている。日本の山岳風景とは違う。ブドヴァのバス・ステーションについたのは午後3時、通りに出たところで何人かに声をかけられてプライベートルーム(個人部屋)宿泊を誘われ、マンションの一室に2泊することになった。小さな町の通りは水着姿の男女が闊歩しており、その姿は肉体美を誇り、競っているようだ。ヨーロッパ各地からヴァカンスに来ている人たちが多いのだろう。アルバニアとは異なり、ここには華やかさがある。ぼくもアドリア海で泳ぎ、穏やかな海を堪能した。世界遺産コトルの旧市街にも足を運んだ。

 

 

 

クロアチア

クロアチアへは、まずボスニア・ヘルツェゴヴィナの海岸沿いの土地を10キロ跨がなければならない。ボスニア・ヘルツェゴヴィナはどうにか海へ抜ける土地を確保しているのだろう。クロアチアの世界遺産ドブロヴニク旧市街までブドヴァからそう遠くいないのだが、そのようなわけで国境を2度渡った。無数の小さな海水浴場見下ろし、岩山にへばりつく赤茶けたレンガ屋根の家々を見上げながら、海岸道路は走る。クロアチアの南端にある中世の海洋交易の要衝ドブロヴニクには観光客が続々と来る。地中海クルーズ船で海から訪れる人たちも多い。だが、20年ほど前は旧ユーゴスラビアからの独立戦争で泥沼化し、5年もの戦闘が行われた。この地域も大量の砲撃を受け、ドブログニクは危機遺産となっていたそうである。

さて、ドブログニクから次の訪問地ボスニア・ヘルツェゴヴィナへ移動する日のことである。宿の近くで巡回バスに乗り込み、まずバス・ステーションに行くところが、乗るべきバスを間

違えて途中で慌てて降りた。ぼくの持ち物はキャスター付きスーツケースとデイバッグであるが、そのデイバッグをバスの中に置き忘れてしまった。なんということか、スマホ、電子辞書、カメラ、旅のメモ帳等など、二番目に大事なものを入れておいた。一番目に大事なパスポート、お金の類は身に着けている。以前、成田空港で搭乗直前トイレに銀行カードをいれた財布を落として以来のことだ。降りたところにいた人に聞くと、巡回バスだからまた戻ってくるという。が、バスの中のバッグはどうなるだろうか。近くに来たタクシーに頼んでそのバスを追いかけてもらおうとしたが、だいぶ前に走り去ったバスには追い付かず、また同じ場所へ戻ってきた。そこで待つこと1時間、あのバスがきた。急いで飛び乗ると、運転席の前にそのデイバッグがちょこんと置いてある。運転手には何度もお礼を言い、いつもながらついているなと、安堵した。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回はここまで!

マツゲン先生旅日記「バルカン半島の旅」2015その3の最終回、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ編、マケドニア編、ブルガリア編こちら

最後のその3はメンバー登録が必要となります。ぜひこの機会に「メンバー資格」「メンバーになるには」より会員登録をどうぞ!

マツゲン先生旅日記「バルカン半島の旅」2015その1

麻布流儀編集部
麻布流儀編集部
date:2017/11/2

麻布流儀編集部です。

2017年9月23日1992年卒の同期会にお招きした恩師の1人、「マツゲン」こと松元宏先生から、当日旅日記なるものをいただきました。タイトルは「フランス、スペイン、ポルトガル旅日記」というものでした。

それを麻布流儀で紹介していいですか?と尋ねたところ、心良くOKいただきましたので、公開しようと準備していたところ、「実はPart.1もあるんだよ」と教えていただき、まずはそちらから公開することとなりました。昨日11/1届いたばかりのこの作品をご紹介します!タイトルは「バルカン半島の旅」2015です。

ちょっと長いので何回かに分けてお伝えしようと思います。今回その1となります。

僕ら1992年卒にとってマツゲンは、なんと中2から高3まで全て1組の担任をしていただいた先生で、2013年に麻布を退職されるまでなんと40年間麻布にいらしたので、他の代の皆さんもご存じな方が多いのではないでしょうか!

 

この旅日記は退職されたマツゲンこと松元宏先生と、同じく退職された森野満之先生が一緒に旅をし、絵を描かれているようで絵日記でもあります。松元先生が書かれた文章原文です。ぜひご覧ください!




「バルカン半島の旅」2015

とりわけ暑い盛りのバルカン半島を旅した。久しぶりの旅で、ひざの手術後の足慣らしのつもりが、つい旅のアクセルを踏み込んで加速してしまい、九つの国境を渡ってしまった。トルコのイスタンブールから、ギリシャ、アルバニア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツエゴビナ、セルビア、マケドニア、ブルガリア、そしてまたトルコへと、バルカン半島を3週間でぐるっとまわった。とはいえ、今回は一人旅ではなく、友人の森野さんに同行したので、助かったことはいうまでもない。宿代も半分で済むし、ぼくの荷物の管理も頼める。宿によってはツインベッドではなく、ダブルベッドがあったのは男二人旅へのご愛嬌であろうか。毎日強烈な陽光を浴び、雨が全くないといってよいほど乾ききった風土、屹立した岩山の連なり、空と大地と海の強烈なコントラスト、そのなかを進んでいく旅はぼくが望むところである。加えて、他国の支配が繰り返され、戦争の絶えなかったバルカン半島のあまりにも複雑な過去の歴史を想像しながら先へ先へと進んでいくのは、興味深い。国境を渡ると、言葉が違うし、貨幣も次々にかわるでその都度換金しなければならない。さて、そんな旅路を少し綴ってみよう。

 

トルコ

イスタンブール

成田空港を7月20日朝10時に離陸して、バルカン半島最大の都市トルコのイスタンブールに着陸したのが午後の4時半ごろ、13時間の飛行で時差が6時間(夏時間)、腕時計の数字を日本時間から6時間戻した。ご存知のように、イスタンブールはヨーロッパとアジアの接点にあり、シルクロードの重要地点であった。ギリシャ、ローマ、オスマン帝国などに次々支配され、その名所旧跡がたくさん残っており、世界中から観光客が集まる興味深い街である。宿の屋上に立つと、古い建物が急な坂道にぎっしり立ち並び、その家並の上にイスラム寺院の頭と尖塔がいくつも突き出ている。その向こうにはマルマラ海が見える。

さて、インターナショナルなイスタンブールからバスに乗り込み、いよいよバルカン半島の旅が始まった。3時間半ほどで、エディルネという町に着く。地図では、この町からブルガリアやギリシャの国境は目と鼻の先にある。とはいえ、バス・ステーションの事務所でギリシャ国境への行き方を尋ねても、そこはどうも用をなさない。結局、翌日、泊まったホステルからタクシーに乗り込み、20分でトルコ国境へ到着した。

 

ギリシャ

ここはギリシャ北端でもある。いよいよ国境を渡る。30年ほど前に中米の国々を旅した時、国境を渡るのに苦労したことを思い出す。トルコのPassport Control Policeの出国審査は簡単で、すぐに国境を出た。兵士がいたので、国境の写真を撮っていいか、尋ねてみたが、否であった。国境は軍事的境界線でもある。朝のこの時刻、国境には通行人がいなかったので寂しいぐらいだが、やっと向こうから一人、男がこちらに歩いてきた。彼はギリシャを出国してトルコへ入国する。ギリシャの入国審査事務所まで歩くこと20分、そこの係官のチェックは厳しく、根掘り葉掘り尋ねる。「ホテルは予約しているか、それがないと入国できない(予約などしていない)」、「ユーロはどのくらい持っているか(エディルネで円をトルコ・リラに換金できる銀行は一つしかなく、そのリラを換金所でユーロにかえることができた)」、「トルコはどこに泊まったか(泊まったホステルの名刺をもっていた)」など等、しまいには入国できるのかどうかという不安を掻き立てる。とまれ20,30分後、やっと解放され、民家沿いを500メートルほど歩くとバス停が見つかり、間もなく路線バスが来たので飛び乗った。このバスを逃すと、次のバスが来るまで数時間待つことになる。

エーゲ海

バスはこまめに鉄道駅で停まり、間もなく満員となる。ひまわり畑の広がる中を3時間ほど走ると、アレクサンドロポリに着く。アレキサンダー大王が17歳で戦い、勝ち取った最初の町である。目の前にエーゲ海が輝いている。泊まったホテルで一悶着あったが、翌日そこからバスで4時間、ギリシャ第二の都市テッサロニキに行く。さすがに街は大きく、海周辺のホテル街、レストラン街は賑わっている。ところが、路地に入ると人気がなく、ビルの壁面は至る所落書きだらけだ。現在のギリシャの苦しい社会状況を象徴しているような光景である。安ホテルでは蚊とダニか南京虫に悩まされた。

 

 

 

アレキサンドロポリ→テッサロニキ

 

今回はここまで!

マツゲン先生旅日記「バルカン半島の旅」2015その2はこちらをクリック!

 

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麻布ネタ書籍紹介その1

麻布流儀編集部
麻布流儀編集部
date:2017/10/27

ネット記事の紹介です。単なる転載でございますm(_ _)m



かれこれ2、3年前の書籍なので話題は古いですが、『「謎」の進学校 麻布の教え』(神田憲行/集英社)のことでここの記事に書いてあることが面白いので転載しておきます。

筆者は麻布卒じゃないのによくここまで興味を持って取材したなぁ〜と思います。

*下記の記事タイトルをクリック

勉強時間30分なのに東大合格者多数!

自由で変な進学校「麻布」の秘密

本と雑誌のニュースサイト/リテラより転載

<how to>記事の修正(訂正)方法

麻布流儀編集部
麻布流儀編集部
date:2017/10/14

記事の修正方法を説明いたします!



一度投稿を終えて、記事の画面で読み直してみたら、

あっ!ここ間違っていた!

ここリンクつけ忘れた!

間違ったカテゴリーに投稿していた!



など、ミスってしまっていることに気づくことあると思います。



そんな時、投稿したばかりでしたら、ブラウザの戻るボタンで任意のところまで戻れば投稿編集の画面に戻れたりしますので、そこで直せればいいのですが、一度閉じてしまったり、記事を書いた数日後に気づいたりした場合どうすれば投稿編集にアクセスできるかを記載しておきます。



1.まずログインします。

2.フッターの右下「管理画面」をクリック!

3.クリックすると、ダッシュボードという裏画面のようなものへ遷移します。その左の「投稿」を選択します。

すると投稿した記事の一覧が出ます。「すべて」「所有」「公開済み」「ゴミ箱」と並んでいるところの「所有」を選ぶとわかりやすいです。記事を選びクリックしましょう。

4.記事を開いたら編集しましょう。この時、カテゴリーを変更したり、会員のみの閲覧に変えたりも可能です。忘れていけないのは最後に必ず「更新」ボタンを押すことです。これを押し忘れると、何も修正しなかったことになってしまいます!

 

このように、いつでも、書いたものを更新したり修正したりもできます。

また、修正後に、前回のままがよかった、、、などの時には「リビジョン」という機能で元に戻すことも可能です!

これは更新ボタンの上にあるここではリビジョン:8表示となっているところの「表示」をクリックし、そこに出てくるスライダーを左に戻していくと遡ることができる!というものです。ぜひ、チャレンジしてみてください。



なお、こう言ったWordPressの使い方については、すべてをこの麻布流儀内で解説することはできないと思いますので、ぜひ、インターネット上で、検索してみていただき、いろいろご自身でも学んでいただけると、、、m(_ _)mよろしくお願いします!





その他、how toはこちら