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厚生労働省『人生会議』ポスター炎上を機に確認する日本の死生観(後編)

高橋宏和(H4卒)
date:2020/1/17

「日本の延命治療が濃厚なのは宗教がないから」という言説についてずっと疑問を抱いている。2019年11月に炎上した厚生労働省『人生会議』のポスターを機に、この疑問がまたふつふつと湧いてきた。

こうした「日本には宗教がない」みたいな、一見分かりやすい言説というのは有害だ。そこには思考停止のワナが潜んでいる。

 

狭い意味での宗教の定義は、教義、教祖、教団を必要とするが、明文化された教義のない神道も宗教である。漠然としたフィーリングも含めるならば日本にも当然、宗教はある。フィーリング感を出したいがゆえに宗教「感」という言葉を使っている。

 

こうした宗教「感」はわれわれの生活感覚の土台にあるもので、少しずつ変わっていくがそう簡単に揺るがない。特に無意識の宗教「感」に基づき日常行為が行われていき、それは医療も同様である。

延命治療、終末医療に影響を及ぼすと思われる日本の宗教「感」について、

・死は「穢れ」であり、できるだけ遠ざけたいもの

・臨終・見送りは大事

・復活の教義がない

ということについては先に述べた。

これにいくつか加えて言及しておきたい。

 

・日本において、死はゆっくりと完成する

日本において「生者」はゆっくりと「死者」になっていく。

脈が止まり、呼吸が途絶え、瞳孔が反応しなくなってもなお、文化的・宗教「感」的には「魂」はそこにいる。

21世紀になってもなお、人が医学的な死を迎え、死亡宣告を遺族にしたのちに医者は小さな声で遺体に「お疲れ様」とつぶやく。

遺体からチューブや点滴を外しながら、ナースはその身体を拭き清めることを「エンゼル・ケア」と言ったりするが、それは物体に対するものではなく「ケア」なのだ。

エンゼル・ケアでは身体を拭くために水ではなくお湯が使われるが、それは<「亡くなった人が冷たく感じないように」配慮されているから>である(<>内は波平恵美子『日本人の死のかたち』朝日新聞社 2004年 p.12)。

遺体を拭きながらナースたちはこう語りかける。「○○さん、ちょっと身体拭きますよ」。

 

当然ながら遺体に対する感覚は日米で大きく異なる。

 

<そう言えば、以前授業で、臓器移植の新聞記事を見たことがあるんですが、日本のお医者さんと海外のお医者さんの臓器の扱い方に、非常に違いがあって驚きました。日本のお医者さんは、まず手を合わせてから丁重に臓器を取り出す、アメリカの女医さんは、てきぱき臓器を取り出して「この臓器は若くてきれいで使えるわね」なんて話したりしている(苦笑)。(略)>(林田康順ほか『じゃあ、仏教の話をしよう。』浄土宗出版 平成24年 p.46)

 

医学的な死を迎えたあとも「魂」がそこにあるという感覚があることも、日本で臓器移植が進みにくい遠因になっているのであろう。繰り返しになるが、ぼく自身が興味があるのは事実だけで、だからいいとか悪いとか、こうすべしとか言いたいわけではない。



・絶対他力と「だれかがどうにか症候群」

延命治療、終末医療に限らないが、欧米医療現場との(通俗的)比較で言われることは日本では患者さん側の自己決定が少ないということだ。

昨今でこそ事情は違うが、日本の患者さんというのは「すべておまかせします」的な、積極的な自己決定を避ける傾向にあるとされている。

原因を医者側のパターナリズムに求めることが多いが、別の要素として「人間のできることは少なく、救われるかどうかは仏の御心にすがるしかない」という絶対他力という感覚があるのかもしれないとふと思った。

法然、親鸞の教えの影響というのではなく、もともと日本ではそうした受け身的な対応方法が連綿と続いていて、そこに絶対他力の教えが受け入れられたということなのかもしれない。

精神科医・頼藤和寛はそうした周囲まかせの態度を現代っ子特有なものとして「だれかがどうにか症候群」と名付け、<明らかに本人自身が対処・解決すべき課題に対して、みずから積極的に処理していく努力を示さず、さりとてその課題解決を断念している様子もない行動パターン>と定義した(頼藤和寛『だれかがどうにか症候群』日本評論社 1995年)。

しかしこうした「だれかがどうにかしてくれる」という行動様式は昔からあり、それが絶対他力というアイディアを受け入れる素地となったり、現代医療現場での「すべておまかせします」という言葉につながっているのではないだろうか。

まあここの部分は思いつきですけども。

だいたい全部を全部自分で決められるほど人は強くない。<いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし>(親鸞、唯円『歎異抄』)と開きなおれる人は少ない。

それに「だれかがどうにか」というのは日本特有じゃない。世界のあちこちで今日も「ケ・セラ・セラ」、「セ・ラ・ヴィ」、「let it be」、「インシャラー」なんて言葉が呟かれている。

 

まだまだいろいろ考えなければならないことは多いが、とにかく「日本には宗教がないから濃厚な延命治療する」という言説は、どうにも底が浅いんじゃないかなあと思うわけであります。

 

先生高橋宏和ブログ2016年9月22日『日本における延命治療、終末医療と宗教・信仰について2(第1稿)』を加筆・再掲)