枯れて沁みる言葉たち。
デジタルデトックス、いわゆるX抜きをするために短文を読んでいる。詩や俳句、短歌や警句などの本を持ち歩いて、Xを開く代わりにそうした詩集や句集、歌集を開くのである。
そうした詩集や句集、歌集と親しむうちに、面白いことに気づいた。
言葉というのは、程よく枯れてゆくのだ。
たとえば現代の歌人の短歌を読むと、その鮮烈さフレッシュさに目が眩むが、時々自意識過剰に食あたりを起こす。
「オレうまいだろ」「どうだオレの感性」「こんな言葉の使い方、見たことないだろ」という自己顕示欲や承認欲求、自意識過剰などが文字と文字の間から滲んでキツくなるのだ。
これがある程度、時代のあいた歌人や俳人の言葉だと、自己顕示欲や承認欲求、自意識などがだいぶ乾いてくる。
程よく枯れたくらいの年代の歌人や俳人の言葉は、「良いなあ」と素直に読めたりする。
ちなみにあまりにいにしえ過ぎると、解説なしでは読めないしわからない。あまりに時間が経つと、枯れ過ぎて読めない。
言葉にも、程よい熟成期間というのがあるのだろう。
流行歌、ヒットソングなどにもそういうところがある。
同時代で聞いたときには「ケッ、売れ線ねらいが」と毛嫌いしたような流行歌、ヒットソングも、20〜30年くらい「寝かせて」おくと、「良いなあ」と沁みたりする。
しかし冷静に考えてみると、印刷された言葉や録音された曲が枯れてゆくというのはどういうことか。
印刷された言葉は印刷された時点で固定され、録音された曲も録音された時点で固定される。
物理的には乾きようも枯れようもない。
これはどういうことか。
そんなことを若き友人と話していたら、友人が言った。
「ポイントは、心理的距離じゃない?」
つまりはこういうことだ。
心理的距離が近過ぎると、作り手の自意識が鼻につく。
だが時間が流れれば、その時点の作り手と読み手聞き手との心理的距離は離れてゆく。
ヤマアラシ、ハリネズミのジレンマのごとく、読み手聞き手は、作り手と近づき過ぎると自意識が鼻についてしまうし、離れ過ぎると作り手の作品は読み手聞き手の心を温めない。
ヤマアラシは身を寄せ合おうとすると、互いのハリで傷つけあってしまう。作り手と読み手聞き手も、そうなのかもね。
だから心理的距離の近い年代には眉をひそめられるようなとあるインフルエンサーの言葉も、年代が離れた若者には賢者の名言として受け入れられたりする。
厳格なるコンプライアンスにより決して名前は明かせないが、あのインフルエンサーやあのインフルエンサーも、100年後の人々には「20世紀末から21世紀にかけて活躍した思想家」として尊敬されているかもしれない。
でもそれってあなたの感想ですよね。なんかデータとかあるんすか。

FIND/47より
京都嵯峨野・祇王寺















